皆様、明けましておめでとうございます。2024年もお付き合いのほどを宜しくお願いいたします。
さて、今年1回目の投稿は初春大歌舞伎で京鹿子娘道成寺を上演するのに因んでこちらの筋書を紹介したいと思います。
※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。
明治44年11月 歌舞伎座 五代目中村歌右衛門襲名披露
演目:
一、鎌倉武鑑
二、近江源氏先陣館
三、京鹿子娘道成寺
四、堀川
五、後面萩の玉川
毀誉褒貶はあれど戦前を代表する名女形である事は疑いようの無い名優五代目中村歌右衛門の襲名披露公演の筋書になります。
以前にブログで紹介しましたが帝国劇場で行われた七代目松本幸四郎の襲名披露と同じ月に行われました。
関連して五代目芝翫を襲名した歌舞伎座の筋書はこちら
七代目松本幸四郎の襲名披露公演が行われた同月の帝国劇場の筋書
歌右衛門襲名に至るまでの騒動についてはこちらをご覧ください
リンク先にもある様に東西の歌舞伎界を揺るがした大騒動と松竹の歌舞伎座買収未遂事件を経て満を喫して行われたのが今回の襲名披露で同時に明治22年の杮落し以来22年が経過した初代歌舞伎座を帝国劇場に対抗して舞台の躯体だけを残して12万円(現代価格に換算して約4億円)の莫大な改築費をかけて純和風に改築した第二期歌舞伎座の杮落しとセットにして華々しく行われました。
第二期歌舞伎座の外観
一番目の鎌倉武鑑は榎本虎彦が今回の襲名披露の為に書き下ろした新歌舞伎の演目になります。
大正8年11月に再演された時の歌舞伎座の筋書
今回は朝霧と菊池武房を歌右衛門、菊地有隆を羽左衛門、安達長景と竹崎季長を八百蔵、菊池覚賀を段四郎、越前時広を歌六、小串光武を猿之助、平頼綱を九蔵、江田季家を市蔵、城景安を左團次、北条時宗を仁左衛門がそれぞれ務めています。
大正8年の時にも書きましたがまず演目全体の評価としては結構辛辣で
「全体の筋のまとめ方が頗る散漫で、翻案臭い所もあったが、大一座の名優をそれぞれ重い役にし、又俳優の仕勝手を聞入れてやる座付作者の作としては、慥に傑作ではありました。」
「さらりとしてゐて涙をさそふところもあるが、何となく全体のまとめ方が散漫としてゐる評もされるであらう。けれどこの座の此度のような顔見世に、これだけ多くある俳優達に、それぞれの役をつけなければならない約束と、役者の仕勝手も多少聴入れなければならない。」
と皮肉交じりに書かれています。
そして芝翫襲名から10年の月日が経ち、東京座での座頭経験や歌舞伎座技芸委員の就任、そして鴈治郎の名跡争いと様々な出来事を経験して今回晴れて歌右衛門を襲名した彼の1発目の演目とあってお得意の気品溢れる姫役である朝霧と菊池武房の二役を演じましたがこちらの評価は
「芝翫改歌右衛門の安達娘朝霧は二幕目の安達邸の場が好い。尤も恋もほし、さりとて武門の遺児も棄てられぬといふこの場の筋も一寸泣かせるやうには出来てゐる。」
「二役菊池武房は立派である。」
と大正8年の再演の時と比較してもまだ体の動きに余裕があった為か朝霧は当然良いのは兎も角、酷評されてた二役の菊池武房もここでは品格に加えてきちんと貫禄もあったのか評価されました。
歌右衛門の朝霧と羽左衛門の菊池三郎
対して菊池三郎を演じた羽左衛門は
「羽左衛門の菊池三郎は情ありあっぱれ勇士には見えたが、出陣と凱旋とに同じ着附は物持が好過ぎる。自分は勝手に好きな女と別れを惜しんで置きながら、門口の家来に向って「急ぎ候へ」は笑はせられた。尤もこれはこの優の罪ではなけれど。」
