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映画 向田理髪店💈と七人の秘書 劇場版を観た。
今年は既に40本の映画を観たようだ。

今日も 前回に引続き、現象学的還元について せいじ がお伝えします。

私たちは自然的世界像(主観/客観図式)に現象学的還元を施すことで「純粋意識」という一つの働きの極を仮説として取り出した。


ヘーゲルによれば人間の意識は二つの契機を持つ。


一つは直に対象と向き合ってそれに対してただ実践的な態度をとる意識の側面。


この意識の視線を第一視線と呼ぶ。


これに対し、この意識と対象の関係全体を想像的に上から眺めて客観化、対象化しようとする意識の働きがある。


この視線を第二視線と呼ぶ。


ヘーゲルによる第一視線では、対象はただ意識の欲望に応じて、「食べるべきもの」とか、「美味しそうなもの」などとして(想像や憶測を持って)現れるに過ぎない。


しかし、第二視線では、この意識と対象の関係全体を対象化し、自己とその外側の対象の関係についての世界の像を私の意識の中に作り上げる働きをする。


そして、こうして作り上げられた世界の像(関係像)が私の意識に働きかけることにより身体化され、第一視線として直に対象と向き合い、この意識と対象の関係全体を対象化した高次の第二視線が生じると言う。


こうして、意識の運動は第一視線と第二視線の弁証法的運動として、世界像を高次化する。


ヘーゲルによれば、この運動は意識にとって必然的なものであり、この運動の深まりは、認識の深まり(高次化)を意味し、その究極に絶対知なるものが想定されると言う。


ここで哲学者(ヘーゲル)の視線は、この意識運動の必然性をもう一段上から見守る第三視線であると言える。


そして、現象学的還元はこの第三視線だということができる。


しかし、ヘーゲルとフッサールの第三視線には根本的違いがある。


ヘーゲルは、対象に対する「このもの」と言う憶い込み(ドグサ)を含んだものから出発し、高次化の果てに絶対客観という最終目標へ向かう。


これに対し、フッサールは全く逆に、普通の人間の高次化された客観的世界像(憶見に充ちた世界像)から出発し、もはや憶い込みとは言えない意識の初原的な「働き」の在り様を捉えることを目標とする。


ヘーゲルは初原的な第一視線がいわばドクサであり、それを客観化、対象化した第二視線がより「真」に近い。


フッサールは第一視線が人間の直接経験であり、これを客観化、対象化する第二視線こそが、ドグサ、つまり、構成されたものを不可避的に含むのだ。


フッサールによる還元の視点は、こうして人間の第二視線に必ずつきまとうドクサ(類推や憶見)を括弧入れ(エポケー)する。


そしてフッサールは、第一に、もはやドクサとは言えない「確実なもの」の底を確定すること、第二に、この底からどのようにドクサが積み重ねられていくかという構造を取り出すところに目標を置くのだ。


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こんにちは!
GAFnetブログへようこそ、、今日も せいじ が現象学についてお伝えします。

映画 アイ•アム まきもと、マイ•ブロークン•マリコ、2日立て続けに観た。

何か共通のものを感じる。

それは、生きている、今ここを生きているということだろう。だから、映画に泥臭さがある。フィクションではない、命が生きている。

今日は、現象学的還元を具体的に見てみたい。

現象学的還元を行う上でいつくかの要点が出てくる。


1.「自然的世界像」につきまとっている一切の素朴な確信を怪しいものとして留保しておく。


2.「自然的世界像」を基盤とした科学的学問の成果、知見の一切も保留しておく。


3.科学的「学知」のみならず、いろいろな物語(神話、宗教上の世界像、諸作品など)の知見も保留する。


還元の方法の要点は以上の3つに尽きる。


要するに還元とは、様々なドクサ(憶見)に覆われた私たちの世界像を裸にすることである。


還元とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて、独我論的に考えを進める、という発想の転換、視線の変更を意味するに過ぎない。


そのような発想の転換がなぜ必要なのかが腑に落ちれば、誰でもそのような仕方で世界を見直せる。


このことを了解することが還元という概念を掴む唯一の道である。


「我々人間をも含めて全世界(自然的世界像)が遮断(エポケーによる還元)されたとすれば、何が残り続けるだろうか。


その答えは「純粋意識」である。


人間の自然な世界像は、

1.「具体的な直接経験の世界」、2.「伝聞、情報の世界」、3.「神話=フィクションの世界」から成り立っている。


23は具体的に確かめられない類推や憶見(ドクサ)で構成される世界である。


しかし、具体的経験世界も細かく見れば微妙なレベルでの憶見がつきまとう。


そこで、具体的経験を含めた様々な類推や憶見の在り様をその始めの出どころに還元してみる。


それらの類推や憶見の根をなし、それ自体どんな意味でも憶見と言えない経験のいちばん原型の場面へと還元する。


すると、「純粋意識」と呼ばれるものが「残余」として取り出せる。


この考え方は、デカルトが疑い得るものの一切を疑い、最後に唯一確実なものを「コギト」(考える私)として取り出したのと同じ手順である。


しかし、フッサールとの大きな違いは、デカルトはコギト(考える私)こそが疑えない最後のものとして残ると言い、そこから神の存在証明を行った。


これに対し、フッサールは、ほぼ同じものをコギトの代わりに「純粋意識」と呼ぶが、これはコギトのように実在するものと考えられているのではなく、ただ、人間の経験や世界像一般を可能にしている一番基礎の働きそのものとして取り出されている。


