静かな冬の使者 ~サザンカの宿~
私が田子の浦へ釣りに行く時には
必ず泊めていただく家がある。
私が勝手に
自分の陶芸の師匠だと言ってはばからない、
日展の審査員をしておられる方の家である。
その家の庭には
たくさんの木々が植えてあるが
芸術家は
庭の手入れなどには
とんと無頓着で、
植え木は自然に伸び放題。
私が行った時に
宿泊費代わりに
それらの木々の剪定を引き受けている。
そこにある
奇麗なサザンカの生け垣。
伸び放題になっているその生け垣を
行った時に
私が剪定をするのだが、
季節になると
本当に奇麗な花を咲かせる。
だから私は
そこを
「サザンカの宿」と
呼んでいる。
昨年8月富士登山の帰りに立ち寄り、その時剪定した状態。
この家は、
自分の家の敷地の外周りには、
桜や金木犀や豆ツゲなど
ただ好きな木が
何の脈絡もなく植えこんであり、
それが敷地境界の生け垣になっているのだが、
敷地の中にも、
居宅南側の部屋を目隠しするように、
ここだけは奇麗に
サザンカの生け垣が作ってある。
それ程、
敷地内にある工房や展示室には
外部からの来客が多い。
8月は、
時期的にはサザンカの剪定の時期ではないが
余りにも伸び放題になっているため、
やむなく剪定をした。
できるだけ蕾のつく枝は残すように心掛けて。
そこの奥様から、
そのサザンカが咲きましたよと
写真と一緒に季節の便りが届きました。
蕾の時は赤色だが、
咲くと中は真っ白。
丸弁の花びらは
穏やかな感じで
清楚そのもの。
うつむき加減に咲くさまは
まるで生娘。
でも、
主張はしっかりしています。
「どう?奇麗でしょう?」と言わんばかり。
品種名は不明だが、
調べてみると、
「日の出富士」の雰囲気そのまま。
「日の出富士」はこんな花。
咲ききっているため外側の赤色はちょっと確認しづらいが、
赤い花弁を外側に持っています。
サザンカの便りを聞くと、
冬の到来を連想するが、
まだ武蔵野には本格的な秋も来ていない。
密かに富士の裾野に訪れた冬の使者。
そう遠くないうちに
ここにも間違いなく訪れる。
ひと足早い
サザンカの便り。
季節は
確実に移ろいゆく。
サザンカの宿の住人は、
このブログを
ご覧になっているでしょうか。
奇麗な写真の便り、
ありがとうございました。
それから、
ここに来ていただいた方で、
このサザンカの名前がお分かりになる方がおられましたら、
是非教えて下さい。
よろしくお願いします。
武蔵野の秋 ~国立市民祭りと一橋祭~
武蔵野の国、
そこの1つの
国立市。
市政を敷く時
国分寺市と
立川市の間にあるから
その一字ずつを頂いて
国立市となったといわれる市であるが、
一橋大学があることで
学園都市を標榜するところである。
だから、
パチンコ屋や風俗店は
一軒もない。
そんな街のお祭りの日がやって来た!
11月7日(日)
その時の様子を
写真でご紹介します。
新装なった国立駅と、その前にある祭の看板。
市民まつりより一橋祭の字が大きい。それ程一橋祭の方が歴史がある。
ちょうどこの日、
JR三鷹~立川間の高架化がすべて終了し、
開かずの踏切がたくさんあったこの区間に、
踏切が一つも無くなった。
その初日である。
国立駅南口から
一ツ橋大学方向へ通じる一本の大きな道。
年に一度の歩行者天国。
片側二車線、
自転車専用道路、
桜と銀杏の並木道
そして歩道をすべて備えた大きな通り。。
桜と銀杏は交互に植えてあり、
春には桜の花が満開、
秋には銀杏が金色に色づいて
市民の目を癒す素敵な道。
大学通りと呼ばれる。
その先の両サイドに
一ツ橋大学のキャンパスが広がる。
今日は、
その一ツ橋大学が開催する大学祭の日。
その名も「一橋祭」。
ただし
大学の名前は伏せて、
「ひとつばしさい」とは呼ばずに
「いっきょうさい」と呼ぶ。
それに連動して
国立市の市民祭り。
歩道上に展開する屋台の前は
押すな押すなの大にぎわい。
祭りにはどこでもよさこい!
