岸田今日子さんを偲ぶ
岸田今日子さんがお亡くなりになりました。そこで、故人の冥福を祈り忍ぶ意味で、記事を書こうと思います。
その前に、違う話題から入っていきます。テーマは、「印象を良くする」。
これは、以前、「あるある大辞典」で放送された内容です。
その内容を簡潔にまとめました。
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好印象を与えるキーワードは、1.豊かな表情 2.光
1. 相手の表情が乏しい場合、その人が今、何を考えているか情報を得ることができないため、警戒心を抱いてしまう。逆に、表情が豊かだと、情報を多く得ることができるため、相手に対する心が開き、その人への好感度がアップする。
2. 1にも関連しているが、表情が豊かな人は光り輝いている。そう感じるだけでなく、実際、調べてみると、光を多く放っている。それは、表情が豊かな人は、顔の筋肉の収縮により涙腺が刺激され、目を潤す涙の量が増えるために、目からの光(もちろん反射した光であるが)が増えるからである。また、表情が豊かな人は、口を大きく開けるために、歯で反射する光も多くなる。
動物は、光るものに好感を持つ。例えば、りんごは光っている方が美味しく見える。
では、なぜ、光るものに好感を抱いてしまうのか。
水は、生物には不可欠なものであり、水はキラキラと光っている。それゆえ、きらきらと光っているものは、良いものだという情報が遺伝子に刷り込まれているから。
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つまり、好感度の高い人は、ツルっ禿と口裂け女とも言えるような気がします。
そこで、
栄えある今年の好感度NO.1に
輝くタレントは、
スキンヘッドの岸田今日子さんに
決定!
故人をおもちゃにしてしまいましたが、私なりのおくる言葉です。
ご冥福をお祈りいたします。合掌。
役人の最大の欠点
前回の記事で、自分の欠点を直視することの重要性を若干述べました。それを、以下に抜粋します。
「最大の問題は、それを自覚してないことです。大事なのは、それをあえて否定したり、なんとかしようと思うのではなく、それをあくまでも正直に客観的に直視することだと思っています。」
今回は、役人には、それが著しく欠如しているということについて述べることにします。
最近では、とかく公務員が叩かれることが多いですが、それに対して、彼らを悪いと決めつけるというのはどうか、彼らにだって良いところはある、という意見を聞くことがあります。
この意見には、とても違和感を覚えます。それを整理して表現するのはとても難しいのですが、とてつもなく的外れの感があります。
なぜ的外れの印象があるのか、それは、公務員には次のような思い込みがあることを知れば、どうしてもそう思えて仕方がないでしょう。
「自分達は優秀であり、絶対に間違わず、常に正しい。」
直接・間接に聞く言葉であり(実際、直接に聞いたこともあります)、法律も、そうであるという前提の下に決められている、若しくは、罰則が規定されていないこともあります。
良い所もある、というのではなく、絶対に正しいと言っているのです。
少なくとも、前述のような公務員を擁護する言葉は寝言でしかありません。
自分達を優秀であると思っていることこそ実は、元凶なのです。
確かに、彼らは、元々学業の成績も良く品行方正です。しかし、一皮むけば、嫌悪すべき面が出てきます。その一つが、自分達の非を絶対、認めないということです。(品行方正で絶対、正しいと思っている、だからこそ、問題の根が深いのですが)
では、彼らは、自分達が言うように、絶対、間違いを犯さないかというと、そんなことはないことはご存知のとおりです。
とんでもないことをたくさんやってくれています。とんでもないことでも、合法だから問題ないなんていっていますし(大体、都合の良いように自分達で決めている)、非合法あるいは裁判で違法であると判決が下っているにもかかわらず、まだ、認めないなんてこともざらです。例えば、神奈川県警の盗聴事件などがあります。