故にそれは、存在=実在するものではなく、存在の確証の手がかりにはならない。


例えば、人間の世界像を玉ねぎのようなものだと考えてみる。


玉ねぎの芯には玉ねぎの皮の組織に作り出す芽の部分がある。


還元が世界像という玉ねぎの皮を剥がしていく作業だとすれば、最後にこの芽が残る。


デカルトはこの芽をコギトと呼んだ。


フッサールの純粋意識とは、実在物のこの芽そのものというより、むしろ新しい組織を作り出す芽の「働き」それ自体を指している。


「純粋意識」は、主観にとって世界や世界の中の事物の存在の確信を作り出していく「はたらき」のことであり、それ自体が存在物ではない。


故にそれは、ただ、世界の中の事物存在の確信を作り出すとともに、私という存在を作り出すだけのものであり、最後の実在物として残るわけではないのだ。


次回も現象学的還元を見ていきたい。




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今日からは、現象学の方法論について書いてみたい。


まず、これまで近代哲学における根本問題であった主観/客観問題について書いてきた。


現象学の根本課題は、まず、主観/客観の一致を目指す伝統的認識論は成立しないこと、さらに、論理的には成立し得ないはずの人間の共通認識が実際にはそれなりに成立していることの理由、また、認識の意味を明らかにする点にある。


このような現象学のモチーフをよく了解するために、「還元」や「諸原理の原理」の意味するところに長く時間を割いて説明した。


フッサールは主観/客観の難問をどのように解き明かしたのか。


これまでも書いてきたように、主観は自分の外に出て自分の認識能力の正しさを確かめられないから、主観と客観の一致は確証できない。


これが始めに与えられた難問であった。


この問題は、原理上客観から主観を説明するのではなく、主観から客観を説明する以外にないとフッサールは考え、次のように解いた。


フッサールが考えたのは、主観/客観「一致」の確証はあり得ないのに、なぜ人間は客観の実在を疑えないものとして受け取っているのか、という点にある。


この時、可能な答えはただ一つしかない。


それは、人間は自己のうちに、自己の「外側に」あるものを確信せざる得ない条件を持っているということである。


この条件が「原的な直観」としての知覚直観、本質直観である。


これらはいずれも自己の自由にならない対象として人間に現れ、そのことで、人間に「外部」にある物の存在、実在を確信させる。


後ほど出てくる現象学的還元の考え方は、主観/客観問題のこのような解明にのみ関わるものであって、それから切り離すと単なる独我論と区別できなくなる。


現象学の方法について考えてみたい。

フッサールは、我々が普段持っている「ごく自然な」世界像、世界の見方を、「自然的な態度」と呼ぶ。


自然的な世界像は、その底に主観/客観図式を暗黙裡の信憑(確信)として持っており、その要点を3つ挙げることができる。


1.まず、世界とは、「私が今ここにある」という意識の在り様を中心として、空間的には、「ここ」➡︎「そこ」➡︎「あちら」➡︎「ずっと遠く」という上下左右前後の地平へ伸び広がる。


時間的には、「ずっと前」、「さっき」、「今」、「このあと」、「ずっとさき」という前後2方向の地平に伸び広がる。


また、そういうただ一つの世界として、私に現れている。


そして、この伸び広がりの「向こう」は私にとって原理的に未知であるが、それは確かに存在するものとして続いていると感じられる。


つまり、空間、時間の地平の広がり、その唯一同一性、それが原理的に未知性を含むこと、しかし、未知の部分も確かに存在するものだという確信、これらが「自然的世界像」の第1の特徴である。


2.二つめは、「この世界は私にとって、1つの単なる事象世界として」存在しているのではなく、「価値世界、財貨世界、実践的世界」としても存在する点である。

「自然的世界像では、世界は単なる自然存在(=物理的存在)ではなく、様々な価値やエロスを孕んだ、それ故に実践的な働きかけの対象として存在する。


3.最後に大切なことは、このような、自然存在=価値-エロス存在としての唯一の世界の中に、私は、私と同じ心を持った他者たちとともに存在するという確信を持っている点である。


現象学では、上記3つが「ごく自然な普通の生き方をしている人間」なら誰でも世界に対して持っている、ごく当たり前の確信である。


しかし、主観/客観問題を解くためには、独我論的前提から出発しなければならない。


そのためには、この「自然的態度」を「徹底的に変更」し、そこでの素朴な確信を「遮断」、「括弧入れ」、「エポケー(判断停止)」するという方法を敢えて取る必要がある。


「還元」とは要するに、「自然的世界像」のうちに暗々裡に含まれている素朴な確信を全て「疑ってみる」ことを意味する。


それは、主観/客観図式を取り払うためである。それは、「客観が存在する」ということを前提する限り、自分の認識の正当性の根拠を検証できない。


次回は現象学的還元の具体的方法論について書いてみたい。


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おはようございます。
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今日は、せいじ がお伝えします、、

