さて今回はすっかり恒例となった鴈治郎の新富座上京公演の筋書を紹介したいと思います。
大正7年3月 新富座
演目:
本編に入る前にまずこの前後の鴈治郎の動向について少し説明したいと思います。前に紹介した南座の公演の後、大阪に戻った鴈治郎は国姓爺合戦の初演200年と銘打って1月の浪花座で延若の和藤内に甘輝で付き合い続く2月には三代目尾上多見蔵の襲名公演に付き合ってからの上京となりました。
前に紹介した南座の筋書
主な配役一覧
今回は歌舞伎座が新派公演の為に役者が余っている関係で鴈治郎一門に加えて八百蔵、源之助、そして東京での襲名公演中の雀右衛門が加わる座組となりました。鴈治郎と源之助の組み合わせは非常に珍しいですが私のブログでも以前に紹介した明治25年の角座の筋書でも紹介しましたが源之助が三崎座出演問題を巡って大劇場に出演できなくなり、菊五郎に付き添って大阪に行き本来なら2公演こっきりで帰る所だったのを鴈治郎が「残ンなはれ!」と引き留めた結果、5年近く京阪に在留する事になるなど源之助の芸の形成に大きな影響を及ぼしました。その後2人は互いに松竹と小芝居と所属が異なっていた事や大正3年に源之助が歌舞伎座に復帰した後も鴈治郎が新富座にしか出演しない関係で中々顔を合わせる事がなく共演は大正5年2月の新富座で歌右衛門と鴈治郎の和解の陰でこっそり20年ぶりに共演を果たしていました。
明治25年に角座で共演した時の筋書
20年ぶりの共演を果たした新富座の筋書
と、ここで本来なら演目紹介に移る所ですが今回は予め一つ触れておきたい事があります。それは今回の劇評で書いているのはタイトルにも書いた松居松葉です。
彼についてはこちらをご覧ください
彼は以前に触れた様に劇作家であると同時に左團次のブレーンの1人でありました。今回左團次も出ていないのに新富座の劇評を書く事になったかについて以下の様に記しています。
「先生の真実の意見を書かれては、却ってこっちが困るのです。この前鴈治郎一座の「忠臣蔵」に対して、岡(鬼太郎)さんが侃々諤々の筆を揮った。と、鴈治郎は写真を撮らせないといひだした。わたしの社では平あやまりに謝って、やっとさとその神聖にして美はしき御尊顔を、その後も誌上に掲載し奉るの光栄に浴しているのだ。その御厚意に、対し奉っても、悪口を書いては飛んでも無い事になる。そこで是非先生に一つ褒めていただきたいと思って願ひに参ったのです。」
と新富座での忠臣蔵での演技をボロクソに批判した岡鬼太郎に立腹して抗議し写真の掲載を許可しないと脅した過去を持ち編集部から要注意人物扱いされていた鴈治郎を刺激しない様に頼まれた風に書いています。
そもそもの発端となった3年前の新富座の時の筋書
しかし、かつて左團次と明治座の改革に取り組んだ際には芝居茶屋の関係者から命を狙われた事すらある松葉にとって鴈治郎の編集部への脅しなど露程にも感じておらず、むしろこの少し前に似た様な事を他の雑誌にも行った事に鴈治郎に対して
「実のところ、わたしも鴈治郎に対して軽侮の念を抱くべき理由がある」
とすら書いていてこの後全編に渡って痛烈なベタ褒め罵詈雑言が続くという稀に見る面白い劇評となっていますのでその辺を意識してご覧ください。
八百蔵の加藤正清と雀右衛門の雛衣
中幕の双蝶々曲輪日記は寛延2年に二代目竹田出雲らによって書かれた世話物の演目です。現在では見取演目として二段目の角力場と八段目の引窓が現在でもよく上演されています。
参考までに2年前の九月大歌舞伎で引窓を上演した時の観劇の記事
