閣下の勇気ある行為は我々双方の利益となりましょう~<宗教化>する現代思想~ | あざみの効用

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『遅ればせながら少し”用語解説”しておくと、私がサヨク、ウヨクと片仮名で書く時は、自分の物言いが非論理的で無教養であることを自覚しないまま、知的なつもりになって陶酔して語っているように見える左右のイタイ言説を揶揄的に指していることが多い。漢字で左翼、右翼と書く時は、ほんの少しの知的敬意を示している――それほどきれいに使い分けていないかもしれないが。』


                          仲正昌樹「<宗教化>する現代思想」


2007-08-02 は思想を現実に具現化せんとした黒川党首と・゚・(つД`)・゚・。


半径3m社会学を語る上で避けては通れない一冊がでました。先に 本の紹介だけしていましたが、どう感想を書いたらいいものか、Amazonレビューも概ね好評なものが多く私が付け加える必要性もないと感じていたのでしばらく温めていました。

この本のあらましを書くと、プラトンに始まり、ヘーゲル、マルクス、ハイデガー、フーコーなどなど著名な哲学者を一人ひとり俎上に乗せ、彼ら偉大なる哲学者もまたその思索の旅の途中であり決して「聖典」を編んだものではなかったということ。誰もが「形而上学」という陥穽に思考停止に陥らないように足掻き続けてきたということ、大事なのは仲正教授自身で自嘲含みに書かれているような「考え中」という姿勢を堅持することが哲学であるということ…と書くとおそらく無難な感想ということになるのかと思いつつそうではないと、そう私のゴーストが囁きます。


おそらくこの書は「現代思想」ばかりでなく「哲学」という学問を高尚な高みから地面に引き摺り下ろす、あるいは突き詰めるとどこかで「形而上」なものに拠る根無し草であるという「空中楼閣」にすぎないという指弾ではないかと思う。「考え中」という謙虚さ、自覚を失った「現代思想」は宗教それも「統一教会」となんら変わらないとその思考・言論スタイルの類似点を至る所であげていくその露悪含みの並列化は「現代思想」を信仰している人間を圧倒的に萎えさせることでしょう(笑)

羅列したような偉大なる哲学者の言説を解釈、否!崇めたてまつる道は塞ぎ、比較的「考え中」と相性のいい相対主義を称揚しているようだが、既に前著において仲正教授のお眼鏡に適うだけのポストモダンの困難さは十二分に記されている。結局突き詰めると教養としての哲学史総攬ぐらい(ああいう思考スタイルも、こういう思考があったよね)しか哲学の有用性は残されていないと言っているに等しいのではないかと感じられてならない。


「俺の屍を超えていけ」ならぬ、現代思想家は「仲正教授の批判を超えていけ」という覚悟が必要ということになるのではないか。とりわけ統一教会のように看板をあげろというような自覚をもって半径3m内の知的遊戯に耽溺しているならともかく、時評、現実のトピックについて語るものは要注意!しかし、北田批判 から思えば遠くにきたものだというか坊主憎ければ袈裟まで憎いどころか、実はそもそも袈裟が憎いところに火油注ぐ坊主が現れて、いっきに言説が深化したということだったのでしょうね。


私にはどうして統一教会に所属していたのかというような純朴な問いよりも、むしろどうしてそこまで「形而上」的なものを憎みながらもなお哲学という道を選択した(続けている)のかというほうが興味深い…。


そして仲正教授「の」(いや仲正教授「という」かな?)地雷(笑)を早速踏んだものが、、、諸君2008年9月号よりいざ抜粋♪

アキバ事件をめぐる「マルクスもどきの嘘八百」を排す~連続通り魔も「下部構造」のせいだって?サヨク論客のお粗末な我田引水を一刀両断~


>『思想地図』それ自体も含めて、最近の東が一緒に仕事をしている若手の論客や、彼が登場する媒体には「抽象的な理論」ではなく、「現実」に根ざした「生きた言葉」を求める傾向が強いように思えたからだ。それでも、『思想地図』で「単純な言葉」を拒否する宣言を出した直後だけに、”良識ある朝日読者”を苛立たせるような
抽象で難解な文章を書くかもしれないと少し期待した。しかし、そうならなかった。


この後結構長~く丁寧に東くんの言説を起こし批判材料とされていますが、どの部分をどのように抜いているかは是非ともまだ手に入りますので諸君で!


