名所江戸百景-広重と小林清親の世界 | geezenstacの森

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名所江戸百景-広重と小林清親の世界

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 連日猛暑日が続いている名古屋市で、今日も最高気温が37°を超えました。とても日中は出歩く気がしませんが、朝早くなら大丈夫だろうと「UFJ貨幣資料館」の「広重 名所江戸百景ー広重画業の集大成~四季折々、浮世絵の楽しみ」という企画展に出掛けました。ここは、朝9時から開館しているのが良いですね。でも、我が家を出た8時半過ぎには、既に気温は30°を超えていました。まったくなんて言う暑さでしょう。

 今回は2012年の1/10~4/8にまで開催された前半部分の残りが展示されました。まあ、場所が狭いのでしょうがないでしょう。ただ、どうも118作の全作品が展示されたわけでは無いようで、数点は欠落しているようです。そんなことで、余ったスペースでは江戸末期から明治にかけて活躍した「小林清親」の作品が8点ほど展示されていました。wikiによると、次のように紹介されていました。

小林 清親(こばやし きよちか、弘化4年8月1日〈1847年9月10日〉 - 大正4年〈1915年〉11月28日)とは、版画家、浮世絵師。月岡芳年、豊原国周と共に明治浮世絵の三傑の一人に数えられ、しばしば「最後の浮世絵師」、「明治の広重」と評される。

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鎧の渡しの小網町
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書かれた場所
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現在との比較

 最初は、広重の「名所江戸百景」です。チラシのタイトルに使われていたのは「鎧の渡しの小網町」と題されたものです。この広重の絵で描写されている現在の東京証券取引所のある兜町のあたりは辺り一帯は、天下普請で埋め立てが進み、旧石神井川は消え(その名残が堀留川)、合わせて日本橋川の河口はもっと東側に移動することになります。しかし、江戸橋から湊橋までの約1キロ間に橋は架けられませんでした。当然人口も増え、人の往き来も激しくなり、その不便を解消するため、禄時代に日本橋川を挟んで茅場町と小網町とを結ぶ渡し舟が開設されます。場所がら、この日本橋川は、江戸開府以降、下総方面から物資を江戸の中心地へと供給するための運河として活用されたから、江戸中級以降、白壁が美しい倉庫街として発展します。広重の絵の蔵は、かなり整然で美し過ぎるような気もしますが、桟橋に立つ女性の赤い帯と、白壁とのコントラスト、それに天地に配されたベロ藍がなんともいい風情を醸し出しています。

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下谷広小路
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 下谷の名前は、上野、湯島、本郷などの高台の下に位置していたことから名付けられました。右手に描かれた大きなお店は、現在の「上野松坂屋」です。松坂屋の前をお揃いの傘をさして、上野の山にお花見に向かう女性の一行を描いています。遠景に見えるのは、今も残っている上野の森です。ところでこの絵にある松坂屋は、安政2年10月2日に起こった安政の大地震で崩壊した上に類焼ですべてを焼失し、安政3年9月28日に再建されています。ところで、この絵の改印は安政3年9月、つまり開店する前に絵が完成していたことになります。広重は過去にも伊藤松坂屋を描いているので、多分完成図を参考にしたのだと思われます。版元の魚屋(ととや)栄吉は下谷にあったので、開店を予想したか、あるいは広告料をもらっていたか、とにかく開店に合わせて描かれた絵であることは間違いないでしょう。残された写真で、忠実にこの松坂屋が描かれている事が分ります。

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両国橋大川ばた

 百景で両国橋とその周辺を描いた絵は、5景、59景、60景、98景とかなりの枚数を占めます。それだけ両国はにぎわい、商業的な絵としてコンスタントに題材として入れるべき対象であったのでしょう。ちなみに4枚の絵の改印を見ると、5景安政4年閏5月、59景安政3年8月、60景安政4年7月、98景安政5年8月と時期を散らしていることがわかります。そのなかで、この59景の「両国橋大川ばた」は最初の作品となります。両国橋は、明暦3年(1657年)の大火で当時両国橋がなかったために浅草門辺りに逃げてきた人が行き場を失い多くの町人が焼死したことから、両国橋ができたといわれています。もともと東西の橋詰を広小路にして、火事の火除け地としたのですが、人が集まるところで商売をしたいのが人というもので、徐々に屋台が増えていきます。当初は期間限定ですが、徐々に常設されてしまいます。ただし、直ぐ撤去が出来るようにと葦簀(よしず)造りで簡単なものが条件でした。そんなことで、図の手前にはずらりと葦簀葺きの水茶屋が並んでいます。この絵も安政3年8月の改印がありますが、調べるとこの年は、8月25日に江戸を巨大台風が襲っています。そして、西両国付近は川端の水茶屋も、広小路の見せもの小屋も残らず吹き漬されています。つまりは、この絵が出版された時は、見るも無惨な両国であったわけです。さらに、この図は夏の作品に分類されていますが、人物の様子からまだ衣替え前の時期に描かれています。という事は旧暦の3月頃ではないでしょうか。一枚の絵からいろいろな事が分って来ます。
 