数ヶ月前のことなので記憶が定かではありませんが、社保庁の外郭団体が、公金を騙し取っていたという事件がありました。その監督官庁である社保庁の言い分が、また、ふざけています。「返したのだから、全く、問題がない」と。それじゃあ、万引きで捕まっても、返せば罪に問われないのか、ということになります。もっとも、社保庁自体が腐りきっているから、毅然とした態度がとれないのでしょうが。
この問題は、もっと騒がれ、そして、罪に問われるべきなのですが、あっという間に立ち消えになり、うやむやになってしまいました、結局、誰も責任を問われないまま。
個人には厳しく、大きく組織的になるほど、そして、公的になるほど、甘くなっているのが実情です。事態の重大性が大きくなるのと反比例して。
そこになんとも言えない不条理を感じざるを得ません。その上、悪いところがあっても、良い所もあるのだから、そんなに責めるべきではない、ないなんていう意見が出る有様です。
どんなに良い人でも、犯罪を犯せば、厳しく罰せられます。一生を台無しにするということだってあります。でも、それが組織的、公的になるほどあいまいになります。本来なら、厳しく糾弾され葬り去られるべきなのですが。
今、公務員や役所に求められるのは、自分たちを優秀で絶対正しいものとし、非を絶対、認めないという態度を改め、ごまかしたり言い訳をすることなく、非は非として認め、自分達のその非や欠点をありのまま直視し、自分達がどれほど非常識で異常なことを繰り広げているか(さらには、どれだけ自分達は恵まれすぎているかをわきまえていないか)を思い知ることであります。その意識変革が、なにより先決です。
そのため、国民がなすべきことは、「相手を責めるのではなく、理解を示す」などと、したり顔でもっともらしいことを言うことではなく、厳しい声をあげることです。
それから、これからの公務員は、本当の意味での優秀な人材が求められます。本当の意味での優秀さとは、自分の悪いところを客観的に見、正直に認められる人のことではないでしょうか。これまでのような屁理屈の天才や悪知恵を駆使するような役人は駆除されなければなりません。
大衆の愚かさ
前回、農業を手厚く保護するべきだと主張しました。一方、普段、官僚など権力層を批判しています。が、しかし、水戸黄門のように、お上と対極に位置する農家や一般大衆を一律的に善と考えている訳ではありません。今回は、そのことについてです。批判されたり無視されるかもしれませんが。
まず、一般論であり、正確に調査した訳ではありませんが、職業やどういう所に住んでいるかなどから察することや感じていることを述べてみます。就いている職業などからも、その特質をある程度、伺い知ることができるからです。
まず、農村は閉鎖的で保守的であると思われます。逆に、そうである必要もあるのですが。また、工夫や研究、新しいことに取り組んでいる人は、そう多くはないのではないでしょうか。それはそれで、良いこともあります。伝統を守ることは大切であり、科学・技術が進歩したために、あるいは、余計なことをしすぎるため、多くの問題を発生させているということもありますので。
また、結構、自分勝手な面もあり、人間の心理や物事に対する洞察等などには、ほとんど無頓着な場合も少なくないのではないでしょうか。人間関係も、かなりどろどろしているということもあるでしょう。もっとも、地域差があったり、農村以外でも同じことが言えることかもしれませんが。
身勝手で何も考えていないのではないか、人の善意をなんと心得ているのかと疑問に思うこともあり、それを宮沢賢治の例からみてみたいと思います。
彼は童話作家・詩人として知られていますが、その背後には、科学、芸術、宗教、哲学等があり、それらの融合を試み、その結晶を文学という形で表現したとも考えられます。彼は、単に文学のためだけの文学、職業文筆家や職業芸術家などは無意味であるとしていました。
彼はまた、農業指導にも心血を注いでいました。農学校の教師を辞めた後(その前に母校の現・岩手大学で教授になってくれという懇願を辞しています)、農民のために無料で農業指導をしたり、肥料設計を施していました。いわゆるボランティアの走りのようなものです。彼は、悲惨で過酷な貧農の状況に心を痛め、なんとかしたいという心の底から突きあがる思いがあったようなのです。
そんな彼なのですが、次のような言葉を漏らしています。
えい木偶のばう
・・・・・・
