陽子線照射をあと3日と残すクリスマスイブに、脱水の症状が強くなってしまった。照射した下部食道のあたりの疼痛が強く、水どころか唾液すらも飲み込むことができなくなってしまったからである。内視鏡で確認したらわかったことだが、腫瘍があったところが、ごっそりと剥げ落ちてくれていて、その部分が裸になってしまっていたからである。ありがたいことなのだが、肉体的には結構辛い症状だった。ただ、その部位は時間が経てば上皮化するのは分かっていたし、治療も点滴で補液(水分を中心に栄養を入れること)すればよい、というのは分かっていたので、精神的には楽であった。

  年末は家族と過ごしたかったので数日入院したが、無理を言って、自宅で点滴をすることにして、退院した。点滴と薬剤を処方してもらって、自分・もしくは家内(家内も医師です)で自宅で点滴をキープした。医師だとこういう融通はききやすいので、そこは小さいがメリットだな、と思った。あとは、当たり前といえば当たり前だが、面倒なインフォームド・コンセントはかなりの部分省略できることもメリットだと思う。これは説明する方のメリットと言ってもいいかもしれない。今回の副作用(合併症)も一般の方にとっては、症状からするとかなり心配になってしまう内容かもしれないが、上述のように精神的には楽であった。こういう場合、医師は通常のんきな顔をして、「ちょっと我慢すれば治りますよ」と言うと思う。この場合は、本当にそうなので、気楽に乗り切っていけると良いと思う。プロフィールのところで、医師が癌になった場合のデメリットを書いたけれども、ささやかながらこういうメリットもあったんだな、とブログを書いて改めて自覚した。

 

肉体的な辛さは希望があればいくらでも耐えられると思いますが、精神的な辛さ、特に不安・絶望は耐え難いと思います。主治医のいうことを不必要に疑うことなく、気持ちを正しく保ち、不安が軽くなれば、と願います。

発病から8か月が経過した、2013年11月初旬陽子線照射が始まった。

まず肝臓に照射のための白金でできたマーカーを入れた。その後、12月いっぱいまでの約2か月弱、月曜から金曜の毎日、照射に通った。照射治療中は全く何も感じず、また、最初しばらくの間は何の副作用も起こってこなかったが、あとから照射部の皮膚が爛れてきた。その後半年ぐらい経過してから、照射部の肋骨が軟化し、ほぼ溶けた状態になってしまった。これは結構酷くて、しばらく照射部位、またそれ以外の胸郭全体が締め付けられるような痛みを感じるようになってしまった。ただ、これらの変化は照射後少なくとも数年すればよくなることは分かっていたので、あまり気にはならなかった。びっくりしたのは、照射後1年半ぐらいたった時に、血胸になってしまったことである。GWの最終日だったのだが、夜だんだんと呼吸が苦しくなり、半坐位でないといられない状態になってしまった。丁度そのころ職場を変えたため、引越し作業をしてしまったためだと思う。翌日慌てて主治医を受診したところ、血胸が出ており、そのまま処置で出血を抜いてもらった。1Lも出ていたようである。何気なく処置も終わって、症状としては完全に良くなったが、よくよく考えると結構危ない状態だった。

今でも時々照射部の肋骨のあたりが痛くなるので、無理はしないようにしている。

 

副作用のことばかり書いてしまったが、何よりもこの陽子線照射はよく効いてくれた。肝臓は半分つぶれてしまった(右葉がなくなった)が、お蔭で転移巣は完全に消失した。食道の原発巣も、内視鏡で見るとべりっと剥がれ落ちたような感じで、きれいになくなっていた。

この間、化学療法としては、パクリタキセルを使用していた。いわゆる化学放射線療法をやっていたことになる。

 

やはり効果がよく出たのは、極めて低分化で悪性度が高いAFP産生腫瘍だったからのようだった。一般論だが、癌は悪性度が高いほど、手術は難しくなるが、化学放射線療法はよく効くようになる。私のようなちょっと変なタイプの癌は、必ずしもガイドライン通りにやることは正解ではない、と確信を持った。

 

風向きが変わってきた。

体についても、心についても、いい方向に向かうようになってきた。

第一選択の抗癌剤からカンプト(トポテシン・イリノテカン)に変えたと記載したが、むしろ腫瘍マーカーであるAFPは2700まで上昇してしまった。それだけでなく、腸閉塞のような症状と脱毛が起こってしまった。

 

特に生きていく上では髪の毛はいらないわけだけど、自分にとって脱毛は相当ショックだった。加えて、シスプラチンを使っていくうちに、爪に段ができて、かつ薄くなってしまい、よく割れるようになってしまった。また、耳鳴りがひどくなり(内耳障害)、音、特に高音が聞こえにくくなってしまった。自分にとって、唯一自慢のできる部分が頭髪と手と耳(昔音楽をやってました)だったので、自分の取柄をすべて失ってしまったような気分になった。

