GAFnetブログへようこそ!

今日も哲学について せいじ がお伝えします。

写真は ヴィルヘルム•フリードリヒ•ヘーゲル、ドイツ観念論を代表する哲学者である。


前回のこのブログでカント哲学について書いてみた。


近代哲学の根源問題である、主観/客観、認識/対象問題について、デカルトは、神の存在証明を行い、神のような存在を持ち出さなければ、主観と客観の一致を確証することは原理的に不可能であるとした。


カントは、神の存在証明を退け、人間の認識装置が完璧でないとすれば、人間は客観を認識できないが、人間の認識装置が完璧であることを保証する手立ては人間には原理的にないとした。


しかし、ドイツの哲学者ヴィルヘルムフリードリヒヘーゲル(1770-1831は、このカントの考えには大きな盲点があると考えた。


ヘーゲルによればカントの考えは、人間の認識を例えば、虫眼鏡のような一定の能力を持つ道具のようにみなしているが、人間の認識の特質は一定の能力を持った道具ではなく、自分の能力をレベルアップしていく点にあるとした。


ヘーゲルのこの考えは、大変画期的なものであった。


例えば、子供の見るリンゴも大人の見るリンゴも、見る限りにおいて、同じリンゴだが、大人は一つのリンゴのうちに、概念的「知」を直感的に見ている。


このように、人間の認識は、決まりきった道具ではなく、それ自体が生き物のように生長(高度化)していく、性質を持っている。


認識の能力は徐々に高まっていく。


その極限に「神」の持つような完璧な認識があると想定すれば、主観/客観の難問は解けるとヘーゲルは主張する。


主観/客観は原理的に一致しないのではなく、どんな認識もただ、不十分な認識だということに過ぎず、それは最後の一致の場所へ向かう一過程であると考えれば良いとした。


しかし、この考え方は一方で強い反発を招いた。


認識は徐々に進歩し、最後には完全な知(絶対知)に行き着くはずだというこの考え方は、突き詰めると歴史や世界の成り立ちや意味が全て認識され尽くしてしまう可能性を意味する。


つまり、極端な「決定論」に行き着く可能性を意味するという反発である。


このことから、もし、主観と客観が一致しなければ、人間は物事の「本当」や価値について何一つ確実なことは言えない。


一方、主観と客観が一致すると言えば、決定論や摂理の考えを避けられないことになる。


このヘーゲルの考えは、すなわち、主観/客観という前提から出発する限り、私たちは、理論的には必ず極端な決定論か、極端な相対論、懐疑主義、不可知論に行き着き、問題は決して解決しないことを意味している。


そして、近代哲学の主観/客観図式そのものが根本的に誤っているのではないか。

この疑念を初めて明瞭に理論化したのがフリードリヒニーチェ(1844-1900である。


次回はニーチェの哲学思想について書いてみたい。






GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、


密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット Website

https://www.gaf-gestalt.com


ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット FaceBook ページhttps://www.facebook.com/Gestalt.A.focusing



GAFnetブログへようこそ、、
今日も せいじ がお伝えします。
写真は、イマヌエル•カント1724-1804)ドイツの哲学者である。

先日のこのブログで、近代哲学の根本問題である「主観/客観」、「認識/対象」の二元論における、ルネ•デカルトの哲学思想について、書いてみた。

デカルトは、方法的懐疑により、全てのものを疑うことから始め、
「すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない」とした。

