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専業トレーダーブログ

僕は、FX専業トレーダーという人生を選んだんだ。日々の生活から考え方・トレード検証まで。



日々の生活の中で、自分の想いや欲求を抑えなければいけない場面に出会うことがある。それが自分にとって、"我慢"なのか"忍耐"なのか。それによって、その後の展開が全く違うものに変わってしまうんだ。


我慢と忍耐を辞書で調べても、大きな意味の違いを見つけることはできない。僕はその違いは、その場面や状況に明確な意味付けができるかどうか・受動的なのか能動的なのかだと考えている。



職人になるために、日夜修行に励んでいる若者がいる。毎日が単調なことの繰り返しだけれども、自分の技術の向上のためにひたすら腕を磨いている。

同世代の他の人たちと同じように、もっと遊びに出かけたり色々なところに行ってみたいはずだ。でも、そんな目の前の欲求をグッと堪えて、今本当に自分にとって大切なことに集中している。これが忍耐だ。


今の状況を、自分にとって必要な経験・時間なのだと捉えて、他の目の前にある欲求に流されないよう自分を律する。その先の自分の姿が見えているから、今の状況がどんなに辛くとも堪えことができるし、今の状況から様々なことを学びとることができるんだ。

全てを能動的に受け入れて、自分の中で消化することができる。だから力がついて、それは忍耐力と呼ばれる。



勤め先の会社に不満を感じて、日々ストレスを感じながら仕事を進めている人がいる。今の状況を堪えた先に、新たな自分の展開を見ることができないから、そこに意味を見出すことができない。

ただ受動的に受け入れているだけの状態で、何の学びや成長を感じることもできないんだ。これが我慢だ。

その行き場のないストレスは、全く別のところで発散するしかなくなる。忍耐のときとは逆に、目の前にある欲求をただ満たしていくんだ。




自分は今よく耐えていると思っていても、それが単なる我慢であれば実は何の力も付いていない。

結局は、自分の行くべきところが分かっているから、今の状況の意味を感じることができる。行き先が分からないと、ただ目の前に現れる状況に、その場の感情で反応するだけの日々になってしまうんだ。



ーこの警告を読もうとしているお前に言っておく。この文章を読み進める度に、お前は人生を1秒ずつ無駄にしている。

他にやることはないのか?お前の人生はそんなに小さなものなのか、ろくな使い道も無いくらいに?読まなきゃいけないものを全部読んでしまうのか?考えなきゃいけないことを全部考えるつもりか?買いたいものを全部買うつもりか?

外に出てセックスをしにいけ、マスターベーションはやめろ。仕事を辞めて喧嘩をしてみろ、自分が生きているということを証明してみろ。

自分を証明できない人間は、統計上の数値にしかならない。今、俺はお前に警告したからな。<タイラー>ー



上記は、映画「ファイトクラブ」の冒頭に出る警告文だ。この映画には暴力的な要素もかなり含まれているが、伝えたい主題はそこにはない。徹底的に自己破壊をして、本当の自分を創り出すことを考えさせる映画だと捉えている。


お金にも恵まれ、何ひとつ不自由のないように見える主人公だが、日々空しさを感じながら生きている。そんなときタイラーという男に出会い、生きる実感を取り戻していく。

ファイトクラブという殴り合いの組織を結成するが、そこに集まる男たちは殴ることに快感を得るのではなく、徹底的に殴られることで、忘れていた生きる実感をそこで得ることができるんだ。


ー痛みを消すな、受け入れろ!痛みがなければ何も得られない。<タイラー>ー



このタイラーという男は、実は自分が生み出したもう一人の自分自身で、主人公の魂の奥底を表現している。深い部分にある自分との対峙・闘いを表現しているんだ。


タイラーは、ある店にいた若者にいきなり拳銃を突きつける。"お前は今から死ぬんだ"と告げて、若者は恐怖で怯え出す。

"お前は本当は何になりたかったんだ?"とタイラーが聞くと、若者は死を半ば覚悟しながら"獣医です。。"と答える。

"今から6週間の間に、再び獣医の勉強を始めていなかったら殺しにいく。分かったな!"と言って、若者を逃がしてあげるんだ。


ーあいつは今死を意識して、人生の方向を変えた。明日から見える景色は、今日とは全く別のものになっているだろう。朝食も、俺達が食うどんなものよりうまく感じるはずだぜ。<タイラー>ー


そして、それは実際にタイラーの言った通りになる。


日々の生活の中で、見えなくなっている・自分で蓋をしてる部分にこそ大切なものが潜んでいる。ということを、改めて考えさせてくれるんだ。




タイラーからのメッセージ。

ー持っているものが自分を束縛する。本当に自由になれるのは、全てを失ってからだ。ー

ー家にあるものだけで爆弾だって作れる。本気にさえなれればな。ー

ーおい、お前が俺を作ったんだろう?責任持てよ。ー




僕たちは、本やテレビ・ネット・友人からの話など、色々なところから様々な情報を得ている。でもそれらは、リアルに自分の肌で感じたものではないから、本当の意味での感動や興奮ではないんだ。



僕たちは、小学校の頃に鉄棒の逆上がりを習った。小学生の小さな身体で、自分の身長くらいの鉄棒を逆さまに回り切るなんて、普通に考えると大変なことだ。それでも、全員ができるようになる。

