こんにちは、、GAFnetブログへようこそ。
写真は 京都龍安寺の枯山水である。ここに佇むと心が落ち着いてくる。

今日は 日本ゲシュタルト療法学会の今について書いてみたい。

2010年7月、日本にゲシュタルト療法の学会を作って12年が過ぎた。早いもので干支が一回りした。

この間に時代も目まぐるしく変わった。

社会は不確実な時代へと突入し、自然の脅威に翻弄され、人間とはやはり自然の一部なのだと思い知らされる。

生きるとは何か、を問うゲシュタルト療法の根本的思想はこの時代にとってなくてはならないものである。

それは日本ゲシュタルト療法学会についても同じである。組織という有機体として、学会自体も紆余曲折しながら時代と共に生きている。

コロナ禍の前はリアルでのワークショップ開催だったものが今はオンラインでの開催へとパラダイムシフトし、学会の存在自体も大きく変わろうとしている。

これまでは薄かった世界との繋がりがオンラインという手段により広がりを見せ、世界中のゲシュタルト療法家と繋がるようになった。

これによる学びの幅や選択肢はとても大きくなった。

一方で選択肢が多くなればなるほど、自らが学びを掴み取るという能動的な感覚が薄れていく、そう感じるのは私だけだろうか。

これは企業においても言えることだが、教わることが当たり前になり、指示を待たなければ動けない人々が如何に多いことか。

学ぶことと教わることは真逆であり、教わることだけからは何も生まれない。

学ぶことからは挫折を味わうかもしれない、喜びを感じるかもしれない、様々な試行錯誤する体験が私たちの身体へと流れ込み、私たちの価値観を創り出していく。

教わることだけからは私たちへ他者の価値観を作り上げるだけである。

これはゲシュタルト療法学会にも同じことが言える。

教えることだけをするなら、他者のやり方を真似るだけのゲシュタルト療法ファシリテーターが出来上がる、私はそう感じている。

学びを深めるにはどうする必要があるのか、その取っ掛かりとなる入り口を作る必要があるだろう。

先日、学会会員との話の中でもトレーニング後の学びの場がないという意見があった。

学べる場所だけを提供する、そして何をどのように学ぶのかはその場所に集まった人々で考え、企画し、実践する。

自立した学びをすることが自らのゲシュタルト療法を作っていく近道である。

それは確固たる私の価値観を作り上げていくことと同義語であると思う。

これまでの価値観に縛られない、これからの時代を生きていくための価値観を学会自体が作りつつある。

今少しずつ、日本ゲシュタルト療法学会も変わりつつある。それは嬉しいことである。

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GAFnetブログへようこそ!3ヶ月近くブログをサボってました。

2022年も今日で終わりですね、、今年は特に早かったそんな感覚です。皆さんはどんな一年だったのでしょう、、


私にとって、今年はどんな年だったのか、、わからない、、あまり印象に残っている出来事はない。


ただ、ゲシュタルト療法からは距離を置きながら、ゲシュタルト療法とは何かを自問自答していた。


Facebookなどでゲシュタルト療法の応用編としてのゲシュタルトアプローチが流行っている。そして、そこに大勢の人達が集まる。


これらのことを否定する気は毛頭ない。そして、これらのゲシュタルト療法が純粋なゲシュタルト療法であると勘違いすることを危惧している。


このアプローチは別物だと理解すべきだ。


特にゲシュタルト療法のトレーニング中、又はトレーニング修了間もない人達、又はゲシュタルト初心者にはまだまだ難しい。


受けるのは自由だが、身体の感覚と理解がついていかない、だから、腑に落ちないだろう。


ゲシュタルト療法の土台が固まってない中で、ダイナミックなアプローチを求めること、そんな誘惑に駆られる時がある。私もそういう時があったからわかる。そして、それはあまり身にはならない。


