現象学における本質直観において、フッサールは事実と本質を次のように区分している。
事実とは、それぞれの個的存在に関わり、従って「偶然的」なものであるが、本質とは、その個的存在の「偶然性」に含まれている本質「必然性」の側面であると。
どんな事実も必ずそこに本質を含み、従ってある本質として観取され、記述されると言う。
例えば、
私が今見ているこのペットボトルは、「今ここにあるもの」として「偶然的な事実存在」である。
ところが、同じこのペットボトルは、「Asahiの天然水」とか、「水の入ったペットボトル」と言われる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的なもの」(その事物の特質)だ。
我々は前者の側面を事実と呼び、後者の側面をその本質と呼ぶ。
この言葉それ自体が含む普遍的規定性、それが本質である。
要するに現象学でいう本質とは、言葉によって形成される何らかの理念の意味のことである。
事実(個物)と本質に関する現象学の定義は以下のようになる。
1.どんな「経験的もしくは個的直観(知覚の到来性)」も「本質直観」(理念を観て取る働き)へと転化させられる。
つまりは、どんな事実も言葉の意味へ置き直せる。
また、この意味への置き換えは、必ずしも十全なものとは限らない。(言葉によって言い尽くせてしまう事実と言い尽くせない事実がある)
2.どんな個的直観も本質直観へ転化させられるが、本質直観は個的直観なしに想起や記憶のうちだけでも成立する。
例えば、今私が現にペットボトルを見ていなくとも、任意にペットボトルを想像的に喚起し、そのペットボトルの本質を考えることができる。
3.これが重要であるが、本質直観は「原理的に固有のまた新しい種類の直観である」と言う。
この命題が、「本質直観」もまた「個的直観」と並んで「原的な直観」であるとみなされる所以である。
※個的直観とは、
たとえば目の前のカップが「見えてしまっている」、相手の声が「聞こえてしまっている」という、いわば動かしがたい知覚の〝到来性〟のこと。
わたしたちは、この目の前のカップの実在や声の主の実在を、疑おうと思えば疑える。しかし、それが「見えてしまっている」「聞こえてしまっている」という知覚の到来性については、決して疑うことができない。
現象学においては、定義または規定は必ず独我論的主観から出発し、主観そのものへの内省によって考えを進めるという方法から帰納される。
カントの理論は一種の物語(フィクション)だが、フッサールの理論は、ただ内省によって得られた自己記述である。
現象学のこの方法を本質問題を例に考えてみる。
本質とは何かという問いを立てるとする。
私たち人間にとって、3つの世界像がある。
一つは、日常世界(生活世界)であり、
私たちが今存在しているのは日常世界(生活世界)である。
この世界は経験的に自明な世界、そこにあるものを目で見て、触れられるような具体性の世界である。
二つ目は、伝聞、情報世界である。
私たちはその存在を決して疑ってはいないが、内実としては、伝聞、情報によってのみ、その存在の確信が生じている世界である。
この特質は、私たちにとっては決してその全体を経験することはできないが、その一部なら実際に経験されうる可能性を持った世界である点だ。
三つ目が、神話(フィクション)の世界である。
この特質は、誰もそれを経験できない点にある。
宇宙の果てはどうなっているのか、時間の起点はあるのか、死後の世界はどうなっているのか、神は存在するのかなど、の世界がこれにあたる。
ただ、理性が具体的な経験からの推論や憶測によって導き出したフィクション(物語)としか言えない。
この問いに対するどんな答えも原理的には、その真偽を決して確かめ得ない。
フッサールは世界認識のこう言う厄介な性格を熟知していたために、問い方を変更した。
現象学的な問いへの答え方は、自分の意識に生じているある働き(事象自身)をあるがままに記述することであり、人間の意識の働きの共通した側面という限りで、あるレベルでの一致(共通了解)の可能性を持つのである。
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