麻雀プロ弁護士津田岳宏のブログ

麻雀プロ弁護士津田岳宏のブログ

麻雀の話とか法律の話とか

私が代表を務める弁護士法人コールグリーン法律事務所は、このたび静岡県浜松市に新オフィスを開設致しました。

https://hamamatsu.kotsuziko-greenlaw.com/

 

浜松オフィスにおいては、これまでの京都オフィス及び東京オフィスでの事件処理経験に基づき、主に交通事故被害者請求の事件を手がける予定です。

司法制度改革による弁護士過多などと言われていますが、それは一部の大都会の話であり、地方ではまだまだ弁護士が足りていないのが実情です。

当事務所は、今後積極的に地方の方々の権利救済を果たしていければと考えております。

 

麻雀プロでもある私にとっては、この夏は「Mリーグ」という空前絶後の大規模なリーグ戦が発足する特別な夏です。

明日はドラフト会議があるので今からワクワクしています。

https://m-league.jp/press-conference/

 

麻雀は私の人生にとって至福のゲームであり、また、麻雀に携わる方々は私にとって特別な存在です。

私がはじめて顧問の仕事をいただいたのは、麻雀卓の販売会社です。

麻雀業界の方々からは若輩の頃からたくさんのお仕事をいただいており、それによって今の私と当弁護士法人があるといっても過言ではありません。

 

先日の会食で知り合ったIT企業の社長は、日本プロ麻雀連盟のプロテストを受験中とのことでした。

イメージの問題もあるので受験を迷っていたらしいですが、Mリーグが発足して藤田さんも応援してくれているのでということで受験を決めたとのことです。

 

麻雀業界は確実に良い方向に進んでいます。

いち弁護士として、またいち麻雀プロとしてこの良い流れに貢献していけるように今後もまい進していく所存です。

 

 

 

 

 

今や強豪雀士としても有名なサイバーエージェント藤田社長がチェアマンとなって、麻雀のナショナルプロリーグ「Мリーグ」が発足する。

一昨日記者会見が行われた。

https://www.nikkansports.com/sports/news/201807170000445.html?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=nikkansports_ogp

 

プロ野球を例に取るまでもなく、ある競技の発展に際しメディアとスポンサーの存在は欠かせない。

麻雀界からしばしば羨望の対象となってきた将棋についても、順位戦の発足は、メディアである毎日新聞が後押しをし、将棋愛好家が社長を務めていた薬品工業会社がスポンサーになってはじめて成立したものであった(このあたりの経緯は山本武雄著「将棋百年」(時事通信社)に詳しい)。

昭和22年からはじまった順位戦は、高度経済成長に伴う新聞発行部数の大幅増もあり、将棋ファンの拡大や将棋の社会的地位の向上におおいに貢献した。

今年2月には、ついにトップ棋士である羽生善治が国民栄誉賞を受賞するに至った。

もっとも、将棋が賭博と決別して完全にクリーンなイメージになったのは、はるか昔の話ではない。

現代のトップ棋士である深浦康市(46歳)らの師匠である花村元司は、プロになる前は賭け将棋の世界で勝ちまくり有名だった人物で、その実力を買われ異例のルートでプロに編入している。

ひと世代前は、将棋の世界もそういうものであった。

 

将棋の世界で起こったことが今後麻雀界で起きても不思議ではないと私は思う。

「Мリーグ」は麻雀ファンの拡大と社会的地位の向上にとって、千載一隅のチャンスである。

藤田社長も言うように”革命”といえる性質の企画であり、そこに不安を覚える業界人もいるかもしれないが、基本的な話、ファンが増えて裾野が広がることは皆にとって利益のあることである。パイが増えれば期待値は上がるし、チャンスも広がる。

そもそも、愛するマイナー競技がメジャーになるのであれば、それは嬉しいことだろう。

 

「Mリーグ」に出場できるのは、プロ団体所属の麻雀プロだけである。

このため、現在プロ団体に所属していないネット麻雀の有名プレイヤー達などからも葛藤の声が聞こえる。

むろん他人の人生に無責任なことは言えないが、たとえば独身で子供もいないというのであれば、チャレンジする価値は大きいだろう。

プロになるのに遅すぎるということはない。道は遠いようで遠くないかもしれない。RTDマンスリーがはじまった2年前、当時プロ3年目だった松本吉弘が今年のRTDに出ていると想像した人は何人いたか。

いち麻雀プロでもある私の無責任な願望をいえば、腕に覚えがあって周囲もそれを認めているような打ち手は、全員「Mリーグ」を目指してプロになってほしい。

それはきっと「Mリーグ」の質の向上と盛り上がりに繋がるし、面倒を顧みず事を成してくれた藤田社長への「麻雀打ち」からの恩返しにもなるはずだ。

どうせ麻雀しか行き場のない体なんだろ。

こんなセリフが漫画にあったような、なかったような。

 

 

Mリーグに出場する選手については、賭け麻雀は禁止され、これに反すると処分がされる。

この点について色々な声も聞かれるところであるが、専門の法律家として大事なことを今から書く。

 

国民全員について、賭け麻雀は禁止されており、これに反すると国から処分される。

 

賭け麻雀が禁止されているのはMリーグの選手だけではない。

賭け麻雀はその金額の多少は問わず、刑法第185条に反する行為である。

単純賭博罪は廃止しろと言い続けている私であるが、将来の法律がどうあるべきかと、今の法律がどうであるかの話は全く別だ。

今ある法律を守るべきなのは当然であり、これに違反すれば処分されるのは当然だ。

Mリーグに出場するから賭け麻雀が禁止されるのではない。

Mリーグに出場しないから賭け麻雀をしていいなどという話は断じてない。

麻雀プロが賭け麻雀をにおわすツイートをするなどもってのほかである。

これらの点は過去ツイートなどでも散々してきたが、大切な話なのでここでもう一度書いておく。

 

