また脱線になりますが、気になったので。。。

 

武漢でコロナのことをSNSに投稿し、後にコロナで亡くなってしまった眼科医がいたかと思いますが、彼は確か30代だったと思います。少なくとも日本では、重篤な基礎疾患のある方を除き、30代でなくなった方はいなかったはずだと思います(将来の変異型は分かりませんが)。確か、その病院の医療従事者では、ほかに5人ぐらい亡くなったはずで、やはりそんなに高齢ではなかったはずです。いくら初期の混乱状態だったとは言え、死亡率の高さに疑問が残ります。あまりメディア等をチェックする時間もないので、ただ単に私が無知なのかもしれませんね。

既に解決済みなのかもしれませんが、素朴な疑問を感じます。

 

やっと第4波が収束しつつありますが、各波のピークは4カ月おきに訪れていますね。次は9月上旬がピークになるのでしょうか?それともワクチンの効果で大幅に遅れてくれるでしょうか?第5波が来ないとよいですね。

 

このコロナ禍を通して、いかに今までの我々の生活が平和で豊かであったか、幸せな国と時代に生を受けたことを再認識し、感謝する良い機会だったかと思っています。世界中を見渡すと、第二次大戦後、戦争をしていない国は全世界で8か国しかないことからもそのことは確認されます。また歴史を紐解けば、今のような安定した豊かで平和で安全な時代もそうなかったかと思います。まだしばらくは現状のような日常が続くとは思いますが、人生のうち、そういう時期を必ず経験するのが人として必ず与えられる試練なのかもしれません。

 

明けない夜はありません。

 

そう信じて私は癌と戦ってきました。

ジェットコースターのように急激に状況が悪化する中、某有名癌治療専門の病院を受診した。

 

それは焦りとともにあった。

 

主治医となってくれた先生に手術をお願いした。かなり厳しい状況であることを分かってくれた上で、どうするか再度聞かれた。「日本一と思っているので、よろしくお願い致します。」と答えた。

 

私の状況は、正直普通のガイドラインに則って理路整然と進めるには、あまりにも不利であった。このままガイドラインに従って行っていけば、副作用に苦しみながらも化学療法を3rd lineまで行い、効く薬がなくなった後、緩和療法に移行し、最終的には医療の目的は、痛みを制御し、体力を温存しながら、できる限り安楽な死を迎える準備を整えることになる。最終的なことは明文化されていないが、、死に向かって一直線のStoryがあるのが明らかだった。病状からすれば、致し方ないことであるが、「しょうがないね」で済ませるには、正直私は若すぎた。「この野郎、今くたばってなるものか」と歯ぎしりしながら、やらなければならない、使命のようなものに取りつかれている気分であり、何とかこの状況を打開したい、という熱を持っていた。この熱が高かったのが、今でもまだ生き延びていることにつながっているのでは、と正直なところ思っている。おそらくこの熱とそれまで得た医学的客観的知識がなければ、そのまま数ヶ月で死んでいたと思う。

 

人生は、人の命においても、やはりやり遂げようとするその強い意志と熱、つまり気概で動かすことが可能であると今でも思っている。

 

 

大学病院にはそれぞれ特性がある。私のかかった母校の消化器外科は、上部消化管(胃と食道)が得意である。これはそこの教授が食道外科を専門にしていたからで、必然的にその下の医師たちも教授と同じ方向性を学びたがることが多い。それ以外の下部消化管(大腸等)や肝胆膵は、通常Teaching stuffと呼ばれる准教授や講師がグループリーダーとして担当することが多い。私が当時勤務していた大学ではなく、母校の消化器外科を受診したのはそういった理由もあった。

 

抗がん剤が効いている時期に、これは絶好のチャンスではないかと思い、主治医に手術ができないか相談した。しかし答えは「否」であった。これは幾度か相談したが、いつも答えは同じであった。教授をはじめ、私の担当医も食道がんの治療プロトコール作成をした、当の本人たちなので、当たり前のことだが、それを外れるような治療はなかなか推奨してくれない。また、状況から言っても至極当然の答えであったと思う。全身に多数転移している以上、画像上明らかでない微細な腫瘍が他にもあるはずで、局所を手術で取っても、この微細な転移巣から再発してしまうことが十分考えられるし、もともとあった場所も本当に消失しているのかわからない状態だったからである。

