新聞錦絵の世界
著者:高橋克彦
出版:角川書店 角川文庫
明治7年7月、文明開化盛りし頃。日本で初めて発行された“新聞”の大成功をうけ、新聞錦絵は発売された。この“錦絵付きニュース”は、当時多かった文字の読めない人々にも記事が理解でき、増刷に増刷を重ねたのである。これは、一般大衆に新聞というものの興味を促し、新聞普及に大きな功績を残した。しかし、三面記事的な要素の強い新聞錦絵はやがて衰退し、明治12,3年にはほとんど姿を消すことになった―。だが、新聞錦絵は今なお生きている。リポーターが事件を追うワイド・ショーや写真で事件を伝える写真週刊誌のなかに…。本書は明治人のナマの生活を映し出す極彩レポートである。---データベース---
高橋克彦氏の本はこれまでにもたくさん取り上げています。もちろん私は推理小説作家ですから、本来はそういう形の小説を取り上げています。その中でも、江戸時代の浮世絵作家をモチーフにした小説が特に好きでした。
過去の記事
こうして並べてみると結構読んだ者です。が、ここではちょっと異色の本になっています。同じ浮世絵でもこちらは明治時代になって流行した錦絵と呼ばれるものです。浮世絵は江戸時代が1番盛んだったように思われていますが、実際には明治時代がそのピークでした。それは今で言うゴシップ記事を扱った新聞がその役割を果たしていたからです。ここでは、高橋がそういうところに目をつけて、この本を書き下ろしたものといえます。名刺時代の浮世絵師というと小林清親が一番知られています。その清允もこのブログでは取り上げていますが、この本では出てきません。相撲で言えば幕下以下の存在だった浮世絵師が新興の新聞のために描いた作品であるからです。
ゴシップ記事を新聞が書き立てるものですから時間に制約があります。それでも絵師はそれに合わせて書くのですから突貫になるのはやむ終えません。新聞ですから絵はあたり前ですが記事もあります。それが錦絵新聞として売られるわけです。この本の前に書かれているのが上に紹介している「浮世絵鑑賞事典」ですが、さっぱり売れなかったのでこの元本が出版される1986年までにタイムラグがあるわけです。
この本の章立てです。
代表作
「新聞錦絵とは何か」
殺人
妖怪
情痴
世相
珍聞
人物・歴史
「新聞錦絵と私」
「ゴシップ文化と浮世絵」
「現代に息づく浮世絵」
明治時代になると、海外から輸入した安価で発色の良い染料が使えるようになり、錦絵は一層鮮やかなものになりました。
また、江戸時代の錦絵が娯楽品だったのに対し、明治の錦絵はジャーナリズムの役割を持っていました。
江戸時代の浮世絵には幕府による規制があり、幕府を批判する内容、風紀を乱すもの、色数や技巧の面で贅沢すぎるものを作った場合は処罰の対象となりました。
しかし、時代は変わり、明治政府の新出版法令により江戸時代の規制は廃止されます。
ここから、明治の錦絵は文明開花の様子を伝えたり、世間のスキャンダルを取り扱う、ジャーナリズムの要素を持つようになりました。
新聞錦絵は、明治七年(一八七四)に東京で誕生した視覚的ニュース・メディアでです。錦絵と呼ばれた多色刷り浮世絵版画の技術を基盤に制作されています。上は開版予告で師・一恵斎芳幾の名と、文章を担当する六人の名が掲げられ、童蒙婦女に勧懲の道を教えるという創刊の趣旨が述べられている。具足屋発行で定価六厘で売られたと記されています。
錦絵新聞とは「東京日日新聞」という新聞記事の一部を錦絵にしたもので、ほとんどが明治7年(1874年)〜明治14年(1881年)のごく短い期間に発行されていました。取り上げる題材は主にスキャンダルや珍しい出来事などで、今の新聞で言う3面記事、社会面が主でした。例えば上は、力士が火消しをしているところです。火消しは本来、力士の仕事ではありませんが、電柱に引火しそうになっため、力士たちが水を運んだり建物を壊して火の手を止め、電柱を守った時のことが描かれています。当時、電柱は最先端の技術でとても貴重だったため、力士たちも必死で守ったのだと思われます。
間男にのしをつけてくれてやる図です。亭主は面子のために我慢し、妻は好きな男のために名を捨てて実を取るという構図です。
この本ではこの東京日日新聞(現在の毎日新聞)だけが取り上げられていますが、これは発汗が一番早かったからでしょう。実際には報知新聞や大阪錦画新聞なども相次ぎ発汗しています。ブームは1877年ごろまでと短命に終わっています。まあ、そういう媒体ですが、どぎつい色調で当時の庶民の心を惹きつけたとも言えます。この本のナスではテーマに分けて記事が掲載されています。徒花のような錦絵新聞ですが、高橋氏は国名にそれを掘り下げています。