2週間、サボってました、、熊本は台風も過ぎ去りました。

大きな被害もなく、ホッとしています。

近代哲学における根源問題である、主観/客観問題もフッサールによって解き明かされようとしている。

今日は、フッサール現象学のもう一つの課題であった、共通理解と本質直観について書いてみたい。

人間が自分の意識のありようを表像、表現する仕方は無限にありうるとすれば意識の共通理解などは成立するはずがないのではないか。


例えば、今、私と誰かで目の前に具体的な石ころを見ているとする。


この石ころの形状や色合いなどについて意見が異なったとする。


しかし、この場合、わたしたちの間で石ころの感覚の表現、あるいは、その解釈が違っているだけであり、私ともう一人の間で全く違う石ころが見えているわけではないことを必ず直観している。


そして、これが具体的な経験(知覚経験)という特質である。


私たちの具体的知覚経験におけるこのような特質、つまりは、私と他者とは同じものを感覚しているという直観の不可避こそが、人間世界にある共通理解を生じさせ、またそのことによって言葉一般を可能にしている根本的な土台であるとフッサールはいう。


このことから次のことがわかる。


推論や憶見を含むような認識(伝聞、情報の世界)、(フィクションの世界に関する認識)では、判断の様々な差異は本質的なものである。


直接的具体的経験の判断では、その表現の違いこそあれ、その表現の違いの底には同一事象の経験があるという直観が存在する。


この違いは本質的なものではない。


現象学の問い方は、意識事象の直接的な経験の記述であり、解釈ではない。


だから、ある共通了解を成立させる可能性を持つ。


「あいつの頭は硬いよ」、という誰かの判断は解釈であり、他の解釈も成立する。


しかし、「石はガラスより硬い」という判断は全くの解釈とは言えない。


現象学的な答えの特質は、形而上学的な(超経験的な、意識を超えた)問いを主観の内在における、誰でもが確かめうる具体的経験として問い進める形に変更する点にある。


フッサールがあらゆる「認識正当性の源泉」として、知覚直観と本質直観の2つを置いている理由がある。


原的な直観という概念で問題となるのは、人間の認識を構成する諸要素のうち、人間にとってもはや疑う動機を持てず、端的な不可疑性として現れるような条件となるものが知覚であり、知覚こそ意識の自由にならないものとして、その唯一の源泉だとされる。


しかし、赤いリンゴを見ているという個的知覚経験において、一つの赤いリンゴであるという確信が成立するためには、ある前提条件が必要となる。


その条件で最も重要なのは、概念(知)が既に入り込んでいることだ。


リンゴをまだ知らない幼児と大人では、また、リンゴ作り職人とでは、赤いリンゴを見た時の直観のありようは大きく違う。


この違いは明らかにそこに入り込んでいる「知」=概念の違いである。


そうすると、「原的な知覚」が、現実知覚を構成する

元の要素とは言い難い。


人はリンゴを一瞥しただけで、それがリンゴであること、リンゴが何であるかを直観している。


それは、まず、赤い色、丸さ、重さ、つやなどの諸要素を原的に知覚し、それを意識的に統合して一個の丸いリンゴの知覚像を得ているのではない。


すると人間の個的経験の「明証性」(確かに事物が今ここに在るという直接経験の確実性)の基礎として、単なる知覚直観の他に、どうしても本質直観、つまり物事に含まれる「知」(概念)を直観する働きを考えざる得ない。


フッサール現象学において、知覚は唯一の意識の自由にならない表像とされ、そのことで不可疑性の源泉とされていた。


しかし、本質直観とは、物事から意味を読み取る働きをするものであり、何らかの意味で、意識の恣意的な意味賦与を含んでいるのではないかという疑問が浮かび上がる。


事物の個的直観(知覚直観)には、意識されない形で知が潜在しており、事物の形状や性質を詳しく見ようと考えればいくらでも細かくそれを観察できるのと全く同じように(類似的に)、事物に関する自分のうちの知=概念を意識的に呼び寄せ、いくらでも細かく吟味、観察できる。


重要なことは、事物に関する知=概念は自分の中に既に形成されていた理念的構築物として現れるのであり、決して心の恣意的な生産物として現れるのではない。


では、今ここにある事物(実在物)と2×24のような理念物の根本的な違いはどこにあるのか。


それは実在物がただ、必ず感性的な現実知覚に結びついてのみ、存在を確証されるのに対し、2×24のような理念物は、必ずしも現実知覚と結びついている必要はないという点である。


理念物の場合、頭の中で考えられた理念対象を基体とし、疑えないものとして存在が確証されれば、その条件を満たしているのである。


そういうわけで物の知覚と物の意味はいずれも意識の自由を超えたものとして意識に疑えないものの確信を与える働きをする。


故に、知覚直観と本質直観は独我論的自我という意のままにならないものと言って良い。


現象学的な見方からは、人が実在物とみなすものも、また、ある種の理念物も、ただ、ある構造によって人間にとって不可疑なものとして現れてくるに過ぎない。


確かにあるという妥当(=確信)を与えられているだけである。




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今日は せいじ がお伝えします!