しゃちほこばって
おれの仕事を見てやがる
黒股引の泥人形め(「えい木偶のばう」)
泥人形とは、田園の泥土の中をはいずり回る小作農民のことです。
また、農民の中からは、社会を変革するような人物は現れず、現れるとしても、それは元々、血筋が良い場合に限られるといった趣旨のことも言っています。
賢治ともあろう人がどうしたことでしょう。推測してみました。
彼は新し物好きでしたが、単にそれだけにとどまらず、次元が違っていました。時代を超越した非常に先進的な考えの持ち主だったのです。とても明治時代の人の言動とは思えないことがたくさんあり、知らない人が聞いたら、現代の人の言っていることだと思ってしまうでしょう。いや、現代でもおそらく追いついていないであろうことを言っています。
彼が何者であったのか、その作品から、大体読み取ることができるのですが(別に神の使いだったなんてことはありませんし、退屈でつまらない、そして、いかにもわざとらしい深みのない作品が多いことも事実)、普通の人でなかったことは言うまでもないことです。
農村でなくても、彼は受け入れられなかったことでしょう。ましてや、旧態依然とした農村では、なおさらです。仮に、そこに私がいて彼を見たとしても、胡散臭く思ったことでしょう。そして、そんな彼からしても、いくら同情していてなんとかしてやりたいと思っていても、自分に冷ややかな視線を投げかけ、時代遅れで保守的な考えの人達に我慢ならず、いらだちを感じていたに違いありません。
お互い、相容れなかったのでした。どちらが良い悪いという問題ではなく。しかし、それはともかく、せっかく無料で指導をし、肥料を設計しても、思ったように収穫が上がらないと、損害賠償を請求されることも度々だったといいます。その前から、おそらく天候のせいでしょう、収穫が思わしくないにもかかわらずです。
ここに、時代はちがっても、また、地域は違っても、一般大衆の愚かさを見る思いです。そのことについて、詳しくは、別の機会に譲ります(次回かもしれません)。
こんなことを書くと、「じゃぁ、お前はどうなんだ」という声が聞こえてきそうです。私自身、自分の駄目なところは自覚しているつもりです。最大の問題は、それを自覚してないことです。大事なのは、それをあえて否定したり、なんとかしようと思うのではなく、それをあくまでも正直に客観的に直視することだと思っています。
ここまで一般大衆(農村でしたが)について少し述べてきましたが、結局は、大衆がどうのこうのではなく、個々人の問題かもしれません。ただ、水戸黄門のように、大衆が必ずしも善という訳ではないということです。あえて、こんなことを言うまでもないことですが。
しかし、世の中を見てみると、割り切った言い方をすることが多いのですが、勿論、そういう場合もあるのですが、簡単に割り切るべきときでないときに割り切った単純なものの言いようがされることが多いように思います(大衆についてもです)。
ですが、様々な観点からみると、決して単純ではありません。見方によって、オセロのようにくるくる変わることもあります。とてもじゃありませんが、ここで、それを考察するなどということはできないので、少しずつ見ていけたらと思っています。それでも、結局、結論は出ないとは思いますが(なんか泥沼に入りかけています)。
最後になりますが、人助け、特に無料でそれをしようとしている人がいらっしゃるとしたら、思わぬことで足をすくわれたり、落胆することもあるかもしれないと思います。相当に心してかかる必要があると思います。私自身は、人間不信なところがあるから、こんなことを言ってしまいました。
中国食品の酷さ
不覚をとってしましました。
普段、野菜や食品は、いくら安くても、中国産のものは絶対食べないようにしているのですが、うかつでした。スーパーの菓子売り場で、何気なく菓子を買ったのですが、帰宅して表示を見たところ、中国産であることに気づきました。不注意でした。
しまったと思いましたが、まあ、菓子なら大丈夫だろうと、今回だけは大目にみて食べることにしました。
小さな袋に小分けにしてあるのですが、一袋目を開け、食べたところ、
まずっ!
とんでもなくまずいです。
仕方がないから、とりあえず食べてしまおうと、2袋目を開け口に放り込んだところ、
うっ!
