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今日は せいじ がお伝えします!
写真は、哲学の新しいアプローチ方法として、現象学を提唱したエトムントフッサール(1859-1939)である。

ここ5回ほどは哲学の簡単な歴史から、近代哲学の根本問題である主観/客観問題について、古代ギリシャ哲学から、近代哲学の祖 デカルト、そしてカント、ヘーゲル、ニーチェと見てきた。

今日は、この主観/客観問題を解き明かすこととなるエトムントフッサール(1859-1939について書いてみたい。

ただ、フッサールの現象学については何回かに分けなければ言い尽くせない。

今日は主観/客観問題におけるフッサール現象学の基盤となる考え方を書いてみる。


私たちが既に身につけている主観/客観図式はひどく強固なもので、この発想を取り払うことはそう簡単ではない。


フッサールはデカルトの考え方に注目し、そこに、主観/客観図式を取り払う根本的な発想があると考えた。


人間の理性は現実を疑おうと思えば、一見どんな明らかな事柄でも「本当に存在するかどうか」を疑う権利を常に持っている。


夢についても、現実と違わないありありとした夢を見たとしても、醒めてみれば、非現実であったことがわかる。

逆説的に言えば次のようになる。


私たちは誰でもこの現実を確かな現実であり、自分に疑いなく、現実の世界の中を生きていると思っている。


しかし、その確信がいくら強固であっても、今、自分の見たり感じたりしていることが決して夢ではないという保証はどこにもない。


デカルトにおいて、主観/客観は原理的に一致しない原理であることは明快に示されているがデカルトは神という判定者を一致を保証する切り札として持ち出さねばならなかった。


フッサールは神という切り札なしに、問題を解く重要な糸口を見出した。


デカルトは夢の例えによって、懐疑を極限化した上で、唯一疑えないものを取り出そうとした。


デカルトは最後には神という客観の保証人を持ち出した。


その理由は、デカルトが根本では主観/客観図式にとらわれていたからである。


しかし、彼は方法懐疑により一切を疑った時、主観/客観図式から考える限り、問題は必ず円環すること、主観の場所を徹底するところにのみ問題を解く糸口があることを直感していた、フッサールはそう考えた。


フッサールは、次のように考えた。

私たちは、客観という前提から主観の正しさを検証できない。(つまり、誰も「一致」を確かめる「外(客観)」の立場に立てない)。


すると人間は、ただ「主観」の内側だけからある「正しさ」の根拠をつかみ取っている、と考える他ない。


こうして、フッサールが設定した問題の形は次のようになる。

1.デカルトが方法的懐疑で示した原理、「主観」は自分の外に出て「主観」と「客観」の「一致」を確かめることはできない、という理論を守ること。


2.すると、問題なのは主観/客観の「一致」を確証することではなく(それは原理的に不可能であるから)、事物が現実であることは「疑えない」という確信(フッサールはこれを「妥当」と呼ぶ)がどのように生じるのか、という主観の中での確信の条件を突き止めることにある。


こうして、フッサールは、認識論上の問題を解くためには主観/客観の一致を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ、主観の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の確信がある、と主張する。


どんな人間も客観存在や現実存在を疑ってはおらず、またそれを根本的には疑うことはできない。


その理由をはっきりさせるべきである。


そのためには、主観-客観の一致ではなく、なぜ人間は「主観」の中に閉じられているにも関わらず、世界の存在、現実の事物の存在、他者の存在などを「疑えないもの」として確信しているのか、と問うべきである。


フッサールはそう考えた。


フッサールがデカルトから受け取った方法上の核心は2点である。


一つは、主観/客観図式を取り払わなくてはならない以上、この問題の唯一可能で正当な始発点は、誰も自分の認識の「正しさ」を外側から検証できない、つまり、敢えて独我論的主観の立場からはじめるべきだ、ということである。