と再演の時の投げた演技とは違ってそれなりにきちんと演じていて本人のやる事に文句はないものの舞台の設定部分でいくつかチグハグな所が垣間見えたのは批判されています。
ただ着物に関してはこの演目では日本画家の村田丹陵の考案の衣装とあってかなり拘りを持って作られただけに細かい設定のディテールにまで気が向かったのは止むを得ない事でもありこれも劇評の言う通り羽左衛門を責めるのは少々酷な気がしてなりません。
続いて劇評では竹崎季長を演じた八百蔵と菊池覚賀を演じた段四郎、城景安を演じた左團次、北条時政を演じた仁左衛門についても一言ずつ触れ
「八百蔵の竹崎五郎(季長)。花々しく立派であった。」
「段四郎の菊池入道、風采は立派であるが、自分を辱かしめた者の娘を平然と、しかも喜んで嫁にしたがるなどその頃の普通の人として一寸うけとれなかった。」
「左團次の城の九郎、栄えない役で気の毒であった。出来栄えも大して好くはない。」
「左團次としては並の出来」
「仁左衛門の北条相模守(時宗)、よく分からぬ人物である。」
と八百蔵の様に評価されている人物もいますが、その多くが否定的な評価を多く占め、何処となく襲名のお付き合いで演じたに過ぎない臭いが感じれます。
この様に歌右衛門襲名記念あり気の演目である事から歌右衛門の出来は好くとも他の役者達が完全に付いてきておらず今一つ覇気に欠ける演目となりました。
近江源氏先陣館
中幕の近江源氏先陣館はこのブログでも何度も紹介してきたお馴染み時代物の演目です。
鴈治郎が演じた浪花座の筋書
大正5年に羽左衛門が演じた歌舞伎座の筋書
今回は佐々木盛綱を羽左衛門、和田兵衛を八百蔵、小三郎を竹松、小四郎を千代之助、早瀬を亀蔵、篝火を門之助、北条時政を段四郎、微妙を仁左衛門がそれぞれ務めています。
さて、一番目とは違い羽左衛門の十八番でもある盛綱陣屋とあって本人の演技も冴えわたったらしく、
「羽左衛門の盛綱は秀逸な作品であると言ひ得る。鴈治郎のそれに比したら、外形においては貧弱であるが、内容に於ては一歩も譲らぬ。しかしその演出された色彩は、例えば鴈治郎のは生温い湯である。羽左衛門のは腸に沁み通るやうな冷い水である。」
「羽左衛門の「近江源氏」の盛綱は、流石研究したほどあって、全体に於ては大阪の鴈治郎より勝れてゐる。それは部分部分に細かく見くらべたなら、型においてまたは技巧の点において鴈治郎の方は勝れてゐるところが多いかも知れない。乍併(しかしながら)白粉気のない、媚体のない、さっぱりとした演じかたにて盛綱の心地を示した羽左衛門の方が好いといへる。芸の余裕と巾と、伎倆(わざ)と腹とが出来て、それがすっかり調うてゐなければ盛綱は若輩になる羽左衛門は立派に演った。鴈治郎も伊左衛門も眼の用ひ方は上手だ。羽左衛門の眼の稍凄く見ゆるのは、こんな時には見物の心を引締て引寄る鴈治郎のはあまり媚がありすぎて、盛綱といふものに離れすぎる。そして角々のきまりへゆくと、手練れにまかせ、場に乗りすぎ、踊りだすやうになる疵があった。」
と同じく盛綱を得意役とする鴈治郎と比較して部分部分で見ると経験の差か劣る部分はあるものの、どうしてもいつもの色気が交る鴈治郎に比べて羽左衛門のは素直に演じている点が好いと高評価されています。
そしてそんな好調な羽左衛門に対して和田兵衛を演じた八百蔵は
「和田兵衛は少しコチコチして居たが悪くは無かった。」
と彼の得意とする領分の役柄でありながら決して褒められた出来では無かったものの、取り立てて言う程酷くも無い出来だったそうです。
羽左衛門の盛綱と八百蔵の義盛