薬のような薬品の味が口いっぱいに広がりました。
気のせいかとも思い、さらに噛みましたが、やはり、薬品の味は否定しようがありません。
吐き出し、他のものを食べようとしましたが、やはり同じでした。
もう、それ以食べることはやめることにしました。これはもはや、単なる好き嫌いの問題やまずいという範疇ではありません。
中国で作られた食品の酷さを実感した次第です。
たまたまだったのかもしれません。しかしながら、これまで、長年、日本の菓子を食べてきて(とりたてて菓子を食べるということではなく、ごく一般的な範囲ですが)、こんなことは一度もなく、おそらく初めてだと思うのですが(少なくとも、何回もは食べてはいません)、その中国産の菓子が酷いというのは、中国産はおかしい確率が高いと思います。
食べ物に関しては、日本は、レベルが高いのではないでしょうか。繊細ですし。
アメリカには、一度だけ行ったことがあるのですが、とにかく味は大雑把で、感性や頭を使い、工夫を凝らして作っているとは、とても思えません。例えば、サラダは、まろやかさなんて微塵もありませんし、甘いものは、そのままダイレクトに甘いです。一度、ガムをもらったのですが、口に入れたとたん、吐き出しそうになりました。もろに合成化学甘味料といった感じで、いかにも体に悪そうでした。
食べ物は、日本に限ります。
しかしながら、日本の食料自給率は40%そこそこで、米などを除くと、ほとんどが輸入品です。
現在、自由貿易や市場原理が支配的価値となっていますが、あらゆることに、一律的にその原理を適用することは間違っています。市場原理が絶対的に正しい訳ではありません。むしろ、行き過ぎた市場原理は、弊害が大きいといっていいです。
農業は過保護であると、度々、批判の対象となることがありますが、現実には、決して過保護にされているとは言えないと思います。その証拠の一つに、農業の担い手が減っていることが挙げられます。農業を取り巻く状況が、きわめて厳しいのです。
農業の最大の問題は、担い手の急速な減少です。農業が過保護にされているという意見はとんでもない的外れで、それを鵜呑みにしている国民もまともではありません。
このまま手をこまねいていると、もはや、取り返しのつかない状況を招いてしまいます。
農業には、もっと手厚く保護をするべきだというのが私の意見です(他の先進国、特に、ヨーロッパではそうです)。
しかし、外国産と比較して割高であり、もっと、国際競争力をつけるべきだというのが、おそらく多くの有識者たちの意見であり、多くの国民もそう思っているでしょう。
ところが、農業というのは工業製品と違う点が多く、国際競争にはなじみにくい分野です。
国土の地形の違いや天候の違い等です。
天候に左右され、思うように調整ができないので、作りすぎたとしてもやむを得ない面があり、補助金を出しても、それは、いざというときの保険だと思えばいいでしょう。もっとも、今年のように豊作になりすぎて、廃棄処分にすれば補助金を出すというのは、能がなさすぎます。それは、お役人の発想が貧困だからで、いくらでもやりようがあるはずです。
また、農業には、国土を保全するという機能があり、お金には代えられないものがあります。一旦、国土の崩壊が進めば、それこそ莫大な損失を被ることになります。
割高だろうが何だろうが、目には見えにくい形で貢献していることを考えれば、むしろ安いくらいなものです。
そういった目に見えにくいものの価値を見抜くことができず、直接、目に見えるもの、金銭に換算できるものにしか価値を見出せなくなってきているのが現代という社会ではないでしょうか。
経済やお金の面からだけしか見れなくなっているのが、今の多くの日本人の考え方のようですが、
そんな連中は飢えて死にやがれ
と、声を大にして言いたいと思います。
新・だんご3兄弟
宮崎県知事が、談合事件で逮捕されました。
談合知事3兄弟そろい踏み!
刑罰は何を課すべきか。もちろん、
串刺しの刑!
ところで、串刺しの刑で有名なのが、ドラキュラことヴラド・ツェベシュ王(!)