もう一つは、その前提から出発して、独我論的主観の内側だけで、「疑えなさ」が生じる根拠を求めることである。


独我論とは、自分にとって本当に確信できるのは自分の精神現象だけであり、それ以外のあらゆるものは疑うべき対象であると考える哲学的な立場である。


現象学の場合、この「確信」あるいは「不可疑性」は特に3つのことについて言われる。


1つは世界が実在すること、2つ目は自然の事物の実在、最後に他者の実在の不可疑性である。


このように見てくれば、現象学は独我論、主観主義ではないことがわかる。


現象学は「世界の実在」を疑っているのではない。


認識論上の難問が主観/客観図式では解けないことを見極めた上で、原理的に独我論的立場から出発する以外にこの問題を解きほどく道はないと主張する。


現象学的還元という考え方の核心は、まず、主観/客観図式を前提とする限り、認識問題は解けないという点にあり、次に、そうである以上、論理上は独我論的な主観の立場から出発するほかない、という見極めにある。


そして、それ以上でもそれ以下でもないことをよくわきまえておく必要がある。


アリストテレスは形而上学の中で、一切の学問的探究において、その方法上の基礎と見なされるべき「原理の中の原理」があると主張している。


形而上学とは、感覚ないし経験を超えた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。


フッサールの言う諸原理の原理はアリストテレスのそれと違い、それは、「原始に与える働きをする直観」である、と言う。


この「原始に与える働きをする直観」(原的な直観)は、2つあり、「知覚直観」および「本質直観」がそれだ。


次回以降は、知覚直観、本質直観について書いてみたい。





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今日は せいじ がお伝えします!
今日の写真は フリードリヒ•ニーチェ ドイツの哲学者である。

ここ3回は古代ギリシャ哲学から現代哲学までの流れと、近代哲学の根源問題である、主観/客観•認識/対象問題について書いてきた。

今回も現象学から実存主義へと繋がる重要な主観/客観問題におけるデカルト、カント、ヘーゲルのその続きを書いてみたい。

今回は、フリードリヒニーチェ(1844-1900)の哲学思想について書いてみる。

近代哲学の主観/客観図式そのものが根本的に誤っているのではないか。

この疑念を初めて明瞭に理論化したのはニーチェである。


ニーチェの考えは、主観/客観の代わりにいわばカオス(混沌)とその解釈を置く。


彼は現実客観などというものはそもそも存在せず、ただ、現実についての様々な「解釈」だけがあるに過ぎないという。


世の中にはより優勢な認識(解釈)とより劣勢な認識(解釈)があるだけだ。


より優勢な認識とは、力を持ったものにとって都合の良い認識のことであり、劣勢な認識とは、弱いものが強いものに対抗するために立てる認識のことである。


認識は力に奉仕する。


これがニーチェの考え方の基本である。私たちの常識にフィットするところがある。


結局、強いものの言い分が「大義」として通用している、そういう常識である。


しかし、この考え方を極端化すると、世の中にはいろいろな立場に応じて、千差万別の認識があるに過ぎないことになる。


この考え方からは、なぜほとんどの人に共有される様々な共通認識が成立するのか、議論による納得などが生じるのか説明がつかない。


ニーチェの考え方は、従来の西洋哲学の根本前提を覆すほどの力を持っていた。


しかし、全てが解釈だという言い方は、客観という項目を大胆に取り払ったところに画期性があるが、この言い方だけでは、認識なるものは存在せず、ただ、思い込みだけがあることになる。


それでもニーチェはかなり問題を前へ押し進めたといえる。


問題は次のように整理された。


私たちの認識のうちには、「確実なもの」と「曖昧なもの」が同居している。


幾何学の公式や数学などは、誰がいつやっても同じ形が現れるが、社会や人間の「真理」に関する意見(認識)などは「一致」しないことの方が普通だ。


たとえあったとしてもその「一致」は、ある一時代や一空間の中でだけ成立するに過ぎない。


伝統的な哲学が考えたように、客観なるものがあるのだとすれば、真理の認識がバラバラな形で現れるのは不可解である。


また、客観が元々ないのだとすれば、つまり、全てが人間の思い込みだとすれば、疑いなく「確実なもの」の存在は一体何に由来することになるのか。


ここまでくると、主観/客観の一致問題は、それ自体が意味を為さないということが分かりつつある。


そして、主観に閉じ込められた我々の認識において、我々は世界の存在や現実の事物の存在、他者の存在(客観的存在)を疑えないものとして確信しているのはどうしてしてなのか、を解明することが主観/客観問題を解く方法であるとフッサールは考えた。