ここ最近ずっと、ゲシュタルト療法に影響を与えたと言われている哲学思想、フッサールの現象学を解き明かそうと書いている。

しかし、この難解な学問は読めば読むほど、考えれば考えるほどに私の脳を鍛えてくれる。

ただ、フッサール現象学は難解ではあるものの、理解できないと言う感覚はなく、逆にワクワク感と刺激が私を支配する。

それは、ゲシュタルト療法をこれまで経験的に学んできたことがフッサール現象学を他の人よりも学びやすくしていると確信できる。

この確信は、私の知覚直観の働きを通しての確信である。

つまりは、私の知覚直観での確信、これこそがフッサール現象学がゲシュタルト療法へ影響を与えていることを証明している。

前回までで、フッサールがなぜ、知覚直観を、判断や認識の正当性の根源である原的な直観として示したのか、明確になってきた。

フッサールはなぜ、これと並べて本質直観も原的な直観として重要視しているのか。

今日は、フッサール現象学の核心を成す原的な直観のもう一つの働きである、「本質直観」について書いてみたい。

本質直観(本質観取)とは何か。


現象学における本質直観において、フッサールは事実と本質を次のように区分している。


事実とは、それぞれの個的存在に関わり、従って「偶然的」なものであるが、本質とは、その個的存在の「偶然性」に含まれている本質「必然性」の側面であると。


どんな事実も必ずそこに本質を含み、従ってある本質として観取され、記述されると言う。


例えば、

私が今見ているこのペットボトルは、「今ここにあるもの」として「偶然的な事実存在」である。


ところが、同じこのペットボトルは、「Asahiの天然水」とか、「水の入ったペットボトル」と言われる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的なもの」(その事物の特質)だ。


我々は前者の側面を事実と呼び、後者の側面をその本質と呼ぶ。


この言葉それ自体が含む普遍的規定性、それが本質である。


要するに現象学でいう本質とは、言葉によって形成される何らかの理念の意味のことである。


事実(個物)と本質に関する現象学の定義は以下のようになる。


1.どんな「経験的もしくは個的直観(知覚の到来性)」も「本質直観」(理念を観て取る働き)へと転化させられる。

つまりは、どんな事実も言葉の意味へ置き直せる。

また、この意味への置き換えは、必ずしも十全なものとは限らない。(言葉によって言い尽くせてしまう事実と言い尽くせない事実がある)


2.どんな個的直観も本質直観へ転化させられるが、本質直観は個的直観なしに想起や記憶のうちだけでも成立する。

例えば、今私が現にペットボトルを見ていなくとも、任意にペットボトルを想像的に喚起し、そのペットボトルの本質を考えることができる。


3.これが重要であるが、本質直観は「原理的に固有のまた新しい種類の直観である」と言う。

この命題が、「本質直観」もまた「個的直観」と並んで「原的な直観」であるとみなされる所以である。


個的直観とは、

たとえば目の前のカップが「見えてしまっている」、相手の声が「聞こえてしまっている」という、いわば動かしがたい知覚の〝到来性〟のこと。

わたしたちは、この目の前のカップの実在や声の主の実在を、疑おうと思えば疑える。しかし、それが「見えてしまっている」「聞こえてしまっている」という知覚の到来性については、決して疑うことができない。


現象学においては、定義または規定は必ず独我論的主観から出発し、主観そのものへの内省によって考えを進めるという方法から帰納される。


カントの理論は一種の物語(フィクション)だが、フッサールの理論は、ただ内省によって得られた自己記述である。


現象学のこの方法を本質問題を例に考えてみる。

本質とは何かという問いを立てるとする。


私たち人間にとって、3つの世界像がある。

一つは、日常世界(生活世界)であり、

私たちが今存在しているのは日常世界(生活世界)である。


この世界は経験的に自明な世界、そこにあるものを目で見て、触れられるような具体性の世界である。


二つ目は、伝聞、情報世界である。

私たちはその存在を決して疑ってはいないが、内実としては、伝聞、情報によってのみ、その存在の確信が生じている世界である。


この特質は、私たちにとっては決してその全体を経験することはできないが、その一部なら実際に経験されうる可能性を持った世界である点だ。


三つ目が、神話(フィクション)の世界である。


この特質は、誰もそれを経験できない点にある。


宇宙の果てはどうなっているのか、時間の起点はあるのか、死後の世界はどうなっているのか、神は存在するのかなど、の世界がこれにあたる。


ただ、理性が具体的な経験からの推論や憶測によって導き出したフィクション(物語)としか言えない。


この問いに対するどんな答えも原理的には、その真偽を決して確かめ得ない。


フッサールは世界認識のこう言う厄介な性格を熟知していたために、問い方を変更した。


現象学的な問いへの答え方は、自分の意識に生じているある働き(事象自身)をあるがままに記述することであり、人間の意識の働きの共通した側面という限りで、あるレベルでの一致(共通了解)の可能性を持つのである。