体験の理解が追いつかない。


その体験が感覚として腑に落ち、理解できるなら、その人のゲシュタルト療法は深まっていくはずなのだが、そうではない人達が多い。


それは、まだ学ぶ時期ではないのに、遥か彼方にあるアプローチを学ぶから理解できないのだ。


その時期にはその時期に学ぶべきものがあることに気づかず、新しいものに飛びついてしまう。まあ、欲求として仕方ない部分もあるのだが。


もし、それに飛びつき続けるなら、その人のゲシュタルト療法はゲシュタルト療法もどきになってしまう。


ゲシュタルト療法とは何かを一生理解できないであろう。基本的な土台が必ず必要である。


まずは基本的な、どっさりとしたゲシュタルト療法の土台を作る必要がある。


そして、ゲシュタルト療法の学びは簡単ではない。

ゲシュタルト療法を自分のものにするには、最低、私の経験からすると10年以上かかる。


10年経ってやっとゲシュタルト療法とは何かを理解し、本当にゲシュタルト療法を自分のものにするには15年以上かかるだろう。


だからこそ、学び甲斐のある、奥の深い、嘘偽りのない、純粋な療法なのである。


ゲシュタルト療法が難しいのは、やり方やパターンがないことだ。自分自身で自分のゲシュタルトを作り上げるしかない、だから難しく時間が必要となる。


もちろんゲシュタルト療法が完璧なものであるという気は毛頭ない。


ただ、生き物が生きていく、人間が生きていくとはどういうことなのかを実感し、実践できる療法である。


ゲシュタルト療法には人生経験が必要である。若くしてゲシュタルト療法を極めることは難しい。

それは、あまりにも体験が少ないからだ。


これは私の持論であり、これに意を唱え、反論する人もいるだろう。


しかし、人生経験が少ない人に、この人と言う、ゲシュタルト療法家をまだ見たことはない。


そして、社会で生きているのかどうかも重要だ。


社会で生きていない人にゲシュタルト療法を極めるのは困難である。


表面的には何とでもなる。しかし、いざクライアントを目の前にした時、その生き方が顕著に現れる。


例えば、ある一部のコミュニティの中でしか生きていない人は、そのコミュニティの中では上手くいく。しかし、そのコミュニティを一歩出ると全く上手くいかない。クライエントへ向き合えなくなる人たちを沢山知っている。


“私はゲシュタルト療法を極めている”、と思うことほど愚かなことはない。


いつまでもゲシュタルト療法は修行であり、極めることはできないということを理解する必要がある。それはわたしが生きている限り続く修行である。


また、ゲシュタルト療法を複雑化してはいけない。

ゲシュタルト療法はいたってシンプルである。


複雑化する原因はゲシュタルト療法を学んだその人に問題がある。


実存の方向へと向かうべき感覚を実存でない方向へと導き、同じパターンへと陥れる。


私はそんなゲシュタルト療法セラピストを何人も見ている。

その人達は自分自身の問題に気づき、向き合う必要があるのだが、わかっていても向き合いたくないと言うことなのだろう。


そんなゲシュタルト療法家はすぐわかる。それは、同じような感覚の人達と傷を深めないようなコミュニティの中でしか生きていないのである。


ゲシュタルト療法家の批判になるかもしれない、しかし、私の周りにもそんなゲシュタルト療法家がいるのは事実だ。


ゲシュタルト療法の基本をどのように学んでいくのか、その学ぶ環境を作り上げること。教わるのではない、自主性を持って学ぶ環境が必要である。


2023年はそんなゲシュタルト療法家の育成に力を注ぎでみたいと思う。


それが本物のゲシュタルト療法家となる近道である。




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GAFnetブログへようこそ、、

映画 向田理髪店💈と七人の秘書 劇場版を観た。
今年は既に40本の映画を観たようだ。

今日も 前回に引続き、現象学的還元について せいじ がお伝えします。

私たちは自然的世界像(主観/客観図式)に現象学的還元を施すことで「純粋意識」という一つの働きの極を仮説として取り出した。


ヘーゲルによれば人間の意識は二つの契機を持つ。


一つは直に対象と向き合ってそれに対してただ実践的な態度をとる意識の側面。


この意識の視線を第一視線と呼ぶ。


これに対し、この意識と対象の関係全体を想像的に上から眺めて客観化、対象化しようとする意識の働きがある。


この視線を第二視線と呼ぶ。


ヘーゲルによる第一視線では、対象はただ意識の欲望に応じて、「食べるべきもの」とか、「美味しそうなもの」などとして(想像や憶測を持って)現れるに過ぎない。


しかし、第二視線では、この意識と対象の関係全体を対象化し、自己とその外側の対象の関係についての世界の像を私の意識の中に作り上げる働きをする。


そして、こうして作り上げられた世界の像(関係像)が私の意識に働きかけることにより身体化され、第一視線として直に対象と向き合い、この意識と対象の関係全体を対象化した高次の第二視線が生じると言う。


こうして、意識の運動は第一視線と第二視線の弁証法的運動として、世界像を高次化する。


ヘーゲルによれば、この運動は意識にとって必然的なものであり、この運動の深まりは、認識の深まり(高次化)を意味し、その究極に絶対知なるものが想定されると言う。


ここで哲学者(ヘーゲル)の視線は、この意識運動の必然性をもう一段上から見守る第三視線であると言える。


そして、現象学的還元はこの第三視線だということができる。


しかし、ヘーゲルとフッサールの第三視線には根本的違いがある。


ヘーゲルは、対象に対する「このもの」と言う憶い込み(ドグサ)を含んだものから出発し、高次化の果てに絶対客観という最終目標へ向かう。


これに対し、フッサールは全く逆に、普通の人間の高次化された客観的世界像(憶見に充ちた世界像)から出発し、もはや憶い込みとは言えない意識の初原的な「働き」の在り様を捉えることを目標とする。


ヘーゲルは初原的な第一視線がいわばドクサであり、それを客観化、対象化した第二視線がより「真」に近い。


フッサールは第一視線が人間の直接経験であり、これを客観化、対象化する第二視線こそが、ドグサ、つまり、構成されたものを不可避的に含むのだ。


フッサールによる還元の視点は、こうして人間の第二視線に必ずつきまとうドクサ(類推や憶見)を括弧入れ(エポケー)する。


そしてフッサールは、第一に、もはやドクサとは言えない「確実なもの」の底を確定すること、第二に、この底からどのようにドクサが積み重ねられていくかという構造を取り出すところに目標を置くのだ。


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こんにちは!
GAFnetブログへようこそ、、今日も せいじ が現象学についてお伝えします。