よさこい踊りをここまで高め、
全国区にした最初の発案者には
本当に頭が下がる。
よくよく柔軟な頭脳を持ち合せなければ
こんなことはできない。
リズムも振付も
みんなに受け入れられて、
古い踊りがダンスになった。
空には大旗が豪快にはためく。
大学のキャンパスの中では一橋祭が賑やか。 こちらは東キャンパス。
西キャンパスはしゃれた文字で「IKKYOSAI」と表示。
通りの特設舞台では、若者による現代剣舞。
山車も出て、いよいよ祭のムードを高めます。
そんな中、
歩行者天国に
小さな人だかり。
よく見ると
人の間から犬の顔。
そうです、この犬。
主人の言うことを聞いて、
左側にちょこんと座り、
子供達に
自由に自分を触らせている。
小さな子供が、
まったく無防備で近づき、
自分より大きなこの犬を
平気でなでているところを見ると、
この犬からは
殺気らしい雰囲気は
全く出ていないものと思われる。
よくよくしつけられた犬であろう。
ひょっとしたら
盲導犬などの大役を務め終えた犬なのかもしれない。
近くに、
ゴールデンレトリバーや
ミニチュアダックス等
たくさんいたのに、
人だかりができるほど
みんなが寄っていたのはこの犬だけ。
子供達は
おそらく犬とお互いに
その気を通わせて、
あっという間に信頼関係が成立する。
恐るべしその感覚、である。
祭の屋台で一番人気がこの屋台。
普通のチョコバナナ(200円)なのに
何と40人もの人が並んでいる。
なんで??
秘密はここにあった!
じゃんけんをして、
勝ったらもう一本もらえるらしい。
負けて元々、損はない。
だから、
子供達も大人も
みんな挑戦。
片手でチョコバナナを作りながら、
片手でじゃんけんをする店の人。
やたらと忙しいのに、
一人で切りまわしている。
祭のテキヤは、
原価の安いものを
一次加工して高く売るのが基本だが、
なかなかどうして、
知恵者もいるようです。
もうけもさることながら、
立派に祭を盛り上げています。
これだったら人も寄る。
そして夕方4時。
歩行者天国も解除され、
大学通りに車が乗り入れ出したら、
祭も終わり。
それぞれ、
三々五々、家路につきます。
子供たちにも大人にも、
久しぶりのにぎわいでした。
武蔵野の秋 ~けやき並木の悲哀~
秋はいつでも物悲しい。
紅葉する葉、
散る落ち葉。
命の終わりを飾る時は、
いつでも
色美しくて、
だけどはかない。
武蔵野の秋は
群生する欅が、
年月を経た木も若いも木も、
変わらずに色づき
そして散っていく季節。
自然に散れば
それはそれでよい。
だけど
ここには
得も言われぬ物悲しい秋がある。
通りに植えられた欅並木。でも、この姿もあと数日の命。
この地域にしては
幼い欅並木。
でも、
幼いなりに
春や夏には青々とした葉を茂らせ
秋にはその葉を黄葉させて
その時期なりの
和やかな時を刻む。
そして
パラパラと散る落ち葉は
人々に、
人生のなんたるかを感じさせるはずであるのだが、
そこに住む人々は
そんな自然の感傷など
微塵も受け入れない。
残酷なまでの現実が
そこにはある。
前の写真の反対側の欅並木。バッサリと枝を切り落とされすでに剪定を終えている。
風情も何も
あったものではない。
しかし、
そんな感情は
通りがかりの人が抱く
非現実的気持ちなのかも知れない。
ここに住む人は
毎日毎日、
落ち葉の掃除に明け暮れて、
団地町内会で
「どうせ散る葉だ、サッサと切ったらどうだろう」
こんな意見に落ち着いたのだろうか。
人は
自然から受ける恩恵は、
ごく当たり前みたいに受けても、
自分の生活領域を侵すような
落ち葉の攻略には
我慢がならないものらしい。
欅は
自然に育つと
逆さ箒の形になって
その細い枝の先までも
命をみなぎらせ、
他の木にはない
繊細な美しい形になるといわれる。
それが、
これである。
現実は
いつでも厳しい。
武蔵野の
人が絡んだ秋の景色でした。
作品紹介 19 ~版画・美女と犬~
ある携帯のメーカーのコマーシャルで、
犬がお父さんになっている設定があるが、
私は
あのCMは
大嫌いである。
犬が父親で、
母親が人で
子供は
いろいろな人。
だったらなにか!
あの母親は
犬と交わって子供を産んだのか!
子供達は
犬の子か!