ドラキュラというと、怪奇小説などの登場人物として知られていて、非常に残酷なイメージがある。実際、相当多くの人達が串刺しの刑で処刑されたらしい。
しかし、侵略者達を阻止するためであり、また、いかなる犯罪をも許さず、全て串刺しの刑を処したという。そのため、国から、あらゆる犯罪が一掃されたと言われている。彼は今でも、ルーマニアで英雄として称えられている。
ギロチンも、残酷な処刑方法として知られているが、実際は全くの逆。
当時、処刑は非常に残酷なやり方で行われていて、それに心を痛めていた医師のギロチンが、なんとかもっと楽に死ねる方法がないかと考え出した、というのを聞いたことがある。
逆のケースもあるようで。
例えば、
太陽政策をとっている韓国のバカタレ!
でも、各知事、人柄良さそうで、なんか、かわいそうな気もする。ここまでやっておいて、何言いやがる、って感じですが。
国民健康保険の矛盾、そしてカツオ
今回は、この前の日曜(12/3)の2つのTV番組に関してです。
まず、そのうちの一つである国民健康保険の特集のNHKスペシャルからです。
最近、よくメディアで扱われることが多いのですが、年金同様、国民健康保険も今、危機的状況にあります。本来、農業をはじめとする自営業者が主な加入者であったのが、その層が激減し、退職者や無業の人達の占める割合が増大し、それでいながら、医療にかかることが多くなる老齢者を多く抱えていることから、当然、財政的に厳しくなります。弱者が弱者を支えているという構造上の問題があるのですが、その危うい構造の上にさらに、税制改革のために、保険料を払えない人が急増しているとのことです。
つまり、老齢年金等控除の縮小等により、保険料が大幅に上がってしまったのです。保険料を払うことができず、医療を受けることができないでいる人達が増えてきています。
解決策として様々な案が提案されていますが、あちらを叩けばこちらが出るといった具合に、なかなか決め手に欠けるようです。
例えば、国保、健保、政管健保(健保は大企業が独自に運営、政管は、文字通り、国が運営)を一本化しようという案がありましたが、案の定、健保側が反対の意向を表しています。
どうすればよいか、これをまともに論じようとすると、様々な事を詳細に検討しなければならず(医療のあり方等も含めます)、相当長くなります。しかも、ぐちゃぐちゃになるだけで、答えは容易に出てこないでしょう。
本当に、この世の中は複雑です。同じことでも、立場によって、良し悪しが変わりますし。
しかし、一方、明らかに単純に悪いことがあります。それは一つには、お役所の税金(保険料)の無駄遣いがあります。社保庁が盛んにやり玉に上がっていますが、氷山の一角にすぎないでしょう。また、格差を拡大させすぎるような政策も問題ですし、真っ先に解決しなければならない問題は先送りにし、時間をかけて論じるべき問題や通してはならない法案に関してはあっさりと成立させてしまう政治、そして、そういった議員を選んでしまっている国民にも非常に大きな責任があります。国民は被害者のような言われ方をすることがありますが、実は、国民こそが最も悪いともいえます。
とにかく、まず、一番先になんとかしなければならないのは、税金や保険料の無駄遣いです。
中には、そのような無駄遣いは一部であり、それらを解決したところで、たいした解決にはならないと主張する識者もいますが、それはどうでしょう。決して、小さな額ではないでしょうし、仮にそうだとしても、問題は、お役人がデタラメな使い方をしていることによって、税金や保険料を払いたくないと国民が思うようになることであり、払えるのに払わない人に対して、言い訳を与えることになってしまうことです。そもそも、大企業の法人税減税をするなどの金持ち優遇政策を取ることを目の当たりにして、稼げば稼ぐほど払わないでいいのではないかと思っても、やむを得ないのではないでしょうか。
デタラメなやり方はうやむやにして(実際、ことが大きくなったり国家的になると、重大性が大きくなるのに反比例して、あいまいになりがちです)、国民にだけ負担を強いるようなことを言っても、誰も納得しないことや国民ももっとまともな政治家を選出させるべきことこそが、単純明快にしてまっとうなことではないでしょうか。