映画 アイ•アム まきもと、マイ•ブロークン•マリコ、2日立て続けに観た。

何か共通のものを感じる。

それは、生きている、今ここを生きているということだろう。だから、映画に泥臭さがある。フィクションではない、命が生きている。

今日は、現象学的還元を具体的に見てみたい。

現象学的還元を行う上でいつくかの要点が出てくる。


1.「自然的世界像」につきまとっている一切の素朴な確信を怪しいものとして留保しておく。


2.「自然的世界像」を基盤とした科学的学問の成果、知見の一切も保留しておく。


3.科学的「学知」のみならず、いろいろな物語(神話、宗教上の世界像、諸作品など)の知見も保留する。


還元の方法の要点は以上の3つに尽きる。


要するに還元とは、様々なドクサ(憶見)に覆われた私たちの世界像を裸にすることである。


還元とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて、独我論的に考えを進める、という発想の転換、視線の変更を意味するに過ぎない。


そのような発想の転換がなぜ必要なのかが腑に落ちれば、誰でもそのような仕方で世界を見直せる。


このことを了解することが還元という概念を掴む唯一の道である。


「我々人間をも含めて全世界(自然的世界像)が遮断(エポケーによる還元)されたとすれば、何が残り続けるだろうか。


その答えは「純粋意識」である。


人間の自然な世界像は、

1.「具体的な直接経験の世界」、2.「伝聞、情報の世界」、3.「神話=フィクションの世界」から成り立っている。


23は具体的に確かめられない類推や憶見(ドクサ)で構成される世界である。


しかし、具体的経験世界も細かく見れば微妙なレベルでの憶見がつきまとう。


そこで、具体的経験を含めた様々な類推や憶見の在り様をその始めの出どころに還元してみる。


それらの類推や憶見の根をなし、それ自体どんな意味でも憶見と言えない経験のいちばん原型の場面へと還元する。


すると、「純粋意識」と呼ばれるものが「残余」として取り出せる。


この考え方は、デカルトが疑い得るものの一切を疑い、最後に唯一確実なものを「コギト」(考える私)として取り出したのと同じ手順である。


しかし、フッサールとの大きな違いは、デカルトはコギト(考える私)こそが疑えない最後のものとして残ると言い、そこから神の存在証明を行った。


これに対し、フッサールは、ほぼ同じものをコギトの代わりに「純粋意識」と呼ぶが、これはコギトのように実在するものと考えられているのではなく、ただ、人間の経験や世界像一般を可能にしている一番基礎の働きそのものとして取り出されている。


故にそれは、存在=実在するものではなく、存在の確証の手がかりにはならない。


例えば、人間の世界像を玉ねぎのようなものだと考えてみる。


玉ねぎの芯には玉ねぎの皮の組織に作り出す芽の部分がある。


還元が世界像という玉ねぎの皮を剥がしていく作業だとすれば、最後にこの芽が残る。


デカルトはこの芽をコギトと呼んだ。


フッサールの純粋意識とは、実在物のこの芽そのものというより、むしろ新しい組織を作り出す芽の「働き」それ自体を指している。


「純粋意識」は、主観にとって世界や世界の中の事物の存在の確信を作り出していく「はたらき」のことであり、それ自体が存在物ではない。


故にそれは、ただ、世界の中の事物存在の確信を作り出すとともに、私という存在を作り出すだけのものであり、最後の実在物として残るわけではないのだ。


次回も現象学的還元を見ていきたい。




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今日からは、現象学の方法論について書いてみたい。


まず、これまで近代哲学における根本問題であった主観/客観問題について書いてきた。


現象学の根本課題は、まず、主観/客観の一致を目指す伝統的認識論は成立しないこと、さらに、論理的には成立し得ないはずの人間の共通認識が実際にはそれなりに成立していることの理由、また、認識の意味を明らかにする点にある。


このような現象学のモチーフをよく了解するために、「還元」や「諸原理の原理」の意味するところに長く時間を割いて説明した。


フッサールは主観/客観の難問をどのように解き明かしたのか。


これまでも書いてきたように、主観は自分の外に出て自分の認識能力の正しさを確かめられないから、主観と客観の一致は確証できない。


これが始めに与えられた難問であった。


この問題は、原理上客観から主観を説明するのではなく、主観から客観を説明する以外にないとフッサールは考え、次のように解いた。


フッサールが考えたのは、主観/客観「一致」の確証はあり得ないのに、なぜ人間は客観の実在を疑えないものとして受け取っているのか、という点にある。


この時、可能な答えはただ一つしかない。


それは、人間は自己のうちに、自己の「外側に」あるものを確信せざる得ない条件を持っているということである。


この条件が「原的な直観」としての知覚直観、本質直観である。


これらはいずれも自己の自由にならない対象として人間に現れ、そのことで、人間に「外部」にある物の存在、実在を確信させる。


後ほど出てくる現象学的還元の考え方は、主観/客観問題のこのような解明にのみ関わるものであって、それから切り離すと単なる独我論と区別できなくなる。


現象学の方法について考えてみたい。

フッサールは、我々が普段持っている「ごく自然な」世界像、世界の見方を、「自然的な態度」と呼ぶ。


自然的な世界像は、その底に主観/客観図式を暗黙裡の信憑(確信)として持っており、その要点を3つ挙げることができる。


1.まず、世界とは、「私が今ここにある」という意識の在り様を中心として、空間的には、「ここ」➡︎「そこ」➡︎「あちら」➡︎「ずっと遠く」という上下左右前後の地平へ伸び広がる。