ニーチェが直感的に見抜いていたことをフッサールは徹底して考え詰め、ひとつの独創的な哲学的思考の原理を見出す。


この思考の原理が、主観/客観の難問を全く明らかに解きほどくこととなる。


次回はいよいよ、フッサールについて書いてみたいと思う。

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今日も哲学について せいじ がお伝えします。

写真は ヴィルヘルム•フリードリヒ•ヘーゲル、ドイツ観念論を代表する哲学者である。


前回のこのブログでカント哲学について書いてみた。


近代哲学の根源問題である、主観/客観、認識/対象問題について、デカルトは、神の存在証明を行い、神のような存在を持ち出さなければ、主観と客観の一致を確証することは原理的に不可能であるとした。


カントは、神の存在証明を退け、人間の認識装置が完璧でないとすれば、人間は客観を認識できないが、人間の認識装置が完璧であることを保証する手立ては人間には原理的にないとした。


しかし、ドイツの哲学者ヴィルヘルムフリードリヒヘーゲル(1770-1831は、このカントの考えには大きな盲点があると考えた。


ヘーゲルによればカントの考えは、人間の認識を例えば、虫眼鏡のような一定の能力を持つ道具のようにみなしているが、人間の認識の特質は一定の能力を持った道具ではなく、自分の能力をレベルアップしていく点にあるとした。


ヘーゲルのこの考えは、大変画期的なものであった。


例えば、子供の見るリンゴも大人の見るリンゴも、見る限りにおいて、同じリンゴだが、大人は一つのリンゴのうちに、概念的「知」を直感的に見ている。


このように、人間の認識は、決まりきった道具ではなく、それ自体が生き物のように生長(高度化)していく、性質を持っている。


認識の能力は徐々に高まっていく。


その極限に「神」の持つような完璧な認識があると想定すれば、主観/客観の難問は解けるとヘーゲルは主張する。


主観/客観は原理的に一致しないのではなく、どんな認識もただ、不十分な認識だということに過ぎず、それは最後の一致の場所へ向かう一過程であると考えれば良いとした。


しかし、この考え方は一方で強い反発を招いた。


認識は徐々に進歩し、最後には完全な知(絶対知)に行き着くはずだというこの考え方は、突き詰めると歴史や世界の成り立ちや意味が全て認識され尽くしてしまう可能性を意味する。


つまり、極端な「決定論」に行き着く可能性を意味するという反発である。


このことから、もし、主観と客観が一致しなければ、人間は物事の「本当」や価値について何一つ確実なことは言えない。


一方、主観と客観が一致すると言えば、決定論や摂理の考えを避けられないことになる。


このヘーゲルの考えは、すなわち、主観/客観という前提から出発する限り、私たちは、理論的には必ず極端な決定論か、極端な相対論、懐疑主義、不可知論に行き着き、問題は決して解決しないことを意味している。


そして、近代哲学の主観/客観図式そのものが根本的に誤っているのではないか。

この疑念を初めて明瞭に理論化したのがフリードリヒニーチェ(1844-1900である。


次回はニーチェの哲学思想について書いてみたい。






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今日も せいじ がお伝えします。
写真は、イマヌエル•カント1724-1804)ドイツの哲学者である。

先日のこのブログで、近代哲学の根本問題である「主観/客観」、「認識/対象」の二元論における、ルネ•デカルトの哲学思想について、書いてみた。

デカルトは、方法的懐疑により、全てのものを疑うことから始め、
「すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない」とした。