そして、主観と客観の一致は原則的には不可能であり、神の存在において、主観と客観の一致を保証した。

この「神の存在証明」の矛盾をはっきりと見抜いていたのが、イマヌエル・カント1724-1804である。


カント哲学は、批判哲学と言われるが、これは、デカルトとは逆に、人間の理性は原理的に客観、それ自体を認識できない、ということを証明するものである。


カント哲学において物自体と言う言葉がある。

物自体とは、カントの認識論において重要な言葉で、感覚的に知覚できない、物それ自体のことを示す。


カントによれば、われわれの認識は、物それ自体を直接認識することができない。


リンゴそれ自体の形や味、匂いを認識することができず、認識できるのは、リンゴそれ自体から感覚器官を通した形、味、匂いである。


カントの認識論は次のような結論に達する。


主観と客観の間の一致は理論的には存在し得ない。


人間は物事の本質の認識に達することはできない。


これは人間の純粋理性の能力の本来的な限界である。


人間は物自体については決して認識できない。


つまり、物事の本質を知ることはできず、その現象だけしか認識できない。


カントによれば、人間が世界に対して問いを立てる仕方は三つの問いに要約される。


世界(宇宙)とは何か。私とは何か。神とは何か。


これらの問いに人間は答えることはできない。


いずれも世界の本質そのものを問うような問題だからだ。


人間は事物の本質の認識からは原理的に隔てられている。


しかし、人間は何も認識できないのか?

人間は経験的な世界(現象の世界)の現れについては、これを正しく認識することができる。


認識できないのは、可想界、つまり、事物のあるべき本性の世界だけである。


カントのいう、本質という言葉は、プラトン的な真美と考えるとわかりやすく、真美という理想は認識される物ではなく、人間にとって、意志されるものなのである。


こういう考えによってカントは、デカルトの神の存在証明を退け、その代わりに、善き物、美しい物、本当の物、に対する人間の意志の領域を確保した。


主観/客観の難問の要点は、人間の認識が完璧でないとすれば、人間は客観を認識できないが、人間の認識が完璧であることを保証する手立ては人間には原理的に無理である。

故に、カントの考えは上記の原理をはっきりさせたのだが、ヘーゲル1770-1831はこのカントの考えには大きな盲点があると考えた。

次回はヘーゲルの哲学思想について見てみたい。

GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、

密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット Website

https://www.gaf-gestalt.com


ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット FaceBook ページhttps://www.facebook.com/Gestalt.A.focusing



GAFnet ブログへようこそ、、
今日も連日、せいじ がお伝えします🦉

写真は、近代哲学の祖、ルネ•デカルトである。

今日は、このデカルトの哲学思想について、簡単に書いてみたい。

昨日のブログに、古代ギリシャ哲学からの簡単な歴史を書いてみた。

人間の本質とは何なのか?

2,500年以上も哲学者たちは、私たちへ解けないであろう難問を提示している。

中世の神学思想から、14-16世紀に起こった、ルネサンス運動による人間性の復活、そして、西洋哲学復活の時代へと移り変わる。

フッサールの現象学、そして、その中から新たな哲学思想として、サルトルの実存主義が生まれるのだが、これらの哲学思想が生まれる根源となったのが、16世紀からの近代哲学の「根本問題」として、「この石ころと私の見ている石ころは同じものか。」
という、「主観と客観」、「認識と対象」の二元論と呼ばれる問題である。

「主観と客観は一致するのか」、という問題である。

この「主観/客観」問題について、どのような哲学的方法論を唱え、フッサールの現象学へと発展して行ったのか、見てみたい。

まず、近代哲学の祖と言われるルネ・デカルト(1596-1650)から出発しなければならない。

彼は方法序説の中で、方法的懐疑により、
「すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない」とした。