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今日は せいじ がフッサール現象学についてお伝えします。

前回は、フッサール現象学における主観/客観問題の基盤となる考え方を書いた。

今日は、フッサール現象学の核心となる「知覚直観」と「本質直観」のうち、知覚直観について書いてみたい。

フッサールは、主観の内から、外にある対象物(客観)の存在が疑えないと言う確信を得るには、「原始に与える働きをする直観」(原的な直観)が原理の原理として必要であると考えた。

フッサールは次のように考える。


なぜ、千差万別の「認識」や「思想」があるのか。


それは千差万別の判断があり、もっと正確に言えば、ある判断を正しいと見なす様々な「確信」があるからであると。


では人はなぜ、自分の「判断」を「疑えないもの」と信じるのか。


この人間の確信一般につきまとっている「不可疑性」の根拠を疑ってみたい。


判断には2種類がある。


直接判断と間接判断である。


「間接判断」はある事態に関して、直接経験されたものからではなく、直接経験からの類推や推論を含んだ判断である。


つまり、憶見(憶測・ドクサ)を含んだものだ。


従って、判断が様々に分かれ、誤った類推や推論を生じさせる。


学問的あるいは思想的判断や認識は全てこの間接判断(憶見)を含んでいる以上、原理的に「可疑的」なものである。


直接判断は疑えないもの(不可疑的)であり、間接判断は可疑的である。


どんな認識や思想にも必ず様々な憶見ががつきまとうが、その一番底には憶見と言えないもの、疑うことが無意味である「確信」の底板があると原理的には言える。


それをフッサールは諸原理の原理、つまり、原的な直観と呼ぶ。従って彼はこれを「認識の正当性の源泉」であると言う。


フッサールによれば、この原的な直観と呼ばれるものは2つある。一つは、「知覚直観」、もう一つは「本質直観」である。


そして、知覚直観とは、以下のようなものである。

私たちの直接判断(直観)は、それ以上疑うことに意味のない最後の不可疑なものであり、確信を生じさせるいちばん底の源泉である。


しかし、その物自体が実在するかどうかの疑える全てを疑った時、何が「疑えないもの」として残ることになるのか。


フッサールによればそれが「知覚直観」である。


知覚直観とは、個的対象についての経験的直観のことを言う。


私たち人間は、まず、知覚があり、それをもとに、記憶、想起、再表象(再び心に現れること)などが重ね合わさることにより、一つのコップならコップという、一つの対象を見る。


この考え方は、まず感性(感覚器官)による対象の受け入れがあり、次に悟性(理解)による総合的な統一があるというカントの考え方と重なっている。


現象学では、独我論的主観から出発するという前提がある。


独我論とは、自分にとって本当に確信できるのは自分の精神現象だけであり、それ以外のあらゆるものは疑うべき対象であると考える哲学的な立場である。


すると、知覚、想起、記憶、想像の性質の違いを主観そのものに問えばどうなるだろうか。


私たちが知覚と呼ぶ意識表像には、他のものとは決定的に違う性質がある。


それは、想起、記憶、想像などが、ほぼ意識の力によって、恣意的にそれを遠ざけたり、近づけたり、呼び寄せたりできるのに対して、知覚だけは常に恣意的意識の自由にならないものとして現れる。


