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今日も哲学について せいじ がお伝えします。
写真は ヴィルヘルム•フリードリヒ•ヘーゲル、ドイツ観念論を代表する哲学者である。
前回のこのブログでカント哲学について書いてみた。
近代哲学の根源問題である、主観/客観、認識/対象問題について、デカルトは、神の存在証明を行い、神のような存在を持ち出さなければ、主観と客観の一致を確証することは原理的に不可能であるとした。
カントは、神の存在証明を退け、人間の認識装置が完璧でないとすれば、人間は客観を認識できないが、人間の認識装置が完璧であることを保証する手立ては人間には原理的にないとした。
しかし、ドイツの哲学者ヴィルヘルム•フリードリヒ•ヘーゲル(1770-1831)は、このカントの考えには大きな盲点があると考えた。
ヘーゲルによればカントの考えは、人間の認識を例えば、虫眼鏡のような一定の能力を持つ道具のようにみなしているが、人間の認識の特質は一定の能力を持った道具ではなく、自分の能力をレベルアップしていく点にあるとした。
ヘーゲルのこの考えは、大変画期的なものであった。
例えば、子供の見るリンゴも大人の見るリンゴも、見る限りにおいて、同じリンゴだが、大人は一つのリンゴのうちに、概念的「知」を直感的に見ている。
このように、人間の認識は、決まりきった道具ではなく、それ自体が生き物のように生長(高度化)していく、性質を持っている。
認識の能力は徐々に高まっていく。
その極限に「神」の持つような完璧な認識があると想定すれば、主観/客観の難問は解けるとヘーゲルは主張する。
主観/客観は原理的に一致しないのではなく、どんな認識もただ、不十分な認識だということに過ぎず、それは最後の一致の場所へ向かう一過程であると考えれば良いとした。
しかし、この考え方は一方で強い反発を招いた。
認識は徐々に進歩し、最後には完全な知(絶対知)に行き着くはずだというこの考え方は、突き詰めると歴史や世界の成り立ちや意味が全て認識され尽くしてしまう可能性を意味する。
つまり、極端な「決定論」に行き着く可能性を意味するという反発である。
このことから、もし、主観と客観が一致しなければ、人間は物事の「本当」や価値について何一つ確実なことは言えない。
一方、主観と客観が一致すると言えば、決定論や摂理の考えを避けられないことになる。
このヘーゲルの考えは、すなわち、主観/客観という前提から出発する限り、私たちは、理論的には必ず極端な決定論か、極端な相対論、懐疑主義、不可知論に行き着き、問題は決して解決しないことを意味している。
そして、近代哲学の主観/客観図式そのものが根本的に誤っているのではないか。
この疑念を初めて明瞭に理論化したのがフリードリヒ•ニーチェ(1844-1900)である。
次回はニーチェの哲学思想について書いてみたい。
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