私はよく覚えていないのだが、妻が言うには、この頃私はだいぶ落ち込んでいて、「自分の大切なもの全てを、癌と抗癌剤が奪ってしまった」と言っていたらしい。失った(と思っていた)ものの最も大きなものは、自分の未来と将来やりたかったこと(放射線科の友人のような仕事の充実)だったが。。。

 

それ以外にも副作用は、投与中の悪心・嘔吐、5FUによる口内炎(とても疼痛が強く、食事ができませんでした)、骨髄抑制による易感染性、貧血、出血傾向など、数え上げればきりがないほど、たくさんのものを経験した。が、最も大きな副作用は、病と闘う心が折れてしまうことではないか、と思っている。例え身体的な副作用が強くても、効果があれば闘えるが、酷い副作用を我慢しても効果がなければ、くじけちゃうのは当たり前である。

 

今でも耳鳴りはするし、爪はだいぶ回復したが薄くなっており、よく割れてしまう。陽子線照射した肝臓のあたりの肋骨は溶けたままなので、体をひねったりすると痛くなったり、酷いと血胸(肺と胸膜の間に血がたまること)が起こってしまったりするが、それでも今は特に問題なく普通に仕事をし、生きることができている。本当にありがたいことである。

あの頃、心が折れてくじけてしまっていれば、今はない筈である。

 

     *     *     *     *        *

 

現在闘病中の方、難しいとは思いますが、辛いとき、頑張らなくてよいですから、どうか諦めないで下さい。皆様の病状が好転することを、また状況がよい方は完治して、再発したりしないことを、心から願い、祈ります。

 

発症から約8か月後、友人の陽子線センターを受診した。

もちろんそれなりに年齢を重ねているのは感じたが、全体的な印象は変わらず、久しぶりの再会を単純に嬉しく思った。画像データや採血結果の経過等は主治医から渡っていたので、話は早く、平たく言うと食道とその周囲のリンパ節(縦郭内)に計30回、肝臓に計22回陽子線を照射することになった。

 

受診後、彼と海鮮系の居酒屋で夕食を共にした。彼は昔からザルで、私も酒好きだったので(だから食道がんになってしまったんだと思うが)、よく明け方まで飲んだくれて、将来の夢を熱く語ったりした記憶がある。さすがにこの時はビール一本だけで我慢した。彼は遠慮なく日本酒をかなり飲んでいた。

 

後から聞いた話だが、「私と食事や酒を飲むのは最後になるから」というつもりで誘ってくれたらしい。彼も辛かったろうが、私も物凄く複雑な気分であった。

彼は自分のセンターをしっかりと運営し、着実に多くの患者さんを救っていただけでなく、医学の発展にも大きく寄与している、いわば充実の頂点にいたが、翻って自分は、志半ばで倒れて、今にも死にそうな濡れそぼった痩せ犬のような惨めな状態であった。もちろん彼は出来るだけのことをするつもりでいてくれたろうし、事実やってくれたが、彼と自分の境遇の対比がものすごく辛かった。自分にだけ訪れたこの不運を呪った。

 

本当のことを言うと、この気分を味わいたくなかったがために、彼のセンターを訪れるまでに8か月もかかってしまったのだろう。ただ、話が進むうちに、心の中のとってもちっぽけなプライドが溶けてなくなっていくのを感じた。彼と再会でき、人生の宝は、地位やつまらん小金集めではなく、家族と本当に心を許せる友人だと心の底から再認識した。

 

自分の愚かさとちっぽけなプライドが今から思うと本当に恥ずかしい。

そして、こういう旧交を温められたこと、友人に恵まれたことに感謝している。

 

陽子線治療について主治医と相談した。彼はもちろん私の友人のことも知っていたが、化学放射線療法についてはどちらかというと否定的だったので、もう少し化学療法で押してから陽子線をお願いすることにしましょう、ということになった。ただ、治療開始から半年で、1st lineの抗癌剤(シスプラチン+TS-1)がほぼ効果がなくなってきてしまった。そのため、2nd lineの抗ガン剤としてカンプト(イリノテカン)を用いた。正確には胃癌に対する抗癌剤であるが、私の癌は胃壁の細胞からくる癌(腺癌)であり、通常の食道がん(扁平上皮癌)とは違うため、ある意味胃癌の治療に準じた方がよいこともあってそちらを選択した。

 

2回目のカンプトの投与を受けたところ、帰宅後、急に上腹部に激痛が走り始めた。のたうち回ると言っても過言ではないくらいの激痛であった。おそらく副作用のうちのイレウス(腸閉塞)を起こし始めていたのかもしれない。数時間でおさまったが、今後繰り返し投与するのはリスクが高いと判断され、結局タキサン系であるパクリタキセルを使用することになった。ただ、残念ながら治療効果はシスプラチンほどの劇的なものはなく、手詰まり感が強くなってしまった。