八百蔵は丁度この頃は飼い殺しの真っただ中でこの1年後に辞表を叩き付けて松竹に移籍する事は以前にも紹介しましたが、この時はそれまでに比べると比較的役としては恵まれていた方であった為、演技においてもそういった心理的な面が幾分関係していたのかも知れません。
そして八百蔵以下諸役を演じた他の役者については
「(門之助の)篝火はもっと好からうと思った程ではなかった。」
「(段四郎の)北条時政は好かった」
「(仁左衛門の)母微妙。小四郎を打たんとする時、刃を後にみね打の形に振り上げてゐるのはおどかしいといふ心が見えた。然し千代之助ばかり心を取られて小四郎が手負ひになってからなどは全で自分はなかった。」
と幹部役者は一長一短の出来で、特に三婆の1つ微妙を巧みな演技描写で演じるも小四郎を演じる千代之助の出来に役を忘れて本当に心配してしまう仁左衛門親バカぶりは微笑ましい物があります。
因みに当の千代之助はそんな親の心配を他所に
「千代の助の小四郎、少し上手過ぎる位である。」
と意外にも好評でした。
しかし、この面子で唯一ミソを付けたのが早瀬を演じた襲名したばかりの亀蔵で
「亀蔵の早瀬、こんな女では盛綱の貫目が下る。も少しの間、見習ひに下げた方が好さそうである。」
と羽左衛門の出来栄えに比べて全くなっていないと養兄の七光りで分不相応の大役を演じている彼の演技力を酷評しています。
この様に亀蔵の早瀬こそカミナリが落ちましたが、彼以外は平均よりは上くらいの出来だったのと何と言っても羽左衛門の好演が予想を上回ったのもあり、歌右衛門の道成寺、仁左衛門の堀川に引けを取らない当たり演目になりました。
羽左衛門はこの年に女房役者の梅幸と別れての活動が始まりましたが既に梅幸無しでも一人で活動出来る実力を身に付けており、名実ともに三衛門時代の幕開けに相応しい演目になりました。
そしてこの盛綱陣屋が終わると襲名披露口上となり、舞台には成駒屋一門及び中村姓の縁で歌六と芝鶴、更には仁左衛門が出演ししました。実は歌右衛門の襲名と共に今回弟子たちの襲名も併せて行われており
中村駒助→五代目中村東蔵
中村児雀→中村芝賞
中村由丸→三代目中村歌之助
中村芝三松→歌女之丞
二代目中村梅之助→初代中村歌門
中村梅丸→三代目中村梅之助
澤村春五郎→中村歌十郎
の7名が襲名した他、市川大よしが五代目市川伊達蔵を襲名しました。
因みにこの9人同時襲名という記録は100年以上経った今も破られていない最多記録になります。
今回襲名した9人の内、東蔵、芝賞、歌之助、梅之助についてはこちらもご覧ください
東蔵
芝賞
歌之助
梅之助
この9人同時襲名というのは今でも歌舞伎座の歴史において抜かれた事の無い最多記録であり、田村成義が如何に今回の襲名を盛り上げようと必死になっていたのがここでも伺えます。そしてこの大量襲名の口上を述べたのは今回の歌右衛門襲名においてキーパーソンとなった仁左衛門でした。歌右衛門とはいつも衝突を繰り返していた彼ですが今回に関しては仁左衛門の働きが襲名の端緒となった事は事実であり、また格から言っても彼以外に述べれる人物もいなかった事から口上役に選ばれました。
そして座方では例によって屁理屈を持ち出して晴れの場をハチャメチャにするのではないかと心配されていたそうですがいざ幕が上ると神妙に務めたらしく関係者は安堵したそうです。
襲名口上の様子(よく見ると後ろに金屏風が立っているのが確認できます)