時間的には、「ずっと前」、「さっき」、「今」、「このあと」、「ずっとさき」という前後2方向の地平に伸び広がる。


また、そういうただ一つの世界として、私に現れている。


そして、この伸び広がりの「向こう」は私にとって原理的に未知であるが、それは確かに存在するものとして続いていると感じられる。


つまり、空間、時間の地平の広がり、その唯一同一性、それが原理的に未知性を含むこと、しかし、未知の部分も確かに存在するものだという確信、これらが「自然的世界像」の第1の特徴である。


2.二つめは、「この世界は私にとって、1つの単なる事象世界として」存在しているのではなく、「価値世界、財貨世界、実践的世界」としても存在する点である。

「自然的世界像では、世界は単なる自然存在(=物理的存在)ではなく、様々な価値やエロスを孕んだ、それ故に実践的な働きかけの対象として存在する。


3.最後に大切なことは、このような、自然存在=価値-エロス存在としての唯一の世界の中に、私は、私と同じ心を持った他者たちとともに存在するという確信を持っている点である。


現象学では、上記3つが「ごく自然な普通の生き方をしている人間」なら誰でも世界に対して持っている、ごく当たり前の確信である。


しかし、主観/客観問題を解くためには、独我論的前提から出発しなければならない。


そのためには、この「自然的態度」を「徹底的に変更」し、そこでの素朴な確信を「遮断」、「括弧入れ」、「エポケー(判断停止)」するという方法を敢えて取る必要がある。


「還元」とは要するに、「自然的世界像」のうちに暗々裡に含まれている素朴な確信を全て「疑ってみる」ことを意味する。


それは、主観/客観図式を取り払うためである。それは、「客観が存在する」ということを前提する限り、自分の認識の正当性の根拠を検証できない。


次回は現象学的還元の具体的方法論について書いてみたい。


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おはようございます。
GAFnetブログへようこそ!
今日は、せいじ がお伝えします、、

2週間、サボってました、、熊本は台風も過ぎ去りました。

大きな被害もなく、ホッとしています。

近代哲学における根源問題である、主観/客観問題もフッサールによって解き明かされようとしている。

今日は、フッサール現象学のもう一つの課題であった、共通理解と本質直観について書いてみたい。

人間が自分の意識のありようを表像、表現する仕方は無限にありうるとすれば意識の共通理解などは成立するはずがないのではないか。


例えば、今、私と誰かで目の前に具体的な石ころを見ているとする。


この石ころの形状や色合いなどについて意見が異なったとする。


しかし、この場合、わたしたちの間で石ころの感覚の表現、あるいは、その解釈が違っているだけであり、私ともう一人の間で全く違う石ころが見えているわけではないことを必ず直観している。


そして、これが具体的な経験(知覚経験)という特質である。


私たちの具体的知覚経験におけるこのような特質、つまりは、私と他者とは同じものを感覚しているという直観の不可避こそが、人間世界にある共通理解を生じさせ、またそのことによって言葉一般を可能にしている根本的な土台であるとフッサールはいう。


このことから次のことがわかる。


推論や憶見を含むような認識(伝聞、情報の世界)、(フィクションの世界に関する認識)では、判断の様々な差異は本質的なものである。


直接的具体的経験の判断では、その表現の違いこそあれ、その表現の違いの底には同一事象の経験があるという直観が存在する。


この違いは本質的なものではない。


現象学の問い方は、意識事象の直接的な経験の記述であり、解釈ではない。


だから、ある共通了解を成立させる可能性を持つ。


「あいつの頭は硬いよ」、という誰かの判断は解釈であり、他の解釈も成立する。


しかし、「石はガラスより硬い」という判断は全くの解釈とは言えない。


現象学的な答えの特質は、形而上学的な(超経験的な、意識を超えた)問いを主観の内在における、誰でもが確かめうる具体的経験として問い進める形に変更する点にある。


フッサールがあらゆる「認識正当性の源泉」として、知覚直観と本質直観の2つを置いている理由がある。


原的な直観という概念で問題となるのは、人間の認識を構成する諸要素のうち、人間にとってもはや疑う動機を持てず、端的な不可疑性として現れるような条件となるものが知覚であり、知覚こそ意識の自由にならないものとして、その唯一の源泉だとされる。


しかし、赤いリンゴを見ているという個的知覚経験において、一つの赤いリンゴであるという確信が成立するためには、ある前提条件が必要となる。


その条件で最も重要なのは、概念(知)が既に入り込んでいることだ。


リンゴをまだ知らない幼児と大人では、また、リンゴ作り職人とでは、赤いリンゴを見た時の直観のありようは大きく違う。


この違いは明らかにそこに入り込んでいる「知」=概念の違いである。


そうすると、「原的な知覚」が、現実知覚を構成する

元の要素とは言い難い。


人はリンゴを一瞥しただけで、それがリンゴであること、リンゴが何であるかを直観している。


それは、まず、赤い色、丸さ、重さ、つやなどの諸要素を原的に知覚し、それを意識的に統合して一個の丸いリンゴの知覚像を得ているのではない。


すると人間の個的経験の「明証性」(確かに事物が今ここに在るという直接経験の確実性)の基礎として、単なる知覚直観の他に、どうしても本質直観、つまり物事に含まれる「知」(概念)を直観する働きを考えざる得ない。