そして、主観と客観の一致は原則的には不可能であり、神の存在において、主観と客観の一致を保証した。

この「神の存在証明」の矛盾をはっきりと見抜いていたのが、イマヌエル・カント1724-1804である。


カント哲学は、批判哲学と言われるが、これは、デカルトとは逆に、人間の理性は原理的に客観、それ自体を認識できない、ということを証明するものである。


カント哲学において物自体と言う言葉がある。

物自体とは、カントの認識論において重要な言葉で、感覚的に知覚できない、物それ自体のことを示す。


カントによれば、われわれの認識は、物それ自体を直接認識することができない。


リンゴそれ自体の形や味、匂いを認識することができず、認識できるのは、リンゴそれ自体から感覚器官を通した形、味、匂いである。


カントの認識論は次のような結論に達する。


主観と客観の間の一致は理論的には存在し得ない。


人間は物事の本質の認識に達することはできない。


これは人間の純粋理性の能力の本来的な限界である。


人間は物自体については決して認識できない。


つまり、物事の本質を知ることはできず、その現象だけしか認識できない。


カントによれば、人間が世界に対して問いを立てる仕方は三つの問いに要約される。


世界(宇宙)とは何か。私とは何か。神とは何か。


これらの問いに人間は答えることはできない。


いずれも世界の本質そのものを問うような問題だからだ。


人間は事物の本質の認識からは原理的に隔てられている。


しかし、人間は何も認識できないのか?

人間は経験的な世界(現象の世界)の現れについては、これを正しく認識することができる。


認識できないのは、可想界、つまり、事物のあるべき本性の世界だけである。


カントのいう、本質という言葉は、プラトン的な真美と考えるとわかりやすく、真美という理想は認識される物ではなく、人間にとって、意志されるものなのである。


こういう考えによってカントは、デカルトの神の存在証明を退け、その代わりに、善き物、美しい物、本当の物、に対する人間の意志の領域を確保した。


主観/客観の難問の要点は、人間の認識が完璧でないとすれば、人間は客観を認識できないが、人間の認識が完璧であることを保証する手立ては人間には原理的に無理である。

故に、カントの考えは上記の原理をはっきりさせたのだが、ヘーゲル1770-1831はこのカントの考えには大きな盲点があると考えた。

次回はヘーゲルの哲学思想について見てみたい。

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今日も連日、せいじ がお伝えします🦉

写真は、近代哲学の祖、ルネ•デカルトである。

今日は、このデカルトの哲学思想について、簡単に書いてみたい。

昨日のブログに、古代ギリシャ哲学からの簡単な歴史を書いてみた。

人間の本質とは何なのか?

2,500年以上も哲学者たちは、私たちへ解けないであろう難問を提示している。

中世の神学思想から、14-16世紀に起こった、ルネサンス運動による人間性の復活、そして、西洋哲学復活の時代へと移り変わる。

フッサールの現象学、そして、その中から新たな哲学思想として、サルトルの実存主義が生まれるのだが、これらの哲学思想が生まれる根源となったのが、16世紀からの近代哲学の「根本問題」として、「この石ころと私の見ている石ころは同じものか。」
という、「主観と客観」、「認識と対象」の二元論と呼ばれる問題である。

「主観と客観は一致するのか」、という問題である。

この「主観/客観」問題について、どのような哲学的方法論を唱え、フッサールの現象学へと発展して行ったのか、見てみたい。

まず、近代哲学の祖と言われるルネ・デカルト(1596-1650)から出発しなければならない。

彼は方法序説の中で、方法的懐疑により、
「すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない」とした。