余談ですが、今回唯一成駒屋関係でないのに襲名した伊達蔵ですが、かつて四代目市川小團次の本でも紹介した様にかつては小團次の師匠として知られた程の重い名跡を襲名した彼ですが襲名後は脇役とあってかあまり活躍がパッとせず、大正時代に入ると小芝居での活動がメインとなりました。そんな彼ですが時代は遥かに下って昭和7年に生活費稼ぎを兼ねてか両面舞台という奇妙なセットと勧進帳が売りで坪内逍遥にも絶賛されたという大橋座というドサ回りの一座を補導して市川姓を名乗らせて勧進帳を持って全国各地を廻っていた所、たまたま巡業先の甲府で巡業と先祖の調査を兼ねて来府していた市川三升とバッタリ遭遇してしまい(笑)、事の次第を知った三升は激怒してしまい
・大橋座は勧進帳の上演禁止
・伊達蔵は破門
という厳しい処分を課したそうでとんだ不始末で名を有名にしてしまったという逸話を持つ人でもあります。
破門後の彼がどうしていたかは杳として知れませんが昭和9年4月25日に65歳で亡くなっているのは判明しており晩節を汚した形になったのは間違いありません。
同じく中幕の京鹿子娘道成寺は新歌右衛門の襲名披露狂言となった舞踊演目です。
倅の児太郎が福助を襲名した時に演じた歌舞伎座の筋書
この演目と言えば五代目の養祖父である四代目中村歌右衛門が得意とし若かりし日の九代目市川團十郎と養父芝翫が二人道成寺で演じた際にその技量の差を見せつけたという逸話が残る演目であり、既に鉛毒に侵されて養父に厳しくたたき込まれた在りし日の舞踊の腕前を見せる事が出来なくなりつつあった彼でしたが59年ぶりとなる歌右衛門復活という大舞台に成駒屋の宗家の意地を見せたかったのか第一次歌舞伎に寄せた寄稿文にも
「そのうち(歴代歌右衛門が得意とした演目)で私の不自由な体にありさうなものとしましては「京鹿子娘道成寺」なのですが、それも久しく体が悪かったものですから止めておりましたので、とても十分な事を御覧に入れるわけには参りませんと存じ、なんぞ外のものを心掛けてゐました。ところが御贔屓様のお勧めで、、柄にないものを見せるよりは、様だけでも「道成寺」にしたら好からうというお詞でしたが、これとて中々さう行かないものですけれど、これならどうやら手心もありますし、四代目歌右衛門が得意の芸でもありましたから、座方とも相談の結果「道成寺」と取り極めたのです。」
と述べて敢えてこの演目を襲名披露狂言に選んだ理由を語っています。
今回は白拍子花子を歌右衛門、阿闍梨を仁左衛門、大舘五郎を八百蔵、所化を羽左衛門、段四郎、菊五郎、吉右衛門、市蔵、九蔵、亀蔵、卯三郎、歌六、芝鶴、児太郎、左團次という錚々たる面子がそれぞれ務めました。
所化の面子の豪華さからも今回の襲名に歌右衛門が力を入れていたのが分かりますが、これだけの面子を揃えて置きながら鉛毒とは言え踊りが下手では面子が立たないと思ったのか彼自身不自由な体でも自然に踊れるように振付を花柳勝次郎と花柳壽童に頼んで付けて貰い、歌舞伎座が休場中の間も稽古を重ねるなどかなり仕上げて本番に臨んだそうです。
その甲斐あってか劇評には
「歌右衛門が踊るといふ事からして珍しい」
と前置きした上で
「そしてそれが、たとひ体が充分動かないとしても、見事な大舞台である。踊は花道と、恋の手習ひとがよいかと思はれる。兎に角、よくあれだけこなせると思った。鐘にのっての見得は、品位ある人だけに立派な事は無類である。」
「花道の出から推戻しまで見せて居るのは本式であるが、始終坊主を働かして、息を吐いて居るは止むを得ないのであらう。只歌右衛門といふ名を重んじて、こんな大物を出した勇気だけは買って置く」
と所々大量にいる坊主たちに動いてもらい踊りを省略しているきらいは指摘されているものの、襲名の晴れ舞台とあって満足に動かない体を懸命に動かして踊る姿は劇評家達も驚かせたらしく高評価されています。
事実、歌右衛門はこの襲名を一世一代に娘道成寺は演じる事は二度と無く、舞踊に出る事自体も帝劇に客演した大正5年を最後に無くなる事から今回が肉体的に道成寺を踊れたギリギリ最後の時期であった事が分かります。