明治39年10月の歌舞伎座の筋書
演目の詳しい内容については上記リンク先をご覧ください。
そして今回上演されたのは八段目の引窓であり、鴈治郎が得意役として何度も演じていて自らの当たり役を集めた玩辞楼十二曲の一つにも入っている程でした。今回上演するのは明治44年1月の中座以来7年ぶり、東京では上記リンク先にある明治39年10月の歌舞伎座の時以来12年ぶりの上演となりました。
今回は南与兵衛を鴈治郎、お幸を璃珏、お早を魁車、そして濡髪を何と梅玉がそれぞれ務めています。
さて、お待ちかねの鴈治郎罵倒タイムについてですがまず演目全体の評価については意外にも
「中幕の『引窓』は条件なしに褒めてもよいと思った。(中略)今度も世間では大変な期待であるのに対して、例の鴈治郎崇拝者の誇張されたる揚言であろうと思っていたが、実際を見ると兎に角整っている、纏まっている、可成洗練されているちっとも危気がない。感動すべき何物も無いが、忌気を催す何物もない。一幕が楽に見られた。これは一場が限られた手心ある人々のみに由ってのみ纏められたためでもあらう。しかしてその人々の選み方がよかったためでもあらう。」
ときちんと依頼された通り洗練されて無駄がないと評価しています。
しかし、鴈治郎個人の評価となると義理は果たしたと言わんばかりに
「鴈治郎の南与兵衛は顔の扮装もよい、形は少し侍になり過ぎていたが、まあ好い。出世の話は一般には好評の様だが、わたしはしらじらしくて忌だ。(中略)極り極りの形は仲々好い處もあるが、(中略)しかしこの廉々のきまりの形も、動き出すとすぐ崩れる。動いている間はちっとも好い形はない。一例をいふと、母に遮られ、妻にひかれて、三人三人一緒にトントンと退るところでも、三人を別々に見ると支離滅裂といひたくなる。」
「たとはば母や妻の話をきいている間、十手を風呂敷で拭いている。これは悪いとはいはぬが、相手を下目に見るといふ実感が滲み出している所為か、どうしても近所の古道具屋で買って来た掘出物を拭いているやうしか見えぬ。如斯なるとこんな仕草は無くもなだ。(中略)風呂敷も役が済むと、今度は幕切れまで置いてきぼりにされているのも知恵がない。」
と写実を重視した演技も含めて情け容赦なく批判しているのが見て取れます。
ボロクソに言われてる鴈治郎の南与兵衛
一方で残りの3人はどうかというとまずこの時実に76歳と母親のお幸役の璃珏(64歳)より一回り年上ながら濡髪を演じた梅玉は
「梅玉の濡髪は足取りにたとたどしいところは有るが、可成若くなっていた。」
と芸の力もあり70代とは思えない若々しい演技を保っていたらしく鴈治郎とは正反対に高評価されています。
梅玉の濡髪
続いてお幸を演じた璃珏も
「璃珏は伜に図星をさされて懺悔する時「過まりました」と、愚直にいって情合を見せたのは敬服した。不思議に芸に色彩のある人だと思った。」
と腹を痛めた我が子可愛さに前後不覚になってしまう母親を技巧に頼らず等身大に演じているのを評価されています。余談ですが、璃珏はこの年の11月の浪花座出演中に体調を崩しそのまま急逝してしまう為、今回が図らずとも東京での最後の出演となりました。そしてその最後の役について同じ芸達者で知られた松助と比較した上でこちらが一歩優る所があるとまで褒められたのは役者冥利に尽きると言えました。
さて、残る1人の魁車のお早はというと
「魁車のお早は、前生涯の美しい名残も見え、夫に対する誠実なところも見えたが、胸の上で妙にまはす手の先が煩かった。」