他に誰もしたことがなければ、そんなことができるとも思わないだろう。年上の先輩たちが皆クルクルと回っているのを見て、こんな回り方ができるんだと肌で感じる。


そのうち、同学年の皆がどんどんできるようになり始めて、こんなことができるんだという考えから、自分もできなければおかしいという考えに変わっていく。

できない方がおかしいから、どうやればできるのかを色々考えて・何回も何回も練習をして・失敗に失敗を重ねて、だんだん回る感覚が掴めてくる。

何回も何回も失敗していくうちに、うまくいかない回り方がどんどん切り捨てられていくから、必然的にうまくできる回り方しか残らなくなる。そして、ようやく自分もできるようになるんだ。



プロセスの全ての始まりは、できる人を実際に目の前にしていたということ。リアルにその人を肌で感じたから、"できるかな"が"できるんだ"に変わって、"できなければおかしい"に変わる。

できることに疑いがなくなるから、ただそこに真っすぐに進むことができるんだ。



100m走で一人10秒の壁を突破すると、次々に他の選手も突破し始めて世界記録がどんどん更新されていく。日本の野球選手が一人メジャーリーグで活躍すると、次々に他の選手も海を渡っていくようになる。

実際に成功している人を目の前にするだけで、"できるかな"という想いが"できる"という強い信念に変わるんだ。




何かを達成したいというとき、一番の刺激となるのは、実際にそれを達成している人を肌で感じることなんだ。本やテレビの中ではなく、そのリアルを感じる。

さらには、自分の周りが皆それをすでに達成しているような環境であれば、嫌でも自分もそこに追いつこうと走り出す。周りに引き上げられるような感覚。


本やテレビ・ネットで知る情報と、実際のリアルで感じる感覚は全く違う。"できるかな"とちょっと不安なことも、リアルでできている人を目の前にするだけで、できるという強い信念が生まれるはずだ。



人は、良いことがあった・運が悪いことがあったなど、目の前で起きた出来事に対して自分なりの解釈を無意識に加えている。

でも、その出来事自体には本来そのような意味はなく、ただ自分がそのように解釈しているだけなんだ。そして人は、その解釈が全てだと信じ込んで世界を見ている。


目の前に起きる出来事を認識して、それを解釈するまでの間には一瞬のタイムラグがある。それを認識して、自分の価値観・これまでの経験などに照らし合わせて、それが自分にとって何であるのかを無意識に判定しているんだ。



待ち合わせの時間になっても、なかなか友人が現れないとき、イライラしてしまうかもしれない。時間は守るべきだという自分の価値観に照らし合わせて、今の状況は腹立たしいことだと判定して、イライラという感情を浮かび上がらせている。


でも、友人が来ないという目の前の出来事には、本来イライラするべきものという意味はないんだ。友人はまだここにはいない、ただそれだけなんだ。

それが分かれば、わざわざ感じたくもないイライラを募らせるよりも、この空いた時間で読みかけの本を読んでしまおうとか、ちょっと辺りを散策してみようと考えることができる。


友人が来ないという出来事を、時間が守られていないと解釈するのではなく、自分の時間が少しできたと解釈し直したことになるんだ。



目の前の出来事は、自分が今感じているようには本来起こっていない。自分がそのように認識しているだけなんだ。

あらゆる出来事は全て、それ自体は真っ白。自分の好きな色に染めていいのだから、わざわざ黒く塗りつぶしてしまうこともないだろう。


僕たちの脳はせっかちで、すぐに黒く塗りつぶしたがるから、ひと呼吸置いてキャンバスを大きく眺める心の余裕が大切なんだ。



僕たちは日々、楽しさや嬉しさ・悲しさなど様々な感情と共に生きている。

そして、人は誰もが常に幸福感だけを感じながら生きたいと願っている。それとは逆の辛さや苦しみというのは、できるだけ避けながら。

でも、その幸福感というのも、その対極にある感情を本当の意味で知っている人にしか感じることはできないんだ。



人は、健康を害したときに始めて自分の身体の大切さを知る。大病を患った経験のある人だけが、日々をただ普通に暮らせることへの感謝と幸福感を感じることができる。

ずっと健康でいる人には、普通に過ごせることへの幸福を表面的には判っていても、その対極を経験している人が感じるレベルでは感じることができない。日々の見える世界そのものが違うんだ。


戦時中の、苦しい緊張感のある日々を経験したことのあるお年寄りの方だけが、今の平和な毎日の幸福を噛みしめることができる。

争いのない世界でしか生きてこなかった僕たちには、知識として分かっているつもりでも、今の時代の本当の価値や有り難みを肌に感じることはできないんだ。


その状態が当たり前・慣れてしまっているから、求めずとも今がすでに幸せな状態であることさえ忘れてしまっている・感じることができなくなっている。



様々な経験をして様々な深い感情を知ることで、相対的に本当の幸せや楽しみが何なのかが浮かび上がってくる。毎日が安心・安全・幸せだけでは、人生が表面的な薄っぺらいものになって、本来ある大切なものも見えなくなってしまうんだ。


その対極にある深い経験や感情を知っている人には、その表情や姿勢・言葉全てに人としての魅力が詰まっている。その深い経験の積重ねからしか見えない・感じられない世界がある。



僕も、まだまだ思うことに挑戦し続けて、もっと苦しい辛い思いを経験したいと思っている。そこを越えたときに、また全く違う景色が広がることを知っている。

ただ漠然とした幸せを追い求めるのではなく、苦しい道だと分かっていても自分が信じる方向に突き進む。そこでもがいた深い経験が、幸せの本当の意味を教えてくれるはずだ。


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