近頃、コントロールについて考えることの多い日々でした。
だから、今回のテーマは「コントロール」。単純なんです。私^^;

「(人を)コントロールする」と聞くと、「他人を思い通りに操作する」と
いう印象を与え、何だかとてつもなく悪人がする行為のような気がしますが、
コントロール欲求は、誰もが持っている(仙人は持っていないかも)欲求の
ひとつです。

人間という種族は、道具を持ったその時から、自然に働きかけ、人間にとって
住みやすい環境に変化させることで、欲しいものを手にしてきました。
山を切り開き、海を埋め立て、必要なものを得てきました。しかし長い時を経
て、今、環境問題という形で、自然からの無言の怒りが突きつけられています。

同様に私たちは、自分の望む結果が得られるように他人に働きかけ、それを手
にしたり、与えたりしながら生きています。しかし、私もあなたも欲求を持つ
者同士ですから、必ずしも望むもの(人)が手に入るとは限りません。

それでも、自分の思い通りになったらいいなぁと思ってしまいますよね。
友人も、子供も、親も、部下も、上司も、先生も、彼氏も、彼女も・・・時に、
自分自身の性格でさえも。

「当然私ではなくあの人が変わるべきだ」と「こちらの思い通りの相手になる
こと」を求めるのですが、それは所詮叶わない望み、もしくは一時的に従った
だけ、に過ぎませんから、次第にイライラがつのり、相手のせいにし、相手を
攻撃する気持ちが沸いてきます。

そして、欲求を満たすために、自分の思い通りに他人をコントロールし始める、
というわけなのです。
ここで基本的なコントロールのパターンをみていきましょう。



・力によるコントロール
親が子供に「親の言うとおりに行動しなさい」という態度です。
会社だったら、上司がその立場を使って「部下は言われた通りにやりなさい」
といった態度でしょうか。
一般的に立場が上(だとされる者)が、有無を言わさず力で抑え込みますが、
本人は無意識のことが多く「そうするのが当然であり、一般的だ」と思い込ん
でいます。

また、力によるコントロールには、暴力を伴うものもあります。
女性や子供など立場が弱いものたちへ、肉体的な暴力を与えることで言うことを
聞かせようとします。



・脅しによるコントロール
相手の恐怖心をあおるもので、「~しなければ~するぞ」というものですが、
「~するぞ」は言語化されないことが多く、暗黙の脅しの形をとることもあります



・正当化によるコントロール
自分の正しさを主張することで、相手をコントロールしようとします。
その道具として、周囲の同意や、一般常識と云われているものを、巧みに使い
ます。私は悪くない、あなたが変わって・・・もこの部類です。

また、相手の罪悪感を刺激する形で使われることもあり、
「あなたのせいでこんな風になってしまった」などと言い、相手に罪悪感を
感じさせる形で、こちらの思い通りに相手を動かそうとします。




コントロールの裏側には、「相手が思い通りになってくれないと、欲求が叶わな
い」という恐れがあり、それが、相手の恐れ(怒られるのではないか。見捨てら
れるのではないか。裏切られるのではないか、など)を刺激する形で行われます。

また、いくつかのコントロールは、一見穏やかな会話の中で行われることも多く、
意識化されないこともありますが、「なんとなく変な感じ」を感じたり、威圧感
を感じたりすることから、相手との間に心理的な壁ができたり、疎遠になって
いってしまうことが多いでしょう。

では、では。コントロールし合わない関係ってどんなものなんだろう?
これは次回のお楽しみにぃ。





前回は、家庭内で子供たちが演じる主な役割について、お話をしましたね。

「私はヒーロー役で、でも力尽きてスケープゴート役になっちゃいました」 とか 「私は何を演じていたかは分らないけど、弟は確かにクラン役でした」 といった沢山のメールを頂きました。
また、「今まさに私の子供は、殉教者役をしてます」というものもありました。
(メールを下さった皆さま、どうもありがとう(*^^*))

最初にお伝えするのを、忘れてしまっていたのですが、親の立場の方は、こういった家族関係のお話しを読む時には、まず、自分が子供の頃のことを思い出して、子供の立場で読んでください。

親の立場で読んでしまうと、自分を責めてしまうことがあります。
本当はね、責める必要なんてないのです。だって、100%の子育てなんて、どこにも存在しませんし、親には親の、そのようにしか出来なかった理由があるのですから。

まずは、子供の立場で読んでみる。
そして、思い当たることがあったら、

私は、どんなことがあって、その役割を演じることを決めたのだろう?
私は、誰からこの役割を学んだのだろう?
私は、この役割を演じることで、成長したその後、何を避けていたのだろう?