なお、法律的議論としての賭博罪の問題点に、その規制対象が広範で曖昧な点が挙げられる。

そのため、ある行為が賭博罪に反するか否か国民が判断しにくい場合も出てくる。

たとえば、賞金付きの麻雀大会にゲストのオファーが来たがそれを受けていいのかどうかなど。

選手の皆さまにおかれては、賭博罪関係で悩む話があったら、ひとりで判断せずに専門家の判断を仰いでいただければと思う。

私は賭博罪の専門家である。

麻雀プロでもあり、おそらくであるがMリーグに出る選手は私の連絡先を知っている人も多くなるはずだ。

私でよければいくらでも相談に乗るので、遠慮しないでいただければ幸いである。

麻雀を深く愛する弁護士として、Mリーグの成功を願ってやまない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまご無沙汰しております。

弁護士津田岳宏です。

色々とバタバタしており、報告が遅れたのですが、私が経営していた京都グリーン法律事務所は本年より法人化し「弁護士法人コールグリーン法律事務所」に生まれかわりました。

そして従前の京都本店に加え、東京渋谷に新オフィスを開設致しました。

代表弁護士の私も、先月から東京に引っ越してきております。

渋谷オフィスは駅直結のマークシティビル内にあり、アクセスの良い場所にございます。

http://www.greenlaw.jp/tokyo/

従前より、賭博罪や景品表示法に関する私の知識を見込んでいただいた顧問先は東京の企業の方が多かったところ、今後はこのような企業様には今まで以上のサービスを提供できることと存じます。

今後ともよろしくお願い致します。

賭博罪や関連法規についてのご相談がありましたら、お気軽にお問合せ下さい。

 

 

また当法人では、個人様向けサービスとして、交通事故被害者側請求事件に専門的に取り組んでおります。今では毎日のようにお問合せがある状況です。「京都 交通事故 弁護士」や「渋谷 交通事故 弁護士」等で検索いただければ、当法人の専門サイトが出てまいります。

事故にあったらコールグリーン!

よろしくお願い致します。

https://tokyo.kotsuziko-greenlaw.com/

 

 

なお私個人としては、私が愛してやまない麻雀というゲームにつき、業界のいっそうの発展のためお役に立てればと考えております。

麻雀業界については、いまだ問題山積であるというのが率直な個人的見解ですが、関連法規を専門的に学んでいる者として、力を尽くしたいと考えております。

先日も山手線の中で「RTDリーグ」を話題にしている高校生を見ました。

麻雀業界にもきっと明るい未来が待っていることと信じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

既に海外では一大市場となっているeスポーツは、日本でもムーブメントを起こす可能性のあるものだ。

賭博罪を専門とする私はeスポーツに関する相談を受けることも多い。
 
eスポーツで賞金を出す場合、賭博場開張図利罪との関係で問題になるのは賞金の出所である。
賞金が出るからといって、賭博罪はただちに成立しない。
賭博罪が成立するために、勝者が財産を得て、敗者が財産を失い、さらに勝者が得る財産と敗者が失う財産が「相互的な」関係であることが必要である(相互的得失の要件)。
eスポーツにおいては、参加者の参加費が賞金に充当される場合は相互的得失の要件を充たし賭博罪が成立するが、賞金がスポンサーから出る限りにおいては賭博罪は成立しない。
「お前ら今からジャンケンしろ。勝った方に俺が1000円をやる」
このスキームならば賭博罪は成立しない。
なお、参加費を取ったとしても、それが会場費に充当されており賞金にまわっていない場合は賭博罪は成立しない。将棋のアマチュア棋戦など、このようなスキームでおこなわれている大会は多々ある。
このあたりは、過去記事(賞金付ゲーム大会と賭博罪)で書いたとおりである。
 
なお、賭博罪は風紀に対する罪であるため、対象となっているゲームの性質も問題となってくる。
対象が一般に賭博の道具として使われやすいものであるゲームである場合は問題になりやすいが、そうでない場合は問題になりにくい。
たとえば対戦型格闘ゲームなどは、これが賭博の道具として使われることは一般にほとんどないのであるから、これの大会に高額賞金を出されたとしても当局が賭博罪との関係について目を光らすことは考えがたい。
 
eスポーツにおいては、賭博罪のほか、もうひとつややこしい法律との関係が問題となる。景品表示法である。
景品表示法の趣旨は「一般消費者の自主的かつ合理的な選択の確保」である。風紀の観点から賭博を規制する賭博罪とは全く性質の異なる法律だ。
同法は、「顧客を誘引するための手段として」「事業者が自己の供給する賞品又は役務の取引に付随して」「相手方に提供する経済上の利益」の金額を規制する(上限10万円)。
たとえば、メーカーが自己が販売しているゲームの大会を主催する場合等には、景品表示法との関係が問題になりうる。
 
消費者庁表示対策課長が著した「景品表示法(第3版)」(商事法務)によれば、「付随して」とは「商品の購入により経済上の利益の提供を受けることが可能または容易になる場合」が含まれるとされている。
とすれば、たとえばメーカーが技術を要する対戦型ゲーム等で賞金付大会を主催する場合は、当該ゲームを購入することで賞金を獲得する可能性が高まるともいえ、景品表示法の規制を受けることになりそうにも思える。
 
