7月22日(木曜日) 快晴 クサダシーエフェソスークサダシーパトモス島
朝食後の7時半、船はトルコのクサダシの港に着く。デッキの階のインフォメーション近くにテーブルが置かれ、船客たちにトルコ・コーヒーが供された。ドロリと濃くて苦い。
すぐに埠頭からバスに乗り、古代都市エフェソスの遺跡へ向かう。バスの車掌がトルコ人の少年で、ガイドも男性。日本では見慣れないコンビ。車窓に広がる平原には、放牧された馬も走る。
20分程で、エフェソスの広大な都市遺跡の入り口に到着。荒廃した入場門の辺りには、行商人が土産品を並べ、数頭の駱駝が休息中で、男たちが声を掛ける。駱駝に乗って、遺跡を見物する観光客もいるようだ。子供がやって来て、トルコの煙草を買えという。吸えば頭が痛くなりそうだから、止めた。男性ガイドの英語説明を聴いた後、解散して入場、それぞれ自由に遺跡を見物した。所要時間は1時間半。
聞きしに勝るスケールの、驚嘆に値する遺跡であった! エフェソスは、紀元前から紀元後の数世紀間、地中海世界において有数の古代都市だった。貿易港であり、商業の中心地、産業の集約地として繁栄を極め、ギリシア・ローマ史上の名だたる人物の多くが、この都市を訪れた。が、エフェソスの衰退は、戦争という人災ではない。人類が抗すべくもない自然現象の変異、退潮現象による海岸線の消失という、まさに天災だった。天災は長期に繰り返され、次第に船舶が訪れず姿を消し、やがて都市そのものが荒廃して行った。……
堂々とした舗装されたメインストリート、大理石造りの図書館、山腹を利用した数万人収容の大劇場、詩の朗読や音楽を聴くオデオンという小劇場、水洗式の公衆手洗い。すべてが荒廃して遺跡化し、乾いた吹く風に晒されていても、往時を偲ぶよすがはあり、さまざまに想像力を刺激する。その刺激には快美感が伴う、そこに遺跡見物の深い醍醐味があるのだろう。日本の場合、気候や資材の点で保存度が低く、遺跡も陶酔を生まないかもしれない。……それにしても、ギリシア本土には今、これほどの都市遺跡は存在しないのではないか?
ひと足先に入場門まで戻ると、行商の老人が竹笛を並べて売っている。やがて老人は人集めに、それを吹き鳴らす。竹笛の淋しい響きは、僕という旅人を孤独にした。出国後、よけいな買い物はしなかったが、この竹笛を初めて買った。1本5ドラクマ。グループが戻って来て人が集まり、地元の老人が、竹笛の吹き方を教えてくれた。僕も試しに、「サクラ、サクラ」と吹いてみた。と、グループの少年ひとりが手を伸ばしたので、竹笛を渡すと、「ダンケ」と言ってから、吹き口も拭わず、巧みに一曲を吹いた。拍手が起きた。僕は、「草笛を吹きゐる友の澄む息が わがため弾みて吐かれむ日あれ」という、春日井建さんの短歌を思い出した。……
午前11時半頃、クサダシ港のアポロ号に帰った。昼食には、豆類を煮込んだスープと、鰯のオーブン焼きが出た。隣席のギリシア系アメリカ人の老人が、ワインをご馳走してくれた。午後は、甲板で体操。
午後3時半、クルーズ最後の島のパトモス島に着く。小舟に乗って上陸。
この島は、ドデカニサ諸島の北辺にある、面積34平方km 、人口2500の素朴な小島だが、オリーブや葡萄の木の緑が豊富で、気候も温暖。とりわけ、聖ヨハネ修道院があることで知られる。
港のスカラから、タクシーに分乗して、山上の修道院へ向かう。ローマに追放され、パトモス島で黙示録を執筆した使途ヨハネを記念して、11世紀に建設された修道院は、その後、ギリシア正教の中心地となった。それだけに、中庭、回廊、本堂、礼拝堂、教会、食堂、資料館など、ビザンチン様式による建物の規模が大きく、フレスコ画や大理石製の石棺、イコンや古文書や典礼用の調度まで、見るべきものに充ちていた。
が、僕のごときキリスト教に"縁なき衆生"には、まァ、猫に小判であったやもしれない。修道院の近くで、黒衣に身を包んだ聖職者たちに出遭ったが、投げ掛けてくる彼らの微笑は、それだけに謎めいていた。……
午後6時、アポロ号に戻る。夕食までの時間、郷里の母に手紙を書く。
夜9時から、お別れの晩餐会。「スティファド」というギリシア風の牛肉のシチュー、焼き菓子に包んだアイスクリーム、いずれも美味。誕生日の船客がいて、バーズディケーキが用意された。12、3歳の子供の船員たちが、大きなケーキを運んで来たのには、ちょっと驚いた。ギリシアやトルコには、少年労働者が少なくない。現代の日本では見られない風景である。「蛍の光」が演奏された。
◎写真は トルコのエフェソスの遺跡の入場門(亡母遺品の絵葉書)
エフェソスの大劇場と海岸通り(1993年9月、再訪時に撮る)
エフェソスのメインストリート(同上)
パトモス島の聖ヨハネ修道院(亡母遺品の絵葉書)