知覚だけは、もしそれを遠ざけたい時、身体的な働きによらねばならない。


現象学的な見方で言えば、自分のうちに生じる様々な意識表像のうち、意識の自由にならず、恣意的意識の彼岸にあるものとして現れる意識対象が知覚である。


これが知覚とは何かの現象学的な定義である。


重要なことは、この理由によってのみ、知覚は疑えないもの、本当のものという確信一般を人間に生じさせる源泉だと言うことである。


知覚は確かに自我のうちに生じたものでありながら、常に自我を超えた非知のもの、独我論自我(自分自身の精神)の自由にならぬものとしてやってくる。


この理由で、自我を超えて自我の自己原因ではないものとして現れることこそ、自我に、自我ならざるものが確かに外側に存在することを告げる唯一の根拠となる。


知覚直観が、独我論的自我に対して、常にその外側の存在を疑えないもの(不可疑なもの)として指し示す、唯一の正当な源泉であるとみなされる。


フッサールのこの考え方は、デカルトの方法的懐疑、疑うものを全て疑い尽くした挙句、最後に残った疑えないものを取り出すという方法とほとんど重なっている。


両者の違いは次の点である。


デカルトは徹底的な懐疑の果てに、考える私=コギト(自己意識)の存在を最後の不可疑性として取り出した。


しかし、コギトの存在の確実性は、それ自体ではコギトの外側の存在(世界そのものやその中にある事物の存在)を保証できない。


そのため、デカルトは主観の外側に神の存在することを証明し、この神によって主観の認識の正しさを補償させなくてはならなかった。


これに対し、フッサールは次のように考えていたことになる。


主観は外には出られない。


また、デカルトのように神のような保証人を立てて、自分の外側からその認識の正しさ、確実性を保証してもらうわけにはいかない。


主観は自己の外側にあるものの実在の確実性を、主観/客観の一致という仕方で得ているのではない。


主観はこれをただ自分の内部からのみ、何らかの対象存在の不可疑性という仕方でだけ得ている。


そして、主観にそういう不可疑性を与える根本の条件は、知覚という、主観にとって自由にならないものの存在に他ならない。


これが現象学による主観/客観の謎解きの最も核心部分である。


次回は、フッサール現象学のもう一つの核心である、「本質直観」について書いてみたい。



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今日は せいじ がお伝えします!
写真は、哲学の新しいアプローチ方法として、現象学を提唱したエトムントフッサール(1859-1939)である。

ここ5回ほどは哲学の簡単な歴史から、近代哲学の根本問題である主観/客観問題について、古代ギリシャ哲学から、近代哲学の祖 デカルト、そしてカント、ヘーゲル、ニーチェと見てきた。

今日は、この主観/客観問題を解き明かすこととなるエトムントフッサール(1859-1939について書いてみたい。

ただ、フッサールの現象学については何回かに分けなければ言い尽くせない。

今日は主観/客観問題におけるフッサール現象学の基盤となる考え方を書いてみる。


私たちが既に身につけている主観/客観図式はひどく強固なもので、この発想を取り払うことはそう簡単ではない。


フッサールはデカルトの考え方に注目し、そこに、主観/客観図式を取り払う根本的な発想があると考えた。


人間の理性は現実を疑おうと思えば、一見どんな明らかな事柄でも「本当に存在するかどうか」を疑う権利を常に持っている。


夢についても、現実と違わないありありとした夢を見たとしても、醒めてみれば、非現実であったことがわかる。

逆説的に言えば次のようになる。


私たちは誰でもこの現実を確かな現実であり、自分に疑いなく、現実の世界の中を生きていると思っている。


しかし、その確信がいくら強固であっても、今、自分の見たり感じたりしていることが決して夢ではないという保証はどこにもない。


デカルトにおいて、主観/客観は原理的に一致しない原理であることは明快に示されているがデカルトは神という判定者を一致を保証する切り札として持ち出さねばならなかった。


フッサールは神という切り札なしに、問題を解く重要な糸口を見出した。


デカルトは夢の例えによって、懐疑を極限化した上で、唯一疑えないものを取り出そうとした。


デカルトは最後には神という客観の保証人を持ち出した。


その理由は、デカルトが根本では主観/客観図式にとらわれていたからである。


しかし、彼は方法懐疑により一切を疑った時、主観/客観図式から考える限り、問題は必ず円環すること、主観の場所を徹底するところにのみ問題を解く糸口があることを直感していた、フッサールはそう考えた。


フッサールは、次のように考えた。

私たちは、客観という前提から主観の正しさを検証できない。(つまり、誰も「一致」を確かめる「外(客観)」の立場に立てない)。


すると人間は、ただ「主観」の内側だけからある「正しさ」の根拠をつかみ取っている、と考える他ない。


こうして、フッサールが設定した問題の形は次のようになる。

1.デカルトが方法的懐疑で示した原理、「主観」は自分の外に出て「主観」と「客観」の「一致」を確かめることはできない、という理論を守ること。


2.すると、問題なのは主観/客観の「一致」を確証することではなく(それは原理的に不可能であるから)、事物が現実であることは「疑えない」という確信(フッサールはこれを「妥当」と呼ぶ)がどのように生じるのか、という主観の中での確信の条件を突き止めることにある。


こうして、フッサールは、認識論上の問題を解くためには主観/客観の一致を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ、主観の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の確信がある、と主張する。


どんな人間も客観存在や現実存在を疑ってはおらず、またそれを根本的には疑うことはできない。


その理由をはっきりさせるべきである。


そのためには、主観-客観の一致ではなく、なぜ人間は「主観」の中に閉じられているにも関わらず、世界の存在、現実の事物の存在、他者の存在などを「疑えないもの」として確信しているのか、と問うべきである。


フッサールはそう考えた。


フッサールがデカルトから受け取った方法上の核心は2点である。


一つは、主観/客観図式を取り払わなくてはならない以上、この問題の唯一可能で正当な始発点は、誰も自分の認識の「正しさ」を外側から検証できない、つまり、敢えて独我論的主観の立場からはじめるべきだ、ということである。


