広重殺人事件 | geezenstacの森

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広重殺人事件

著者 高橋克彦
発行 講談社 講談社文庫 

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 広重は幕府に暗殺された?若い浮世絵学者津田良平が“天童広重”発見をもとに立てた説は、ある画商を通して世に出た。だが津田は、愛妻冴子のあとを追って崖下に身を投げてしまう。彼の死に謎を感じた塔馬双太郎が、調べてたどりついた意外な哀しい真相とは?深い感動の中で浮世絵推理3部作ついに完結!---データベース---

 高橋克彦氏の浮世絵三部作、「写楽殺人事件」「北斎殺人事件」に続く完結編だそうです。「写楽」、「北斎」、そして「広重」ですが、著名な「歌麿」が抜けています。でも、この「歌麿」にしいては別ら「歌麿殺贋事件」としてちゃんとした作品が発表されています。ただ、殺人事件ではないのでこの3部作には含まれないようです。時系列で捉えると下記のようになります。
写楽殺人事件(1983年9月 講談社 / 1986年7月 講談社文庫)
北斎殺人事件(1986年12月 講談社 / 1990年7月 講談社文庫 / 2002年2月 双葉文庫)
歌麿殺贋事件」講談社ノベルス(1988年4月 講談社 / 1991年3月 講談社文庫)
広重殺人事件(1989年6月 講談社 / 1992年7月 講談社文庫)

 個人的にもこのブログで広重に付いては度々取り上げています。本来は第1作から順序立て手読むのが筋なんでしょうが、天の邪鬼の性格も災いして、読み始めたのは第3作の「広重」からでした。まあ、三部作といってもそれぞれが独立していますから何処から読んでも支障はないのですが、前2作で主人公として活躍して来た津田良平ですが、この広重では冒頭いきなりその妻の冴子が自殺してしまうのですからびっくりしてしまいます。この作品から読み始めた人はちょっと戸惑うのではないでしょうか。この妻の自殺は、最終的には津田本人を自殺させることへの舞台作りの様な気がしてなりません。

 この小説で描かれる広重の実像は中々興味深いものがあります。他の2作品では、関係者が殺されますが、この作品では何と広重自身が殺されることになるという点でもユニークです。そして、取り上げられるのは「東海道五十三次」で代表される版画の世界の広重ではなく、肉筆画の広重を扱っています。つまりは「天童広重」と呼ばれるものです。実際に天童市には「広重美術館」なるものがあり、そこには数々の肉筆画が展示されています。面白いことにこの天童の広重美術館は1996年に完成しているのですが、この小説が執筆された1989年にはまだありません。作者は作品中で美術館の必要性を説いていますから、この小説がきっかけで建設されたのかもしれません。

広重の肉筆画
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 さて、小説を読むまで、天童と広重は結びつかなかってのですが、天童市が織田家と関係があったとは全く知りませんでした。天童織田家は信長の直系次男の信雄が藩祖なんですな。でもって、天童織田藩の江戸屋敷は広重の住んだ八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の近くにありました。そして、広重の養子に入った安藤家は旧姓田中といいました。出身は津軽藩です。広重は晩年狂歌に没頭し東海道歌重と号していました。ここからも、天童藩の吉田專左衛門との繋がりがあります。同じ武士でありながら狂歌を通じて故知となりさらには天童藩という東北にありながら急進的な勤王思想を持っていたことで知られる藩です。天童藩にはその昔、山県大弐という人物もいました。この人物が尊王論者で明和事件に連座して小畑尾張藩はのちに天童に移封になっているのです。そんな経緯のある天童藩ですから、広重もそういう思想に触れる機会が多かったのでしょう。

 ここでも、広重の贋作が登場し、それについての論文を発表したことの責任から津田は自殺してしまいますが、津田の研究をついだ塔馬は、広重の絵日記、更には天童で新たに発見された広重の贋作を巡る謎を突き止めることで、津田が残した「広重は殺された」という言葉の真相に迫っていきます。後半は、その塔馬が広重が山梨へ旅行した日記を手がかりに、真相に肉薄していきます。まるでルポルタージュの手法ですが、読者はこの謎解きに魅せられます。

 小生も広重の年表で彼がコレラで死んだと書かれていることに疑問を持っていました。確かに広重が亡くなった安政年間にはコレラが大流行していますが、不思議なことに広重は2通の遺言書を残しています。当時コレラに罹れば3日ともたずに亡くなっています。それなのに広重は9月6日に死んでいますが、9月2日、3日付けの遺言書を残しているのです。如何にもタイムラグがありすぎます。近親者の証言には床に付く十日ほど前から体調がすぐれなかったといいます。コレラのことを勘案しても広重がコレラで死んだというのは怪しいものです。その遺書にはこういう短歌が書きされています。

 死んでゆく 地ごくの沙汰は ともかくも あとのしまつが 金しだいなれ 

 とても、コレラで死んでいく人間の言葉ではありません。

 この作品が面白いのは、現実の事件と歴史上の事件がうまく絡み合い、なおかつ歴史解釈が斬新なのにも関わらずみっちりと考証された、説得力あるものであるというところでしょう。山梨の甲府行きは日記の中で確かに酒折の宮に参拝しています。こは連歌発祥の地ともされますが大和王権の東方の進出拠点ともなった場所です。ここでは当時の勤王思想のメッカでもあったこの地を訪れていることに注目し、広重がそういう思想を持っていたことに言及します。さて、広重の前職は定火消し同心です。ところがこの役職町火消しではありません。要は消防警察で組織としては鉄砲組と弓組とに別れていて広重は鉄砲組でした。つまりは江戸城の弱点を知り尽くしている男だったのです。広重は東北地方では唯一「百目木」だけ描いています。そこは現代では見向きもされないところです。これも、天童との結びつきを隠すための方策だったのでしょう。広重は天童藩の軍資金稼ぎのために肉筆画を書いていたのです。

 さてさて、安政5年は井伊直弼が大老になった年です。勤王派の弾圧が始まります。時あたかも「安政の大獄」が始まったのは9月6日です。それは広重が亡くなった日です。翌7日には京都で梅田雲浜が逮捕され、ほどなく頼三樹三郎も捕縛されています。もう一人、梁川星巌は9月2日にコレラで亡くなっています。そう、広重が最初に遺書を書いた日です。うーん、広重暗殺説。ありそうに思えるではありませんか。これだから歴史は面白いんですよね。

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