手術は体力を奪う。特に私のように体の中央部分を切り開き、中身をごっそり取らなければならない状態では、その後の体力の低下は容易に想像でき、不安はつのるばかりであった。かといって、抗がん剤治療では、First lineが効いたとは言っても、だんだん効果が悪くなってきており、また抗がん剤も、種類の点からも副作用の点からもその使用は有限である。ずっとやり続ける訳にはいかない。根治を目指すのであれば、やはりどこかで無理をしてでも切らなければならないのでは、という思い込みのようなものが私の中にあった。これは理屈ではなく、生存本能からくる焦りのようなものだと思う。「切除不能」ということは、根治不能であり、そもそも根治を目指すのは無理な相談だ、と言われているような気分になってしまう。患者心理とは理論とは無縁のところにあるのだ。

 

業を煮やした私は、主治医に悪いな、と思いながらも、別の施設で手術を検討してもらえるところはないか探した。都内にある癌専門病院の医師から受け入れの回答をいただいたので、主治医に紹介状を書いてもらい、そちらに手術目的で転院することにした。私自身も現役の医師なので、こういうことは逆の立場でもよくあることだし、紹介状を書く方も本当はサバサバしたものであることも知っているが、やはり患者心理として、何か裏切り行為を働いているような、背徳感を伴った受診となった。

 

 

私の今回の経験では、癌の治療はジェットコースターに乗っているような感じだと思った。前回の記事に書いたように経過がよくなり有頂天になったが、暫くすると急降下してしまったのである。一般に化学療法では、腫瘍が完全に消失すること(CR: complete response)はあまりなく、良くて私のような部分奏功(PR: partial response)のことが多い。PRの場合は、癌細胞が残っているのだから、私のような悪性度の高い癌細胞はあっという間に増殖してしまう。

 

少し専門的な話になるが、癌組織は癌細胞の塊といっても、その中を占めている細胞は均一な性質をもつものではなく、特性の異なる細胞が集合しているのが普通である。抗がん剤に対する反応についても、良く反応し死滅してくれる種類のものから、全く反応しないものまである。これが問題で、抗がん剤を使用して多くの癌細胞が死滅してくれたとしても、そのあとは抗がん剤の効かないものが残ってしまうことになる。私の場合は、それが4クール目の治療後に訪れた。いわゆる「抗がん剤が効かない」状態になったわけである。わかっていたが、やはり空しい気持ちと今後に対する壮絶な不安が襲ってきた。

 

 

ジェットコースターが急降下を始めた。

私の癌は先のブログにも書いたが、へんてこな癌であった。普通の食道がんの人がうらやましい、という、不謹慎(?)なことを書いたが、標準治療というのは、普通の癌の人には最良の治療だと思う。言葉通りに受け取ると、標準的な治療ではなく、最高の、特別な治療を受けたい、と思うのが人情なんだろうが、もしもそういう効果の高い治療があれば、それが標準治療になるわけである。私が癌になった頃、同じように食道がんになった有名人に、桑田佳祐さん、小沢征爾さんなどがいる。彼らは皆その時期の標準治療を受けられた(のではないかと思う)。彼らの生還に私は大変勇気づけられた。実をいうと、最悪の条件下でも化学療法を行った別の理由に、「悪性度の高い癌であればあるほど、転移や浸潤のスピードも速く手術不能となることが多いが、逆に化学療法や放射線治療は効きやすい」という特性があったからである。

 