と、問いかけてみてください。
何かが、見えてくるかもしれません。



さて、さて。ここからが、本題です。

子供たちは、家族のバランスをとるために必要な何かを感じ取って、演じてしまい、成長後も同じ役割を演じ続け、その結果、生き辛さを感じたり、自分が何者なのか分らなくなってしまうことがある・・・のだとしたら、
私たち親は、一体どうしたら良いのでしょうか?

世間は、子供に対する躾を求めます。
育児書は、誉めて育てろと、言います。
心理学は、イライラを我慢しても、非言語となって相手(子供)に伝わり、それは、言語以上の影響力を持つ、といいます。

でも、でもっ!
時間に追われる生活の中で、一体どれだけの人が、聖人君子的な親でいられるっていうのぉぉぉぉ!!!(かなり本音!)

そこで登場するのが、斉藤学さん・・・斉藤さんの回し者ではありません。
ただ、一介の親として子育てに混乱した時期があり、職業柄沢山の理論を学び、その中で、現実的にも職業的にも的を得ているなぁと思っているに過ぎません。
念のため☆・・・なのです。

彼は著書の中で、親の仕事は3つだと言っています。
1:子供を抱くこと
2:子供の行動に限界を設定し欲求不満を起こすこと
3:子供離れすること

まず、親が子供を穏やかに抱くためには、夫婦が互いをサポートしあっていなければなりません。愛情面でも行動面でも、です。これが子育てをするための、大前提です。

1の子供を抱くこと、が出来た上で、2が可能になります。限界設定とは、言葉通りの意味で、子供の行動に限界を設定していきます。赤信号では止まる・・・これらは各家庭共通の限界設定の代表的なものでしょう。
親はまず、生き延びることを我が子に教えるでしょう。

ご飯を残さず食べることを限界設定する家庭もあるかもしれません。また、朝食は必ず皆で食べるという設定をする家庭もあるかもしれません。

ちなみに我が家では、お箸の持ち方について、厳しい限界設定をしています。この辺りは、両親がそれぞれの価値感について話し合い、どれを我が家の限界(ルール)とするのかを決める必要があります。

この際、注意しなければならないのが、「普通」や「当たり前」「常識」だと思い込んで疑いもしない価値観を、私たちは持っているという点です。しかし、この点については、また、後日・・・長くなりそうなので・・・

1,2の両方が出来た上で、自立に向けて、子供から手を離していく、のです。
この時期に、親は子供の手をつないだままではいけません。かといって、突き放してもいけないそうです。

自然に離れていく子供を見守るのが、いいのだそうです。ちなみに、1,2が行われない状態で3を行うと、虐待です。

・・・・と、ここまで書いておいて、そして最後にお伝えしたいのが、そうだと分っていても、できない時が沢山ある、のが子育てだということです。

心理学を学び始めた頃、私は、「寒いから上着を着なさい!」と、子供が寒いと感じているかどうかも確かめずに、押し付けることが、母子間の境界が曖昧になっていることであり、優しい虐待の一つの行為だと知った時、愕然としたものです。

皆さんも、分っていても・・・という時が、きっとあるでしょう。

そんな時に、思い出してほしいのが、
親の願いは、子供が生き続けてくれることであり、
子育ての最終目標は、子供の自立である、ということ。

それだけで良いんだ!ということなのです。

私たち親は、無意識のうちに、「良い(普通の)家庭」というイメージを作り、それに沿った役割を演じ、また他のメンバーにもそれぞれの役割を演じ続けることを求める、というのが前回までのお話でした。

しかし、強引にイメージに相手を当てはめ、そうでなければ責め立てる(表現する、しないに関わらず)という夫婦関係は、必ず何かしらの歪みを引き起こすものです。

それが日常となった時、子供たちは、実に見事に夫婦の緊張や歪みを察知し、ごく自然に、一家の安定を保つために、与えられた役割を生きることに同意し、役割を演じ始めます。

家族内で子供たちが演じる主な役割を紹介します。子供の頃、私はどんな役割だったのかな?と思い出しながら読んで下さると嬉しいです。


○ヒーロー役
自分がヒーロー(期待の星)になることで、家族を救おうとします。
古い漫画になりますが「巨人の星」の主人公・星飛雄馬がこれにあたり、世間に評価される子供がその家族に出現すると、その子供のいっそうの活躍に熱中して、夫婦のさめた関係が一時的に良くなったりします。
周囲からは、成功者に見えますが、本人はプレッシャーに押しつぶされる寸前であることが多く、耐え切れなくなったヒーロー役は後述するスケープゴートやロストワン役になることがあります。