ベトナム戦争や
アフガン戦争等
生死をかけた戦地で
兵士がたまらず獣姦をするという事実はあるが、
この平和な世界で、
あんなCMを見ると、
冗談でも許せない。
私の考え方が固いという人の
主張を聞いてみたい。
「冗談なんだから、・・・」
冗談でも
そういうものに無反応になっていること自体
精神が病んでいる。
たとえば、
丼物を
おいしそうに犬に食べさせて、
「犬も喜ぶおいしさ!○○屋の○○丼!」
というようなCMが流れたら、
あなたはそれを買って食べますか。
きっと言うだろう。
「ドッグフードじゃないんだ、犬になんか食わせるな」
そして買わない、食べない。
食品メーカーは
そんなことは百も承知だから、
決してそんなCMは作らないが、
あの携帯のメーカーは
悪乗りしすぎ。
そのCMにまた乗せられる消費者も
軽率のそしりは免れない。
渋谷や原宿、歌舞伎町には
夜中でも
帰る家がなく、
泊めてくれる人だったら
誰にでも
身体を提供する、
そんな家出少女があふれている。
そして
それを狙う
男どもも溢れている。
あんな乱れたCMは、
そんな風潮さえ助長する。
そう考えるのは
私だけだろうか。
それはさておき、
犬と人との関係は
こんな関係でなければならない。
常に
人が主人で、
犬は
主人を守る従者。
獰猛だが、優しい目をした犬。
この犬は、
あくまでも主人を守るための従者。
閉じた主人の目が開いたときに
出てくる次の指示をじっと待つ。
犬の視線からそれを読み取っていただければうれしい。
そして、美しい女性は
絶対的な信頼で、
無防備な状態になる。
危機が迫れば、
この犬が
いつでも自分を
命がけで守ってくれることを知っている。
閉じた目の奥からにじみ出る
主人の優しさ。
そんな主従関係である。
近頃は
これが逆転して、
犬が主人で、
人が従者。
犬の散歩を見ていると
それがよく分かる。
だから犬は
外に出ると
人の言うことなど聞かない。
ドッグランで紐を解き放して
飼い犬に
「止まれ!」
「戻れ!」
そう言っても、
犬は全く聞く耳を持たない。
勝手に走り回って、勝手に遊ぶだけ。
かわいがるばっかりで、
しつけがまるでされていない犬は
そうなる。
そして、
飼い主のレベルが知れる。
自分の子供を
しつけもできずに
盲目的にかわいがる人を
「親ばか」と柔らかく表現するが、
笑って聞き捨てる周りの人に言わせれば
そんな人は
「ばか親」である。
自分の犬をきちっとしつけているか、
よ~く考えてもらいたい。
ひょっとして、
あなたは犬の言うとおりに動いて、
知らない間に
犬にしつけられていませんか。
そんな人に
自分を見直す機会になってほしい。
そんな今日の版画でした。
童心に返る ~シャボン玉2つ~
今日は一転、
ぽかぽかの小春日和。
近所の子供達も
外で賑やか。
こんな風景に触れたのは、
本当に久しぶり。
童心に返り、
うれしくなって
子供達と一緒にシャボン玉。
ブログの写真には
子供達は登場していないが、
一緒にいた子供達の
無心な顔が何枚もあり、
あとからすぐにプリントアウトし
3家族ほど
順番に訪ねて、
遊んでもらったことを説明し、
顔の写っている写真を何枚かずつ差し上げたら、
お母さんはびっくり。
と同時に
子供達と一緒に
喜んでもらえた。
家に帰り着く間もなく、
代わりに果物を持ってきて下さったところもあり、
むしろこちらが恐縮。
奇麗なシャボン玉が取り持つ、
純粋な気持ちの交流。
子供を介すると、
すべてが純化され、
人は素直になれる。
子供と動物にはかなわない、と言われるその理由は、
ただただ
その考え方が純粋であるからだと、
つくづく思う。
いつの頃から、
人の目は
子供の頃の
あの純白の目の色を
失ってきているのだろう。
ヘビが、
エデンの園で
アダムとイブに
リンゴの実(知恵の果実)をとるようにけしかけた時、
ついそれに乗ってしまった時から
人は罪を背負うようになった。
それ以来、
背の罪は
増えこそすれ、
減る様子をみせない。
「欲」について、
もう一度考えさせられた
シャボン玉遊びのひと時だった。