ただ、eスポーツが景品表示法の規制対象になるという結論は専門の法律家としてはしっくりこない。
景品表示法は、もともとは高度経済成長期に,チューインガムで1000万円が当たる等の過度の懸賞が社会問題になったことを受けて制定された法律である。そこには、懸賞目的で商品を買わせるのは不当である、との思想がある。
たしかに上記のような懸賞は、ガムを買わせるための過度なキャンペーンであった。
しかしeスポーツにおいては、対象となっているゲームを個別のユーザーに買わせる目的というよりは、ゲーム自体の裾野を広げ認知度を高めるという目的が強いであろう。
個別の取引付随性を有せず、商品や事業者の注目を高めるために経済上の利益を提供するのは「オープン懸賞」と呼ばれ、これの懸賞金額に規制はない。上記「景品表示法(第3版)」にもその旨記載されている。
すなわち高額賞金を出す「オープン懸賞」の結果、商品や事業者が結果的に注目を浴びて購入されることは景品表示法の規制対象ではない。
規制対象になるかどうかは、個別取引との「付随性」があるかどうかで判断される。
「付随」とは、主たるものに従たるものがつれること、を意味する。
とすれば、個別の懸賞について取引付随性があるかどうかは、当該懸賞について個別取引が主になっているか、懸賞自体が主になっているか、で判断すべきものと考えられる。
上記チューインガムの懸賞の例は、ガムを買わせることが目的であり、ガムの取引が「主」であることは明らかだ。取引付随性があるのは明白である。
しかしeスポーツにおいては、競い合い勝者を決める過程を客に鑑賞させるという点がメインであり、対象となっているゲームを購入させることが「主」であるとはいえない。
とすればeスポーツの大会について「取引付随性」ありとして景品表示法の規制対象となるのは不当とも考えられるものである。
 
過去記事(景品表示法)でも書いたが、景品表示法は曖昧な内容であり、明確性の原則からかなり問題がある法律である。
こういう曖昧な法律の萎縮的効果によって有意なイベント開催が阻害されるというのは、個人的に不愉快極まりない。
専門家として、不当に思われる規制については積極的に弁護していきたい。
 
なお上記の例は、メーカー自体が大会を主催する場合を想定している。
ゲームのメーカーや販売者以外の第三者が賞金を提供する場合は、事実上当該メーカー等から賞金が拠出されているとみなされない限り、景品表示法の規制対象にはならない。
 
 

賭博罪を専門とする弁護士として,新年早々非常に嬉しい結果を出すことができた。

私は昨年から,いわゆるオンライカジノをプレイしたとして賭博罪の容疑を受けた人の弁護を担当していたのであるが,これにつき,不起訴を勝ち取ったのである。

 

昨年,オンラインカジノをプレイしていたユーザー複数が賭博罪の容疑をかけられた。

彼らのほとんどは,略式起訴されることに応じて(これに応じるかどうかは各人の自由である)軽い罰金刑になることに甘んじたのであるが,そのうち1人は,刑を受けることをよしとせず,略式起訴の打診に応じず争いたいとの意向を示した。弁護を担当したのは私であった。

 

本件は,海外において合法的なライセンスを取得しているオンラインカジノにつき,日本国内のパソコンからアクセスしたという事案である。

この形態の案件は,従前検挙された例がなく,違法なのかどうかがはっきりしない状況になっていた。

賭博をやったのは認めるが,そのような状況で不意に検挙されたのが納得いかない,というのがその人の言い分であった。

 

賭博罪の不当性を強く感じている私としても,本件は是が非でも勝ちたい事件であった。

本件のポイントは,いわゆる必要的共犯の論点で語られることが多かったが,私はそれは違うと考えていた。

これのポイントは,被疑者が営利目的のない単なるユーザーであり,罪名も単純賭博罪であるという点である。

 

賭博罪とひと口にいうが,単純賭博罪と賭博場開張図利罪の軽重は雲泥の差である。

後者の量刑は3月以上5年以下の量刑であるが,前者の量刑は50万円以下の罰金である。

諸外国では,賭博場開張図利罪や職業賭博は処罰するが単なる賭博は処罰しないという法体系を取っている国も多い。

ドイツ刑法や中国刑法がそうだ。

 

現行刑法でも,単純賭博罪は,非常な微罪である。

法定刑は罰金のみ,罰金刑の法律上の扱いは軽く,たとえばわれわれ弁護士は,執行猶予が付いても懲役刑なら資格を失うが,罰金刑なら失わない。

またこのブログで散々書いているように,今の日本は,競馬やパチンコなど,容易に合法的な賭博行為ができる環境が整っている。

つい先日には,カジノ法案も可決された。

そのような状況で,この微罪を適用して刑に処することが刑事政策的に妥当であるとは到底思えない。

単純賭博罪は撤廃すべきというのが私の主張であるし,少なくとも,この罪は今すぐにでも有名無実化させてしかるべきである。

 

本件の特徴は,当該賭博行為につき,海外で合法的なライセンスを得ている一方当事者である胴元を処罰することはできないところ,他方当事者であるユーザーを処罰しようとする点にある。

この点は従前,必要的共犯において一方当事者が不可罰である場合に他方当事者を処罰することができるのか,という論点に絡めて語られることが多かった。

しかし,真の問題点はここではないと私は考えていた。

賭博場開張図利罪と単純賭博罪の軽重は雲泥の差である。

賭博行為について,刑事責任のメインは開張者(胴元)が負うのであり,賭博者(客)が負う責任はある意味で付随的である。

賭博犯の捜査は胴元の検挙を目的におこなうものであり,「賭博事犯の捜査実務」にもその旨記載がある。

そこには,些細な賭け麻雀を安易に検挙すべきでない旨の記載もある。胴元のいない賭博を安直に検挙することをいさめる趣旨である。

 

以上を踏まえたとき,本件は,主たる地位にある一方当事者を処罰することができないにもかかわらず,これに従属する地位にある当事者を処罰することができるのか,という点が真の論点となる。

この点,大コンメンタール刑法には,正犯者が不可罰であるときに従属的な地位にある教唆者や幇助者を処罰することは実質的にみて妥当性を欠くので違法性を阻却させるべき,との記載がある。

賭博事犯において,胴元と客は教唆や幇助の関係にあるわけでないが,その刑事責任の軽重にかんがみれば,事実上従属する関係にあるといえる。

 

というような話は,私が検察庁に提出した意見書の一部である。

本件での主張事由は他にも色々とあり,それらを全て書くと長すぎるし,そもそも,ラーメン屋が秘伝のスープのレシピを完全公開するような真似はしない(半分冗談半分本気)。

 