○スケープゴート(犠牲のヤギ)
ヒーローの裏返しに当たるのがスケープゴートです。
自分が最大の問題児になることで、家族の真の問題から目を逸らせる役割を果します。病気をするのはこの子ばかり。学校に呼び出されるのも、近所の親に叱られるのも、すべてこの子が原因と思わせるほどの問題児ぶりは、実は自らを生贄にすることで、家族を救おうとする姿なのです。


○ロスト・ワン(いない子)
ヒーローやスケープゴートとは異なり、「いない子」という存在のしかたをとる子供もいます。「私なんていないほうがいい」と感じ、いつも独りでいますが、この役割を取る子供たちは、家族から離れることで、家族を救おうとすると同時に、家族内の人間関係を離れ、自分の心がこれ以上傷つかないようにしています。


○殉教者(なぐさめ役)
家の中でいつもくらい顔をしてため息をついている親(母親であることが多い)をなぐさめる役割で、夫の問題(正確には夫との問題)の犠牲者となっている母親を、自分が損をしたり、人生を捨ててまで、救おうとします。


○クラン(道化役)
ユーモアを使って家族を楽しませ、家族を緊張状態から遠ざけようとします。愛すべきペットのような存在で、本人もそれを楽しんでいるように見えますが、仮面の下では、自分には何かが足りない、役に立たない、無価値だと思っています。


○イネイブラー(支え役)
偽親とも呼ばれ、家族の他のメンバーの世話を焼いて回る役割です。母親の代わりにきょうだいの面倒をみたり、お父さんの役割を補完するかのように父親代わりをしたりします。



これらの役割の担いながら、子供たちは成長しますが、役割を演じているという意識は全くありません。

これらは全て・・・そうとは見えにくいスケープゴートでさえ、「我が家族」を守るために働くのです。この子はどういった役割を果そうとしているのか?という視点から見ると、「この子が問題」に見えても、「とっても良い子」に見えても、真実はそうではない、ことに気づきます。

また、この役割は、長年演じ続けることで、その人の「癖」の一つとなっていきます。そのため、家族以外の集団でも、同じ役割を果そうとする傾向があります。

つまり、家族の中の道化役は、会社内でもやっぱり道化役で、家族の中の支え役は、会社でもやっぱり支え役であろうとするのですね。

こうした役割を果すことの結果、得られるものは、最大に良い場合であっても演じている役割に対する賞賛にすぎません。

それとて、多くの場合、役割の途中で燃え尽きたり、役割をこなしながらもむなしさを感じて途方に暮れてしまうものなのです。

役割を演じることに忙しく、決して、真の喜びや生きていく楽しさを感じることはできないのです。
普通で、健全で、理想的と言われる家族の中で、実際に起こっているのは、「正しいと言われている外側の基準」に我が家のメンバーを当てはめることです。

「良い(普通の)家庭」と言われるためには、家族のメンバーに問題があってはいけませんから、夫婦関係に問題があっても、これを無視します。子供が問題を起こすなんてもっての他です。

ですから、問題が起こった場合は、その原因を家族の他のメンバーに求めます。
「子育ての責任は母親にある!」「いいえ、あなたが仕事に掛かりきりで家庭を省みなかったからよ!」「子供が問題なんです。子供を何とかして下さい」という訳です。

理想的な妻や母であるためには、誇れる夫と良い子供が必要です。夫は私に優しくあるべきですし、必要かつ十分な経済力が必要ですし、子供は私の言うことを聞くべきです。

私たちは無意識のうちに、良い(普通の)家庭というイメージを作り、それに沿った役割を演じ、また他のメンバーにもそれぞれの役割を演じ続けることを求めているのですね。

そこにあるは、「自分が本当にこれでいいと思うかどうか」ではなく、人がどのように見るかという「外側の評価」を求める態度です。

このイメージからはみ出すことは、即ち、「私は駄目だ」と自分に落第点を押すことになりますから、家族のメンバー・・・中でも権力的に強い両親は他のメンバー(特に子供)をイメージ内に収めることに躍起になります。

子供は、特に両親に対して優しく、真面目で、反抗せず、人に迷惑をかけず、その上、学業かスポーツか美術面か、音楽面か、どこか一つでいいから秀でていなければなりません。

イメージに当てはめられた子供たちは、ご両親の期待を感じながら勉強をし、またはスポーツに励み、またはピアノの練習に余念がなく、または父兄参観で利発な発言をし、またはお手伝いに励み兄弟の面倒を自発的に見ることで、親の賞賛を得ようとします。