私の癌は普通ではなかったが、やはり上記の理由から標準治療を選択した。3か月かかって3クールの治療を終了した。6月20日の採血の結果は、腫瘍マーカーAFPは、治療前1700だったのが、17まで下がった。百分の一である。CTでも原発巣は縮小し、何よりも、肝臓への転移巣がすべて消失していた。通常腫瘍マーカーはある程度参考値にしかならないのだが、私の癌はAFP産生腫瘍であるために、AFPの値が腫瘍の動向を極めて鋭敏に反映していた。この結果を聞いたときは、本当にうれしく、天にも昇る気持ちというのはこのことか、というぐらい、興奮した。主治医もうれしそうにしてくれていた。

 

 

 

チャンスだと思った。

 

 

癌がわかってから約一週間後の2013年3月7日、最初の抗癌剤治療が始まった。私の癌は、胃食道接合部癌で、いわゆるバレット食道と呼ばれる部位で起こった癌であったため、胃癌の化学療法の第一選択となっているシスプラチン(CDDP)+TS-1を使用した。バレット食道とは、逆流性食道炎で慢性的に荒れてしまった下部食道粘膜を修復するために、胃粘膜が覆うように増殖した状態をいう。癌化のリスクが高いとされており、定期的に内視鏡の検査が勧められるのだが、同級生でもあった主治医は、内視鏡検査を正直怠っていた。投薬と世間話で毎回の診療が終わっていた感があった。自分の同級生が癌になんかならないだろう、と思っていたんではないかと思う。いわゆる正常化バイアスの一種だったのかもしれない。気持ちはわかるが、正直彼を少し恨めしく思った。

ちなみに全然関係ないが、後輩から聞いたのだが、このバレット食道はちょっと前の一時期国家試験の山だったらしい。

 

胃粘膜から発生した癌だったので、食道にある癌だが、胃癌のプロトコールに準じた治療となり、上述のCDDP+S1となった。そもそも胃癌は腺癌で、食道癌は扁平上皮癌だからプロトコールは似ているが微妙に違う。それから、私の癌はアルファフェトプロテイン(AFP)産生腫瘍という特徴を持っていた。もともとバレット食道は日本には少なく(欧米に多い)、またAFP産生腫瘍となると極めてまれで、報告では国内で17番目となるらしい。珍しいというのはどういうことかと言うと、症例の経験が必然的に少なくなるので、どの治療法が一番効くかわかりにくく、正直手探りになってしまう。いわゆるエビデンスがない、という状態である。加えて、極めて低分化であることから、これ以上の悪条件はないんじゃないの、っていう状態だった。普通の食道癌(もっと言うとより予後の良い胃癌)の患者さんがうらやましかった。

 

正直、自分の病態を客観的に考えると、本当に治療する意味があるのだろうか、化学療法などせずに、上手に死ぬ方法を考えた方がいいんじゃないか、と治療するかどうか迷った。主治医にも、「もしも先生が私の立場だったら、治療を受けますか?」と聞いてみた。彼は、「一度ぐらいは受けてみると思います」と言ってくれた。もちろん藁にもすがる思い、というのが本当だったし、もしかしたらという心に秘めているアイデアもあったのだが、「じゃあ、一回ぐらいはやってみるか」、という結構軽いノリで、治療が始まったという部分もあった。

 

分かりやすく言うと、あまりにも病態が悪すぎたので、二人とも「ダメもと」でやった治療だったわけである。

「Stage 4bの胃食道接合部癌、しかも肝臓および縦郭リンパ節への多発転移」という現実を受け入れるのに4日かかった。その間逆行性健忘症になっていたわけである。自分に与えられた時間がもうごくわずかであることを受け入れると、世の中の当たり前と思っていたことが、急に、限りなく愛おしく、美しく、何事にも代えがたいものであると思えるようになった。花などチューリップと桜ぐらいしか知らなかった無粋者だったが、その時期に芽吹き始めた色々な草花の生命力が愛おしかった。空に煌めく星や月がとても美しく思えた。深呼吸をして、胸いっぱいに空気を入れられることが、とてもありがたいことなんだ、と思った。なんでこれらのことを大切にしてこなかったんだろうと本当に後悔した。

 

これらのものを自分はあと数ヶ月で失ってしまうんだと思うと、言葉に言えないほど切なかった。

 