結果が出たのは,間違いのない事実である。

本日時点において,オンラインカジノプレイヤーが対象となった賭博罪被疑事件で争った案件は国内でただひとつであり,そのひとつは,不起訴となった。

言うまでもなく,不起訴は不処罰であり,何らの前科はつかない。平たく言うと「おとがめなし」ということだ。

営利の目的なく個人の楽しみとしてする行為を対象とする単純賭博罪の不当性をうったえ続けている弁護士として,この結果を嬉しく思う。そしてちょっぴり誇りに思う。

 

 

【追記】

上記ブログは2017年1月6日に書いたものです。

不起訴になるかどうかは諸般の事情が総合的に考慮されて判断されるものであり、個別の事件ごとに異なります。

2022年10月より警察庁は海外で合法的に運営されているオンラインカジノに日本国内から接続して利用する賭博は犯罪である旨をホームページで告知しており、その後オンラインカジノの利用で逮捕された者も複数いるので留意すべきです。

うちの事務所のHPを管理している中島という男から,本ブログの記事「賞金付ゲームと賭博罪」が引用されている記事があるとの連絡があった。

見てみると,アマゾンプライムの配信番組「ドキュメンタル」が賭博罪にあたるのでは,と問う記事であった。

 

ドキュメンタルは,10人の芸人が各々100万円ずつを持ち寄り,互いに笑わせあって笑ったら負け,最後まで残った1人が賞金1000万円を総取りするというスキームだ。

 

この点,賞金が出るからといってただちに賭博罪が成立するわけでないことは上記記事でも書いたとおりである。

賭博罪が成立するためには相互的得失の要件が必要である。相互的得失を平易にいうと,リスク=リターンの関係である。リスクとリターンがイコールになってはじめて賭博罪が成立する。スポンサーが賞金を出すだけでは賭博罪には該当しない。

 

もっとも,ドキュメンタルでは参加者に賞金獲得のリターンがあるだけでなく,負ければ100万円が没収されるというリスクもある。

ドキュメンタルのスキームは俗にステークス方式などと呼ばれるものだ。この場合,確かに,形式的には賭博罪の要件を充たしそうだ。

 

ただ,かといって「ドキュメンタル」を違法だと糾弾すべきかといえば,そうではない。

賭博罪は風紀に対する罪である。

形式的に賭博罪に該当したとしても,実質的に風紀を害していないのであれば,可罰的違法性はないと考えられる。

刑法185条ただし書が「一時の娯楽に供する物を賭けた」場合の違法性を阻却していることもこのあらわれである。

パチンコの三店方式を事実上公認する政府答弁が出たのも,風営法上の規制等をしん酌したとき,パチンコが事実上の賭博行為であったとしてもこれは世間の風紀を乱しているものではないとの判断がなされたからだ。

賭博罪の存在趣旨は,賭博行為が怠惰浪費の弊風を生じさせ,勤労の美風を害し,窃盗や暴行脅迫などの犯罪を誘発するおそれがあるから,というのが判例理論である(昭和25年11月22日最高裁判所判例)。

とすれば,形式的に賭博行為にあたったとしても,上記弊害が極めて低いと判断される場合は,刑法の謙抑性の観点から問疑すべきでないし,この点,現役検察官が著した「賭博事犯の捜査実務」にも「あまりに些細,軽微な事案まで検挙しようと試みることは,市民から無用の反発を買う結果になる」と記載されている。

 

賭博罪の実質的違法性(上記弊害の程度)は,対象となる行為の属性,行為者の属性,行為の営業性(反復継続性)等で判断される。

この点,「ドキュメンタル」は,番組上のショーである”お笑い”が対象行為となっており,それは法律上「射幸心をそそるおそれがある」として扱われているパチンコや麻雀とは異なる。行為自体に,射幸性との関連は全くない。

また,行為者もプロのお笑い芸人であり,賭博を業としている人種では全くない。

さらに,番組は単発で反復継続性はなく,また,当該行為にテラ銭を取るなどの営業性は皆無である(番組の視聴料は視聴の対価であり賭博行為の対価ではない)。

 

なお,本件は番組であり表現の自由が関連するところ,賭博罪と同じく風紀に対する罪であるわいせつ文書犯罪罪についての判例理論は,性的描写があったとしても文書が持つ芸術性・思想性が性的刺激を緩和させてわいせつ性が解消された場合は同罪に該当しない,としている。

風紀侵害の有無は,当該表現物に照し合せて個別的相対的に判断すべきとの理論だ。

「ドキュメンタル」は,本質は「お笑い」であり,賞金云々は単なるアクセントである。本件につき賭博性質が高いとはいえない。

 

以上からすれば,「ドキュメンタル」は,賭博罪の要件を形式的に充足するとしても,それが実質的に法に抵触し検挙される可能性は事実上ゼロであるといえる。

 

 

 

さて「ドキュメンタル」を見たが,非常に面白かった。

私は元来インドア人間で,お笑いもドラマも映画も大好きだ。

ただ,特に最近の地上波は,過度な自主規制があるのだろう,刺激が足りないし,出演者たちも明らかに窮屈そうだ。

本件のような「賞金」の要素は,バラエティをつくるうえで有意なアクセントになるものである。

ただこれをやると,今回のように突っ込まれることもあるし,なかには,弁護士を名乗る者が突っ込むこともある。しかもこの手の弁護士は複雑な賭博罪の機微をよく理解していないことも多いから始末が悪い(めちゃイケ賭博罪疑惑の潔白性)。

 

番組のような創作物については,表現の自由が関連する。

表現の自由はもっとも重要な人権である。

アメリカの判例理論は,表現の自由の重要性に鑑みれば,保護すべき表現を保護するだけでは不十分だ,としている。

すなわち,完全に精緻な規制など不可能であり,限界線付近の事例については通常人は萎縮をするので,表現の自由を十分に保障するためには,表現の自由に一定の「緩衝地帯」を設けるべき,というのがその理論である。