以上、危機に瀕する国民健康保険についてのごくありきたりな意見でしたが、2つ目は、がらっと変わって、「サザエさん」です。
テーマは、将来の夢についてでしたが、カツオが社長になることを語っている場面もありました。カツオは、口八丁だし、社交性もあり、機転もきき、アイディアの発想力もありそうです。社長には、なかなか適確のような気もしますが、どうでしょう。私も、カツオの将来については思っていることがあるのですが。それは次回にします。
小学校に英語教育は必要か2
前回の続きで、小学校に英語の授業を導入しても、無益になるのではないかという危惧に関して、今回は論じていこうと思います。
では早速、始めさせていただきます。
従来から批判され続けていることとして、中・高通じて6年間も英語を習っても、読み書き中心で、コミュニケーション力は全く養われないということがあります。
まず、この6年間についてです。年数だけみるとかなりの期間ですが、週3回の50分授業
だけです。年数だけで論じるのは、正しくありません。総時間数も考慮する必要があります。
しかし、最大の問題は、量的問題などではなく、実は、質的相違という問題です。
つまり、日本語と英語では、根本的に体系が全く異なっているということです。
アルファベットと漢字やひらがなといった文字的違いは、この際、どうでもいいでしょう。
問題は、話し言葉にあります。
違いをみてみましょう。
まず、日本語は非常に平板です。一方、英語の方は、非常に変化に富んでいます。抑揚が激しく、強く発音したり弱く発音したり(全く発音されないことや違う発音に変化することもあります)、ピッチの緩急も激しく、全体的に非常に速いです。
そして、英語には、日本語にはない発音が非常にたくさんあります。母音の種類もそうですし、子音を単独で日本人が使うことは、普段、あまりないでしょう。英語では、使われている周波数帯の幅が日本語よりはるかに広いそうです。
使用周波数帯が、日本語より英語の方がはるかに広いとのことですが、極端な例をいうと、こうもりの発する超音波は、人間の耳では聞き取ることができません。日本人が英語の発音を聞き取ることができないのも似たような理屈です。正確には違いますが。聞こえていても認識することができないと言った方が良いかもしれません。日本人の周波数認識能力が英語を話す人達と比較してかなり狭いらしいです。英語圏の人達からすれば容易に聞き分けられる微妙な違いも、日本人にとっては極めて難しいということもあります。
周波数帯が広い方から狭い方を学ぶのは容易ですが、逆は、非常に困難を伴います。それゆえ、日本人にとって、英語の習得は極めて困難であるのは当然であり、一概に学校教育のせいにすることはできません。
では何故、日本人と英語圏の人達では、このような違いが生じてしまうのでしょう。それは、もともとの違いというより、後天的環境的違いによるもののようです。
生まれたての赤ん坊は、あらゆる音を聞き分けられるそうです。そして、あるゆる発音を試しているとのことです。その中から、周りで使われている、発せられている発音だけを残し、それ以外は捨て去られるようです。使われなければ、次第に退化し、ついには消滅してしまうというのは、よくあることです。
しかしながら、語学の習得に最も重要なのはリスニングであると言われていますが、これは、他の人が言っていることを聞き取ることができなければ、それこそ話にならないからですが、この点において、日本人はとても大きなハンディをもともと抱えていることになります。
それゆえ、なるべく早期から語学の学習を始めたらどうかということになるのですが、実は、小学校からでは、もはや遅すぎるでしょう。始めるとしたら、それこそ赤ん坊のときか、それ以後の何年かです。
それは、絶対音感の習得に似ているようです。具体的な年齢はよく分かりませんが、5歳くらいまでに絶対音感を身につけないと、その後、いくら努力しても、もはや不可能に近いというのを聞いたことがあります。いや、画期的メソッドが開発されて、それ以後でも可能性はあるというのも聞いたことがありますが、まだ、定かではありませんし、逆に、5歳くらまでであれば、誰にでも絶対音感の習得は可能であるのは、少なくとも確かのようです。