本来はこのブログの趣旨とは違うのですが、今日はコロナについて書かせてください。

我々の診療科は呼吸器感染症は専門外ですが、コロナによって大きく変わってしまいました。特にうちの病院はコロナ患者さんを受け入れているため、影響は極めて大きいものです。そしてそれは日ごとに強くなってきてしまっています。病棟運用のための調整や会議、発熱外来の当番の調整やその割り当て、最近はよくなりましたがPPE等の調達の報告など、言い訳になってしまいますが、正直ブログを書く時間も何よりも気力が削がれる思いがあります。

 

その中で残念に思うのは、国の動きがともかく遅いことです。春節の中国人観光客を規制しなかったことから始まり、すべてが後手後手になってしまっています。日本は欧米と比べると患者数が少ないと言いますが、実際は同じ東アジア人種の中でもっともコロナを蔓延させてしまった国です。

我々のところの話をさせていただくと、国が補助金を出してくれるというので、外来にへパフィルタ付きのクリーンパーティッションという換気のための資材を夏に申請しました。冬になれば第3派が来るのが明らかだったからです。しかしながら、何故か国と自治体での承認まで時間がかかってしまっており、何度かせっついてはいるものの、大晦日の現在でもそれが承認されたとの連絡は一切ありません。これではこの冬は越せません。つい最近ウチの病院でも小さいながらクラスターが発生しました。私自身末期癌を患った立場で、合計3年は化学療法をしており、骨髄抑制はそこそこ残っていると思います。正直大変怖い思いをしながら、毎日の診療をしています。自身の感染予防とともに、少なくとも自分が病院にウイルスを持ち込まないよう、この3月から旅行はもちろん、外食も一度も行ってません。

 

色んな所で色んな人が指摘されていることですが、台湾やニュージーランドなどは、極めて効果的な防衛策をとったために、同じ島国とは思えない成功をおさめています。経済的にもその方がよい結果を伴っているとのことです。病気は早期発見・早期治療が鉄則ですが、この感染症対策についても基本原則は同じだと思います。日本の政府の無策ぶりと、その結果のコロナの蔓延ぶりには、正直私はストレス以外の何も感じません。Stage 1aの早期がんを発見したのに、何の治療もせず、そのまま癌が転移してしまうのをただ眺めているのと同じことをしているように感じます。第二次大戦後、戦争をしていないのは、日本を含め全世界で8か国のみとのことです。それはよいことですが、平和ボケした政治体系はこういう有事には機能しないのではないかと、言い過ぎ化もしれませんが、思ってしまいます。

 

一方、モデルナとファイザーのワクチンのニュースは久々の明るいニュースだと思います。95%近い有効性はワクチンとしては極めて優秀だと思います。色んなところで色んな人が意見を述べているので、ワクチンにあまり詳しくない私が書くのは止めておきますが、このワクチンが社会にも劇的な効果をもたらし、2021年はともかく良い年になって欲しいと心から願っています。明けない夜は絶対にありません。

皆さん良いお年を。

 

自分は数字にこだわるというか、験を担ぐ方だと思う。クリスチャンなので、13という数字はきらいで、2013年が始まった時とても嫌な感じがした。さらに今日は有名な2・26事件が起こった日である。あまりいい気分ではない。

 

医師には意外とこういう験を担ぐ人が多い。その証拠にオペ室のロッカーは必ず縁起の良いとされる7や8のついたものから埋まっていくし、13や4などの数字のものは最後まで残っている。それだけ皆必死だし、何とかオペが上手く行って欲しいと思っているからだ。また、どんなに手を尽くしても、不運な結果になってしまうことも経験しているからだろう。ちなみに私は皆が手術室に入るより少し早めに行くことにしているので(麻酔科医ではありませんよ)、8番をゲットできることが多い。

 