微妙な表現は全部セーフにする,という理論である。

そこには,表現については一切の萎縮をさせるべきはない,という思想が根底にある。

しかし,現状の日本では,表現者が明らかに萎縮せざるを得ない状況になっており,これは明らかに不当な状況だ。

 

法律は,人々を萎縮させるためのものではない。

法律は,人々の安全を確保し,自由を拡大するためのものである。

 

弁護士は法律のプロなのだから,その技術を人々を解放させるために使うべきである。

「賭博」という言葉が対象とする範囲は広い。

それゆえ,「これは賭博罪にあたる可能性があります」などというのは,法学部の学生でも言える話だ。

プロの弁護士として,そんな話を得意げにして表現者を萎縮させて何になるのか,という思いが私には強い。

 

「賭博」の対象範囲は広いが,「賭博罪」の成立要件はそれほど単純ではない。形式的要件を充たしても,実質的に検挙される程度の違法性なし,と判断される場合もある。

 

そもそも「ドキュメンタル」,笑いを本質としたこの番組を見て,賭博罪にあたるかどうかを議論するなんて,直感的に無粋であろう。

法律は無粋な真似をすべきではない。

私は,粋を守る弁護士でありたい。

 

今回の記事はカジノ法案について書いたものだが,これは,先日産経新聞の言論サイトに載せていただいたものと同内容である。

既にこれを読んでいただいたいる方には内容が重複するので,あらかじめ断っておく。

賭博罪を調べるためにこのブログを参照いただいている方も多いので,ブログにも載せておこうとした次第である。

なお,上記記事は,12月9日の産経新聞にも載せていただいた。

大マスメディアで賭博罪の是非を問えるのは非常に意義深いことだと思っている。これからもお声がけがあれば,積極的にやっていきたい。

 

 

 

 

現行刑法には、賭博罪及び賭博場開張図利罪が存在する。

カジノの経営は、賭博場開張図利罪に該当する行為である。よって、これを解禁するためには特別法を制定する必要がある。

この点、現在の日本では賭博罪が存在する一方で、全ての賭博が禁じられているわけではない。公営競技である競馬や競輪は、賭博ではあるが特別法により違法性阻却がされている。

 

とすれば、カジノにおいても同様に特別法をつくればすむのではとも思えるが、ことはそう簡単ではない。特別法によって文字どおり「特別」な扱いをするにはこれを正当化する根拠が必要である。

 

判例は、競馬法による賭博の解禁の正当性について以下のように論じる。

 

「個人のする賭博ないし賭博場開張図利は、これを一般大衆の恣意に放任するにおいては、一般国民の射幸心ないし遊惰を醸成もしくは助長させるおそれがあり、ために善良の風俗に反し公共の福祉を害するからこれを禁止すべきものとするも、公共機関の厳重、公正な規制のもとにおける射幸心の発露は害悪を比較的些少にとどめ得るから、これを許して犯罪とみないということも複雑多岐の社会生活を規制するうえからは、むしろ賢明な措置として是認されるべきであると言わねばならない」(昭和40年4月6日東京高等裁判所)

 

 一部にのみ賭博を解禁する特別法は、憲法に定められた平等原則の例外になるため、競馬法や自転車競技法はその合憲性が裁判で争われた例が複数ある。もっとも判例は、競馬や競輪が「公営」である点を根拠として、この不平等な扱いには合理性があると判断し続けてきた。

 

しかし、カジノについてはここで問題が生じる。カジノによる経済効果を最大限に発揮するには、これを公営にすべきではないのだ。

 

 シンガポールでカジノが大成功した理由のひとつには、民間から投資を募り公の負担なしに巨大な開発を実現した点がある。同国では、カジノ設営にあたり民間各社を集め入札を実施し、もっとも優れた条件を提示した会社にライセンスを付与した。

 

カジノ経営には専門的なノウハウが必須であり、これを成功させるためにはそのようなノウハウに長けた民間企業に経営させるべきである。カジノを公営にしてしまっては、せっかくの経済効果が大きく減殺され、解禁の趣旨が損なわれる。

 

ただし、民間が経営するカジノを解禁するのであれば、賭博罪の特別法に関し従前使用されていた「公営性」を正当化事由にはできない。新たな正当化事由が必要になる。ここでは、もはや賭博そのものと向き合って正当化事由を提示するしかないのではないか。

 

 現在日本では、賭博罪が存在するとはいえ、国民はきわめて手軽に賭博ができる環境にある。競馬においては、ウインズの増設やネット購入システムにより、馬券へのアクセスはひと昔前に比べて大きく整備された。

 

 三店方式によって事実上の賭博と言ってもいいパチンコ店は至るところに存在し、政府は先日、現行の三店方式を公に承認する旨の答弁を出した。これに加えて民営カジノまでも解禁するというのであれば、もはや「賭博」を原則的に犯罪行為とする考え方では、法律的な整合を達成し得ないはずである。

 

私個人は賭博罪を撤廃すべきという考えであるが、まだこういう考えの人は世間に少ないであろう。しかし、カジノ解禁と賭博罪との整合性を曲がりなりにも説明するためには、少なくとも「公営だから許される」という安直な論理では不十分である。賭博という行為の本質、それが人々に与える影響、現在の日本における賭博環境、これらを全て踏まえた上で、「よって〇〇」という正当化事由を国家は示すべきだ。


カジノ解禁には、反対する声も大きい。これは解禁の根拠として「経済」の側面のみを挙げていることも影響している。

賭博は原則的に犯罪だ、しかしカジノは「儲かるからやる」。

このように話を進めるのであれば、儲けるためならば悪いことをしてもいいのか、という道徳や品位の面からの反論があるのは当然である。

儲かるからやります、という論理には国家哲学的な思想が何もない。国民が国家に求めるのは金儲けだけではない。札束で頬を叩くだけで国民の心がつかめるはずがない。

 

 

約60年前のイギリスでは、カジノを含むギャンブルの解禁を検討するにあたり、賭博についてのあらゆる側面を調べるために国王命令での国家的な調査を実施した。

 