つまり、我々は全てのものを疑うことができる、しかし、ただ一つ疑えないものが、「疑っている自分の存在」であるという。

これが、「我思う、故に我あり」である。

デカルトは物事を「正しく」認識するための確実な原理を打ち立てようとした。


この「正しい」方法によって得られた認識が本当に「真」であるか否かは、人間には判定できないと考えていた。


人間の認識の真を保証するのは、「神の善意」だとした。


デカルトが企てたのは「神の存在証明」である。


つまりデカルトにおいては、主観と客観の間を架橋するのは神に他ならない。


逆に言えば、「主観/客観」問題において、神のような存在を持ち出さなければ、主観と客観の一致を確証することは原理的に不可能であると、認めていたことを示唆している。


デカルトは神の存在によって、主観と客観の一致を保証した。


このことによって、問題はただ主観のうちの合法則性(認識の正しい規則)を求める点に置かれる。


デカルトでは、正しい認識の規則を求め、それに基づいて考えること、そのことによって人間は真理に達することができるとした。


まずは、デカルトのこの方法的懐疑が、「主観/客観」問題について、一つの投げかけをしたのである。


主観と客観の一致は原理的に不可能であり、神にのみその一致を保証できるとしたのだ。


このデカルトの行った「神の存在証明」の矛盾をはっきりと見抜いていたのが、イマヌエル・カント1724-1804である。


カント哲学は、批判哲学と言われるが、これは、デカルトとは逆に、人間の理性は原理的に客観、それ自体を認識できない、ということを証明するものである。


このカント哲学については、次回以降に書きたいと思う。


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今日は せいじ がお伝えします…
今日の写真は、2019年に訪問した、ギリシャパルテノン神殿とギリシャの一般的レストランの食事です。

暑い日が続きますね、、そして、コロナ感染が増加しています。熊本は4,000名超えが当たり前になってしまいました。経験とは恐ろしいものです、、4,000人でも驚かなくなるわけですから…

少し、ブログをサボっていました…

さて、私が学び実践しているゲシュタルト療法は哲学的背景があり、それは現象学と実存主義であると言われている。

そして、Facebookでその哲学的背景をとても詳しく知っているかのようなコメントも多々ある。

ゲシュタルト療法において、現象学における思考停止(エポケー)が重要なのだとか、メルロ=ポンティの知覚の現象学が重要なのだとか…

しかし、その殆どは表面的な説明とは言えない説明に終始している。

少しのかじった哲学を、私はこれだけ学んだのよ、現象学や実存主義も理解したのよ、凄いでしょう、私はゲシュタルト療法を深く極めたのよ…

そんな心の声が聞こえて来る。

そして、そういう私はゲシュタルト療法における哲学的背景について、まだ、あまり良く理解していない。

何故なら、そう簡単には理解できる代物ではないからだ。そして、そういうことについて深い考察をしている書籍が見当たらないのも事実だ。

何より、私の中にあるのは、私なりにその哲学的背景を理解し、構築することを望んでいると言うことだ。

誰から教わるでもなく、理解したい。

今哲学について、古代ギリシャ哲学から学び始めている。現象学だ、実存主義だ、構造主義だとその部分だけを切り取ってみたとしても、それは何ら意味を為さない。

ゲシュタルト療法における全体性がなければ、哲学全体が理解できない。切り取ったものは、ただ単にその一部でしかない。

哲学の出発点である古代ギリシャ哲学から理解を深める必要がある。

その歴史の中で理解しつつあることがいくつかある。

そのことを今日は書いてみたい。

まず、哲学の祖と言われるのは誰なのか。
BC5世紀、古代ギリシャのソフィストであったタレスと言われている。そして、古代ギリシャ哲学は、ギリシャの港町、ミレトスで生まれたと言われている。

この当時の哲学的問答は、世界の根源への問いであった。
世界の根源は何からできているのか?