フッサール現象学において、知覚は唯一の意識の自由にならない表像とされ、そのことで不可疑性の源泉とされていた。


しかし、本質直観とは、物事から意味を読み取る働きをするものであり、何らかの意味で、意識の恣意的な意味賦与を含んでいるのではないかという疑問が浮かび上がる。


事物の個的直観(知覚直観)には、意識されない形で知が潜在しており、事物の形状や性質を詳しく見ようと考えればいくらでも細かくそれを観察できるのと全く同じように(類似的に)、事物に関する自分のうちの知=概念を意識的に呼び寄せ、いくらでも細かく吟味、観察できる。


重要なことは、事物に関する知=概念は自分の中に既に形成されていた理念的構築物として現れるのであり、決して心の恣意的な生産物として現れるのではない。


では、今ここにある事物(実在物)と2×24のような理念物の根本的な違いはどこにあるのか。


それは実在物がただ、必ず感性的な現実知覚に結びついてのみ、存在を確証されるのに対し、2×24のような理念物は、必ずしも現実知覚と結びついている必要はないという点である。


理念物の場合、頭の中で考えられた理念対象を基体とし、疑えないものとして存在が確証されれば、その条件を満たしているのである。


そういうわけで物の知覚と物の意味はいずれも意識の自由を超えたものとして意識に疑えないものの確信を与える働きをする。


故に、知覚直観と本質直観は独我論的自我という意のままにならないものと言って良い。


現象学的な見方からは、人が実在物とみなすものも、また、ある種の理念物も、ただ、ある構造によって人間にとって不可疑なものとして現れてくるに過ぎない。


確かにあるという妥当(=確信)を与えられているだけである。




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GAFnetブログへようこそ、、
今日は せいじ がお伝えします!

ここ最近ずっと、ゲシュタルト療法に影響を与えたと言われている哲学思想、フッサールの現象学を解き明かそうと書いている。

しかし、この難解な学問は読めば読むほど、考えれば考えるほどに私の脳を鍛えてくれる。

ただ、フッサール現象学は難解ではあるものの、理解できないと言う感覚はなく、逆にワクワク感と刺激が私を支配する。

それは、ゲシュタルト療法をこれまで経験的に学んできたことがフッサール現象学を他の人よりも学びやすくしていると確信できる。

この確信は、私の知覚直観の働きを通しての確信である。

つまりは、私の知覚直観での確信、これこそがフッサール現象学がゲシュタルト療法へ影響を与えていることを証明している。

前回までで、フッサールがなぜ、知覚直観を、判断や認識の正当性の根源である原的な直観として示したのか、明確になってきた。

フッサールはなぜ、これと並べて本質直観も原的な直観として重要視しているのか。

今日は、フッサール現象学の核心を成す原的な直観のもう一つの働きである、「本質直観」について書いてみたい。

本質直観(本質観取)とは何か。


現象学における本質直観において、フッサールは事実と本質を次のように区分している。


事実とは、それぞれの個的存在に関わり、従って「偶然的」なものであるが、本質とは、その個的存在の「偶然性」に含まれている本質「必然性」の側面であると。


どんな事実も必ずそこに本質を含み、従ってある本質として観取され、記述されると言う。


例えば、

私が今見ているこのペットボトルは、「今ここにあるもの」として「偶然的な事実存在」である。


ところが、同じこのペットボトルは、「Asahiの天然水」とか、「水の入ったペットボトル」と言われる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的なもの」(その事物の特質)だ。


我々は前者の側面を事実と呼び、後者の側面をその本質と呼ぶ。


この言葉それ自体が含む普遍的規定性、それが本質である。


要するに現象学でいう本質とは、言葉によって形成される何らかの理念の意味のことである。


事実(個物)と本質に関する現象学の定義は以下のようになる。


1.どんな「経験的もしくは個的直観(知覚の到来性)」も「本質直観」(理念を観て取る働き)へと転化させられる。

つまりは、どんな事実も言葉の意味へ置き直せる。

また、この意味への置き換えは、必ずしも十全なものとは限らない。(言葉によって言い尽くせてしまう事実と言い尽くせない事実がある)


2.どんな個的直観も本質直観へ転化させられるが、本質直観は個的直観なしに想起や記憶のうちだけでも成立する。

例えば、今私が現にペットボトルを見ていなくとも、任意にペットボトルを想像的に喚起し、そのペットボトルの本質を考えることができる。


3.これが重要であるが、本質直観は「原理的に固有のまた新しい種類の直観である」と言う。

この命題が、「本質直観」もまた「個的直観」と並んで「原的な直観」であるとみなされる所以である。


個的直観とは、

たとえば目の前のカップが「見えてしまっている」、相手の声が「聞こえてしまっている」という、いわば動かしがたい知覚の〝到来性〟のこと。

わたしたちは、この目の前のカップの実在や声の主の実在を、疑おうと思えば疑える。しかし、それが「見えてしまっている」「聞こえてしまっている」という知覚の到来性については、決して疑うことができない。