二番目の夕ぎり伊左衛門は以前明治45年の新富座で紹介した演目と同じである為細かい内容は省略させていただきます。
参考までに明治45年の新富座の筋書
今回は前と同じく伊左衛門を鴈治郎、夕霧を福助、お順を梅玉、おむらを魁車、松山清蔵を八百蔵、平岡左近を嵐吉三郎、小栗軍兵衛を箱登羅、駕屋勘六を璃珏がそれぞれ務めています。松山清蔵の八百蔵と平岡左近の吉三郎を除けば2ヶ月前の浪花座で上演した時の配役とほぼ変わらず(浪花座の時は清蔵を延若、左近を魁車、おむらは扇雀)皆勝手知った演目でした。
さて、気になる劇評ですが前幕の引窓はボロクソ言いながらも評価している部分もあったり、他の役者については割かし好意的な評価でしたが、今回はと言うとまず演目そのものについて
「二番目の『夕ぎり伊左衛門』は『近松門左衛門原作、渡邊霞亭脚色』と立派に銘打って、絵本(筋書)には鴈治郎自身が『夕霧阿波鳴渡』の脚色だといっている。が、御気の毒さまだがわが近松先生、こんな変てこ来なものを御書になった事はありません。(中略)その癖鴈治郎も『阿波鳴渡』の原作は、斯様々々とその梗概を喋舌(しゃべ)っているところを見ると、まるで原作と風見牛でいるわけでも有るまいが、何しろ今度の『夕ぎり伊左衛門』なるものは馬鹿々々しいものだものだ。寧ろ近松先生を侮辱したものだ。殊に吉田屋を翻案した駕籠屋の場などは、愸(なま)じ吉田屋の原文を切嵌細工もしているだけに腹が立って来る。」
と余程に渡邊霞亭の脚色が酷さに腹が立ったらしく、その上鴈治郎の巻末の解説にも猛ツッコミを入れるなど冒頭から松葉が荒れ狂っている(笑)様子がお分かりいただけます。
初っぱなから猛ツッコミを受けている鴈治郎の演目解説
メチャクチャボロクソ言われてる鴈治郎の伊左衛門と福助の夕霧
梅玉のお順と魁車のおむら
その上で劇評では大阪から連れて来たという下座にまで及び
「舞台知らずといはねばならぬ。」
と表面上のお世辞を除いて誰一人として評価しないという凄まじい物でした。
大切の羽衣は以前に紹介した帝国劇場の杮落し公演で上演された右田寅彦の書いた舞踊演目です。
参考までに帝国劇場で上演された時の筋書
こちらは天津乙女を福助、漁師伯了を長三郎、船頭三保松を魁車、海女を松尾と莚升がそれぞれ務めています。
紙面の都合なのか、もう鴈治郎に言いたい事は言ったのか劇評はまるで書く気が無く
「『羽衣』も結構。天津乙女も、伯了も漁師もすべて結構。これで浄瑠璃と踊がもっと巧ければ尚結構だと思った。」
と実に心の籠っていない賛辞と皮肉を送っています。
その上で最後には
「藤澤(清造)君、これなら申分は有りますまい。これで先方がぐづぐづいふなら、わたしが何時でも相手になる。喧嘩はこっちへ廻した廻した。」
と完全に鴈治郎に喧嘩を売って〆るという斬新な終わりとなっています。
この様に鴈治郎が雑誌に取った圧力と幼稚な態度が原因で逆に劇評にはボロカスに書かれてしまいましたが、客入りの方はと言うとやはり鴈治郎贔屓の安定した人気と12年ぶりの引窓上演と言う話題性もあってか普通に大入りを記録し、鴈治郎もこの成績に満足したのか再び演芸画報にこの劇評が原因で写真掲載を拒否するといった報復行動には出ませんでした。
そして鴈治郎はこの年は上述の通り三代目尾上多見蔵の襲名とそれに伴う巡業もあった関係で東京に来たのはこの3月のみとなりました。
そして大正8年は中座の改築工事に伴う座組の変化、大正9年は新装開場となった中座の杮落し公演出演などもあり鴈治郎が東京に上京するのは年1回のみの年が続く事になります。