しかし、子供はイメージを生きているのではなく、現実を生きていますから、時に期待から大きく外れてしまうこともあるのですが、そんな時子供たちは親に対して「申し訳ない」という気持ちを抱きます。

このような経験を繰り返しますと「両親はありのままの自分を愛しているんじゃないんだな。~が出来なくちゃ駄目なんだ」と考えるようになるのです。

そして、どんなに努力しても両親から認められないことを知った子供たちは、問題行動を起こすことで、自己主張していきます。

では、親としての私たちは、一体どうしていったら良いのでしょう?
育児書にあるように母性愛だけが、全ての答えになるのでしょうか?
誉めて育てれば、全てOKなのでしょうか?

嗜癖問題に取り組んでいらっしゃる斉藤学先生は、親の仕事は「抱くこと」「子供の行動に限界を設定すること」「子離れ」の3つだと仰っています。

年末の津波被害に胸をざわつかせながら迎えたお正月は、穏やか過ぎるほどに穏やかで、何年ぶりかに降り積もった雪を相手に、はしゃぐ子供たちの声を 聞きながら、コタツの番人を決め込んだ3日間でした。

そういうわけで、お正月の間、複数の家族が入り乱れた中で過ごした我が家なのでした。しかし、5家族あれば、家族の形も5通りで・・・我が家の常識は隣の非常識とは言ったもので・・・すると世間で言うところの「普通の家族」って一体どんなものだ?ってことを、しきりと感じたりする訳なのです。

「普通の家族」とか「健全な家族」とか「理想の家族」とかって言葉を、よく耳にするけど、そんなものはTVの中にしか無いというか・・そこにリアリティがない・・・というか・・・そんな風に感じませんか?

家族という言葉には、温かいとか、安らげる、というイメージがつきものだけど、家族はそれ程温かいものでもなければ、オープンであれる場所でもないんじゃないかって思うのです。 むしろ、「普通」とか「理想」の家族からはみ出すことを、無意識に恐れるが故の問題が大きいんじゃないでしょうか。

しかし、行政やマスコミは相変わらず「家族=温かくあるべきもの」と アナウンスし続けています。
そして私たちは、リアリティのない家族神話を理想に据え、そこからはみ出さないように、理想までとはいかなくても、せめて「普通の家族」と見られる ように、戦々恐々としているのです。

そこには、「家族=温かくあるべきもの」神話を維持しなければならない、反対に言えば、そうではないと声を荒げられては都合の悪い、なんらかの大きな力が見え隠れしています。

「普通」と呼ばれる家族のイメージに、NOと言えない家族の中の弱者たちのせめてものSOSが、過食であり、登校拒否であり、アルコール依存であり、ギャンブル依存であり、幼児虐待であり、新聞を賑わす数々の事件であるのかもしれません。

本来、家族において、それぞれのメンバーは、相互作用の中で、自分に必要な欲求を満たし満たされ合っていくものですが、その一方で、家族の中では 権力が構造化されやすいため、家族の中の弱者は「常に」欲求が満たされない状況に置かれることになります。

弱者にとっての家族とは、自分の欲求が満たされない状態がパターン化し、 他の家族はそれを黙認している、というものなのです。しかし、そのような状況の中で、待てど暮らせど満たされない自らの欲求に思いをはせてしまうと、「満たしてもらえない存在である自分」を直視しなければなりません。

でもそれは、人間にとって、非常に耐え難い苦痛です。 あまりに耐え難いために、私たちの無意識は、本来持っている欲求を抑え込んでいくのです。

そして、押さえ込んだものを考え(感じ)ないために、やめようと思いながらアルコールを飲み、借金しながらギャンブルをし、仕事以外の全てを犠牲に して働き、パートナー意外と奔放なセックスをし、十分過ぎるほど綺麗な床を今日も磨き、子供を叩くことを繰り返し、食べながら吐き続け、生きる意欲を失い自殺願望を抱えたりするのです。

こんなことをしていても仕方がないと思いながら繰り返すこれらの反復行動を嗜癖(しへき)と呼びますが、こういったものは無意識に基盤があるため、努力によって解消できるものではありません。家族とは、こうしたものを生み出す土壌でもあるのです。

そんな危ない中で、私たちは「家族」をやっているのです。 家族の中の弱者と言えば、まず子供があげられます。しかし強者である両親もまた、かつては弱者であり、それぞれの弱者としてのパターンを身につけたまま、強者としての親業をしているわけです。