>アキバ事件=テロ説はそれなりに話題になったようで、いくつかのメディアで取り上げられている。東や彼に共感するアキバ系サヨク(?)に言わせれば、今回の容疑者のオタク性ばかりを強調するマスコミの報道姿勢はおかしい、もっとその背後にある「格差」という「現実」を見よということらしい。


アキバ系サヨク…佐伯啓思京大教授が普通に産経新聞(2008.7.31)に【正論】京都大学教授・佐伯啓思 「マルクスの亡霊」を眠らせるには 、なんて若者の左傾化を危惧する記事を載せるぐらいだから潮目は変わったのかなぁ。これからはネトウヨではなく、ネトサヨがバッシング対象になる?w


>確かに、容疑者の暴走の暴走の原因をオタク性とか現代の若者気質に安易に求めて、意味もなく「キレル若者」を憂えたり、説教しようとしたりするウヨクの評論家やジャーナリストもいるので、そういう決め付けが不当であること”だけ”を言いたいのだとしたら、私にも分かる。しかし、その逆に、「『格差』が原因であると考えるのが
知識人としての良心だ」とでも言わんばかりに決めつけ口調で語るサヨクも同じくらい安易である。


う~ん、私も当該事件についてコメント欄にも書いたけれど、非正規雇用という「枠組」をあらかじめ用意しないとそれこそ、「オタク」や「キレル若者」といった方向に因をもっていくマスゴミ主導の言説が跋扈したのではないですか?(それでもでたし)労働環境を是正する方向で利用されたことについては今後のことを考えると諸刃の剣のような危うさは感じますが。それはこれまでさんざん表現規制なり若者バッシングとしての教育改革という形でやられてきたことであるし、今回に限り抑制したからといってメリットはないでしょうし、それによってこのような単純な因果に関する疑問を呈する声(宮崎哲弥もその姿勢ですね)がでてくるようになったのはむしろいいことではないかと。


>先に引用した、東の論評に即して考えてみよう。東は、今回の事件に関して、労働の現場において資本によって継続的・構造的に搾取されてきたことに起因する不満や疎外感が暴走を引き起こした可能性があることだけでなく、それに政治的意味があることも示唆している。彼は、容疑者の「怒りの実質」あるいは「怒りの本質」と言っているが、本人でもないのにどうして「怒り」の正体がわかるのか?


所詮SF的言説(本人談) なので彼にリアルを求めても仕方ないかとw


>世の中で何か不条理な事件が起こるたびに、強引に、下部構造にその原因を求めようとするのは、かなりレベルの低いマルクス主義者の発想である。


>人々をシステムに従属させているイデオロギーを、科学的に分析しなければならない・・・というような言い方をすると、一見知的に見える。しかし、よく考えてみると、資本主義社会――「新自由主義(ネオリベ)化した社会」と言い換えてもよい――には構造的な矛盾があり、その矛盾に万人が囚われているという前提から出発すると、”おかしな行動”や”おかしな出来事”は全てその構造的矛盾と関係していることになるのは当たり前である。


レベルが低い、一見知的、、、、いや何でもないです(爆笑) まあ論理学の教えるところ前提条件が偽であれば帰結する文章はどーでもいいのですよね。いずれにせよ全体としては無意味なので。