つまり、我々は全てのものを疑うことができる、しかし、ただ一つ疑えないものが、「疑っている自分の存在」であるという。

これが、「我思う、故に我あり」である。

デカルトは物事を「正しく」認識するための確実な原理を打ち立てようとした。


この「正しい」方法によって得られた認識が本当に「真」であるか否かは、人間には判定できないと考えていた。


人間の認識の真を保証するのは、「神の善意」だとした。


デカルトが企てたのは「神の存在証明」である。


つまりデカルトにおいては、主観と客観の間を架橋するのは神に他ならない。


逆に言えば、「主観/客観」問題において、神のような存在を持ち出さなければ、主観と客観の一致を確証することは原理的に不可能であると、認めていたことを示唆している。


デカルトは神の存在によって、主観と客観の一致を保証した。


このことによって、問題はただ主観のうちの合法則性(認識の正しい規則)を求める点に置かれる。


デカルトでは、正しい認識の規則を求め、それに基づいて考えること、そのことによって人間は真理に達することができるとした。


まずは、デカルトのこの方法的懐疑が、「主観/客観」問題について、一つの投げかけをしたのである。


主観と客観の一致は原理的に不可能であり、神にのみその一致を保証できるとしたのだ。


このデカルトの行った「神の存在証明」の矛盾をはっきりと見抜いていたのが、イマヌエル・カント1724-1804である。


カント哲学は、批判哲学と言われるが、これは、デカルトとは逆に、人間の理性は原理的に客観、それ自体を認識できない、ということを証明するものである。


このカント哲学については、次回以降に書きたいと思う。


GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、

密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット Website

https://www.gaf-gestalt.com


ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット FaceBook ページhttps://www.facebook.com/Gestalt.A.focusing





GAFnetブログへようこそ、、
今日は せいじ がお伝えします…
今日の写真は、2019年に訪問した、ギリシャパルテノン神殿とギリシャの一般的レストランの食事です。

暑い日が続きますね、、そして、コロナ感染が増加しています。熊本は4,000名超えが当たり前になってしまいました。経験とは恐ろしいものです、、4,000人でも驚かなくなるわけですから…

少し、ブログをサボっていました…

さて、私が学び実践しているゲシュタルト療法は哲学的背景があり、それは現象学と実存主義であると言われている。

そして、Facebookでその哲学的背景をとても詳しく知っているかのようなコメントも多々ある。

ゲシュタルト療法において、現象学における思考停止(エポケー)が重要なのだとか、メルロ=ポンティの知覚の現象学が重要なのだとか…

しかし、その殆どは表面的な説明とは言えない説明に終始している。

少しのかじった哲学を、私はこれだけ学んだのよ、現象学や実存主義も理解したのよ、凄いでしょう、私はゲシュタルト療法を深く極めたのよ…

そんな心の声が聞こえて来る。

そして、そういう私はゲシュタルト療法における哲学的背景について、まだ、あまり良く理解していない。

何故なら、そう簡単には理解できる代物ではないからだ。そして、そういうことについて深い考察をしている書籍が見当たらないのも事実だ。

何より、私の中にあるのは、私なりにその哲学的背景を理解し、構築することを望んでいると言うことだ。

誰から教わるでもなく、理解したい。

今哲学について、古代ギリシャ哲学から学び始めている。現象学だ、実存主義だ、構造主義だとその部分だけを切り取ってみたとしても、それは何ら意味を為さない。

ゲシュタルト療法における全体性がなければ、哲学全体が理解できない。切り取ったものは、ただ単にその一部でしかない。

哲学の出発点である古代ギリシャ哲学から理解を深める必要がある。

その歴史の中で理解しつつあることがいくつかある。

そのことを今日は書いてみたい。

まず、哲学の祖と言われるのは誰なのか。
BC5世紀、古代ギリシャのソフィストであったタレスと言われている。そして、古代ギリシャ哲学は、ギリシャの港町、ミレトスで生まれたと言われている。

この当時の哲学的問答は、世界の根源への問いであった。
世界の根源は何からできているのか?