現象学においては、定義または規定は必ず独我論的主観から出発し、主観そのものへの内省によって考えを進めるという方法から帰納される。


カントの理論は一種の物語(フィクション)だが、フッサールの理論は、ただ内省によって得られた自己記述である。


現象学のこの方法を本質問題を例に考えてみる。

本質とは何かという問いを立てるとする。


私たち人間にとって、3つの世界像がある。

一つは、日常世界(生活世界)であり、

私たちが今存在しているのは日常世界(生活世界)である。


この世界は経験的に自明な世界、そこにあるものを目で見て、触れられるような具体性の世界である。


二つ目は、伝聞、情報世界である。

私たちはその存在を決して疑ってはいないが、内実としては、伝聞、情報によってのみ、その存在の確信が生じている世界である。


この特質は、私たちにとっては決してその全体を経験することはできないが、その一部なら実際に経験されうる可能性を持った世界である点だ。


三つ目が、神話(フィクション)の世界である。


この特質は、誰もそれを経験できない点にある。


宇宙の果てはどうなっているのか、時間の起点はあるのか、死後の世界はどうなっているのか、神は存在するのかなど、の世界がこれにあたる。


ただ、理性が具体的な経験からの推論や憶測によって導き出したフィクション(物語)としか言えない。


この問いに対するどんな答えも原理的には、その真偽を決して確かめ得ない。


フッサールは世界認識のこう言う厄介な性格を熟知していたために、問い方を変更した。


現象学的な問いへの答え方は、自分の意識に生じているある働き(事象自身)をあるがままに記述することであり、人間の意識の働きの共通した側面という限りで、あるレベルでの一致(共通了解)の可能性を持つのである。




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今日は せいじ がフッサール現象学についてお伝えします。

前回は、フッサール現象学における主観/客観問題の基盤となる考え方を書いた。

今日は、フッサール現象学の核心となる「知覚直観」と「本質直観」のうち、知覚直観について書いてみたい。

フッサールは、主観の内から、外にある対象物(客観)の存在が疑えないと言う確信を得るには、「原始に与える働きをする直観」(原的な直観)が原理の原理として必要であると考えた。

フッサールは次のように考える。


なぜ、千差万別の「認識」や「思想」があるのか。


それは千差万別の判断があり、もっと正確に言えば、ある判断を正しいと見なす様々な「確信」があるからであると。


では人はなぜ、自分の「判断」を「疑えないもの」と信じるのか。


この人間の確信一般につきまとっている「不可疑性」の根拠を疑ってみたい。


判断には2種類がある。


直接判断と間接判断である。


「間接判断」はある事態に関して、直接経験されたものからではなく、直接経験からの類推や推論を含んだ判断である。


つまり、憶見(憶測・ドクサ)を含んだものだ。


従って、判断が様々に分かれ、誤った類推や推論を生じさせる。


学問的あるいは思想的判断や認識は全てこの間接判断(憶見)を含んでいる以上、原理的に「可疑的」なものである。


直接判断は疑えないもの(不可疑的)であり、間接判断は可疑的である。


どんな認識や思想にも必ず様々な憶見ががつきまとうが、その一番底には憶見と言えないもの、疑うことが無意味である「確信」の底板があると原理的には言える。


それをフッサールは諸原理の原理、つまり、原的な直観と呼ぶ。従って彼はこれを「認識の正当性の源泉」であると言う。


フッサールによれば、この原的な直観と呼ばれるものは2つある。一つは、「知覚直観」、もう一つは「本質直観」である。


そして、知覚直観とは、以下のようなものである。

私たちの直接判断(直観)は、それ以上疑うことに意味のない最後の不可疑なものであり、確信を生じさせるいちばん底の源泉である。


しかし、その物自体が実在するかどうかの疑える全てを疑った時、何が「疑えないもの」として残ることになるのか。


フッサールによればそれが「知覚直観」である。


知覚直観とは、個的対象についての経験的直観のことを言う。


私たち人間は、まず、知覚があり、それをもとに、記憶、想起、再表象(再び心に現れること)などが重ね合わさることにより、一つのコップならコップという、一つの対象を見る。


この考え方は、まず感性(感覚器官)による対象の受け入れがあり、次に悟性(理解)による総合的な統一があるというカントの考え方と重なっている。


現象学では、独我論的主観から出発するという前提がある。


独我論とは、自分にとって本当に確信できるのは自分の精神現象だけであり、それ以外のあらゆるものは疑うべき対象であると考える哲学的な立場である。


すると、知覚、想起、記憶、想像の性質の違いを主観そのものに問えばどうなるだろうか。


私たちが知覚と呼ぶ意識表像には、他のものとは決定的に違う性質がある。


それは、想起、記憶、想像などが、ほぼ意識の力によって、恣意的にそれを遠ざけたり、近づけたり、呼び寄せたりできるのに対して、知覚だけは常に恣意的意識の自由にならないものとして現れる。