多少哲学っぽい言葉遣いを知っていたら、簡単に下部構造原因論の作文をすることができる。下部構造決定論は、ほとんどの場合、何も説明していない。昔の左翼の論理をよく知っているとは思えない東が、突拍子もなく起こった事件にそれらしいコメントをしようとして、知らずにマルクス主義的思考パターンにはまってしまったのならまだ分かる。しかし、マルクス主義経済学をきちんと学んで、問題点を熟知しているはずの金子勝が、それを安易に持ち上げるのは何とも解せない。何らかの政治的配慮か、若い者に対する理解を見せたいのか、それとも思考のタガが緩んでいるのか


金子勝を批判しているようでいて、思考のタガが緩んでいないと持ち上げられないような言説って総て東批判!


>言うまでもなく、今回のアキバ事件は、蟹工船状況とは大きく異なる。アキバ事件を起こした加藤容疑者の行為は、どうみても「反逆」ではない。


>一番肝心なこととして、職場での自分の扱われ方の不満が理由で凶行に及んだとしたら、どうして当該の企業に対して反逆するのではなく、秋葉原に行ったのか、という疑問がある。ちゃんとした根拠のある不満であれ逆恨みであれ、職場での扱われ方に不満があってのことなら、その職場で暴れるのが普通であろう。その当然のことに、サヨク連中は気が付かないのか?


残念な点と書いたとおりです。無差別テロは無条件に批判されるべきです。


>サヨクや東は、自分の認識もしくは願望を、加藤容疑者に過剰に投影しているとしか思えない。もしかするとサヨクたちは、「容疑者は本来政治・経済構造の在り方に対して怒りの矛先を向ける”べき”だった」と言いたいのかもしれないが、そうだとしたら、それは事件についての分析ではなく、事件に便乗したプロパガンダである。


これは仲正教授の言説にのっとるならば自覚的であれば救われますか?とりあえず教育改革や表現規制になるよりは労働環境の改善に繋がるならば結果オーライじゃないとか。


>秋葉原を歩いていそうな人間の多くは、どちらかといえば、加藤容疑者と同じ「負け組」ではないのか?本当に「勝ち組」という抽象的存在を殺したいという欲望に取り憑かれたのなら、もっとそれらしいところに行くのではないのか?「勝ち組」の親玉がたむろしていそうな国会議事堂とか自民党本部、経団連、六本木ヒルズ等は警備が厳しくて、自爆テロでもしない限りたくさんの人間を殺せないと思って諦めたのかもしれない。だったら、どうして銀座で実行しなかったのか?銀座でも歩行者天国をやっているし、「勝ち組」らしく着飾って、カップルで歩いている人もいる


ヒルズまでは思いついたけれど銀座の歩行者天国は考えもしなかった。


>「勝ち組」とはあまり縁のなさそうなところで凶行に及んでいる以上、「勝ち組はみんな死ねばいい」という言い分を真に受け、深読みすべきではない。


>ただし私は、「彼が派遣社員であったこと」と「十七人を殺傷してしまったこと」の間に全く関係がないと言っているわけではない。彼がもっと安定した職に就いていたら、この事態を回避できたかもしれないと想像することはできる。


失うものがあれば良かったという、犯罪抑止に経済学的発想を取り入れる(利得行列、比較衡量)ことは十分可能です。


>そうした意味で「不安定な派遣労働者であった加藤容疑者には、仕事・職場という暴走抑止装置が欠けていた」という控えめな主張であれば、私も納得できる。しかし、ネット上の書き込みの一部だけを強調して、「格差が原因だ。格差社会でなかったら、加藤容疑者が暴走することはなかった」と断定するのは、イデオロギー的主張である。


「新自由主義経済の下で働く非正社員は、凶悪犯罪に走る確率が極度に高くなる」という統計データでもあれば、政府の経済政策上のミスが凶悪犯罪の増加に繋がったということで、政治責任を追及できるが、そんな都合のいいデータがあるのだろうか。サヨク連中は、「政府が個別の犯罪に責任があるとまでは言っていない」というかもしれない。しかしい、そこまで言っていないとしたら、この事件を「格差」と結びつけることにどれほど意味があるだろう。