もう一つは、その前提から出発して、独我論的主観の内側だけで、「疑えなさ」が生じる根拠を求めることである。


独我論とは、自分にとって本当に確信できるのは自分の精神現象だけであり、それ以外のあらゆるものは疑うべき対象であると考える哲学的な立場である。


現象学の場合、この「確信」あるいは「不可疑性」は特に3つのことについて言われる。


1つは世界が実在すること、2つ目は自然の事物の実在、最後に他者の実在の不可疑性である。


このように見てくれば、現象学は独我論、主観主義ではないことがわかる。


現象学は「世界の実在」を疑っているのではない。


認識論上の難問が主観/客観図式では解けないことを見極めた上で、原理的に独我論的立場から出発する以外にこの問題を解きほどく道はないと主張する。


現象学的還元という考え方の核心は、まず、主観/客観図式を前提とする限り、認識問題は解けないという点にあり、次に、そうである以上、論理上は独我論的な主観の立場から出発するほかない、という見極めにある。


そして、それ以上でもそれ以下でもないことをよくわきまえておく必要がある。


アリストテレスは形而上学の中で、一切の学問的探究において、その方法上の基礎と見なされるべき「原理の中の原理」があると主張している。


形而上学とは、感覚ないし経験を超えた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。


フッサールの言う諸原理の原理はアリストテレスのそれと違い、それは、「原始に与える働きをする直観」である、と言う。


この「原始に与える働きをする直観」(原的な直観)は、2つあり、「知覚直観」および「本質直観」がそれだ。


次回以降は、知覚直観、本質直観について書いてみたい。





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今日は せいじ がお伝えします!
今日の写真は フリードリヒ•ニーチェ ドイツの哲学者である。

ここ3回は古代ギリシャ哲学から現代哲学までの流れと、近代哲学の根源問題である、主観/客観•認識/対象問題について書いてきた。

今回も現象学から実存主義へと繋がる重要な主観/客観問題におけるデカルト、カント、ヘーゲルのその続きを書いてみたい。

今回は、フリードリヒニーチェ(1844-1900)の哲学思想について書いてみる。

近代哲学の主観/客観図式そのものが根本的に誤っているのではないか。

この疑念を初めて明瞭に理論化したのはニーチェである。


ニーチェの考えは、主観/客観の代わりにいわばカオス(混沌)とその解釈を置く。


彼は現実客観などというものはそもそも存在せず、ただ、現実についての様々な「解釈」だけがあるに過ぎないという。


世の中にはより優勢な認識(解釈)とより劣勢な認識(解釈)があるだけだ。


より優勢な認識とは、力を持ったものにとって都合の良い認識のことであり、劣勢な認識とは、弱いものが強いものに対抗するために立てる認識のことである。


認識は力に奉仕する。


これがニーチェの考え方の基本である。私たちの常識にフィットするところがある。


結局、強いものの言い分が「大義」として通用している、そういう常識である。


しかし、この考え方を極端化すると、世の中にはいろいろな立場に応じて、千差万別の認識があるに過ぎないことになる。


この考え方からは、なぜほとんどの人に共有される様々な共通認識が成立するのか、議論による納得などが生じるのか説明がつかない。


ニーチェの考え方は、従来の西洋哲学の根本前提を覆すほどの力を持っていた。


しかし、全てが解釈だという言い方は、客観という項目を大胆に取り払ったところに画期性があるが、この言い方だけでは、認識なるものは存在せず、ただ、思い込みだけがあることになる。


それでもニーチェはかなり問題を前へ押し進めたといえる。


問題は次のように整理された。


私たちの認識のうちには、「確実なもの」と「曖昧なもの」が同居している。


幾何学の公式や数学などは、誰がいつやっても同じ形が現れるが、社会や人間の「真理」に関する意見(認識)などは「一致」しないことの方が普通だ。


たとえあったとしてもその「一致」は、ある一時代や一空間の中でだけ成立するに過ぎない。


伝統的な哲学が考えたように、客観なるものがあるのだとすれば、真理の認識がバラバラな形で現れるのは不可解である。


また、客観が元々ないのだとすれば、つまり、全てが人間の思い込みだとすれば、疑いなく「確実なもの」の存在は一体何に由来することになるのか。


ここまでくると、主観/客観の一致問題は、それ自体が意味を為さないということが分かりつつある。


そして、主観に閉じ込められた我々の認識において、我々は世界の存在や現実の事物の存在、他者の存在(客観的存在)を疑えないものとして確信しているのはどうしてしてなのか、を解明することが主観/客観問題を解く方法であるとフッサールは考えた。


ニーチェが直感的に見抜いていたことをフッサールは徹底して考え詰め、ひとつの独創的な哲学的思考の原理を見出す。


この思考の原理が、主観/客観の難問を全く明らかに解きほどくこととなる。


次回はいよいよ、フッサールについて書いてみたいと思う。

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今日も哲学について せいじ がお伝えします。

写真は ヴィルヘルム•フリードリヒ•ヘーゲル、ドイツ観念論を代表する哲学者である。


前回のこのブログでカント哲学について書いてみた。


近代哲学の根源問題である、主観/客観、認識/対象問題について、デカルトは、神の存在証明を行い、神のような存在を持ち出さなければ、主観と客観の一致を確証することは原理的に不可能であるとした。


