GAFnet ブログへようこそ、、
今日も連日、せいじ がお伝えします🦉

写真は、近代哲学の祖、ルネ•デカルトである。

今日は、このデカルトの哲学思想について、簡単に書いてみたい。

昨日のブログに、古代ギリシャ哲学からの簡単な歴史を書いてみた。

人間の本質とは何なのか?

2,500年以上も哲学者たちは、私たちへ解けないであろう難問を提示している。

中世の神学思想から、14-16世紀に起こった、ルネサンス運動による人間性の復活、そして、西洋哲学復活の時代へと移り変わる。

フッサールの現象学、そして、その中から新たな哲学思想として、サルトルの実存主義が生まれるのだが、これらの哲学思想が生まれる根源となったのが、16世紀からの近代哲学の「根本問題」として、「この石ころと私の見ている石ころは同じものか。」
という、「主観と客観」、「認識と対象」の二元論と呼ばれる問題である。

「主観と客観は一致するのか」、という問題である。

この「主観/客観」問題について、どのような哲学的方法論を唱え、フッサールの現象学へと発展して行ったのか、見てみたい。

まず、近代哲学の祖と言われるルネ・デカルト(1596-1650)から出発しなければならない。

彼は方法序説の中で、方法的懐疑により、
「すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない」とした。

つまり、我々は全てのものを疑うことができる、しかし、ただ一つ疑えないものが、「疑っている自分の存在」であるという。

これが、「我思う、故に我あり」である。

デカルトは物事を「正しく」認識するための確実な原理を打ち立てようとした。


この「正しい」方法によって得られた認識が本当に「真」であるか否かは、人間には判定できないと考えていた。


人間の認識の真を保証するのは、「神の善意」だとした。


デカルトが企てたのは「神の存在証明」である。


つまりデカルトにおいては、主観と客観の間を架橋するのは神に他ならない。


逆に言えば、「主観/客観」問題において、神のような存在を持ち出さなければ、主観と客観の一致を確証することは原理的に不可能であると、認めていたことを示唆している。


デカルトは神の存在によって、主観と客観の一致を保証した。


このことによって、問題はただ主観のうちの合法則性(認識の正しい規則)を求める点に置かれる。


デカルトでは、正しい認識の規則を求め、それに基づいて考えること、そのことによって人間は真理に達することができるとした。


まずは、デカルトのこの方法的懐疑が、「主観/客観」問題について、一つの投げかけをしたのである。


主観と客観の一致は原理的に不可能であり、神にのみその一致を保証できるとしたのだ。


このデカルトの行った「神の存在証明」の矛盾をはっきりと見抜いていたのが、イマヌエル・カント1724-1804である。


カント哲学は、批判哲学と言われるが、これは、デカルトとは逆に、人間の理性は原理的に客観、それ自体を認識できない、ということを証明するものである。


このカント哲学については、次回以降に書きたいと思う。


GAFnet(ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット)が主催する各種ワークショップやセミナー、カウンセリング等につきましては、

密を避けた安心安全な環境に配慮し、少人数での開催を実施しております。

また、オンラインによるWebセミナー等も実施しています。お気軽にご相談ください。

ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット Website

https://www.gaf-gestalt.com


ゲシュタルト.アート.フォーカシングネット FaceBook ページhttps://www.facebook.com/Gestalt.A.focusing