タレスは言う、世界は水であると。
その弟子、アナクシメネスは言う、空気であると。
デモクリトスは言う、原子だと。

その後、BC5世紀から4世紀にかけ、古代ギリシャ哲学者ソクラテスが現れる。

哲学の語源は、ギリシア語 φιλοσοφια(philosophia; philo-=愛する、sophia=知)に由来する。

すなわち、知を愛する学問であり、人間、世界、事物の本質を理性によって求めようとする学問である。

ソクラテス以降の哲学は、人間の本質を求めるようになる。ソクラテスはBC399年、71歳の時、不敬神の罪により死刑となる。

その後、弟子であったプラトン、その弟子であったアリストテレスらが古代ギリシャ哲学を発展させる。

しかし、BC四世紀に古代ギリシアのポリスはマケドニアに制覇され、次にローマ帝国の支配に置かれると、ギリシア哲学も衰退の兆しを見せ始める。

そして、その後、ヨーロッパはキリスト教の支配する時代に突入し、神学の強い影響下に置かれることになる。

この時代は、西洋哲学にとって不遇の時代であった。

しかし、14世紀に入り十字軍の遠征による商業都市の発展、それに伴い、イスラム教の世界観が入ってくるなど、キリスト教の権威に翳りが出始めると共に、「人知を超えた存在としての神を前提に理論を構築してはならない」という古代ギリシアのアリストテレスの哲学が再び脚光を浴びる。

その後、15世紀以降、ローマ帝国の滅亡に伴うルネサンス時代の到来、コペルニクスの地動説やニュートンの万有引力の法則など自然科学の発展、また、マルチン•ルターによる宗教革命と宗教戦争による教会の権威失墜など、神ではなく、人間への関心が再び高まっていく。

これが近代哲学の始まりであり、おおよそ16世紀から20世紀までの哲学を言う。

そして、近代哲学の祖と言われるのがルネデカルト(1596-1650)である。

このデカルト以降、
イマヌエルカント(1724-1804)、ヴィルヘルムフリードリヒヘーゲル(1770-1831)、

フリードリヒニーチェ(1844-1900)からエトムントフッサール(1859-1939)の現象学、モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)の身体性哲学、

そして、ジャン=ポール•サルトル(1905-1980)の実存主義、クロード•レヴィ=ストロース(1908-2009)の構造主義へと哲学的思想が続くのだが、その内容については次回以降に書いてみたい。


GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、

密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット Website

https://www.gaf-gestalt.com


ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット FaceBook ページhttps://www.facebook.com/Gestalt.A.focusing

GAFnetのブログにようこそ。
今日は、けんがお伝えします。

八月になりました。
暑いですね~並木道を歩くとセミの大合唱が降ってきます。

二十四節気では「大暑」七十二候では「大雨時行」ですが、二三日もすると「立秋」「涼風至」となります。
暑さのビークの内にすでに秋を含んでいることに気づきます。自然の理に拠って世界は変化し続けているのですね。

コロナ禍が続きます。
第7波の襲来ですが、以前のように危機感もなく日常生活を送っています。

ゲシュタルト劇団のけいこも継続しています。
三密を避けて、外出時のマスク、帰宅時の石鹸手洗いは習慣になりました。

気づくとここ三年位ずっと風邪も引かず花粉症もなく元気です。

人生ドラマの主人公は自分です。
シナリオは自分で作ります。
生まれて死ぬまでの物語です。
物心つくまでは親や周囲の人達のシナリオに同調していますが、他者を鏡として自分でシナリオを作り始めます。

自分の役柄、活動の場、登場人物、ストーリー立て、全て自分が選択しています。

今までの過去のシナリオは変えられませんが、これから先の未来のシナリオは、どんな風にも変えることが出来ます。

自分が今どのようにここに在るかに気づく時、自然に未来への新しいシナリオが見えてきます。

今までのシナリオが苦しみや悲しみの連続だったとしても、今からの未来のシナリオは自分の思い描くように変えていけるのです。

あんなことをやりたい、あんな人になりたい、感動の出会いや体験がシナリオをどんどん魅力あるものに変えます。

自分のシナリオを作るというのは、自分の思いをかたちにしていくことでもあります。

私は「漫画大好き人間」で、今でもコンビニで立読みしていますが、漫画の世界でしか有り得ないと誰もが思うシナリオを作り、けいこにけいこを重ねて現実世界に飛び出して来た若者たちがいます。

野球界の大谷翔平や将棋界の藤井聡太たちです。
同時代を生きて、彼らの生ドラマを味わえるなんて最高!