カントは、神の存在証明を退け、人間の認識装置が完璧でないとすれば、人間は客観を認識できないが、人間の認識装置が完璧であることを保証する手立ては人間には原理的にないとした。


しかし、ドイツの哲学者ヴィルヘルムフリードリヒヘーゲル(1770-1831は、このカントの考えには大きな盲点があると考えた。


ヘーゲルによればカントの考えは、人間の認識を例えば、虫眼鏡のような一定の能力を持つ道具のようにみなしているが、人間の認識の特質は一定の能力を持った道具ではなく、自分の能力をレベルアップしていく点にあるとした。


ヘーゲルのこの考えは、大変画期的なものであった。


例えば、子供の見るリンゴも大人の見るリンゴも、見る限りにおいて、同じリンゴだが、大人は一つのリンゴのうちに、概念的「知」を直感的に見ている。


このように、人間の認識は、決まりきった道具ではなく、それ自体が生き物のように生長(高度化)していく、性質を持っている。


認識の能力は徐々に高まっていく。


その極限に「神」の持つような完璧な認識があると想定すれば、主観/客観の難問は解けるとヘーゲルは主張する。


主観/客観は原理的に一致しないのではなく、どんな認識もただ、不十分な認識だということに過ぎず、それは最後の一致の場所へ向かう一過程であると考えれば良いとした。


しかし、この考え方は一方で強い反発を招いた。


認識は徐々に進歩し、最後には完全な知(絶対知)に行き着くはずだというこの考え方は、突き詰めると歴史や世界の成り立ちや意味が全て認識され尽くしてしまう可能性を意味する。


つまり、極端な「決定論」に行き着く可能性を意味するという反発である。


このことから、もし、主観と客観が一致しなければ、人間は物事の「本当」や価値について何一つ確実なことは言えない。


一方、主観と客観が一致すると言えば、決定論や摂理の考えを避けられないことになる。


このヘーゲルの考えは、すなわち、主観/客観という前提から出発する限り、私たちは、理論的には必ず極端な決定論か、極端な相対論、懐疑主義、不可知論に行き着き、問題は決して解決しないことを意味している。


そして、近代哲学の主観/客観図式そのものが根本的に誤っているのではないか。

この疑念を初めて明瞭に理論化したのがフリードリヒニーチェ(1844-1900である。


次回はニーチェの哲学思想について書いてみたい。






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今日も せいじ がお伝えします。
写真は、イマヌエル•カント1724-1804)ドイツの哲学者である。

先日のこのブログで、近代哲学の根本問題である「主観/客観」、「認識/対象」の二元論における、ルネ•デカルトの哲学思想について、書いてみた。

デカルトは、方法的懐疑により、全てのものを疑うことから始め、
「すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない」とした。

そして、主観と客観の一致は原則的には不可能であり、神の存在において、主観と客観の一致を保証した。

この「神の存在証明」の矛盾をはっきりと見抜いていたのが、イマヌエル・カント1724-1804である。


カント哲学は、批判哲学と言われるが、これは、デカルトとは逆に、人間の理性は原理的に客観、それ自体を認識できない、ということを証明するものである。


カント哲学において物自体と言う言葉がある。

物自体とは、カントの認識論において重要な言葉で、感覚的に知覚できない、物それ自体のことを示す。


カントによれば、われわれの認識は、物それ自体を直接認識することができない。


リンゴそれ自体の形や味、匂いを認識することができず、認識できるのは、リンゴそれ自体から感覚器官を通した形、味、匂いである。


カントの認識論は次のような結論に達する。


主観と客観の間の一致は理論的には存在し得ない。


人間は物事の本質の認識に達することはできない。


これは人間の純粋理性の能力の本来的な限界である。


人間は物自体については決して認識できない。


つまり、物事の本質を知ることはできず、その現象だけしか認識できない。


カントによれば、人間が世界に対して問いを立てる仕方は三つの問いに要約される。


世界(宇宙)とは何か。私とは何か。神とは何か。


これらの問いに人間は答えることはできない。


いずれも世界の本質そのものを問うような問題だからだ。


人間は事物の本質の認識からは原理的に隔てられている。


しかし、人間は何も認識できないのか?

人間は経験的な世界(現象の世界)の現れについては、これを正しく認識することができる。


認識できないのは、可想界、つまり、事物のあるべき本性の世界だけである。


カントのいう、本質という言葉は、プラトン的な真美と考えるとわかりやすく、真美という理想は認識される物ではなく、人間にとって、意志されるものなのである。


こういう考えによってカントは、デカルトの神の存在証明を退け、その代わりに、善き物、美しい物、本当の物、に対する人間の意志の領域を確保した。


主観/客観の難問の要点は、人間の認識が完璧でないとすれば、人間は客観を認識できないが、人間の認識が完璧であることを保証する手立ては人間には原理的に無理である。

故に、カントの考えは上記の原理をはっきりさせたのだが、ヘーゲル1770-1831はこのカントの考えには大きな盲点があると考えた。

次回はヘーゲルの哲学思想について見てみたい。

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