飯場の子19話「昭和の飯場の風景と自宅の引っ越し」
以前にも紹介したが、ここでもう1度僕の育った「飯場」を紹介したいと思う。
飯場とは、土木作業をする若い衆たちが集団で寝泊まりするところ。端的に言えば「簡易宿舎」だ。
甲斐組の飯場は、業界によくあるようなプレハブ造りの平屋建てだった。宿舎は2部屋に仕切られており、各々に横引きの扉があった。扉を開けると土間があり、その横には靴を置く棚があった。
土間を一段上がると、畳敷きで15畳くらいのスペースが広がる。いわゆる大部屋だ。当時そこには6人くらいの若い衆が共同で住んでいた。
「現場で働く屈強な大人たちの日常」が詰まったこの宿舎は、子どもにとっては最高の「探検場所」だった。昼間の作業に皆が出ていくと、当然夕方までは部屋は無人になる。僕らはその間にこっそり部屋を探索するのだ。
何故だか部屋はいつもカーテンがかかっていた。だから昼間でも微妙に薄暗い。窓もめったに開けずにいるのか、部屋に入るたび独特の「すえた匂い」が充満していた。
当然、部屋にはエアコンなどない。夏は扇風機、冬は灯油のストーブで過ごすのだ。けっして過ごしやすい環境ではないと、子どもながらに思っていた。
部屋に置いてあったちゃぶ台には、食べかけのつまみや空き缶で作った灰皿、コップ代わりに使われている「空きワンカップ」。当時ビールは高級品だったようで、彼らが飲むのは日本酒かウイスキー。その一升瓶やレッドウイスキーの1リッター瓶が乱雑に置いてあった。
これも定番だが、畳の上には万年布団。ちゃんと畳んでる人もいれば、そのまま引きっぱなしの人もいる。その上にスポーツ新聞、週刊誌があるのだが、時々お宝としてエロ漫画を発見することもあった。いけないとはわかっているのだが好奇心に歯止めは利かない、ドキドキしながらエッチな本を見ては興奮していた。
その宿舎とは別に事務所棟の奥にも、1つ畳敷きの部屋があった。そこにはテレビがあり8畳以上はあったと思う。
この部屋に、ある時からひとりの職人さんが住み始めた。たしかサノさんという名前だったと思う。サノさんは60歳くらい、短く刈った白髪頭で、型枠大工の職人だったかと思う。サノさんはその大きな部屋をいつも綺麗に使っていたのを覚えている。職人らしく言葉数は少ないのだが、何とも言えない親しみがあり僕はサノのオジサンと呼んでいた。
そのサノのオジサンについては、忘れられない思い出がある。
多分、学校の勉強を全くしないことを母に叱られたのが原因だったと思うのだが、ある日、父親にもこっぴどく怒られて学校に通うカバンや教科書ごと家を放り出されたことがあった。
恐らく午後7時は過ぎていたと思う。外はもうすっかり夜であった。小学生の僕は、追い出されてもどこも行くところがない。泣きジャクリながら困った挙句、向かったのがこのサノのオジサンの部屋だったのだ。
最初は突然の訪問者に驚いていたサノのオジサンに「おとう(父親)に怒られて放り出された」と泣きながら話をしたら、「それは大変だったね。さあ、上がってください。」と優しく迎え入れてくれた。サノのオジサンは事務所の電話を使って「若(僕)はここにいますから心配しないでください」と家に電話をしてくれた。
しばらく二人で静かにテレビを眺めていたら、「ヨッチくん、おじさんが一緒に謝ってあげるから、そろそろ帰ろう」と夜道を二人で歩いて戻っていった。
玄関口で出迎えた父は「サノさん、夜分に倅が迷惑かけて申し訳なかったです。」と笑顔で詫びていた。サノのオジサンは静かに「社長、若(僕)も十分反省してるんで、家に入れてやってください」と、父に頭を下げてくれたのだった。なんとも心暖まる職人さんとの思い出である。
この「サノのオジサン」との出来事に少し遡るが、我が家に大きな変化があった「自宅の引越し」である。
小学校4年生のある夏の日曜の朝。
突然「今日はみんなで家を見に行くぞ」と始まった。発言者はもちろん「父」だ。
家族全員、「また何を言い出すんだ」となったのだが、話を聞くと、どうやら家を買うつもりらしいことが分かった。
かねてから自宅の購入を考えていた父に、知り合いの不動産屋が紹介し、その売り家を見に行った父は、その家をたいそう気に入ったらしく「これは買いだな。」と、勝手に決断とのこと。無論、母親の意見すらも聞かずにだ。
毎度の“行動力”に、家族は一同呆れていたのだが、反面、それまでは友達を呼ぶにも呼びにくい小さな貸家だったため、僕たち姉弟は「どんな家なんだろう」と内心ワクワクしていた。
しかしそんな興奮をかき消すかのように、父はこう言い放った。「歩いて行くぞ」と。
普通、「引越し」と聞けば、多少は離れた場所へ移り住むと思うところ。そのため、父以外の家族は全員、その新居までクルマで向かうと勝手に思い込んでいたのだ。
訝しみながらも歩き出す父について行くと、家からたった数分北へ向かったところにその家はあった。
が、これまた勝手に思い描いた「二階建ての新築」のイメージとは全く違う、超和風の平屋建ての家だったのだ。
一目瞭然で中古とわかるその家に、僕は拍子抜け。自分の中ではモダンで洋風の新築豪邸を期待していたのに、全然新しくねーじゃねえかと。まあ、トイレだけは和式でも一応水洗便所だったので、それだけでもホッとした。
こうして最初はこの引越しに落胆ばかりしていたのだが、しばらく時間がすぎると、見方が徐々に変わってくる。中古ではあるが、家は小さくはなかったし、玄関口も立派で土地も70坪くらいある。門扉もそれなりに立派で、玄関口までも日本づくりで石畳。庭がすごく凝っていて、縁側もあり、枯山水なんかもきれいで料亭みたいなイメージだった。
少しずつ愛着が湧く中、柱などにニスを塗り直すなどして1か月くらいリフォーム。小学校4年生の秋に僕たちはいよいよ荷物をまとめて住み移った。
最初の夜のことは鮮明に覚えている。雨と雷がすごく、まだ部屋割りなども決まってなかったことも手伝い、その日は家族全員で一番大きな部屋に川の字になって寝たが、非常におっかなかった。
後日、毎度お世話になっている山梨県のお上人さんに来てもらい、部屋割りを相談。家相を見てもらい、どこを寝室にしたらいいかなど相談していた。
ちょうど父が42歳の本厄の時に購入したことも心配していたが、お上人さん曰く心配ないとのこと。むしろ巡り合わせがいいし、厄年だから全部が悪いわけではないという。
旧自宅から「北」へ移動の方角も気にしていたが、その年は「北」が吉方だと言われた。
実際、その家に引越して以降、会社も順調に発展成長していったのであった。僕は10歳から19歳までの多感な時期をその家で過ごした。今では築50年の古い実家。ちなみに父は今でもそこにひとりで住んでいる。