このままではじり貧となる可能性が高いので、いよいよ陽子線治療を併用することになった。

 

 

 

時を少し戻したいと思う。

 

癌の告知以降、逆行性健忘症で暫く記憶がなくなってしまったが、その後毎日のように、家内と今までの思い出の場所をドライブで廻った。新婚当時に住んでいたマンション、子供たちをよく連れて行った公園、近場にあるお気に入りの温泉等々。

そうする間に、少しショックから立ち直るようになってきて、自分が死ぬまでにやらなければならないこと、やり残したこと、やりたかったこと、を考えるようになった。

 

自分の専門領域の病気を父が患っていたが、慢性疾患で比較的軽症であったため、手術をせずにそのままにしていた。本音を言うと、忙しさにかまけていたところも多分にあった。身内である甘えだったのだろう、父には申し訳ないことをしていたと思う。だが、自分にはもう時間がないことを知り、一番最初に思いついたやらなければならないこと、それが父の手術であった。

 

父に「やっと手術ができるようになったよ」と声をかけた。もちろん、自分の癌については言わずにである。

いずれ、年老いた両親に自分の癌のこと、極めて予後不良であることを言わなければならないことは分かっていたが、その時の両親の心中を察すると心が重く、沈鬱になった。

 

年齢的にも一番脂ののった時期で、それなりの立場にいたため、組織に自分の病気が分かった時の影響力が大きいのは分かっていた。そのため、医局員のごく一部にのみ病状を知らせて、短期の休暇をとっていた。それから復帰して、いきなり父親の手術をねじ込んだため、やはり医局の中はざわついてしまったようだった。

 

父の手術が私の最後の手術となった。もちろん、現在は別の病院で復帰しているので、正確にいうと当時の病院での最後ということになるが、その時は「これが最期」と思っていた。

 

 

 

 

父の手術を無事終えたあと、誰もいなくなるまで手術室に残った。

様々な場面と患者さんの顔が頭の中を去来した。

 

自然と涙がこぼれた。

 

手術室に向けて一礼をし、その場に別れを告げた。

 

 

 

 

その父が先日逝ってしまった。父より先に死ぬ親不孝はせずに済んだが、親孝行ができたか、未だに分からない。

 

 

じわじわとくる喪失感が今は大きい。

化学療法を行いながらも平穏な日々が戻ってきた。

海が見たくなり、家内とドライブに出かけた。

大変良い日で明るい陽射しを楽しみ、足首までだが海に入った。何より潮の音が心を癒してくれた。久しぶりに楽しい一日を過ごした。もう近いうちに、こういう時間が持てなくなっちゃうのか、という絶望的な喪失感もあった。

 

帰り道、道を間違えてしまった。私は男のくせにかなりの方向音痴で、情けないことに、ナビがあっても迷ってしまうことが多い。空間認知能がかなり悪いのは明らかである。数学の中で、空間図形だけ突出して苦手だったのをいつも思い出す。おそらくあと暫くしたら、徘徊老人と呼ばれてしまうんじゃないだろうか。

 

この日も迷ってしまったら、とある大学病院の陽子線治療センターの門のところに辿り着いてしまった。実はここのセンター長は私の大学の同級生で、かつ大変仲が良かった悪友でもある。学生時代を振り返っても、本当に心を許せる友人のうちの一人であった。もちろん病気になった当初から、彼にどう相談しようか、とずっと考えていたが、近すぎるが故か、迷惑をかけたくないというのもあり、未だに自分としてもよく分からないのだが、ずっと連絡できずにいた。ただ、この迷って辿り着いた先が彼のセンターだったことが、何かの暗示のような気がして、やっと電話をかけることができた。

 

自分の病状を話すと、まず彼は絶句し、暫くの沈黙の後、「うちで預からせてくれないか」と言ってくれた。友人とかでなければもっと早く受診していたのだろうが、この時はやっぱりこいつが友達でいてくれて良かったと思った。もちろんこの時は、この陽子線治療がゲームチェンジャーとして私の闘病生活を一変させるとは考えていなかった。ただ、久しぶりの友人との会話と力強い言葉に癒されたのである。

 

私自身方向音痴でなければ、近しすぎるが故にずっと彼に電話できず、今はもうこの世にはいなかったかもしれない、と思うと、人生は本当に不可思議なものだと感じた。

手術不能であることが分かり、がっかりするとともに少しホッとした。これで数週間以内に術後合併症で苦しみながら死んでしまうことはなくなった、という非常にNegativeな考えではあるが。。。