今どのようにここに在るかをシェアすることで、今この場では、登場人物の数だけのドラマが同時進行していることに気づきます。

今自分の立っているところが世界の真ん中なのだと気づきます。

今ここが、すべての起点なのだと気づきます。


GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、

密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット Website

https://www.gaf-gestalt.com


ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット FaceBook ページhttps://www.facebook.com/Gestalt.A.focusing






おはようございます、、ギャフネットブログへようこそ!
今日は せいじ がお伝えします…

写真は2019年5月、ギリシャ、パルテノン神殿です。

ブログを2週間サボってました、、その間にコロナ感染が爆発的に増えてきました…

熊本では4,000人超えてしまいました、、恐らく人口当たりでは、沖縄に次ぐ多さでしょう。

先週は日本ゲシュタルト療法学会の大会でした。

その中で、「ゲシュタルト療法のシンプルさに気づき、理解する」というテーマで2時間のワークショップをさせてもらった。

私は常々、ゲシュタルト療法はシンプルであると確信している。

そして、実際にゲシュタルト療法はシンプルでなければならない。

何故ならば、ゲシュタルト療法は、今ここでの気づきと選択、これだけなのだから。

最近は派手なゲシュタルト療法が流行っている。

それはそれで良い。

何かとゲシュタルト療法をコラボさせる試みは必要なことであり、その相乗効果は2以上のものを提供してくれると思う。

そして、これは応用編であると思うべきであろう。

受ける側が何を求めてそのワークショップへ参加するのかにもよるが、

もし、ゲシュタルト療法を深めたい、本物のゲシュタルト療法を身につけたい、手に入れたい、と願う人がいるなら、まだその前に身につけることがある。

それがゲシュタルト療法とは何なのかということである。

ゲシュタルト療法にも原理原則はある。それはガチガチの枠組みという意味でわはない、やり方という意味でもない。

ゲシュタルト療法の根底にある、思想である。

それが、私は今ここでの気づきと選択、それだけだと確信している。

同じことは、アメリカのゲシュタルト療法家で、パールズから薫陶を受けた、ロバートレズニック博士も言っている。

彼のゲシュタルト療法は至ってシンプルである。

それは、今ここでの気づきと選択を大切にしているからに他ならない。

セラピストの多くは、他者の問題を解決することが私の役割であると考えている。それはそれで、決して間違いではない。

困った人がいれば、何か手助けをしてあげたいと思うのは常であり、その人の問題を解決してあげたいと思うのは当たり前だ。

しかしだ、私たちはその人ではなく、その人の問題を解決でわかるのはその人自身以外にはいないのだ、ということを忘れている。

私たちは他者の手助けはできるが、その人の問題を解決することはできない。

それはその人の問題だからである。

私たちができる全ては、その人に寄り添うことだけだろう。

それがゲシュタルト療法では、セラピストが寄り添うことで、その人が今ここでの気づきを得、自身の選択ができるようになる、手助けをするのだ。

ただ、それだけである、至ってシンプルである。

問題を解決しようが、しまいが、それはその人自身の選択である。

しかし、セラピストとしての私たちは何故か、クライエントの問題を解決しなければならないという呪縛に囚われる。

おかしなものだ。

セラピストでなければ、呪縛などないのだろうが、セラピストという鎧を纏っているが故に、セラピストとしての価値観をクライエントへ押し付けてしまう。

セラピストがセラピスト自身とクライエントをがんじがらめにしてしまう。

私たちは気づくことで次のステップへと行けることを信じていないから、そんなことが起こるのだ。

気づきが訪れたクライエントは、その気づきから新たな気づきが生まれる、そして、そのことに気づいたクライアントは、次の気づきにあっさりと到達してしまう。

私はこれを気づきの推進というのだが、この気づきの推進は、垂直方向へ、あるいは螺旋を描きながら緩やかに深まっていく。

私たちが気付いたものは、私たちの背景へと流れ、新たな気づきが私たちの目の前に現れる。

この繰り返しが、気づきの推進を促してくれる。

ただ、これだけのことで、私たちは以前の私よりも新しい私をかんじることができる。

何もテクニックはいらない、セラピストが考え、複雑化する必要な皆無である。

このゲシュタルト療法とは何者なのかということが理解されてこそ、次のステップへである応用編の扉が開くのだ。

ゲシュタルト療法を深く学びたい方は、そんな学び方を私は推奨する。



GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、

密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット Website

https://www.gaf-gestalt.com


ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット FaceBook ページhttps://www.facebook.com/Gestalt.A.focusing


GAFnetのブログにようこそ。
今日は、けんがお伝えします。

今年も真っ赤なトマトの季節を満喫しました。
我が家では、
ひょんなことで知り合ったトマトづくり名人から
毎年おいしいトマトを買っています。

他で買ってくるトマトは一切口にしない母が
このトマトだけは
美味しい美味しいと言って食べます。

今年は五月の初旬からもらいはじめて、
もう十回以上もらいました。

一回に四、五十個くらいもらうのですが、
食べて食べて食べて
一週間もするとまた下さいと電話します。

ブツの受け渡し場所は双方の中間地点。

マコと二人で布袋を六七枚用意して行きます。

キュウリや茄子、スイカなどをおまけでもらいます。
昨日はついでがあって近くまで来るから、ということで、うちの前まで届けてもらいました。

またスイカやミニトマトや自家製の梅を
おまけでもらいました。

今年は今回が最後かも知れませんね。もう一回有るようだったら電話しますね~と帰って行かれました。

部屋いっぱいに真っ赤なトマトを並べていると、
眺めているだけで元気になります。

コロナ禍も影響なく、
毎年おいしいトマトを食べることが出来て、
本当に有り難いことです。

今ここにどのように在るか、と自問すると、
本当に有り難くここに在るなぁと、心から思えます。

ひょんなことから出会い、関係性を深め、認め合い、
喜びを分かち合う。

世界の真ん中に立っている自分を感じます。

今が旬です。


GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、

密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット Website

https://www.gaf-gestalt.com


ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット FaceBook ページhttps://www.facebook.com/Gestalt.A.focusing



GAFnetブログへようこそ、、
今日は せいじ がお伝えします…

いつの間にか梅雨が明けてしまいました。2週間ほどの梅雨時期であり、私の記憶の中で6月に梅雨が明けたのは初めてです…

少しの違和感が頭をもたげますね。

この違和感は何なのだろうか、と私自身へ聞いてみる。それは、普通ではないことへの少しの不安だ。

異常気象だの気候変動だのと言われて30年ほどが経った。やはり、この短すぎる梅雨もその一つなのだろうかと考えてしまう。

普通でないことが起こると、私たちは何かネガティブな方向へと結びつけようとする。

その結びつけは当たっているかもしれないし、そうでないかもしれない。

不安とは、何かわからないから不安なのであって、結びつけることにより、納得したいのだと思う。

実存主義という思想がある。

人間の実存を哲学の中心におく立場、あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想である。

私がゲシュタルト療法のワークをする時、この実存という思想はとても重要である。

哲学における、実存の対義語は本質であろう。

本質とは、そのものの役割や意味づけをしたものであると理解している。

それに対し、実存とは、存在するそのもの自体のことである。

私たちは何か起こった時、それを意味づけすることが多い。

このことが起こったのは、これが原因なんだと…

しかし、実存の立場から考えるなら、ただ、そのことが起こっただけであり、意味付けする事自体が意味をなさない。

ただ、唯一その答えを知っているのは、その物自体しかない。

例えば、身体が震える現象に気づいたクライエントは、この震えを過去のある体験と結びつける事で、納得しようとする。

しかし、本当にその震えは過去の体験と結びついているのだろうか、、ただ、そう思いたいだけではないのかという疑問が起こる。

これを実存を前提として考えた場合、その震えはただ身体に震えが起こっている、それだけである。

すると、答えを知っているのはその震えだけである。

ただ、その震えがやりたいように、その震え自体へスペースを与えてあげる。

震えが震えたいように、身体が震えたいようにただ、その震えに身を任せる。

これが今ここでの体験であり、今ここでの実存である。
すると、その震えは意味づけされた、その震えの本質であると思い込んでいたものとは全く違う形で私たちの元に、実存のメッセージをもたらしてくれる。