初診医にお会いして、アナムネをとってもらい(症状はどうか、家族ではどんな病気があるか、などのことを聞くやつです)、採血、エコー、PET-CTを早速手配してくれた。ただならぬ病状であったせいか、すべて緊急扱いにしてもらって、その日の内に結果が出た。呼ばれるまでの間、ずっと心の中で念じていた。肝膿瘍であってくれ、絶対そうであってくれ。。。

 

 

 

しかし、無情にも結果は最悪だった。

 

 

 

「食道癌、しかも下部食道、おそらく胃食道接合部癌、で肝臓に複数個(実際には確か8個ぐらいだったと思う)の転移巣があり、リンパ節にもやはり広範囲に転移があります。」とのことだった。

 

 

このことが何を意味するか、医者ならば誰でもわかる、「ほぼお前は100%死ぬよ、しかもそう遠くない将来に」ということである。いわゆる「死刑宣告」である。

 

 

ショックだったのは間違いないが、頭の中が真っ白くなる、とかいうのではなく、むしろ何か異様な高揚感があった。ほとんど自覚症状はなかったが、数回おにぎりが何となくつかえたような気がしたことがあったこと、何よりも逆流性食道炎があったので、友人の所で肝エコーを見た時に、ある程度は予測していたからかもしれない。

それよりむしろ、隣にいた家内(家内も医師です)の頬を涙がすっと流れたのを見て、どうしようもなくいたたまれない気持ちになり、

「人はいつか必ず死ぬんだ。俺は大丈夫だ。」

とたしなめたのを憶えている。

 

 

ただこれは、覚悟が出来ていたとかそんな立派な状態だったわけではなく、ただ単にまだこのことが自分の身に本当に起こっていることではなく、傍観者としてみている気分だったんだと思う。ちょうどものすごくリアルなテレビドラマを見ている視聴者のような気分だったのだと思う。

 

 

ここから時間が経過するにつれ、自分自身に現実で起こっていることとして、理解できるようになり、まる4日間家内と一緒に途方に暮れて、泣き暮らしたようである。実はその間の記憶はゴッソリと抜け落ちているので、あまり確かではないが。。。

 

 

この現実逃避から始まって、長く苦しい戦いが始まることになった。

「メタ(転移)かもしれない。」

 

ちょっと熱がでたので、近くの開業医を受診したところ、肝臓にエコーをあてられながら言われた言葉です。

 

「は?」

 

思わず口をついて出た言葉です。

そう言ってしまったのを良く憶えています。

 

この内科医は高校の同級生だったので、最初何をふざけているんだ。。。と思いました。いや、でも顔はそういう顔ではない。。。

 

前の晩に熱発し、上気道症状が無かったのが気になりましたが、季節的にまあ風邪か何かだろうと思って、職場に出勤が遅くなる旨を連絡してから受診したところでした。採血したところ、CRP(炎症の指針となるもの)が異常に高く、何を思ったかおもむろにエコーで腹の中を探られてた時に、さっきの言葉を発せられたわけです。

 

もともと逆流性食道炎(いわゆる胸焼けを起こしやすい病態)持ちで、彼からその薬を貰っていたり、胃の内視鏡をやってもらって居たりしていたわけでしたが、ともかく大学へ、ということで、至急で紹介状を書いてもらいました。ややっこしいのですが、自分の勤務している大学病院ではなく、私の母校の方を紹介してもらいました。母校の方が実は家から近かったし、ちょっとやばいかもしれない、と思ったので、職場には知られたくないと思ったからです。彼の優しさなのか、熱発していたからか、「肝膿瘍」という診断で紹介してもらいました。エコー像では、均一な低輝度病巣だったので、かなりメタっぽかったのですが。。。

 

この先の展開がある程度想像ついてしまったので、心中全く穏やかではなく、その足で母校に向かいました。ともかく、この悪い想像を断ち切ることに専念をし、なるべく「無」の気持ちになろうとしました。

 

ただ、やはり無理で、肝にメタの起こしやすいガンで一番経過の良いのは何だろう。。。とか、仕事のこととか、担当患者さんのこととか、どうなっちゃうんだろう、と頭と心の中がぐちゃぐちゃのまま、車で約20分の母校に到着しました。