続いて劇評では押戻を務めた八百蔵について触れ
「八百蔵の押しもどしの大竹(舘)左馬五郎は、和藤内の様な扮装で、黒い鼻緒の下駄ばき、葉つきの青竹の丈にもあまるほどの太いのを持ってゐる。凛々たる声音が直なる役の心根を青竹の色に現はして、勇ましくすがすがしい」
と評価する声もあれば
「大館照武、詰らぬ役である。」
と評価するのもあるなど人によって評価が割れる形になりました。
八百蔵の大舘左馬五郎
この様にぎこちなさはありながらも成駒屋所縁の演目を何とか踊りきり、所化に幹部役者がずらりと並ぶその風景は大名跡の襲名に相応しい狂言となり襲名を巡るいざこざがあった事を知る劇評家や多くの見物も新歌右衛門の姿を好意的に受け止めました。
余談ですがこの時所作で出ていた菊五郎は歌右衛門の花子の演技を盗もうと公演中歌右衛門の演技を始終観察していたそうで歌右衛門も
「私が改名披露に「道成寺」をした時、坊主に出て居て、舞台に眼も離さず見て居たのは六代目だけでした。」(歌右衛門自伝)
と彼の芸に対する貪欲な探求心を評価しており、児太郎時代の慶ちゃん福助が初めて道成寺を演じた時にわざわざ頭を下げてまで菊五郎の所に教えてもらう様に頼みに行ったのもこの時の自分の演技をきちんと見ていた事を覚えており体の不自由な自分に代わり道成寺を教えられるのは菊五郎しかいないと歌右衛門なりに菊五郎を見込んでの事だったそうです。
慶ちゃん福助が初めて道成寺を演じた東京座の筋書
二番目の堀川は以前に本郷座の筋書で紹介した世話物の演目になります。
猿どころか虎をも殺しそうと言われた訥子が演じた本郷座の筋書
今回は与次郎を仁左衛門、井筒屋伝兵衛を羽左衛門、お鶴を三保木峰子、母おたねを芝鶴、女房お俊を歌右衛門がそれぞれ務めています。
さて、歌右衛門の襲名披露とあって仁左衛門も巡業等で何度も演じて熟練している当り役を演じましたが出来はというと
「与次郎は明治座(明治42年5月)の時よりさっぱりしてるやうで好かった。」
「いつもの仁左衛門の癖が、随分出てゐながら、それが目に立たぬほど円熟して、さらさらとして見ゆるやうで妙味がある。」
「仁左衛門の与次郎、これはやり難い役です。ー大抵はボケたやり方をしますが、母を慰めようと嘘を言う辺り妹を戒めて猿廻しの姿をさせたり、相応に分別があるのでこの優はその方を主としましたが、これは適当です。真面目な中におのづろおかしみ「がでるのがこの役の味でしょう。」
とこの頃得意の老け役すら感情論で否定的な評価を受けていた彼も明治座の時とは異なりこちらでは肩の力を抜いた自然な演技を評価されました。
仁左衛門の与次郎、芝鶴の母おたね、羽左衛門の井筒屋伝兵衛、歌右衛門の女房お俊
続いて残る役者についても全員言及がありおたねを演じた芝鶴は
「芝鶴はちと声が枯れ過ぎたのは病中としては適していたが「あの面白さをみる時」と言直す所はもう一息でした。」
「芝鶴の母親は明治座の時の勘五郎の方がずっと好い」
と台詞廻しの点で少し物足りなかった部分があったのは指摘されており道成寺の後にも関わらず苦手な世話物女房役であるお俊を初役で演じた歌右衛門も
「歌右衛門のお俊は初役とか聞いた。母親に意見されてゐる時が素人の女のやうに見えた。着附の地味なのも女郎といふ色気がない帯をとかずに寝る時に、もし今夜にも伝兵衛がきたら一緒に死に出ようといふ心地を、鳥渡(ちょっと)した科で頷かせたのは好い。」
「歌右衛門のお俊、この段としてはシテではあるが、さわりをチョボに取られるから損な所があります。」