大げさなことを言うなら、現代は、子育てに失敗して当たり前の時代なのかもしれません。上手く育つケースは、偶然でしかないのかもしれません。 その証拠は、そこかしこに散らばっています。

拒食し、過食し、リストカット するのはかつての「良い子」ですし、少年犯罪が語られる度に、「理想的な家庭の子なのに・・・」と言われています。

「私の家は大丈夫」なのは、「現在」に限ったことであり、5年後に同じ台詞を言えるかどうかは、幸運の積み重ねに過ぎないとしたら、今、私たち親が 再考しなければならないのは、どんなことなのでしょうか。そんなことを、しばらくの間書き綴ってみようと思います。
小錦さんのダイエットの特集番組の中で、
なかなか痩せられない理由の一つに異国から来て、相撲界に入り、身体の大きいことが強さの大きな理由だったので、彼の心の中に、身体が大きいことが自分を守っているという思いが染み付いている
という見解が示されていました。

それをみたみっちゃんは、「それでは、私は何をごまかすために食べ過ぎてしまうのだろう?」と
自問自答したそうです。そこで見つけたものは、「複雑で今まで感じたことのないような淋しさ」でした。

実はみっちゃんは、このからくりに気づかない間、「淋しい」という言葉の意味は理解できても、でも「淋しい」ってどんな感じなのかイマイチピンとこなかったそうです。

「え~!?淋しいって感じたことがない人なんて、いるのぉ???」と思われますよね?
でも、淋しいを、「楽しい」「怒り」「無力感」「悲しい」「嬉しい」「快感」など様々な感情と変換してみたらどうでしょう?

日本語としては分るけど「その感覚は私には感じられない」方もいらっしゃるのではないでしょうか。さて、どうしてこんなことが起るのでしょうか?が、今日のテーマです。

幼稚園に通うAちゃんのお父さんとお母さんは、常日頃から言い争いばかり していました。怒ったお父さんはとても怖くて、だからAちゃんにとってお父さんは、お母さんを苛める怖い鬼のような存在でした。

Aちゃんはいつでも、お母さんの味方です。なぜだか分らないけれども、 そうしなければ、お母さんがいなくなってしまうような気がしていたのです。それは恐ろしい不安でした。夜、布団の中で、お母さんがいなくなってしまったら・・・と考えると、身体がばらばらになるような気持ちになりました。

息苦しくて、このまま死ん でしまうのではないかとさえ、思いました。 しばらくすると、お父さんに対する恐怖がこみ上げてきました。そうだ!あの男の人が怒鳴るから、お母さんが泣くんだ!お父さんのせいだ!A子ちゃんはそう思いました。

そして、A子ちゃんは、子供時代を「お母さんを守るために」過ごしました。お母さんに、喜んでもらために、嫌われないために、お父さんに苛められないために、頑張って勉強し、良い子である一方で、お母さんと共同戦線をはり、お父さんをのけ者にしました。

20歳を過ぎたA子ちゃんは、職場の人の些細な苛立ち声や、怒りを含んだ声を聞くと、抑え切れない怒りが湧き上がり、それが原因となり、上司と大喧嘩をし、職場を去りました。30歳までに3回職場を変えましたが、いずれも、上司や同僚に腹を立て、もうここにはいられないと感じ、職場を去ったのです。

さてこのA子ちゃんのケースでは、ほんの少し心理学をかじったり、カウンセリングに触れることで、幼い頃の父親への怒りが他人に向かっているのだと気づくことができるでしょう。 しかし、以前のようにコントロール不能なほどの怒りは出なくなっても、代わりに、無力感に襲われたり、過食や拒食などの依存症に走ってしまう 可能性があります。

それは、A子ちゃんの心の中の奥底に、「母親に見捨てられる不安」が潜んでいるからです。父親に対する怒りは、お母さんに見捨てられる不安の大きさに比べたら、かろうじて耐えられる感情だったのです。

だからA子ちゃんの無意識は、不安ではなく、父への怒りを選択しました。 母親がいなくなってしまう(母に見捨てられる)不安を感じたままでは、A子ちゃんは辛すぎて、生きていくことができなかったのです。

そこには、「抵抗」という無意識の力が働いています。A子ちゃんが最も感じたくなかった感情・・母親に見捨てられる不安を感じた時のあの感じ・・身体がばらばらになりそうな不安・・・を感じないために、 誰かに対して怒りを感じ、それが使えなくなってしまったら、今度は無力感や各種の依存症になるということで、見捨てられ不安を感じないようにしてきたのです。