知覚だけは、もしそれを遠ざけたい時、身体的な働きによらねばならない。


現象学的な見方で言えば、自分のうちに生じる様々な意識表像のうち、意識の自由にならず、恣意的意識の彼岸にあるものとして現れる意識対象が知覚である。


これが知覚とは何かの現象学的な定義である。


重要なことは、この理由によってのみ、知覚は疑えないもの、本当のものという確信一般を人間に生じさせる源泉だと言うことである。


知覚は確かに自我のうちに生じたものでありながら、常に自我を超えた非知のもの、独我論自我(自分自身の精神)の自由にならぬものとしてやってくる。


この理由で、自我を超えて自我の自己原因ではないものとして現れることこそ、自我に、自我ならざるものが確かに外側に存在することを告げる唯一の根拠となる。


知覚直観が、独我論的自我に対して、常にその外側の存在を疑えないもの(不可疑なもの)として指し示す、唯一の正当な源泉であるとみなされる。


フッサールのこの考え方は、デカルトの方法的懐疑、疑うものを全て疑い尽くした挙句、最後に残った疑えないものを取り出すという方法とほとんど重なっている。


両者の違いは次の点である。


デカルトは徹底的な懐疑の果てに、考える私=コギト(自己意識)の存在を最後の不可疑性として取り出した。


しかし、コギトの存在の確実性は、それ自体ではコギトの外側の存在(世界そのものやその中にある事物の存在)を保証できない。


そのため、デカルトは主観の外側に神の存在することを証明し、この神によって主観の認識の正しさを補償させなくてはならなかった。


これに対し、フッサールは次のように考えていたことになる。


主観は外には出られない。


また、デカルトのように神のような保証人を立てて、自分の外側からその認識の正しさ、確実性を保証してもらうわけにはいかない。


主観は自己の外側にあるものの実在の確実性を、主観/客観の一致という仕方で得ているのではない。


主観はこれをただ自分の内部からのみ、何らかの対象存在の不可疑性という仕方でだけ得ている。


そして、主観にそういう不可疑性を与える根本の条件は、知覚という、主観にとって自由にならないものの存在に他ならない。


これが現象学による主観/客観の謎解きの最も核心部分である。


次回は、フッサール現象学のもう一つの核心である、「本質直観」について書いてみたい。



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今日は せいじ がお伝えします!
写真は、哲学の新しいアプローチ方法として、現象学を提唱したエトムントフッサール(1859-1939)である。

ここ5回ほどは哲学の簡単な歴史から、近代哲学の根本問題である主観/客観問題について、古代ギリシャ哲学から、近代哲学の祖 デカルト、そしてカント、ヘーゲル、ニーチェと見てきた。

今日は、この主観/客観問題を解き明かすこととなるエトムントフッサール(1859-1939について書いてみたい。

ただ、フッサールの現象学については何回かに分けなければ言い尽くせない。

今日は主観/客観問題におけるフッサール現象学の基盤となる考え方を書いてみる。


私たちが既に身につけている主観/客観図式はひどく強固なもので、この発想を取り払うことはそう簡単ではない。


フッサールはデカルトの考え方に注目し、そこに、主観/客観図式を取り払う根本的な発想があると考えた。


人間の理性は現実を疑おうと思えば、一見どんな明らかな事柄でも「本当に存在するかどうか」を疑う権利を常に持っている。


夢についても、現実と違わないありありとした夢を見たとしても、醒めてみれば、非現実であったことがわかる。

逆説的に言えば次のようになる。


私たちは誰でもこの現実を確かな現実であり、自分に疑いなく、現実の世界の中を生きていると思っている。


しかし、その確信がいくら強固であっても、今、自分の見たり感じたりしていることが決して夢ではないという保証はどこにもない。


デカルトにおいて、主観/客観は原理的に一致しない原理であることは明快に示されているがデカルトは神という判定者を一致を保証する切り札として持ち出さねばならなかった。


フッサールは神という切り札なしに、問題を解く重要な糸口を見出した。


デカルトは夢の例えによって、懐疑を極限化した上で、唯一疑えないものを取り出そうとした。


デカルトは最後には神という客観の保証人を持ち出した。


その理由は、デカルトが根本では主観/客観図式にとらわれていたからである。


しかし、彼は方法懐疑により一切を疑った時、主観/客観図式から考える限り、問題は必ず円環すること、主観の場所を徹底するところにのみ問題を解く糸口があることを直感していた、フッサールはそう考えた。


フッサールは、次のように考えた。

私たちは、客観という前提から主観の正しさを検証できない。(つまり、誰も「一致」を確かめる「外(客観)」の立場に立てない)。


すると人間は、ただ「主観」の内側だけからある「正しさ」の根拠をつかみ取っている、と考える他ない。


こうして、フッサールが設定した問題の形は次のようになる。

1.デカルトが方法的懐疑で示した原理、「主観」は自分の外に出て「主観」と「客観」の「一致」を確かめることはできない、という理論を守ること。


2.すると、問題なのは主観/客観の「一致」を確証することではなく(それは原理的に不可能であるから)、事物が現実であることは「疑えない」という確信(フッサールはこれを「妥当」と呼ぶ)がどのように生じるのか、という主観の中での確信の条件を突き止めることにある。


こうして、フッサールは、認識論上の問題を解くためには主観/客観の一致を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ、主観の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の確信がある、と主張する。


どんな人間も客観存在や現実存在を疑ってはおらず、またそれを根本的には疑うことはできない。


その理由をはっきりさせるべきである。


そのためには、主観-客観の一致ではなく、なぜ人間は「主観」の中に閉じられているにも関わらず、世界の存在、現実の事物の存在、他者の存在などを「疑えないもの」として確信しているのか、と問うべきである。


