7月21日(水曜日) 快晴  ロドス島

朝7時、目覚めると、ロドス島の港コマーシャル・ハーバーに着岸していた。8時に朝食後、直ちに埠頭で待っていたバスに乗り込む。古代都市リンドスの遺跡まで1時間半、島の東海岸の眺めを味わいながら、バスに揺られる。トルコとの国境線に近いためか、暑さが厳しい。

ロドス島は、ギリシア南東に位置するドデカニサ諸島、その13島のなかで最も大きい。アテネから空路で1時間、ピレウスから直行の船だと18時間を要する。古くから、小アジアとギリシアやイタリアを結ぶ要衝の島として、近代以後は有力な観光地として、常に栄えてきた。面積は約1400平方km 、人口は約6万人で、
着岸したロドス・タウンが中心地。冬でも12ºCを下回らない「太陽とバラの島」と言われ、樹木や植物が豊か。リゾートとして最適の海岸が多いので、今日ではアメリカ資本の一流ホテルが並ぶ。
歴史を見ると、すでに紀元前の古代、この島には3都市があり、その1つリンドスは今も活動、2つは消滅。ローマとは同盟を結び、中世の十字軍時代は聖ロドス騎士団の本拠地となり、イスラム圏と対峙。オスマン・トルコの支配が長く、近代ではドイツ、イタリア、イギリスの各占領期があり、二次大戦後にギリシア領となった。要約すると、この島には古代と中世の遺跡が多く、リンドスとロドス・タウンの旧市街が、その代表。

午前10時過ぎ、リンドスに着く。村の入り口の、大木が繁る広場で下車。左下には、エメラルド・グリーンに輝く聖ポール湾。右側には、村落の白い家々。また遥か右上には、アクロポリスが遠望された。
村には、タベルナや民宿があり、土産品店では、特産の陶器や毛織りの布を売っている。紺色の葡萄や無花果を、山のように並べる店もある。それを観ながら、幾重にも曲がる石階段の坂道を約30分、高さ100m 余りの岩山に聳えるアクロポリスまで登ったが、うだるような暑さに汗が流れ、ことのほか骨が折れた。
アクロポリスの頂きには、一転して、壮麗な遺跡が立ち並ぶ。古代の神殿の基壇やドリア式の円柱。中世の古城の城塞や城壁や礼拝堂。これらが数ヶ所に分散してあり、円柱に十字架が彫られていたりする。
一巡して見物後、断崖に立つ。目が眩むばかり。ただ青い海が拡がり、咽(むせ)ぶような静けさの裡(うち)に、波の音が打ち返すのみ。ふッと、陳子昂の七言古詩が浮かんできた。

           幽州の台に登る歌

           前に古人を見ず
           後(のち)に来者(らいしゃ)を見ず
           天地の悠悠たるを念(おも)い
           独り愴然(そうぜん)として涕(なみだ)下(くだ)る

                           (『唐詩三百首』1 東洋文庫289)

眼下の言葉も出ない絶景には、あの雄渾な絶唱こそ相応しい、と思った。黙して、暫し佇(たたず)んだ。……

午後1時半近く、ロドス・タウンへ戻り、新市街の海沿いのホテルで、遅めの昼食。この島名産の貝類を、レモン汁とオリーブオイルで味付けした料理。名称「FLOWER」という華麗で贅沢なホテルだが、手洗いに行って煙草のケントの箱を置き忘れ、引き返したが、もう無かった。海外にいても、煙草が無いと不安だ。
このホテルは浜辺に隣接していて、昼下がりは海水を浴びた。小学校時分に海水浴してから、ずっと海で泳いでいなかった。沖には白帆が見え、風が優しく、水が澄み、何とも言えない快適な数時間だった。
夕刻、バスでアポロ号に帰る。船室で、下着類の洗濯をした。9時、夕食。日本にもある、イカのライス詰めが出た。買い込んだ島々特産のワインを、持ち込んで楽しむ船客も多い。早めに自室へ戻る。
少年期から世話になった、郷里の先達A氏に手紙を書く。「ギリシアは甲斐の国と同じく、どこでも葡萄の房が垂れ下がり、山野には、奈良朝の頃の甲斐の名馬を偲ばせる、馬たちの姿を多く見かけます。現在、この国を訪れる日本人の観光客は、まだ少数です。なので、どこへ行っても、珍しがられます」と。……


◎写真は  ロドス島のリンドスのアクロポリス(亡母遺品の絵葉書)