タレスは言う、世界は水であると。
その弟子、アナクシメネスは言う、空気であると。
デモクリトスは言う、原子だと。

その後、BC5世紀から4世紀にかけ、古代ギリシャ哲学者ソクラテスが現れる。

哲学の語源は、ギリシア語 φιλοσοφια(philosophia; philo-=愛する、sophia=知)に由来する。

すなわち、知を愛する学問であり、人間、世界、事物の本質を理性によって求めようとする学問である。

ソクラテス以降の哲学は、人間の本質を求めるようになる。ソクラテスはBC399年、71歳の時、不敬神の罪により死刑となる。

その後、弟子であったプラトン、その弟子であったアリストテレスらが古代ギリシャ哲学を発展させる。

しかし、BC四世紀に古代ギリシアのポリスはマケドニアに制覇され、次にローマ帝国の支配に置かれると、ギリシア哲学も衰退の兆しを見せ始める。

そして、その後、ヨーロッパはキリスト教の支配する時代に突入し、神学の強い影響下に置かれることになる。

この時代は、西洋哲学にとって不遇の時代であった。

しかし、14世紀に入り十字軍の遠征による商業都市の発展、それに伴い、イスラム教の世界観が入ってくるなど、キリスト教の権威に翳りが出始めると共に、「人知を超えた存在としての神を前提に理論を構築してはならない」という古代ギリシアのアリストテレスの哲学が再び脚光を浴びる。

その後、15世紀以降、ローマ帝国の滅亡に伴うルネサンス時代の到来、コペルニクスの地動説やニュートンの万有引力の法則など自然科学の発展、また、マルチン•ルターによる宗教革命と宗教戦争による教会の権威失墜など、神ではなく、人間への関心が再び高まっていく。

これが近代哲学の始まりであり、おおよそ16世紀から20世紀までの哲学を言う。

そして、近代哲学の祖と言われるのがルネデカルト(1596-1650)である。

このデカルト以降、
イマヌエルカント(1724-1804)、ヴィルヘルムフリードリヒヘーゲル(1770-1831)、

フリードリヒニーチェ(1844-1900)からエトムントフッサール(1859-1939)の現象学、モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)の身体性哲学、

そして、ジャン=ポール•サルトル(1905-1980)の実存主義、クロード•レヴィ=ストロース(1908-2009)の構造主義へと哲学的思想が続くのだが、その内容については次回以降に書いてみたい。


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GAFnetのブログにようこそ。
今日は、けんがお伝えします。

八月になりました。
暑いですね~並木道を歩くとセミの大合唱が降ってきます。

二十四節気では「大暑」七十二候では「大雨時行」ですが、二三日もすると「立秋」「涼風至」となります。
暑さのビークの内にすでに秋を含んでいることに気づきます。自然の理に拠って世界は変化し続けているのですね。

コロナ禍が続きます。
第7波の襲来ですが、以前のように危機感もなく日常生活を送っています。

ゲシュタルト劇団のけいこも継続しています。
三密を避けて、外出時のマスク、帰宅時の石鹸手洗いは習慣になりました。

気づくとここ三年位ずっと風邪も引かず花粉症もなく元気です。

人生ドラマの主人公は自分です。
シナリオは自分で作ります。
生まれて死ぬまでの物語です。
物心つくまでは親や周囲の人達のシナリオに同調していますが、他者を鏡として自分でシナリオを作り始めます。

自分の役柄、活動の場、登場人物、ストーリー立て、全て自分が選択しています。

今までの過去のシナリオは変えられませんが、これから先の未来のシナリオは、どんな風にも変えることが出来ます。

自分が今どのようにここに在るかに気づく時、自然に未来への新しいシナリオが見えてきます。

今までのシナリオが苦しみや悲しみの連続だったとしても、今からの未来のシナリオは自分の思い描くように変えていけるのです。

あんなことをやりたい、あんな人になりたい、感動の出会いや体験がシナリオをどんどん魅力あるものに変えます。

自分のシナリオを作るというのは、自分の思いをかたちにしていくことでもあります。

私は「漫画大好き人間」で、今でもコンビニで立読みしていますが、漫画の世界でしか有り得ないと誰もが思うシナリオを作り、けいこにけいこを重ねて現実世界に飛び出して来た若者たちがいます。

野球界の大谷翔平や将棋界の藤井聡太たちです。
同時代を生きて、彼らの生ドラマを味わえるなんて最高!