私たちはその本質に惑わされてはいけない。
私たちはそのものの実存を理解する必要がある。

実存は本質に先立つ

サルトルの言葉である。


GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、

密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット Website

https://www.gaf-gestalt.com


ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット FaceBook ページhttps://www.facebook.com/Gestalt.A.focusing





こんにちは、、GAFnetブログへようこそ。

今日は せいじ がお伝えします…

2年4ヶ月ぶりに福岡グループのトレーニングにお邪魔しました。

コロナでなかなか行き来できなかったので、何か懐かしさを覚えます。

新幹線はほぼ満杯でした…経済にとっては良い事なのだろうと思う反面、みんなどこへ行くのだろうかと一人ひとりに聞いてみたい感じです。

今回は私が初心に帰るとても良い機会になると感じている。

最近のゲシュタルト療法のワークショップ案内をFacebook等で見ると、派手な飾ったものが多い。

まあ、それはそれでお客を呼ぶには良いのかもしれない。

ただ、ゲシュタルト療法とはそんなものだったのだろうか、そう思わずにはいられない。

それは日本ゲシュタルト療法学会についても同じことが言えるのかもしれない。

12年前の、設立当初の志をどのくらいの人々が心に留め、その精神を引き継ごうとしているのか。

今回の福岡でのトレーニングコースはそんな思いを持ちながら、私は過ごした。

だから、ゲシュタルト療法の原点に立ち返り、ゲシュタルト療法のベースである”気づき”が私たちが生きる上で如何に重要であるのか、このことをトレーニングメンバーへ伝えたいと思った。

今ここに存在し、気づくこと、そして、選択すること、ただこれだけである。

私もこの18年、ゲシュタルト療法を学びながら、いろいろと試行錯誤し、私のゲシュタルトを作り上げてきた。

この2年以上のコロナ禍という環境も含めて、良い機会であったと思っている。

少し、ゲシュタルト療法を客観的に見ることができた。
この事によって、最近の喧騒に巻き込まれずに、私の立ち位置を確認することができた。

だからこそ、ゲシュタルト療法とは何なのか、その原点に戻る必要があると実感した。

この2日間の福岡はとても心地よかった。
ゲシュタルト療法の原点を感じられる2日間だ。

投影、鵜呑み、反転、、ゲシュタルトにおける神経症的症状が現れる。

気づきを大切にするワークが多い。
私も今はその気づきを大切にしたいと思う。

そして、その気づきはクライエントへ大切なものをギフトしてくれる。

気づきが推進する事で、私たちは統合されていく。
クライエントの問題を解決する必要はない。
クライエントの責任を背負うことはない。
純粋であり続けること、ただそのことを大切にしてほしい。

セラピストである前に生身の人間であることを忘れては行けない。

それがセラピストになる最善の策である。

そんな思いを持ちながら、今から熊本へ帰る、、





GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、

密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット Website

https://www.gaf-gestalt.com


ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット FaceBook ページhttps://www.facebook.com/Gestalt.A.focusing