フッサールはそう考えた。


フッサールがデカルトから受け取った方法上の核心は2点である。


一つは、主観/客観図式を取り払わなくてはならない以上、この問題の唯一可能で正当な始発点は、誰も自分の認識の「正しさ」を外側から検証できない、つまり、敢えて独我論的主観の立場からはじめるべきだ、ということである。


もう一つは、その前提から出発して、独我論的主観の内側だけで、「疑えなさ」が生じる根拠を求めることである。


独我論とは、自分にとって本当に確信できるのは自分の精神現象だけであり、それ以外のあらゆるものは疑うべき対象であると考える哲学的な立場である。


現象学の場合、この「確信」あるいは「不可疑性」は特に3つのことについて言われる。


1つは世界が実在すること、2つ目は自然の事物の実在、最後に他者の実在の不可疑性である。


このように見てくれば、現象学は独我論、主観主義ではないことがわかる。


現象学は「世界の実在」を疑っているのではない。


認識論上の難問が主観/客観図式では解けないことを見極めた上で、原理的に独我論的立場から出発する以外にこの問題を解きほどく道はないと主張する。


現象学的還元という考え方の核心は、まず、主観/客観図式を前提とする限り、認識問題は解けないという点にあり、次に、そうである以上、論理上は独我論的な主観の立場から出発するほかない、という見極めにある。


そして、それ以上でもそれ以下でもないことをよくわきまえておく必要がある。


アリストテレスは形而上学の中で、一切の学問的探究において、その方法上の基礎と見なされるべき「原理の中の原理」があると主張している。


形而上学とは、感覚ないし経験を超えた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。


フッサールの言う諸原理の原理はアリストテレスのそれと違い、それは、「原始に与える働きをする直観」である、と言う。


この「原始に与える働きをする直観」(原的な直観)は、2つあり、「知覚直観」および「本質直観」がそれだ。


次回以降は、知覚直観、本質直観について書いてみたい。





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今日の写真は フリードリヒ•ニーチェ ドイツの哲学者である。

ここ3回は古代ギリシャ哲学から現代哲学までの流れと、近代哲学の根源問題である、主観/客観•認識/対象問題について書いてきた。

今回も現象学から実存主義へと繋がる重要な主観/客観問題におけるデカルト、カント、ヘーゲルのその続きを書いてみたい。

今回は、フリードリヒニーチェ(1844-1900)の哲学思想について書いてみる。

近代哲学の主観/客観図式そのものが根本的に誤っているのではないか。

この疑念を初めて明瞭に理論化したのはニーチェである。


ニーチェの考えは、主観/客観の代わりにいわばカオス(混沌)とその解釈を置く。


彼は現実客観などというものはそもそも存在せず、ただ、現実についての様々な「解釈」だけがあるに過ぎないという。


世の中にはより優勢な認識(解釈)とより劣勢な認識(解釈)があるだけだ。


より優勢な認識とは、力を持ったものにとって都合の良い認識のことであり、劣勢な認識とは、弱いものが強いものに対抗するために立てる認識のことである。


認識は力に奉仕する。


これがニーチェの考え方の基本である。私たちの常識にフィットするところがある。


結局、強いものの言い分が「大義」として通用している、そういう常識である。


しかし、この考え方を極端化すると、世の中にはいろいろな立場に応じて、千差万別の認識があるに過ぎないことになる。


この考え方からは、なぜほとんどの人に共有される様々な共通認識が成立するのか、議論による納得などが生じるのか説明がつかない。


ニーチェの考え方は、従来の西洋哲学の根本前提を覆すほどの力を持っていた。


しかし、全てが解釈だという言い方は、客観という項目を大胆に取り払ったところに画期性があるが、この言い方だけでは、認識なるものは存在せず、ただ、思い込みだけがあることになる。


それでもニーチェはかなり問題を前へ押し進めたといえる。


問題は次のように整理された。


私たちの認識のうちには、「確実なもの」と「曖昧なもの」が同居している。


幾何学の公式や数学などは、誰がいつやっても同じ形が現れるが、社会や人間の「真理」に関する意見(認識)などは「一致」しないことの方が普通だ。


たとえあったとしてもその「一致」は、ある一時代や一空間の中でだけ成立するに過ぎない。


伝統的な哲学が考えたように、客観なるものがあるのだとすれば、真理の認識がバラバラな形で現れるのは不可解である。


また、客観が元々ないのだとすれば、つまり、全てが人間の思い込みだとすれば、疑いなく「確実なもの」の存在は一体何に由来することになるのか。


ここまでくると、主観/客観の一致問題は、それ自体が意味を為さないということが分かりつつある。


そして、主観に閉じ込められた我々の認識において、我々は世界の存在や現実の事物の存在、他者の存在(客観的存在)を疑えないものとして確信しているのはどうしてしてなのか、を解明することが主観/客観問題を解く方法であるとフッサールは考えた。


ニーチェが直感的に見抜いていたことをフッサールは徹底して考え詰め、ひとつの独創的な哲学的思考の原理を見出す。


この思考の原理が、主観/客観の難問を全く明らかに解きほどくこととなる。


次回はいよいよ、フッサールについて書いてみたいと思う。

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