約2年間に渡る長期的な調査の結果、「賭け事を重大犯罪の直接原因と考えるのは無意味」「小犯罪の直接原因と考えるのも現在は意味がない」「賭博は人格形成においても、有害な影響ありとは考えにくい」等の結論を出した上で、「国家は必要不可欠なもの以外に禁止を設けるべきではなく、刑法においてこれを軽々しく取り上げてはならない。禁止してかえって邪悪を生み、邪悪を減らそうとして漫然と禁止を設けることは、いかに禁止が望まれようとも、なされるべきものではない」との最終結論を出した。

 

これを受けイギリスでは賭博を全面的に解禁する法律が制定された。当時の内務大臣は解禁法の趣旨につき、以下のように説明した。

 

「賭博は適正な範囲でおこなわれる限り、人の性格や家庭及び社会一般に対して大きな害毒を流すものとは考えられない。国家は社会的に問題とならない限り、一般国民の楽しみを阻害してはならない」

 

イギリスでは、緻密な調査を経て、賭博に対する国家の哲学を明示した上でこれを解禁したのである。

一般的な法律論として、原則に対する例外を認めるためには、必要性と許容性がいる。カジノ解禁については、必要性は、経済的な理由で足りよう。少なくとも、その国で最初につくられたカジノが失敗した例は今までに一度もない。しかし、根強い反対論を押さえるためにも、許容性の提示が必要だ。

 

現在の日本で、単なる賭博は、はたして刑法での規制に値する悪性の強い行為といえるのか。娯楽としての賭博は悪なのか。

 

スマホひとつで買える馬券は。息抜きにするパチンコは。ささやかな賭け麻雀は。

これらは本来的に「悪辣」なのか。

これらに法律的な扱いの差を設けるのは妥当なのか。

日本国家は、そろそろ、このような問に正面から向き合って合理的な答えを出すべきだ。

 

賭博は悪いことである。犯罪である。この原則を維持したままで、賭博に対する何らの国家哲学を示さずに、単に経済的な理由のみでカジノ解禁法を定めるというのでは、法律的整合性の観点から問題が大きいし、反対派を説得するのは無理だ。

 

私は、賭博の解禁論者だ。賭博は規制すべきものではあるが、禁止すべきものではない。禁止からコントロールへ、これが大人の国家のあり方である。

 

カジノの解禁は、賭博に対する新たな国家哲学の醸成に繋げるべきだ。法律的な整合性を糊塗して臭い物にフタをしていくというのは、近代国家のあり方とは到底いえない。

 

本記事にあたりまず確認しておきたいのは、現行法上、賭け麻雀はたとえ低額の賭けであっても賭博罪にあたるということだ。
検察官が著した「賭博事犯の捜査実務」には些細な賭け麻雀を検挙することは無用の反発を招くと記載されており、実際上も賭け麻雀が検挙されることは滅多にないのであるが、賭け麻雀がれっきとした違法行為であることは間違いなく、特にこれを公然とおこなう(宣伝等)と検挙される危険が高まる。
レートは関係ない。ピンまでは捕まらない、などというのは認識として誤っている。
ピンでもテンゴでも、検挙された例はある。

麻雀店が賭博で検挙された場合、いかなる罪が適用されるか。
数年前に私が弁護を担当した事件では、店の関係者には賭博場開張等図利罪が適用された。
賭博場開張等図利罪は、刑法上決して軽い罪ではない。初犯ではほぼ執行猶予がつくとはいえ、軽い罰金刑ですまされることはない。
客が単純賭博罪での罰金刑になることと比較すると、その差は非常に大きい。
懲役の執行猶予と罰金刑では、法律上の重さがかなり異なる。たとえば弁護士は、執行猶予付き懲役刑を受ければ資格を失うが、罰金刑ならば失わない。

麻雀店が検挙された場合の全てにおいて賭博場開張図利罪が適用されるのかというと、そうではない。
「賭博事犯の捜査実務」では、賭博場開張等図利罪を安易に認定してはならない例として麻雀店が挙げられている。以下の記載がある。

「麻雀屋が、賭け麻雀をする客の遊技を断れば客足が落ちるので、あえてこれを見逃し、客の入りをよくし、いわゆるゲーム代として規定どおりの遊技料を徴した場合を考えてみる。麻雀屋が、その遊技料金の増加、つまり利益の増加を意図していたことが明らかであることから、いきなり賭博場開張図利罪に問疑できないことは、常識的に理解できよう。その理由は、この場合の麻雀屋には『賭博の主催者』としての地位が認められないからである」

過去記事でも書いたとおり、賭博場開張図利罪の成立するためには「主宰性」が必要である。
主宰性とは、当該賭博を管理支配していた事実のことをいう。
単に客が賭け麻雀をしていただけでは、店が賭博場開張図利罪に問われることはない。
その賭博を「管理支配」していたといえない限りは、賭博罪のほう助が成立するにとどまる。この場合は、営業停止等の風営法上の処分を受けることは格別、刑事上の責任は軽い罰金となる。

人気麻雀漫画「天牌」の第1巻では、麻雀店の形態には3つあると書かれている。
①卓だけを貸し場代で利益を上げるセット雀荘
②「お一人様でも遊べます」との看板をあげたフリー雀荘
③フリーとまではいかないが気の合った仲間内がルールを決めて遊んでいるいわば会員制フリー雀荘

このうち①は、仮に客の賭け麻雀を黙認していたとしても、賭博場開張図利罪に問われることはない。主宰性が認められないからだ。
では③で賭け麻雀がされていた場合はどうか。これも店による「管理支配」があるとは認めがたい。疑わしきは被告人の利益にの原則のもと、主宰性の立証が困難である以上、賭博場開張図利罪が適用される可能性は事実上ないといってよい(なお③では店主自身が日常的に麻雀を打っている店も多く、その場合高レートや暴力団絡み等で悪質と認められたときに常習賭博罪が適用される可能性は残る)。