普通に経済要因を理由とする自殺は増えましたが、日本の素晴らしく良い治安はびくともしていませんから無理でしょうね(特に凶悪犯罪は)。


>哲学的には「他行為可能性」という。「他行為可能性」が十分あったのに、その選択肢を選ばないで、負の帰結を招き寄せてしまったとしたら、それに対しては自分で「責任」を取るしかない。こういうと、サヨク及び一部のウヨクは「自己責任論だ!」と騒ぎ出すだろうが、プラスの選択肢があったのにそれを選ばなかったことに対して、「自己責任」と言って何が悪いのか。彼らだって、事実上、自己責任論の立場を取ることはあるだろう。少し思考実験をしてみたらいい。


>現在、地方国立大学の教授であり、こういうところでサヨク、ウヨクを批判する文章をしょっちゅう書いている私が、何かのきっかけ、例えばセクハラのような大問題を起こし、失業し、既に四十五歳といういい年なので定職に就けず、周りとの関係でもうまくやっていけず、自暴自棄になり、凶悪犯罪を犯した、としてみよう。サヨクの人たちはそういう私に対して、「彼のしたことは許せない。しかし、彼を犯罪に走らせた背景には、中高年の派遣労働者にとって極めて厳しい格差社会の現状を…」と言うだろうか?


面白い♪はいはい「自己責任」「自己責任」という批判を他者に向ける際には私もちょっともう少し慎重にします。


>精神科医の香山リカは、月刊誌「創」の八月号で、「ネットの世界にのめり込みすぎた、といった供述もしているようだが、彼が悩んでいたのはあくまで現実の中での人間関係や勝ち負けについてであり、ネットの世界にまでそれが侵食してきて防ぎようもないことに苦悩していたのだ」と断定的に述べている。本人と面談したけでもないのに、どうしてこんな断定ができるのか?彼女の精神医学には、「人間は、ネットのようなヴァーチャルな世界での勝ち負けで深く傷つくことはない」という教義でもあるのだろうか?


カウンセリングや心理テストもしないで断定的に語るというのは心理に携わる人間としてはしてはならないことですから、「教義」と皮肉られても仕方ありませんね。しかし、よくもこういう批判に最適な部分を見つけてきますなぁ(←あまり人のことは言えない)


>結婚した後、金がないので子育てできないという話なら分かるが、恋愛関係まで「格差」だと言い始めたら、解決しようがないではないか。もし加藤容疑者が凶行に及んだ原因の一つとして「恋愛格差」への拘りがあるとしたら、制度的に解決しようのない「恋愛格差」言説を広めた連中の社会的責任はかなり重い。サヨクは、日本社会におけるあらゆる負の現象を「格差」に結びつけ、その原因が「新自由主義」にあると決め付けることで、「格差」言説を広めているが、最終的にどうしたいのだろう?「全く格差のないユートピア」を目指しているのかもしれないが、それは宗教だ。宗教に勧誘したいのであれば、自分たちの教義をはっきり示した上で、謙虚な態度で勧誘すべきである。


「格差」の過度の一般化は良くないよね。だからこそ「格差」を問題とするのではなく「貧困」を問題とすべきなんです。それもできるだけ定量化できる金銭のね。



筆不精者の雑彙さま ロフト「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」レポ
宮台:確かに、70年代を代表する事件といえば連合赤軍があり、80年代には足立の女子高生コンクリ詰め殺人事件と、いわゆる「M君事件」があって、90年代には酒鬼薔薇の事件があった。10年プラスアルファの周期とも見えるが、しかし周期の話をしてもしょうがない。10年前に酒鬼薔薇事件の話をこのロフト(当時は場所が違ったが)でした時と、今日とは客層が違っていると思う。10年前はヤバい人が多く面白かった。今日は文化的に洗練されていて、朝日カルチャーセンターみたいな。10年前のロフトなら秋葉原事件の加藤容疑者を包摂できたかもしれないが、今のロフトではできない。