こんな時、カウンセラーが「お母さんについてどのように思われていますか?」と聞いても、おそらくA子さんの答えは「別に何も感じません」や「母と私は上手くいっていますから、そこは問題じゃないのです」と答えるでしょう。

このように、ある一つの感情を感じたままでは生きていくのが辛すぎるから、他の感情でそれを覆い隠したり、感じない振りをすることを 「抵抗」と呼びます。「抵抗」とは、私の中の無意識が、できうる限りの策を用いて、私を守ろうとする働きです。

そして、「抵抗」があったからこそ、私たちは今日まで無事に生き続けることができたのです。無意識にはこうした素晴らしい働きがあります。 しかし、素晴らしい働きであっても、「今」はもう必要のない、そして時に自分自身を窮屈に縛る働きであることが多いのも、事実です。

心理学を使って、こうした「抵抗」を一つずつ剥いでいくことで、自分自身のコアな部分に近づいていくことが出来るのかもしれません。
かなり強引に言い切っちゃいますが、
全ての日本人は、生活の中のどこかで 「頑張り過ぎている人」であるか「頑張り過ぎていた人」で
あると、 私は思っています。

勉強を頑張って、友人関係を保つために頑張って、仕事を頑張って、恋愛を 頑張って、女であることを頑張って、男であることを頑張って、良い人であることを頑張って、良い子であることを頑張って・・・。

頑張れ!と言われ続けたから、頑張れば褒められたから、頑張れば認められたから、頑張れば捨てられないから。だから、頑張り続けて。そしていつしか、頑張り過ぎなければいられなくなった、そんな人が多いような気がします。

「そうやって一生懸命頑張ってきたのですよね」とお伝えしても、「頑張っているうちに入りませんよ」とか「まだまだ、です」といった答えが返ってくることがほとんどなのです。

もちろん「頑張ること」は悪いことではありません。しかし、「頑張り過ぎ」は、悪いことではないけれども、結局上手く行かないことが多い、のではないでしょうか。

「頑張り過ぎる」目的が、純粋に自分のためだけであったなら、問題はないのです。 しかし、最初に書いたように、頑張り過ぎることの無意識な目的は、 <誰かに認めてもらうため>だったり、<自分の居場所を維持するため>だったりすることが、ほとんどです。

「頑張り過ぎ」という努力の結果、一時的には、それは叶えられるけれども、最終的には失敗してしまうのは、頑張り過ぎる目的が「認めてもらう」というトコロにあるので、必要以上に、手に入れたその場所や地位や役目に執着してしまうからです。

そして、その執着を許すほどに、世界は同じ場所に留まってはいません。

せっかく「頑張って」いても、時が経ち、少しづつ環境や環境の中の人間関係やルールが変わっていく中で、頑張って築いたものは、はかなくも崩れ去ります。そして、残るのは「頑張った」のに報われなかったという気持ち。 それは時に、「こんなに私は頑張ったのに、あの人(会社)は。。。」と相手を責めることになるかもしれません。

しかし、責めたところで、相手にしてみれば「あなたが勝手に頑張り過ぎただけ」と思うのが関の山で、未練がましくなればなる程、離れていくものです。また、あなたの頑張り過ぎが、周囲の変化に対応出来たとしても、頑張り過ぎることで生まれるストレスは、いつしかあなたの心や身体を蝕んでいくでしょう。

頑張り具合も、過ぎたるは及ばざるがごとし、なのですね。 程々がちょうどいい。でも、頑張り過ぎちゃう人は、程々が分らない。こんな時は、ちょっと手を休め、周りを見渡してみると良いかもしれません。

周りと比べて、明らかに頑張り度が高かったり、「私ばかりが・・・」と感じたりするようなら、間違いなく、それは頑張り過ぎです。周囲の人に「頑張り過ぎだよ」「もう少しペース落としたら?」と言われたり、自分でも「頑張り過ぎが止まらない」と感じたりしたら、赤信号!

あなたの 「頑張り過ぎ」が、周囲の人たちを圧迫しているのかもしれません。そんな時は、何のために頑張ろうとしているのか、純粋にそのことを頑張りたいと思っているのか、それとも、何か別のものを期待しているのか、と、自問自答してみると良いかもしれませんね。

本当はね。 自分の喜びや、自分の楽しみのために、純粋に頑張ることが出来ればいいのですが。。。難しいですよね。。。ちょっと前までの私自身に、自戒を込めて。
ある状況や出来事に遭遇した時、心の中に沸き起こる気持ちは、「当然」そのように感じるから感じるのではなく、「自動思考」と呼ばれるその人独自の考えやイメージによって起こります。