問題となるのは、②で客が賭け麻雀をしていた場合である。
上記事件は②に当てはまる店であり、結果として賭博場開張図利罪が適用された。
裁判所は
ア レートは店が決めていてノーレートで遊ぶことはできない
イ 2種類のレートがありレートごとにゲーム代が異なる
ウ 店が預かり金を徴収している
エ ゲーム代に加えてトップ賞を徴収している
オ ゲーム終了時に勝ち金額と負け金額が卓上に表示される自動精算機能を使用していた
等の事実を根拠に、店が賭け麻雀を管理支配しており主宰性があることを認めた。
これは裏返せば、上記のうちの全部もしくは複数がなければ、主宰性が認められない余地があるとも考えられる。
特に上記のエは、賭博場開張図利罪の要件の「図利」にも関わってくる事実だ。
賭博場開張図利罪の成立には、開張者が俗に「テラ銭」と呼ばれる賭博の対価を得ることが要件となる。
「賭博事犯の捜査実務」では「テラ銭」は「賭博場開張者が賭客に対して賭博をする機会を与えた代償として、その勝者から徴収する金をいう」と定義されている「勝者から」と定義されている点が注目である。
カジノにおいてもコミッションは勝者から取るのが原則だ。
麻雀店は貸卓料は合法的に徴収することができる。
トップ賞を取らずゲーム代がフラットだった場合、仮に客が賭け麻雀をしていたとしても、店としてはゲーム代はあくまでも貸卓料であり賭博の対価である「テラ銭」は取っていないと主張することが一応可能となる。

麻雀店関係者ならよく分かると思うのであるが、②と③の店の境界は必ずしもはっきりしない。
表向き②の形態を取っていても、事実上③になっている店も存在する。
こういう店は、賭博場開張図利罪に問いにくい。
客たちが勝手にサシウマや倍プッシュをやり出すような店は「管理支配」があるとはいえないので、主宰性が認めがたいのだ。
おおざっぱに言うと、ひとりで来る客同士が賭け麻雀を打つ麻雀店(②ないし③)の場合、ルールやシステムをいい加減にしておき「賭け麻雀は客が勝手にやっていることなので店はよく知りません」という状況にしておいた方が、管理支配性が認められず軽い賭博罪のほう助にとどまる可能性が高まるのである。

ただ私個人は、ここに法律の歪みを感じてしまう。
店がサシウマや倍プッシュを禁止するのは、ひとりで来る客同士の無用のトラブルを避けるためである。
これを禁止しない方が罪が軽くなりやすいというのには、矛盾を感じざるを得ない。
もちろん賭け麻雀はしてはいけない違法行為なのであるが、ひとりで麻雀店に行き賭け麻雀をしたいと望む客がいて、売上のためやむを得ず賭け麻雀をさせる場合は、トラブル防止のための「管理」を店がした方が風紀維持には繋がるのではなかろうか。
上記事件の麻雀店は、業界トップクラスの「管理」がゆきとどいてた店であった。
その「しっかりした店」であることが繁盛に繋がっていた。実際、暴力団関係者の出入りも皆無で、店内での傷害事件等のトラブルもなかった。
しかし賭博場開張図利罪の認定においては、その優れた「管理性」が全て裏目に出てしまったのである。
賭博罪のそもそもの趣旨である風紀維持という観点からは、こういう法律状況には疑問が残るところである。

とある大御所麻雀プロと会食中、ぼそっと呟かれた言葉をよく覚えている。

「俺たちの時代、プロの麻雀は文学だった。どう表現するかっていう勝負だったんだよ」

 

昭和40年代の麻雀ブーム、その象徴は阿佐田哲也だった。

「麻雀放浪記」をはじめベストセラー連発、またプロデューサーとしても辣腕を発揮、麻雀新撰組を率いてテレビの人気バラエティ番組にも多数出演した。

彼の影響力はあまりにも大きく、それは現在にまで及んでいる。

ただ、ブームから半世紀近く経つ今、その影響力に負の側面があることも確かだ。

「麻雀放浪記」はピカレスクロマンである。

そこでは「イカサマ」「賭け」が重要なファクターとなっている。

世間にはいまだに、麻雀プロ=イカサマ、というイメージを持っている人も多い。

私が麻雀プロであることを伝えたとき、「へーすごいですね。イカサマとかもできるんですね」と言われたのは1度や2度ではない。

先日も竹書房の社員が企業対抗麻雀に出たとき、他社から「竹書房の社員さんてイカサマとかできるんですよね。勝てるわけない」なんて言われたそうだ。

これらは阿佐田及びそこから派生したものによる悪影響であると言わざるを得ない。

ピカレスクロマンによく合う素材だと認識されているうちは、劇的なイメージアップやメジャー化はなかなか困難である。

阿佐田哲也の功績は果てしなく大きい。

ただ、今後はその影響力に伴う負の側面を払拭していくことも大事だろう。

 

阿佐田の大きな功績のひとつは、花札やチンチロリン等と同列のギャンブルだとみなされていた麻雀を知的ゲームのひとつであると世間に認識させたことだ。

彼が著した戦術書「Aクラス麻雀」は広く読まれ、麻雀人口の増加に大きく寄与した。彼のとなえる戦術がスタンダードになることは必然だった。麻雀=阿佐田哲也であった時代、対抗馬などいるはずなかった。

阿佐田哲也は文人である。
ゆえに彼が説く麻雀戦術もたぶんに文学的である。

因果の流れに重きを置き、勝ち負けの機微を説く。

それは趣深いもので、格調高い。人々の情緒にしっくりくる優れた文学である。

阿佐田は絶対的なスタンダードであり、麻雀プロの世界でもそれは同じだった。

文学的な戦術を操り、文学的に表現する。それこそがプロの麻雀であったのだ。

 

阿佐田が麻雀を知的ゲームだと世間に認識させたことで麻雀の間口は広くなり、また阿佐田以外の業界人の努力もあり、徐々に多士済々な若者が麻雀プロの世界に入ってくるようになる。