 

もとの主治医(母校の)のところに診療情報提供書とともに戻って、今後の治療について、どうするか相談した。効かなくなってきているが、まだ効果はあったので、第一選択のCDDP+TS-1の治療を再開することとした。このままダメになっていってしまうのか。。。と後ろ向きになる自分を叱咤し、まだまだ2nd, 3rd lineがあるし、抗がん剤の効きやすいタイプの癌なんだから、希望を持つべきと心を奮い立たせた。

 

もう一つ心に引っかかっていることがあった。それは放射線治療である。主治医の方からは、Stage 4bなので放射線治療は考えにくい(細胞のレベルで考えれば、全身に既にいっぱい散らばってしまっているわけだから、局所治療の放射線治療を行っても意味がない)という考えである。当時のガイドライン通りで行けばその通りで、確かに局所療法をしてさらに悪化させてしまった事例も多々あることも知っていた。ここは議論の余地があり、国によっても、また専門によっても(外科か放射線科か腫瘍内科か)少し考え方が異なることは知っていた。私の主治医はガイドライン作成を手伝った方だったので、余計そういう考えなんだろうな、ということは理解していた。議論のあることに関しては専門家によっても意見は異なるのは当然である。私は専門家ではないが、当事者として、放射線療法をやってみたい、と思っていた。

理由は三つ。一つ目として、放射線療法は局所療法としては、この間までトライしようとしていた手術に比べれば侵襲度が低い(体への影響が少ない)こと。二つ目は、総論的には、悪性度が高い、ということは放射線療法も効きやすいタイプであること。三つ目として、どっちみち、Stage 4bで悪すぎる状態なので(肝臓の転移も再発してしまったし)、できることはやってみなければ後悔する、という一種の開き直りである。

いよいよ手術のために入院となった。

食道癌だが、多数の肝転移があった。ただ、手術決定時にはこれらの転移巣は右葉に限局しており、また抗がん剤治療で画像上は少なくともすべて消失していた。そのため、術式は胃下部食道切除(吻合)+肝右葉切除+その他リンパ節廓清等を行う予定であった。肝臓という臓器は、かなり広い範囲を切除しても、残った部分が再生してもとの大きさになり、機能も回復できるありがたい臓器である。ただ、その再生を促すため、門脈を遮断する必要があり、それをまず先に行い、数週間後に本番の手術を行うことになっていた。

 

入院後一通りの検査を行ったが、造影CTは検査項目になかった。ふと思い出したので、手術直前の説明の時、「そういえば、旅行に行く前の説明では、最終確認のため造影CTを行うと聞いてましたけど、どうなりましたか?」と聞いてみた。やはり検査もれだったようで、至急CT撮影となった。

 

翌日主治医が病室に来てくれた。ただ沈鬱な表情であった。

肝転移が再発しており、キャンサーボードで手術は延期(中止)した方がよい、との決定がなされたとのことであった。

 

「やはりインオペ(手術不能)か。。。」

と思い、相当なショックであったが、半分ホッとしたところがあった。やはり極めて分の悪い手術であることは分かっていたし、故に、ともかく本能的に怖かったからである。

ただ、今から思い返せば、ここでCTを撮り直したことで、つまり手術を中止したことで、私は生き延びることができた訳である。大げさでもなんでもなく、運命の分岐点だったのかもしれない。

もちろん、手術で目視できる癌をすべてを取り切れて、その後の抗がん剤が良く効いて、しかも、体力も抜群に回復していれば生存できたかもしれないが。。

 

前回の記事から4カ月以上が経過してしまいました。

コロナも大分おさまってきました。

なんとも3日坊主な感じで情けないと思っています。それでも読んでくださる方がいらっしゃるらしいので、頑張らなければと思います。以下に闘病記の続きを記載します。

 

--------------------------------------

 

私の手術は、お盆の連休明けに決まった。

期待があるとともに、かなり大きな手術になるので、もしかしたら術後数週間で死んでしまうかも、と大変不安な気持ちでいっぱいだった。

仕事ばかりしていた父親だったので、正直家族と過ごす時間はすくなかったと思う。さすがに子供から「あのおじちゃんは誰?」と言われたことはなかったが、「お父さんは次はいつ帰ってくるの?」とは、よく妻に言っていたらしい。

 

そんな自分が最後に家族と過ごすため、地中海クルーズに出かけた。ずっと大学病院勤務だったので、金銭的にはさほど余裕はなかったが、お金はあの世まで持っていけないので、奮発して、家族4人で泊まれるぐらいのとても良い部屋をにした。最高の贅沢だった。

家族とすごすのが、これほど幸せなことなのかと心の底から思った。

 

手術の5日前に帰国・直後に入院した。

だが、ダメ親父は心の中では不安と迷いだらけだった。