例えば、犬を見かけた途端「可愛い」と感じる人もいれば、「噛みつかれるんじゃないか」と感じる人もいます。また、仕事のミスから上司に注意された時、「やっぱり自分は駄目な奴だ」と思う人もいれば、「問題が大きくなる前でよかった」と思う人もいるでしょう。

このように自動思考とは、人それぞれのモノの捉え方(認知が)癖となり固定してしまったもので、以後、似たような状況で自動的にその考えが浮かぶため、いつも同じような結末を迎えてしまう、ことになるのです。

例えば上記ににもあるとおり、「注意される=自分を否定される」という自動思考(思考の癖)を持っていると、ほんの少し批判されただけで、自分の存在全てを否定されたように感じて過剰に落ち込んでしまったり、または相手を攻撃してしまったりする場合などもあります。

また、「他人の機嫌の良し悪し=自分の責任」という自動思考の持ち主は、パートナーの機嫌の悪さに過剰に反応してしまうかもしれません。

こうしたことは、友人にでも相談すれば、必ずと言ってよいほど、
「注意 されただけじゃない。なにもあなたが必要ないなんて言っていないと思うよ」
「彼は仕事で疲れているだけなんじゃないの?あなたのせいではないよ」

などとアドバイスされるのですが、何しろ自動思考は認知の歪みの固まりが作り出したものですから、「そんなこと言ったって、そう思うんだから仕方がないじゃん。そうとしか思えないんだから」と、なってしまう訳なのです。

代表的な認知の歪みを幾つか書き出します。
・「心のフィルター」 わずかに良くない出来事にこだわって、そればかりを考えてしまい、 その他の良い出来事は無視してしまう傾向。
・「プラスの否認」 自分にとっての良い出来事を無視、あるいは悪い出来事にすり替えてしまう。
・「全か無か思考」 ものごとを極端に、白か黒かに分けて考えようとする傾向のこと。
少しのミスでも完全な失敗と考えてしまう。
・「拡大解釈と過小評価 」 自分の失敗を過大に考え、長所を過小評価する。
逆に他人の成功を過大評価し、他人の欠点は見逃す。
・「感情論」 犬をみるととても怖い。だから犬は危険な動物にちがいない。
などのように、物事を自分の感情で決めてしまう。
・「レッテル貼り」 一つのことに失敗した人を「あの人は全てにおいて本当にだめな人間だ」と
決めつけてしまう。

失敗体験だけを集め、成功体験を無視してしまったら、それは自信がなくなって当然ですよね?自分の失敗は過大に考え、他人の成功を過大評価してばかり いたら、私はやっぱり駄目なんだ・・とつぶやいてしまいそうです。

何だか苦しいぞ。と感じたら、自分がどんな呟きを心の中で繰り返しているのか探ってみると良いかもしれませんね。私はやっぱり駄目なんだ、また失敗するだろう、**さんは素晴らしいなぁ。。それに比べて・・・えとせとら・・・こんな呟きが聞こえたら、要注意!

そしてそれが「いつものパターン」だとしたら、間違いなく、何らかの自動思考が働き、その下には、上記のような認知の歪みがあるのです。
人にはそれぞれ、「またやってしまった」「同じことくりかえしてるな」と感じる、その人独自のパターンがあります。「やる気が出ない時」の私は、どんなパターンにハマっているんでしょう?皆さんも自分のパターンを考えてみてくださいね!


「やれないことばかりが気になりはじめる」
 ↓
「頭の回転が鈍くなる」「体調が悪くなる」
 ↓
「やる気がなくなる」
 ↓
「ダラダラと無駄な時間が多くなる」
 ↓
「落ち込む」「いらいらする」
 ↓
「やれないことがさらに気になりだす」

これはみっちゃんのやる気の出なくなるパターンです。
そして、このパターンは、疲れているなどのストレス状態の時に、「あれもこれもやらなきゃいけないことがある」と自分に厳しくなったり否定的になることから始まるのだそうです。

私の場合はどんなきっかけで、どんなパターンにはまっていくのでしょう?