やがて、上の世代が予期しなかったことが起き出した。

何人かの優れた若手が、絶対的スタンダードである「阿佐田的戦術」を公然と否定しはじめたのである。

彼らはまとめて「デジタル派」などと呼称されていたが、当人達は不本意だったろう。

彼らは個々の雀風も全く異なるし、平面的な確率のみを重んじでいるわけでもない。

ただ共通していたのは「非科学的・非論理的に麻雀を語るべきではない」という主張だ。

阿佐田的戦術は文学である。格調高く味わい深いが、論理性や合理性には重きを置いていない。

そこに異議をとなえた「デジタル」であるが、当初かなり叩かれたようだ。それはやむを得ない。芥川賞を目指す集団の中で「そんな文章では司法試験に合格できない!」と主張しても認められるはずがない、というかそもそも噛み合わない。

 

ただこの頃には、一般ユーザーも阿佐田的戦術では物足りなくなっていた。

綺麗なフリー麻雀店やネット麻雀の普及で、不特定多数と対戦する麻雀の敷居が低くなった。仲間内のコミュニケーションツールというよりは、ゲームとしての麻雀を楽しむ層が増えてきた。

ゲームとしてやるからには勝ちたい、勝つための簡便な方法を知りたい。

そんな人々が求めたのは、味わい深い戦術書ではなく、味気ない参考書であった。

 

平成16年末、エポックメイキングな戦術書が刊行されベストセラーとなる。「科学する麻雀」である。

数式や統計に溢れた同書は、非科学的な戦術を真っ向から否定した。

情報科学研究科卒の国家公務員によって著された同書は、「文学的麻雀」に対する実学者からの強烈なカウンターパンチであった。

以降「デジタル派」雀士達が多くのタイトルを獲得するようになったこともあり、麻雀は科学的に語るべし、という層が増えていく流れになり、現在では、少なくとも「阿佐田的戦術」が絶対的なスタンダードであるとはいえない。

 

文学的な戦術は趣深いもので、私は全然嫌いではない。

むしろ「科学する麻雀」なんて、無味乾燥に過ぎて読破するのに苦労した。

ただ、麻雀を科学的に語る流れは、今後いっそう強まってほしいと願う。

私の専門は法律だ。

現在、麻雀を取り巻く法律が非常に不当だという思いが強く、何とか改正されないものかと考えている。

そういうときは、やはり科学なのだ。

ビリヤードが風営法から外されたときには、業界一丸となって、ビリヤードは物理法則に基づく科学的なゲームだから射幸心を煽らない、と訴えた。これは参考にすべきである。

 

「科学する麻雀」がヒットして間もない頃、麻雀業界には戸惑いの声も多かった。それはスタンダードが否定されることへの不安と言い換えてもよかった。

阿佐田的なもの、文学的なものを否定して、プロの麻雀など誰が見るというのか?

 

ただ、それは杞憂であった。

ひとつのスタンダードが否定されることで致命的なダメージを受けてしまうほど、麻雀は底の浅いものではなかった。

ネット動画の普及により「デジタル派」雀士たちの麻雀も映像で流れるようになったが、彼らにも多くのファンがついた。

彼らの麻雀は「阿佐田的戦術」とは無縁であるが、その熱戦はファンの心を捉える作品であり、それもまたひとつの「文学」といえるものであった。

そもそも麻雀自体、アナログな不完全情報ゲームである。

戦術的アプローチはどうあれ、強者同士が人生を賭け力を尽くして打つ麻雀は、機微に富み、情緒に溢れた「文学」に昇華するのであろう。

 

来る8月16日12時、スリアロ31時間スペシャルのトリとして、「京都グリーン杯真夏の浴衣スペシャル」が開催される。

メンバーは下記のとおりだ。

予選A卓 多井隆晴・村上淳・小林剛・しゅかつ 

予選B卓 近藤誠一・成岡明彦・藤田晋・堀内正人(敬称略・年齢順)

実況 小林未沙  解説 福地誠・アサピン

 

お盆の忙しい中、素晴らしいメンバーに集まっていただいたことには、感謝の言葉しかない。

麻雀ファンには堪えられない「文学」が見られること間違いない。

というわけで、長々書いてしまったが、結局は主催する番組の宣伝でした(・ω<) てへぺろ

 

http://live.nicovideo.jp/watch/lv272257112

 

 

 

オンラインカジノ運営業者を逮捕 全国初…国内運営と判断

http://www.sankei.com/west/news/160610/wst1606100039-n1.html

 

オンラインカジノについて「胴元」の逮捕事案がはじめて出た。

過去ブログでも書いたとおり,海外にサーバーがあるオンラインカジノについては,胴元を日本の刑法で処罰できないのが原則である。

本件業者も,報道ではキュラソーでの合法的なライセンスを取得しているようだが,当局は,実質的には日本人が日本国内で胴元をしているのと同様である,という判断をしたのであろう。

 

逮捕者は「事実と異なる」と容疑を否認しているようである。

当局がいかなる証拠をもって実質的な運営が国内であると判断したのは報道を見る限りは分からない。

「サポートが日本語しかなかった」ということが報道であげられていたが,さすがにこの事実だけをもって形式が覆るとは思えない。

他にも多くの証拠があるはずで,その立証構造は専門家として非常に気になる。

容疑者からすると,海外での合法的なライセンスを取得しているという形式は,相当程度しん酌されるのが原則だ。

賭博罪は風紀罪であり,違法性の程度には公然性が影響する。

海外でのライセンス取得という”形式”は違法性の程度にも影響を与えるはずである。

ただ,海外法を利用しての”形式具備”は最近のパナマ文書の問題と共通するところもあり,丁度昨今批判の対象にもなっているところだ。

まさか京都府警はそこまで計算に入れたのだろうかw

 

いずれにせよ,容疑者はさしあたり否認しているようであるし,賭博罪を専門とする弁護士としても,弁護材料となる要素は多数ある事件に思える。

事件の推移に注目したい。