宮台全盛期ですもの、生き生きと語れてそりゃあ楽しかったですよねぇ。10年周期って一応1億人人口超えている国ですから10年間に一度ぐらいは確率的に印象的な犯罪は起きますよ。


東:2000年代に入ってから、論壇が社会学的・経済学的になってきた。何でもかんでも統計、実証を求められる。しかしそれを突き詰めると、こういった事件に対し何も言えなくなってしまう。「こういうことが起こっている」と説明しても、「エビデンスは?」で終わってしまう。コメントすることに過剰に萎縮してしまう。宮台氏の言う包摂の余地がなくなる。


今までそれだけいいかげんなコメントを垂れ流してきたという証左でしょうがw 語りえないものについては沈黙を守ればいいだけじゃないの?別段、韓流映画評のような文化「感想」についてまで統計、実証は求められていないと思います。

東:池田信夫が、朝日紙上の自分(東)の言説について、「東があんなことを言うからネットで加藤が聖人に祭り上げられるんだ」などと批判 したが、それはインテリの自意識過剰。自分が朝日に書くよりも先に、ネットで加藤は聖人化されていた。そのことを自分が報じただけ。それとは別に、加藤がネットに書いたとされる文章は、「非モテ」や「派遣」の一つの典型、ステレオタイプ。(※この間メモ不整)自分は社会学者ではないのでエビデンスのないことを言うが、加藤にネットで共感した人が皆派遣・非モテ・25歳・男、とは思えない。あるステロタイプへの共感である。それがマスコミには見えていない。この事件は赤木智弘、もう一人のトモヒロ((C)宮台)とネットでは結び付けられているが、そのことはマスコミに分かっていない。ずれている。


とりあえず隣の社会学者様はエビデンスのないことを言いまくってきたんですから、そんな留保はいらないと思うのですがもしかして宮台に対する皮肉ですか?w


宮台:赤木氏は論文や本で有名になって、彼個人は幸せになってガス抜けした。秋葉原事件についての、彼のピンぼけしたつまらないコメントは、彼が幸せになったことを意味する。


ですって良かったですね赤木さん。


【おまけ】
鈴木謙介「見る者と見られる者~秋葉原事件と”モテ”る議論」(論座 2008.9)


事件から色々と意図的に脱線してだらだらと語っている部分はどうでもいいのですが、、要はこの事件にかこつけてもっと実存「ココロ」の問題を思う存分語る場所を寄越せということです。その辺りの麗しい部分を論座あと1号でなくなることだし一応資料として抜粋メモしておきます。


>もちろん、補償や手助けの必要性を、私はいささかも疑わない。だがそれによって、個別に生じる実存の苦しみを――個別にしか解決できない問題を、社会科学的なカテゴリーの中に押し込め、データの中の一部分へと切り縮めるというのであれば、やはり問題だと思う。それどころか、実際には実存的な苦しみでしかないものを
社会科学として正当化し、それに「共感」しない者は、根拠のない議論を垂れ流す「敵」であると認定し、否定と罵倒を繰り返す
のであれば、それは政治的にも失敗している。事実、ロスジェネ論は私たち以外の世代からもはや白い目で見られ始めているという感触を、私は持っている。


(゚Д゚≡゚Д゚)エッナニナニ一体誰のこと? 全く心当たりがないんですが。鈴木氏はそんな批判を浴びていたんですか、大変ですねぇ。少なくとも私が批判したのは逆の構図ですから。大きな科学的カテゴリーの問題を個別に生じる実存・ココロの問題に矮小化するなと指摘しただけですぅ><