語学習得能力と耳の良さとは密接な関係にあり、音楽をやっている人は、語学の聞き取りも優れているという調査もあります。
すでに固まってしまっている耳の認識能力がどこまで高まるのか、疑問の余地はあるものの、語学の習得は、聴覚の開発にかかっているといってもいいでしょう。聴覚を発達させることこそが、最も早道であり効果的であるのは、間違いありません。一方、語学そのものを学んでも効果はほとんど期待できないと思います。
効果のないものをいくらやっても、単に徒労に終わってしまうでしょう。
もっとも、繰り返して学習するなら、あまり効果的ではないとはいうものの、多少は向上するかもしれません。しかし、それは、それこそ血の滲むような努力が要求されます。
小学校でやることは、これまでの読み書き中心の反省から、コミュニケーション中心になるでしょう。といっても、たわいもないやりとりやゲーム若しくはゲーム的なもので、単なるお遊びの域を出ないのは確実です。とても英語の上達が見込めるものではありません。
その程度のことを身につけても、中学校から始めた場合と比較して、ほとんど変わらないでしょう。現在でも、小学校で英語を学び始めた生徒と中学校で始めた生徒とを比較して、ほとんど変わらないという結果になっているというのを何かで読んだことがあります。
全体的にみて、決して、期待するほどの効果は上げられないというのが、私の予測するところです。
その一方、デメリットの方は小さくないと思います。それは、授業時数は限られていることから、他に皺寄せがいって、基礎学力が低下するということです。
また、ただでさえ、ゲームに興じることが多いのに、さらにゲームのようなことを増やすことになって、頭の構造がさらに単純になって、論理的思考に適さなくなるということが危惧されます。
アメリカでも、かつて、タイプライターが隆盛を究めていた頃、他の教科を犠牲にして、タイプライターを授業に取り入れたところ、知的能力が急速に落ちていったという経緯があるそうです。
これからは、パソコンや英語が必要だからとって、目先のことばかりに興じていると、アメリカのような例をたどり、しっかりとした土台が築けなくなります。
そんなことに力を入れるより、まず、何より思考力や情緒を高める教育こそが先決だと思います。そのためには、国語や数学に力を入れることの方が大切だというのが、結論です。
以上、長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
小学校に英語教育は必要か1
小学校に英語教育を導入しようという案が検討されていますが、前回の最後に予告しましたように、今回は、それに反対する意見とその根拠について述べてみたいと思います。
まず、反対する意見の一般的見解について紹介します。
○ 英語をやるより、まず、土台となるべき国語をしっかりと学習するべきである。
○ 英語を学習しても、国際感覚を養うことにはならない。国際的教養を身につけるということは英語を学習することではない。逆に、日本の文化をしっかりと身につけた方が、日本人として国際間では尊重される。
以上のようなことがよく耳にするところでありますが、私もそれに同感です。それに、国際化と英語が、なぜ、結びつけて考えられるのか、冷静に考えればおかしなことです。世界にはいくつもの言語があり、別に英語が共通語でなければならないという理由はないはずです。
おそらく、アメリカの世界覇権主義が、その背後にあるものとみていいでしょう。グローバルスタンダードを加速させたいというアメリカの意向が見てとれます(蛇足ながら、このブログのタイトルである「ホワイトユーモア」というのも、アメリカの自分勝手な一方的やり方を「全ては白でなければならない」といった揶揄を用いて書いた風刺小説のタイトルで、それが元々の始まりでした。もっとも、まだ、それはブログ上に掲載していませんが)。
また、言語と思考傾向とは、実は、深い相関関係があると言われています。思考回路をアメリカナイズしようとしているといったら、それは考えすぎだと思われる向きもあるでしょうが。
