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今日は せいじ がフッサール現象学についてお伝えします。

前回は、フッサール現象学における主観/客観問題の基盤となる考え方を書いた。

今日は、フッサール現象学の核心となる「知覚直観」と「本質直観」のうち、知覚直観について書いてみたい。

フッサールは、主観の内から、外にある対象物(客観)の存在が疑えないと言う確信を得るには、「原始に与える働きをする直観」(原的な直観)が原理の原理として必要であると考えた。

フッサールは次のように考える。


なぜ、千差万別の「認識」や「思想」があるのか。


それは千差万別の判断があり、もっと正確に言えば、ある判断を正しいと見なす様々な「確信」があるからであると。


では人はなぜ、自分の「判断」を「疑えないもの」と信じるのか。


この人間の確信一般につきまとっている「不可疑性」の根拠を疑ってみたい。


判断には2種類がある。


直接判断と間接判断である。


「間接判断」はある事態に関して、直接経験されたものからではなく、直接経験からの類推や推論を含んだ判断である。


つまり、憶見(憶測・ドクサ)を含んだものだ。


従って、判断が様々に分かれ、誤った類推や推論を生じさせる。


学問的あるいは思想的判断や認識は全てこの間接判断(憶見)を含んでいる以上、原理的に「可疑的」なものである。


直接判断は疑えないもの(不可疑的)であり、間接判断は可疑的である。


どんな認識や思想にも必ず様々な憶見ががつきまとうが、その一番底には憶見と言えないもの、疑うことが無意味である「確信」の底板があると原理的には言える。


それをフッサールは諸原理の原理、つまり、原的な直観と呼ぶ。従って彼はこれを「認識の正当性の源泉」であると言う。


フッサールによれば、この原的な直観と呼ばれるものは2つある。一つは、「知覚直観」、もう一つは「本質直観」である。


そして、知覚直観とは、以下のようなものである。

私たちの直接判断(直観)は、それ以上疑うことに意味のない最後の不可疑なものであり、確信を生じさせるいちばん底の源泉である。


しかし、その物自体が実在するかどうかの疑える全てを疑った時、何が「疑えないもの」として残ることになるのか。


フッサールによればそれが「知覚直観」である。


知覚直観とは、個的対象についての経験的直観のことを言う。


私たち人間は、まず、知覚があり、それをもとに、記憶、想起、再表象(再び心に現れること)などが重ね合わさることにより、一つのコップならコップという、一つの対象を見る。


この考え方は、まず感性(感覚器官)による対象の受け入れがあり、次に悟性(理解)による総合的な統一があるというカントの考え方と重なっている。


現象学では、独我論的主観から出発するという前提がある。


独我論とは、自分にとって本当に確信できるのは自分の精神現象だけであり、それ以外のあらゆるものは疑うべき対象であると考える哲学的な立場である。


すると、知覚、想起、記憶、想像の性質の違いを主観そのものに問えばどうなるだろうか。


私たちが知覚と呼ぶ意識表像には、他のものとは決定的に違う性質がある。


それは、想起、記憶、想像などが、ほぼ意識の力によって、恣意的にそれを遠ざけたり、近づけたり、呼び寄せたりできるのに対して、知覚だけは常に恣意的意識の自由にならないものとして現れる。


知覚だけは、もしそれを遠ざけたい時、身体的な働きによらねばならない。


現象学的な見方で言えば、自分のうちに生じる様々な意識表像のうち、意識の自由にならず、恣意的意識の彼岸にあるものとして現れる意識対象が知覚である。


これが知覚とは何かの現象学的な定義である。


重要なことは、この理由によってのみ、知覚は疑えないもの、本当のものという確信一般を人間に生じさせる源泉だと言うことである。


知覚は確かに自我のうちに生じたものでありながら、常に自我を超えた非知のもの、独我論自我(自分自身の精神)の自由にならぬものとしてやってくる。


この理由で、自我を超えて自我の自己原因ではないものとして現れることこそ、自我に、自我ならざるものが確かに外側に存在することを告げる唯一の根拠となる。


知覚直観が、独我論的自我に対して、常にその外側の存在を疑えないもの(不可疑なもの)として指し示す、唯一の正当な源泉であるとみなされる。


フッサールのこの考え方は、デカルトの方法的懐疑、疑うものを全て疑い尽くした挙句、最後に残った疑えないものを取り出すという方法とほとんど重なっている。


両者の違いは次の点である。


デカルトは徹底的な懐疑の果てに、考える私=コギト(自己意識)の存在を最後の不可疑性として取り出した。


しかし、コギトの存在の確実性は、それ自体ではコギトの外側の存在(世界そのものやその中にある事物の存在)を保証できない。


そのため、デカルトは主観の外側に神の存在することを証明し、この神によって主観の認識の正しさを補償させなくてはならなかった。


これに対し、フッサールは次のように考えていたことになる。


主観は外には出られない。


また、デカルトのように神のような保証人を立てて、自分の外側からその認識の正しさ、確実性を保証してもらうわけにはいかない。


主観は自己の外側にあるものの実在の確実性を、主観/客観の一致という仕方で得ているのではない。


主観はこれをただ自分の内部からのみ、何らかの対象存在の不可疑性という仕方でだけ得ている。


そして、主観にそういう不可疑性を与える根本の条件は、知覚という、主観にとって自由にならないものの存在に他ならない。


これが現象学による主観/客観の謎解きの最も核心部分である。


次回は、フッサール現象学のもう一つの核心である、「本質直観」について書いてみたい。



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