今どのようにここに在るかをシェアすることで、今この場では、登場人物の数だけのドラマが同時進行していることに気づきます。

今自分の立っているところが世界の真ん中なのだと気づきます。

今ここが、すべての起点なのだと気づきます。


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おはようございます、、ギャフネットブログへようこそ!
今日は せいじ がお伝えします…

写真は2019年5月、ギリシャ、パルテノン神殿です。

ブログを2週間サボってました、、その間にコロナ感染が爆発的に増えてきました…

熊本では4,000人超えてしまいました、、恐らく人口当たりでは、沖縄に次ぐ多さでしょう。

先週は日本ゲシュタルト療法学会の大会でした。

その中で、「ゲシュタルト療法のシンプルさに気づき、理解する」というテーマで2時間のワークショップをさせてもらった。

私は常々、ゲシュタルト療法はシンプルであると確信している。

そして、実際にゲシュタルト療法はシンプルでなければならない。

何故ならば、ゲシュタルト療法は、今ここでの気づきと選択、これだけなのだから。

最近は派手なゲシュタルト療法が流行っている。

それはそれで良い。

何かとゲシュタルト療法をコラボさせる試みは必要なことであり、その相乗効果は2以上のものを提供してくれると思う。

そして、これは応用編であると思うべきであろう。

受ける側が何を求めてそのワークショップへ参加するのかにもよるが、

もし、ゲシュタルト療法を深めたい、本物のゲシュタルト療法を身につけたい、手に入れたい、と願う人がいるなら、まだその前に身につけることがある。

それがゲシュタルト療法とは何なのかということである。

ゲシュタルト療法にも原理原則はある。それはガチガチの枠組みという意味でわはない、やり方という意味でもない。

ゲシュタルト療法の根底にある、思想である。

それが、私は今ここでの気づきと選択、それだけだと確信している。

同じことは、アメリカのゲシュタルト療法家で、パールズから薫陶を受けた、ロバートレズニック博士も言っている。

彼のゲシュタルト療法は至ってシンプルである。

それは、今ここでの気づきと選択を大切にしているからに他ならない。

セラピストの多くは、他者の問題を解決することが私の役割であると考えている。それはそれで、決して間違いではない。

困った人がいれば、何か手助けをしてあげたいと思うのは常であり、その人の問題を解決してあげたいと思うのは当たり前だ。

しかしだ、私たちはその人ではなく、その人の問題を解決でわかるのはその人自身以外にはいないのだ、ということを忘れている。

私たちは他者の手助けはできるが、その人の問題を解決することはできない。

それはその人の問題だからである。

私たちができる全ては、その人に寄り添うことだけだろう。

それがゲシュタルト療法では、セラピストが寄り添うことで、その人が今ここでの気づきを得、自身の選択ができるようになる、手助けをするのだ。

ただ、それだけである、至ってシンプルである。

問題を解決しようが、しまいが、それはその人自身の選択である。

しかし、セラピストとしての私たちは何故か、クライエントの問題を解決しなければならないという呪縛に囚われる。

おかしなものだ。

セラピストでなければ、呪縛などないのだろうが、セラピストという鎧を纏っているが故に、セラピストとしての価値観をクライエントへ押し付けてしまう。

セラピストがセラピスト自身とクライエントをがんじがらめにしてしまう。

私たちは気づくことで次のステップへと行けることを信じていないから、そんなことが起こるのだ。

気づきが訪れたクライエントは、その気づきから新たな気づきが生まれる、そして、そのことに気づいたクライアントは、次の気づきにあっさりと到達してしまう。

私はこれを気づきの推進というのだが、この気づきの推進は、垂直方向へ、あるいは螺旋を描きながら緩やかに深まっていく。

私たちが気付いたものは、私たちの背景へと流れ、新たな気づきが私たちの目の前に現れる。

この繰り返しが、気づきの推進を促してくれる。

ただ、これだけのことで、私たちは以前の私よりも新しい私をかんじることができる。

何もテクニックはいらない、セラピストが考え、複雑化する必要な皆無である。

このゲシュタルト療法とは何者なのかということが理解されてこそ、次のステップへである応用編の扉が開くのだ。

ゲシュタルト療法を深く学びたい方は、そんな学び方を私は推奨する。



GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、

密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

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GAFnetのブログにようこそ。
今日は、けんがお伝えします。