「やる気が出ないとき」をイメージしていた私の頭に浮かんだ言葉は、 「ぜ~んぶ放り出してしまいたい!」(笑)。ああ、そういえば、よく言ってるかも?このセリフ! 「つい」仕事を溜め込んでしまうんだよねぇ。

しかも自分で溜め込んだくせに、その量や期限に追われているような気がすると、もう駄目。やる気はきれいさっぱり失せてしまうのです。

やる気の失せた私は、仕事以外の本やビデオに逃避するんだけど、一方では、溜まっていく仕事が気になっている訳だから、楽しめないんですよね。楽しいはずのことが。イライラもするし、ね。
で、結局、これ以上伸ばしたら信用を失うだろう!というぎりぎりのところでやり始めるの。

この一連の「やる気のないパターン」は、これだけ心理学に関わって、自己分析に力を入れて・・・それでもまだ残る「人から良く見られたい。だからNOが言えない」というトコロから始まるんだ。 嫌になっちゃうわよね。

NOが言えない。人から良く見られたい。

頼まれたら全て引き受ける

仕事の量や期限に対するストレスが発生

追われている気がしてくる

やるのが嫌になる(やる気がなくなる)

ビデオや本に逃げる

でも信用を失いたくないからぎりぎりのところでやる

焦ってやるので疲れ果てて、やっぱりやる気がなくなる

の繰り返しなわけ^^; つまり、私自身が「やる気の出ない原因」を作っているんですね。

この悪循環を抜け出すためには、
○仕事を安易に引き受けない。プライベートとのバランスを考えて引き受ける
この一言に尽きるようです。

ただ、難しいのは「引き受けようと思った時」は、まだ大丈夫!と考えている点なんです。
自分の限界を理解できていないんですよね。こと仕事に関しては。

もう一つ、最大の原因であるところの「人に評価されたい私」が、変わらず 存在しているということ。これに関しては、またいつか。。。皆さんのパターンはどんなものですか?自分のパターンが見えてくると、 「それではどうしたら良いか」が見えてきますよ。きっとね(*^^*)
よくよく考えると自分の好みじゃないんだけど気になるもの。見かける度に気になって、でも迷った挙句買わないんだけど、次に見つけるとまた気になってしまうもの。 こんな風に、なぜなのか理由は分らないんだけど、惹かれてしまうものってみんな、あるよね?

私の場合の、妙に気になる「そのモノ」は、 赤いウインナー、それから瓶入りのコカ・コーラ!

今は、合成着色料とか何とか気にするのが当然で、ソーセージやハムのコーナーに申し訳程度に置かれているだけなんだけど、私が子供の頃は、お弁当の定番のタコさんウインターといえば、赤ウインナーだった。

でも、私の母は「無添加」にこだわっていて、だから私のタコさんウインナーは、いつもピンク色だったんだ。羨ましかったなぁ、赤いタコさんウインナー!だって、ほら、あの赤さが「タコさん」らしさをかもし出すんじゃない! ピンクのタコさんなんてタコさんじゃないっ!って思ってたんだよね。あの頃は。

だからね。今でもスーパーマーケットで「赤いウインナー」を見かけると、 つい足を止めてしまう。でも買うわけじゃないの。もっと美味しいものを今は知っているから。 それなのに、必ず目で追ってしまう私がいる。

何だかとっても気になるのね。 初恋の人が、目の前にいるような気分に・・・つまりせつなくね、なるの。

瓶入りのコカ・コーラも同じ。
やっぱり「身体に悪い」「ビンなんて不衛生だ」 と、飲ませてはもらえなかった。でも、子供心に、あの涼しげな褐色の液体を一度で良いから飲み干してみたかったんだ。

私の夫は「バイキング」に、恋している。 旅行の行き先はどこでもOK!ホテルも君が決めてよ!でも、「朝食は絶対にバイキング!」と、これだけは譲らない。多くの兄弟と一緒に暮らしてきたから「好きなものを好きなだけ」に惹かれるんだと思う。

みんなも、何か一つあるんじゃないかな。 誰にも言ったことはないけれど、妙に惹かれているもの。今は欲しくはないんだけど、何故か気になるもの。そして、こういった気持ちの裏には、子供の頃の私たちが感じていた 「欲しかった。でも手に入らなかった」という切なさや悲しみが隠されていることが多いんだ。

だからね。 「ほんの些細な、でも妙に惹かれてしまうモノ」に心当たりのあるあなたには、それを心の中に住む、幼い頃の自分にプレゼントしてあげて欲しいんだ。 あなたはもう、無力な子供ではなく、それを与える力が十分にあるはずだから。

赤いウインナーを買ってきて、包丁を入れて、フライパンで焼いて、ゴマを 2粒くっつけてね、そして「これが食べたかったんだよね!」って自分に言ってあげるの。「好きなだけ食べて良いんだよ」と許可してあげる。

こんな簡単なインナーチャイルドの癒し方、でもきっと効果はあるはず。 だって、手に入らなかった悲しみを数十年も引きずって、未だにそれに惹きつけられているんだもの。