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専業トレーダーブログ

僕は、FX専業トレーダーという人生を選んだんだ。日々の生活から考え方・トレード検証まで。




人は、直視すると辛すぎることに対して、見て見ない振りをしてしまう。目先の苦痛を感じるのが怖いから、自分では分かっているのに無いことにしてしまうんだ。

でも、それでは何も根本的に解決することはできない。きっと優しい言葉をかけてくれるだろう人を選んで、相談するだろう。そこで一時的な安心感や納得を得て、一番大切な問題の解決には向かおうとはしないんだ。


もちろん、自分の気持ちを落ち着かせることは大切。でも、そこで問題とは向き合わず現実から逃げてばかりでは、痛み止めを飲んでその場をしのいでいるのと同じで、病状はどんどん悪化してしまう。



自分の体型の変化に気付き始めた人がいる。身体が重く感じられて、余分なお肉が付き始めたことを感じている。

でも、太っているという現実を突きつけられたくないから体重計に乗ることができない。感じているだけのことが、確かな現実に変わるのが怖いんだ。


このまま体型が変わってしまえば、様々な病気を誘発することも分かっているし、自分への自信がなくなってしまうことも分かっている。分かっていても、現実を突きつけられる恐怖からどうしても逃れたいから、太っていない根拠・太っても良いという根拠まで探してしまう。


仕事や人間関係・家族・自分の将来など、あらゆることについて言える。本当は分かっているけれども直視できなくて、もっともな言い訳を自分に用意してやり過ごしていることはないか。

色々な痛み止めで今はしのぐことができても、病状はどんどん悪化してしまうから、後になって取り返しのつかない後悔に必ず繋がってしまうんだ。



そのときは辛いかもしれないけれど、正面から向き合ってそれを認めることから始めなければ何も改善しない。認めることができて初めて、それを改善していこうという意欲が生まれる。



自分は今太っている。自分はこれを一生の仕事にはしたくない。夫婦の関係は今冷め切っている。自分は今子供からの信頼を得られていない。

見て見ぬ振りをしていること・きっと大丈夫だ、こんなものだとやり過ごしていることに、向き合わなければいけない。それは自分を責めるということではなく、素直に認めるということだ。

それができれば、自分は必ず新しい行動を勝手に始めているはずだ。


この記事を最後まで読み切った方は、きっと心が強い方なのだと思う。



人は、常に自分の考えや想いを支持してくれるものを探している。そうだよな・そうだよねと、自分は正しい・間違ってはいないという裏付けが欲しくてたまらないんだ。

でもその自分が、絶対に正しいとは限らない。そこに固執してしまうと、もう真実はどうでもよくなって、ただ自分が正当化できればそれで良いという偏った考えを持ってしまうんだ。



弁護士の友人の話を色々聞いているとよく分かる。離婚問題で相談に来る人で、どのようにするのが二人にとって一番良いのか、という形で来る人はほとんどいないそうだ。

自分が正しいこと・間違ってはいないことを、ただ相手に認めさせたい。何が真実で、何が家族にとって最善かはどうでも良く、ただ自分が正しいことを正当化したいんだ。


子育てについての考え方の不一致で、自分の正しいと思っている考えを捨てるくらいなら、離婚することなど厭わない。何が子供にとっての最善か・幸せか、という観点からズレたところで話が進んでしまうんだ。



確かにその考え・想いは正しいのかもしれない、自分の中では。でも、ただそれを守もうとするがために、もっと大切なものを失うことがあるということだ。

でも、大抵の場合、そのような大切なことまで忘れてしまうような考え方・想いは間違っている。



そんな固執した考えよりも、本当に守るべきものを忘れることがなければ、次へのアクションも展開も全く違うものになる。

自分の考えに賛同してくれるYESを探して安心するよりも、自分では見えていなかった捉え方や痛い部分を突いてくれる考え方にこそ、真実が隠れている場合が多いんだ。



人は自己防衛のために、ついついあらゆる責任を自分以外の外に転嫁してしまいがちだ。どう考えても自分は悪くないのだから、責任は相手にあるのだと。

でも、例外なく、今経験していることの責任は全て自分にある。自分はどう考えても悪くないということを前提にしている時点で、すでに自己防衛が始まっているんだ。



自分の会社はブラック企業で、とんでもない会社に入ってしまったと嘆いている人がいる。半ば諦めてしまって、仕方なく働いているんだと犠牲者を演じている。

とんでもない会社と思っているのなら、とっとと辞めてしまえば良い。いつでも辞められる自由があるのなら、そこはブラックなどではないんだ。

そこで働いている今の状況・経験は、会社のせいではなく、環境を変えるという行動ができない自分・勇気のない自分・そこを離れるとすぐには働き口が見つからないという自分の未熟さが原因なんだ。



パートナーが浮気をして、裏切られたと怒っている人がいる。その今の状況・経験は、パートナーが悪いのだろうか。

確かにパートナーは浮気をした、それは紛れも無い事実だ。でもその状況を、裏切られた・傷つけられた経験として招き入れているのは自分自身だ。


子供が悪いことをして、何故そんなことをこの子はしてしまったのだろうと心配しない親はいない。なぜなら、子供を愛しているからだ。寂しい思いをさせてしまったからではないかと、きっと子供よりも自分を顧みるはずだ。