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千本杭両国橋

 さて、参考展示の小林清親の作品は「東京名所図」という作品の中から8点が展示されていました。その中で、この大川を題材にした作品も展示されていました。「千本杭」は、両国橋の東岸にあった河岸保護のための乱杭のことで「百本杭」ともよばれていました。水面から突き出た杭を前景に大きくとらえた大胆な構図が、明るい光の中で見事に調和し、静かな情緒が生まれています。実は上の広重の絵にも向こう岸にこの「千本杭」が描かれています。ここから大川が蛇行するための護岸保護用だったのですね。この杭、芥川龍之介の「大川の水」という作品という作品にも登場しますから、明治末期頃までは存在していたようです。

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両国花火
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両国花火之図

 広重は98景として「両国花火」を描いています。広重の構図は俯瞰図で鳥の目線で花火を描いています。川面には屋形船がいく艘も並んでいます。広重はそのような川面と陸上の賑わいを画面下三分の一にぐっと押さえた色調で表現しています。そして、残る画面はすべて闇の中、いずれも花火の絵画的効果を強調するための広重の工夫でしょう。鳥の視点という事でクールな印象を受けます。一方小林清親の「両国花火之図」は人物、景観をシルエットで表現し花火の輝きを強調しています。その中で、提灯だけが赤い色で花火に映えています。目線が人間のそれで、人々の感動が画面から読み取れます。

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東京新大橋雨中図

 蛇の目傘の女、どんよりとした空の下に描かれた大橋、川面に浮かぶ小舟などのモチーフを巧妙に配し、江戸の情緒が残る東京の雨の風情を描きだしています。水面は水彩画の筆触を木版で再現するなど新たな趣きを加えているのがこの絵の特徴でしょう。「東京名所図」シリーズ初期の傑作の一つです。今回小林清親の展示の一番最初に掲出されていました。

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 広重には74景「大伝馬町ごふく店」で大丸を描いています。一方清親もこの大丸を描いていますが、時代背景の違いを如実に感じます。ここでは広重は人間目線です。主題は前景の大工の棟梁たちの棟上げ式の祝いの行列で、大丸呉服店は背景に過ぎません。この当時の江戸切り絵図を見ると大丸のあった場所は通旅籠町になっています。これは、以前大伝馬町三丁目であったものが通旅籠町に町名変更されたためです。しかし、町名は変わっても当時大丸といえば大伝馬町三丁目で通っていたので、広重もあえて通旅籠町とせず、「大伝馬町こふく店」としたのでしょう。問題は、背景に描かれている大丸呉服店の建物の構造と広重の絵画的処理です。明治初期に撮られた大丸呉服店の写真が残っています。大丸呉服店の江戸店は、寛保3年(1743)に新築開店した後、全焼を含め度々火災に遭っているが、天保5年(1834)に類焼を蒙って以降、明治43年(1910)に閉店するまでは、明治6年に一度被災した他は残っています。で、清親の描く大丸はほぼ写真通りの外観になっています。店の前に人力車が待機しているのも一緒です。絵にはガス灯が描かれていますが、これは多分写真よりも後の事でしょう。とすると、広重の描いた大丸はかなりデフォルメされている事になります。広重の絵とはいえば表柱が庇の上下で直立しているし、庇も屋根も相当簡素化され極めて画一的に描かれています。こういう処理は、他に7景「大てんまちょう木綿店」でも同様です。広重は風景画家として一流ですが、ただ風景をそのまま写すのではなく自分の目を通してテーマをはっきりさせた絵を描いていた事になります。

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 こうして見てくると、改めて広重の捉えた江戸は浮世絵師としての才能が一歩抜きん出ている事が分ります。この展示、7月21日までです。