>「実存のことば」を扱う人々が登場する機会が減少し、代わって社会科学者と、政治家が登場する機会が増えた。そこで行われるのはもっぱら政策論争の形をとった政治的な綱引であり、社会科学者には、さまざまなグラフやインタビュー調査の結果を提出することが求められるようになった。むろん、それはときに無根拠な精神論の
跋扈する「ダメな論壇」の弊害を中和し、社会科学者に正しい仕事の場を与える役割も果たしてきた
。社会問題を社会科学的に取り扱うことの重要性は、疑う余地はないし削られてもならない。だが、それが同時に「論壇」という場所を専門家による政策論争の場に変え、社会問題の当事者から、見られるものとしての絶対性を剥奪してきたことも確かだ。要するに社会科学化した論壇は、その中心で扱われている人々にとって、「他人事」でしかないのである


十分に被害者(遺族)が普通に当事者として語る場所は論壇に確保されていると思うのですが、、、諸君や正論は論壇ではないのでしょうか?実存の言葉はそれこそ映画や小説などの芸術、文化の中で思う存分語ってください!所詮個人的な問題なのですから。


>「実存のことば」が追い出され、科学のことばが重宝されるようになるとき、こうした哲学の問いも漂白される。科学の言葉は説得的で、共感をベースにした実存の言葉より”モテル”。だが実際にそこで生じているのは逆のプロセスで、狭義の論壇の人々が共感できそうなテーマが、科学的に正当化されているにすぎないのである。


「ハイテンションな自己啓発」(笑) とやらも「実存のことば」なんでしょうね、きっと。就職氷河期に苦しんだロスジェネ世代の個人、個人の実存の苦悩に向けて語られた言葉がこれっていやあ説得力がありすぎて泣けてきます。

 ァ    _, ,_ ァ,、
 ,、'` ( ゚∀゚) ,、'`

  '`  ( ⊃⊂)  '`

>絶対性の果てに突き抜ける力を持たない実存の言葉が、論壇やマスメディアから見えないところでうごめき、ときとして信じがたいほどの暴力を発現する時代が現在であるということを「論壇」にかかわる者は、ゆめゆめ忘れてはならない


いやあ、そういう信じがたいほどの暴力が発現するのが「現在」になってからだなんて初めて知りました。「戦前の少年犯罪」涙目の結論ですね。昔はよほど平和な治安の良い時代だったんですね!

以下 アニメ感想


「モノクロームファクター」第16話

飽きた。


「D.Gray-man」第93話
ナナリーが師匠を落とす話。久しぶりに息を抜いて楽しめるギャグ回となりましたが、それだけに伯爵様のマジ顔が怖かった。


「潜脳調査室」第17話

アクションシーンは見ごたえありました。


「秘密~トップシークレット」第17話

次回の前後編に期待。主人公カップル(と言っても過言ではないでしょ)がひ弱すぎてなんともはや。


「セキレイ」第5話

いつの頃からか普通に服はちぢに裂ける時代になったんだなぁとそんなことをしみじみと感じました。№9ということは1~8加えて100番台のセキレイが特殊な位置にあるんでしょうね。しかし、セキレイと主人の番は別段一対ではなくて複数のセキレイを飼っても最終的ご褒美は変わらないの?


「スレイヤーズ REVOLUTION」第5話

ゼロスがいつもの立ち位置でちょっと懐かしさを覚えつつ安心して、、、切れそうw


「西洋骨董洋菓子店 ~アンティーク~」第5話

実は原作最終巻未読なのでどういう形で〆られたのか知りませんので、この作品は最後まで視聴継続します。


「鉄腕バーディー」第5話

政治的な決着を図る神祇官の絶妙な立ち回りが私の心をくすぐります。主人公はバーディーの参謀というより相談役としてもまだまだですね。そもそも信頼を勝ち得るようなイベントはまだ皆無ですし。裁判ぐらいですけれど、基本的に一身ですから身体を張って相手を守るみたいなわかりやすいイベントも起きようがないですしね。

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