と演技としては問題ないものの美味しい所を義太夫に語らせてしまう演出もあってか今一つ目立たなかったと触れられています。
しかし、お鶴と共に心中を覚悟して出て来る井筒屋伝兵衛を演じた羽左衛門は
「羽左衛門の伝兵衛、優しい中に紙治と違って心中に誘いに来るのだから一工夫を要します。それらしく見えました。」
「こんな役に出たばかりでその人になってゐる。」
といつもの得意役とは違う難しい役所を上手く調理して演じたのを高く評価されました。
そんな羽左衛門演じる伝兵衛と心中をするつもりであるお鶴を得意役として演じたのが仁左衛門の養女である三保木峰子でしたが彼女については
「峰子は無邪気に恋の唄をうたう味が出ていました。」
であると慣れた役とあって楽々と演じたのが吉と出てこちらも好評でした。
以前4月公演を紹介した際には紹介していませんでので軽く紹介すると彼女は仁左衛門の実姉の娘に当たりれっきとした片岡家の人間でしたが女優を志した事もあり叔父に当たる仁左衛門の養女となりました。因みに千代之介の義理姉に当たりこの時25歳と千代之助よりも14歳も年上に当たります。叔父という強力な後ろ盾もありこうして何度か歌舞伎座の舞台にも女性ながら何度も出演し今回のお鶴などを度々演じていました。しかし、この翌年の明治45年にこのお鶴を再び演じたのを最後に病に倒れてしまい4年後の9月12日に29歳の若さで亡くなってしまいました。もしもう少し長く存命していれば帝国劇場の専属女優たちとは共演する機会もあっただけにその才能を開花させる事なく逝ってしまった事は日本の女優界にとっても大きな損失でした。
さて話を戻すとこちらの演目も特にこれと言って目立って酷い役者もおらず、それどころか仁左衛門や羽左衛門も疲れを見せる事無く本領発揮の演技を発揮でき歌右衛門や羽左衛門の出し物と遜色ない出来栄えだったと称賛を受けました。
後面萩の玉川
大切の後面萩の玉川は三代目河竹新七が書き下ろし明治29年7月に市村座で初演された舞踊演目です。
内容としては内容盛り沢山の京鹿子娘道成寺とは対照的に段四郎お得意の動きありケレンありの軽妙な演目だったそうです。
今回は粂の仙人を段四郎、晒女を門之助、歌女之丞、歌門、男寅、晒男を栄次郎、團九郎、翠扇、旭梅がそれぞれ務めています。
曾孫の当代猿翁がケレンを舞台で復活させる50年前以上前に歌舞伎座でケレンをやっていた段四郎でしたが戦後の團菊崇拝が凝り固まっていない明治末期では曾孫の時ほど拒絶反応はなく
「振事といふものに興味をもつ人、踊に志あるものは、一度見ても薬であらうと思はれる」
「粂の仙人の後面は見事なものである。かういふものこそ活動写真にして残して置きたい。」
「これも当興行の呼び物の一つでありました。」
と意外にも肯定的な評価が多かったのが特徴でした。
ただ、一点だけ厳しく指摘されているのが晒女で出演している門之助についてでした。尤も演技云々の問題ではなく
「門之助をこの連中の中へ出すのは甚(ひど)すぎる。」
と幹部役者たる門之助を平気で平の役者が務める晒女の中に出す歌舞伎座側の配役に対するものでした。
この様に蓋を明ければ一番目の鎌倉武鑑以外の幹部役者の出し物は全て当たり、第二期歌舞伎座と歌右衛門襲名というダブルイベントもあってか25日間全日売り切れとなり2日日延べとなる大入りとなりました。そして収入の方も以前紹介した明治41年4月公演には僅かに及ばなかったものの歴代2位(当時)の3万円(現代価格に換算して約1億円)以上の利益となりました。
そしてこの時から昭和15年に死去するまでの31年間に渡り團菊に代わる歌舞伎座の座頭となった歌右衛門の時代が到来する事になります。