本当に相手のことを愛していれば、心が自分にではなく相手に向いているから、裏切られたという想いにはならないんだ。そういう経験として捉えてしまうのは、結局は自分の責任なんだ。



自分以外の何かに、責任を押し付けてしまうのは楽。犠牲者を演じることができるし、自分は何もしなくていいからだ。

そのことを周りに話して共感してもらえれば、自分が受け入れられたと一時的な承認欲求を満たすことができる。この感覚に味をしめた人は、どんどん犠牲者を演じ始める。


でも、責任を外に置いている限り物事は何も解決しない。自分のことと捉えることができて始めて、自分の次のアクションで次の展開を創り出すことができるんだ。

そういう人は、どんどん前に前に進んでいくから、ふと気付くと全く違う世界の人になっているんだ。



人は、何か悪いことが起こったりピンチに陥ると、普段は思いもしない神様に祈りを始めたりする。

でも、残念ながら神様は存在しない。いるとしても、そんな都合の良いときにだけ願いを求める勝手な人に、手をかすほど神様は暇ではないんだ。



この時代に今自分を生かしてくれている、というだけで神様の仕事は終わっている。これだけ恵まれた時代と国に生きていて、これ以上何を望むというのだろう。

生きている間にどうするかは、全て自分次第だ。運命も神様もない、自分次第で全てがどうにでもなる。



神社に行ってお参りをするのも、これ以上の願い事をするために行くんじゃない。こうしてお参りできるということに、改めて感謝するために行くんだ。

おみくじの結果に、一喜一憂する意味がどこにあるのだろう。その年をどうするのかは、全てが自分次第なんだ。



どこの誰かも分からない、適当なことを言ってお金を取っている占い師に自分の何が分かるというのだろう。そんな外の何かに頼っても、そのときの気休めにはなっても、根本的な解決にはならないのは自分が一番よく分かっているはずだ。


もっと心を強くもたなければいけない。



恋人に、自分がどう思われているのか悩んでいても仕方ない。大切なのは、自分が相手をどれだけ想っているかだろう。

告白して振られたらどうしようと、悩んでいても仕方ない。何もしなければ、可能性は完全にゼロだ。

会社を辞めて起業しようか、悩んでいても仕方ない。一歩を踏み出さなければ、その後に新しい展開が開けることは絶対にない。

地震が来るかもしれない・大きな病気になったらどうしようと、怯えていても仕方ない。日本にいる以上地震が来るときは来る、病気になればなったときに考える、それしかないんだ。




自分の外の何かに、期待したり依存したりしてはいけない。もっと心を強くもって、全て自分から変えていく・取りにいくという姿勢でい続けなければいけないんだ。

待っていても・期待していても・祈っていても、そんな人には何も起こらない。自分からどんどん可能性を開いていく人に、光が差し込む瞬間が来るんだ。



人には、他の誰かから認められていたいという欲求がある。家族や仕事仲間・友人・恋人に至るまで、自分と関わる全ての人の評価を気にかけている。

でも、自分を本当の意味で評価できるのは自分自身で、この自分からの正当な評価を感じない限り、自信や充実というものを得ることはできないんだ。



自分の魂を込めて、目の前の作品と向き合っている芸術家がいる。ただ、内側から込み上げてきたものを表現して、自分が納得できるまで作品と闘い続けている。

そこに、それを評価する他人のことなど眼中にないから、逆にそれが見る者を魅了するんだ。これが俺だ!という、魂を感じる。

いかに自分自身が納得できる作品に仕上げられるか、そこに売れる売れないといった外の評価を考える隙がない。



最近の書籍などは、全てに売るためのマーケティングがかけられていて、薄っぺらいものを感じてしまう。作者自身の魂が感じられず、全てが外の評価だけを意識した作品になっているんだ。年に数千冊も出る書籍の中で、これから何十年と読まれ続けていく作品がどれだけあるだろう。

テレビにしても、視る人の評価ばかりにびくびくしているから、そこに何の感動もないんだ。作成した側の熱意やプライド・魂があれば、人は何もしなくともそこに惹かれていく。



これは、僕たち一人一人についても同じことだ。

自分で自分を正当に評価できている人は、人に何を言われようと動じることがないんだ。批判されようが悪口を言われようが、笑って軽くいなしてしまう。

逆に自分を評価できていない人は、自分への自信がないから、何か批判されるとすぐカッとなって反論したりしてしまう。自分の奥底では分かっている痛い部分を突かれてしまって、焦っているんだ。



自分を最も正当に評価できるのは、自分自身しかいない。人に褒められたとしても、自分の中で納得できていなかったら何の感動もないはずだ。

人に批判されたとしても、信じることをやり通したとき、初めて自信が生まれて自分自身を好きになれる。


自信をつけるのには小さな成功体験がたくさん必要と言われるけれど、そんなものは必要ない。自分が信じることをただやり通す、それが大きな失敗になったとしても、そんな自分に誇りを持てるようになるんだ。