今年も真っ赤なトマトの季節を満喫しました。
我が家では、
ひょんなことで知り合ったトマトづくり名人から
毎年おいしいトマトを買っています。

他で買ってくるトマトは一切口にしない母が
このトマトだけは
美味しい美味しいと言って食べます。

今年は五月の初旬からもらいはじめて、
もう十回以上もらいました。

一回に四、五十個くらいもらうのですが、
食べて食べて食べて
一週間もするとまた下さいと電話します。

ブツの受け渡し場所は双方の中間地点。

マコと二人で布袋を六七枚用意して行きます。

キュウリや茄子、スイカなどをおまけでもらいます。
昨日はついでがあって近くまで来るから、ということで、うちの前まで届けてもらいました。

またスイカやミニトマトや自家製の梅を
おまけでもらいました。

今年は今回が最後かも知れませんね。もう一回有るようだったら電話しますね~と帰って行かれました。

部屋いっぱいに真っ赤なトマトを並べていると、
眺めているだけで元気になります。

コロナ禍も影響なく、
毎年おいしいトマトを食べることが出来て、
本当に有り難いことです。

今ここにどのように在るか、と自問すると、
本当に有り難くここに在るなぁと、心から思えます。

ひょんなことから出会い、関係性を深め、認め合い、
喜びを分かち合う。

世界の真ん中に立っている自分を感じます。

今が旬です。


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GAFnetブログへようこそ、、
今日は せいじ がお伝えします…

いつの間にか梅雨が明けてしまいました。2週間ほどの梅雨時期であり、私の記憶の中で6月に梅雨が明けたのは初めてです…

少しの違和感が頭をもたげますね。

この違和感は何なのだろうか、と私自身へ聞いてみる。それは、普通ではないことへの少しの不安だ。

異常気象だの気候変動だのと言われて30年ほどが経った。やはり、この短すぎる梅雨もその一つなのだろうかと考えてしまう。

普通でないことが起こると、私たちは何かネガティブな方向へと結びつけようとする。

その結びつけは当たっているかもしれないし、そうでないかもしれない。

不安とは、何かわからないから不安なのであって、結びつけることにより、納得したいのだと思う。

実存主義という思想がある。

人間の実存を哲学の中心におく立場、あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想である。

私がゲシュタルト療法のワークをする時、この実存という思想はとても重要である。

哲学における、実存の対義語は本質であろう。

本質とは、そのものの役割や意味づけをしたものであると理解している。

それに対し、実存とは、存在するそのもの自体のことである。

私たちは何か起こった時、それを意味づけすることが多い。

このことが起こったのは、これが原因なんだと…

しかし、実存の立場から考えるなら、ただ、そのことが起こっただけであり、意味付けする事自体が意味をなさない。

ただ、唯一その答えを知っているのは、その物自体しかない。

例えば、身体が震える現象に気づいたクライエントは、この震えを過去のある体験と結びつける事で、納得しようとする。

しかし、本当にその震えは過去の体験と結びついているのだろうか、、ただ、そう思いたいだけではないのかという疑問が起こる。

これを実存を前提として考えた場合、その震えはただ身体に震えが起こっている、それだけである。

すると、答えを知っているのはその震えだけである。

ただ、その震えがやりたいように、その震え自体へスペースを与えてあげる。

震えが震えたいように、身体が震えたいようにただ、その震えに身を任せる。

これが今ここでの体験であり、今ここでの実存である。
すると、その震えは意味づけされた、その震えの本質であると思い込んでいたものとは全く違う形で私たちの元に、実存のメッセージをもたらしてくれる。

私たちはその本質に惑わされてはいけない。
私たちはそのものの実存を理解する必要がある。

実存は本質に先立つ

サルトルの言葉である。


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