日本人は外国語の習得が非常に苦手であると言われていますが、実は、それは非常に誇るべきことです。なぜなら、日本はこれまで、どの国からも植民地にされなかったことの裏返しだからです。例えば、東南アジアの人達は英語が達者ですが、それは、歴史的に、植民地にされてきた必然の結果と言えます。
以上、なぜ、小学校への英語教育の導入について反対するか、その理由の一つを私なりに挙げてみましたが、話が教育とは逸れてしまいました。
それはさておき、教育に話を戻すと、現に、中学校や高校では英語が教えられていますし、現実問題、英語ができるかできないかで、差が生じてしまうこともあり得ます。それに、実際、英語が教科として教えられている以上、話せたり聞くことができた方が好ましいといえます。
そこで、英語の力(特に、コミュニケーション能力というか話したり聞いたりする能力)をアップさせる方策として、小学校にも英語を導入することが検討されているのでしょう。
しかしながら、そんなことをしても、効果はほとんど期待できないばかりか、むしろ、知的能力の低下に拍車をかけてしまうことになりかねないと危惧されます。教育的観点から見ても疑問なのですが、長くなりますので、そのことについては次回に回すことにします。
学校改革提案
学校では、何(教科)を教えるべきかについて、考えてみたいと思います。
改めて言うまでもなく、これまで学校で習うことは、実生活とはあまり関係ないことが多かったのですが、最近では、実生活に関係すること、例えば、お金に関することや、国際化に向けて英語を取り入れることなどが検討されているようです。
一方、『国家の品格』の著者である藤原正彦氏は、実学的なことより、まず、基礎的教科をしっかり学んだ方が良いと主張されています。
私としては、どちらも大切であると思います。人生の初期において、以後の人生における土台となる基礎的学力は必要ですし、また、実社会で活躍されている方々のことや実生活に関することを学ぶことは良い刺激になり、意欲を高めるものになると思います。
ただ、学校の先生にそれらを全て期待することはできません。ただでさえ今、教師たちは疲弊しきっているのに、これ以上の負担を課すことはできませんし、何より、教師にはそれだけの力量や経験がないからです。すなわち、ほとんどの教師は、学校以外のことを知らない世間知らずなのです。
そこで、実社会で活躍されている方々に教壇に立つという案が出てきて、実際、田中元長野県知事は、海外青年協力隊に行かれていた方々に教壇に立ってもらうという計画を打ち出したらしいです。が、組合の猛反対にあって頓挫したとのことです。
何故、反対したのか詳しい経緯は知りませんが、ただ、あれもこれもと取り入れる訳にはいかないことは確かです。すなわち授業時間数は限られているということです。投入できる資源や時間は無限ではありません。
しかし、たまにであれば可能でしょうし、現在でも、実社会で活躍されている方々が学校に来て、自分が実社会でなされていることについて授業をすることが取り入れられているようです。
こうしてみてみてきましたが、結局は、目新しいことは言えませんでした。でも、現状を打破するためには、もう少し新鮮な空気を取り入れた方が良いのではないでしょうか。すなわち、学校以外の空気を入れる、あるいは、学校以外に出ていくといったことです。
しかし、その目的を達成するためには、逆に学校の役割を思い切って縮小するというのはどうでしょう。学校には、ごく基礎的なことだけを任せ、それ以外のことは、学校以外に任せるというものです。
毎週土曜等には、一般社会人や現役を退いた方が自分の専門分野について教えるのです。当然、給与の支払いもあります。
また、思い切って、学級や担任制をなくしてみたらどうでしょう。例えば、大学のように。席も自由です。しかし、ふざけた真似をしたら、厳重に対処し、場合によっては、躊躇なく警察を呼んでもいいでしょう(これまで、一般社会であったら、明らかに犯罪であるものが、学校というだけで大目に見逃されてきました)。学校や教師の負担を減らし、その代わり、給与を大幅カットです。足りない分は、一般社会に出て行って、社会勉強してもらいましょう。もしかしたら、起業する教師も出てくるかもしれません。
以上、勝手に述べてきましたが、最後に一言。英語の授業を小学校に取り入れるというのだけは反対です。その理由は次回に回します。