おはようございます。
GAFnetブログへようこそ、、
今日は せいじ がお伝えします…

生憎の雨です。梅雨が本格化してきました。
熊本から鹿児島への新幹線は最近よく運転見合わせとなります…

昔よりも安全基準が厳しくなった、そんな感じを受けますね。

どちらが良いのか、それはよく分からない。
リスクをテイクするのか、リスクをヘッジするのか…

それはその時の状況によるのだろう、、柔軟に事に対処するということが必要である。

言葉で言うのは易く、行うことは難し。

柔軟に対処できる人が何人いるだろうか…

本当の意味からすればほぼいないのだろう。

私たちは生まれた時から、その環境の中で様々な体験をし、その体験は私たちのパーソナリティを創り上げていく。

それは、気づかないうちに創られていく。

特に私たちがまだ家族以外の他者との関わりを持たない頃に出会った体験は特にそうだろう。

それは、比較する対象がないからだ。

家族のルールが当たり前だと信じ、それが普通であると教えられる。

そして、そのルールに適応する身体が創られていく。
それは感覚的なものや行動と言ったことまでそのルールに支配されていく。

そのルールが私の価値観としての根っことなる。

とても厄介な私の根っこである。

価値観というものは私が生まれてからの体験の積み重ねだ。その価値観は社会や文化、環境、他者との関係性において私の中へと根づく。

ほとんどの人々が、特に、親が持つ価値観を取り入れて生きていく。それを私の価値観だと勘違いして。

まあ、それは仕方のないことかもしれない。

私たちが生まれた時から一緒に過ごす多くは親なのであるから、親の価値観を取り入れたとしてもそれは仕方ないことだ。

そして、私たちが子供であるなら、親の言う通りに生きなければ、私たちは生きていけないのだから。

このように日常の体験の中で私たちは偽物の価値観を手に入れ、それが本物の価値観だと信じて生き続ける。

ただ、このことが悪いというのではない。こんな価値観を持って、生きることも一つの生き方だろう。

そして、この生き方は、生きやすいのか、生きづらいのか、私が生きているのか、何だか私が私でないように感じるのか…

この他人の価値観を背負ったままの生き方をしているなら、大抵の人は大人になればなる程、違和感を感じ、生きづらさを感じることが多いようだ。

それは当たり前の感覚であろう。

何故ならば、他人の価値観を背負うということは、言うなれば、他人の人生を生きているのと同じなのだから。

親の期待を一身に背負う。しかし、大抵、この期待は親の達し得なかったことを達成させるための期待である。

親の言う通りのレールの上を歩む人生。

これもまた、親の言いなりになった、親の人生を歩むのと同じことだ。

私とは何者で、私はどこへ進もうとしているのか、私の人生とは何なのか…

何処かで混乱が起きてしまう。

そして、この私の物だと信じて疑わない偽りの価値観を捨て去ることに恐怖を覚える。

それは、私の存在が無くなると感じるのだ。

だから、私たちはこの偽りの価値観をいつまで経っても捨て去ることはできない。

私の身体全体がこの価値観によって覆われ、この価値観によってガチガチに固められている。

そんな私に柔軟性などと言う感覚があろうはずはない。

私の中にあるのは、親たちから取り入れた、頑固な価値観の塊だけである。

私の実際の身体にもガチガチな緊張が至るところに表れる。

歯を食いしばり、首から肩にかけてガチガチに固め、呼吸は浅く、横隔膜の活動は停滞し、筋肉の鎧を纏うのだ。

その鎧の下には私という存在を示してくれる本物の私の価値観が隠されている。

この事に私は薄々感じてはいるのだが、これまで感じたことのないそんな価値観に不安を覚える。

今の価値観を捨て去って、私の奥深くにある別な価値観に手を伸ばしても、それは幻想であったならどうしようか、そうなれば私という存在はこの世から消え去ってしまうという恐怖に怯える。

しかし、そんなことは微塵もないということにゲシュタルト療法家は既に気づいている。

他人の価値観という呪縛から解放され、私の真の価値観を手にする術をゲシュタルト療法家たちは既に知っている。

それは、ただ単に、私がこれまでの人生を他人のために生きてきたんだ、と気づくだけである。


GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、

密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット Website

https://www.gaf-gestalt.com


ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット FaceBook ページhttps://www.facebook.com/Gestalt.A.focusing