自己受容から広がる世界~ゆるなら風舎~ -9ページ目

自己受容から広がる世界~ゆるなら風舎~

くにのまほろば《奈良》大和郡山市で
『カウンセリングルーム風舎』を営んでいる女性カウンセラーの日記です。
カウンセリング・箱庭療法・心理学レッスン・セラピスト支援などをしています。

10年ほど前に手放したドレッサー

 

 

メルカリアッテに出品したところ

欲しいといってくださる方がいたので

もらっていただいたのです。

 

 

まだ独身のとき

部屋にドレッサーが欲しくて、自分で購入しました。

 

出勤前にお化粧をしていると

まだ幼児だった姪が、隣に座って

お化粧のマネをしていました。

かわいかったですドキドキ

 

結婚が決まって、引っ越しは自分でやりました。

愛車のリーザ(軽自動車)に積んで

生駒山を越えて、運びました。

 

その後2回、引っ越して今の家に落ち着きましたが

引っ越しの度に、ずっと持ってきていました。

けれども

今の家では、洗面所でお化粧をするので

必要なくなっていたのです。

 

 

モノはモノです。

 

自分が使わなくなったモノは、場所をとるだけ。

 

そのモノが

すごく汚れているとか、くたびれているとかであれば

捨てます。

 

このドレッサーは

30年物にもかかわらず、まだまだ綺麗なモノだったので

誰か使ってくれる人がいたらって思いました。

 

 

購入したときのこと

姪との思い出

愛車で運んだこと

 

こういったことは

わたしの心の中にちゃんとあります。

 

だから、モノがなくなっても平気なんです。

 

むしろ

不要なモノがなくなると

必要なモノを迎えられる空間ができて、すっきりします。

 

 

モノはモノ

思いは思い

 

モノを手放しても

思いは

持っていたければ、持っていればいいんですもんね。

 

 

あ、もちろん

モノを手元に置くことで思いを大切にする

っていうこともあります。

 

そういうモノは

そもそも、最初の時点で

使うモノではなくて、思いを象徴したモノなんです。

 

たとえば

寄せ書きの色紙とか
パートナーにねだったアクセサリーとか

小さかった子が描いてくれた似顔絵とか・・

 

 

でもね

 

実は

そういったモノでも

やっぱり、モノはモノ。

 

たとえば

なにかの災害でモノがなくなってしまっても

思いはなくなりませんから。

 

ずっと持っておきたい大切な思いは

なくならないから、大丈夫(*^-^*)

 

 

 

[カウンセリングルーム風舎]のHPはこちら

 

これは、子どもの頃からの愛読書「はみだしっ子」の1場面です。

 

4人の子どもたちが主人公の漫画ですが

4人とも、親に愛されずに不遇な幼年期を送っています。

 

この場面の少年アンジーは

母親と顔がそっくりです。

髪を伸ばし、さらにそっくりになったので

「オレはママになって、オレはオレを生みなおす」と言っています。

 

これを読んだときの安堵感と切なさを覚えています。

「ああ、そうだよね。」とジーンとして

彼のここまでの道のりに思いを馳せました。

 

毒親という言葉があります。

わたしはこの言葉は好まないので使いませんが

「親だから子どもには愛情がある」

とは言い切れない現状を、端的に表していると思います。

 

そして、そんな環境で育ったがために

生き辛さを抱えている人はたくさんいます。

決して本人のせいではないのに、苦しんでいるという理不尽

 

とても理不尽なことだけれど、実際にあるのです。

そして、その生き辛さから抜け出すために

「自分を愛する」ということを取り戻していく必要があって

それは可能なのです。

 

そんな理不尽を抱えて生き抜いてきた力がある。

愛情を受け取る力も注ぐ力もあるのです。

 

以前の記事も読んでみてください↓

 

 

 

[カウンセリングルーム風舎]のHPはこちら

 

「なんでできないの?!」

これほど理不尽な問いはないです。

 

実はこれは問いですらなく

「やろうとしていない」「努力していない」という解釈や

「どうでもいいと思ってるでしょ!」という決めつけからくる

非難だったりするもの。

 

「なんでとかじゃない、できないことはできない!」

と開き直れればいいのだけれど

自分でも

「なんでできないんだ!」と自己非難してしまうと

ややこしいことになります。

 

できない自分がおかしいと自分を責めるので

自己否定の渦に呑まれていくんです。

 

事実として捉えなおす必要があります。

 

わたしには

意識が他へ移ると、直前のことでも重要なことでも忘れてしまう

という特性があります。

 

これでは困るので、覚えていようと努力をしました。

いろいろと試した結果

覚えておくためには、ずっと見ているとかして

他のことに意識を向けないという方法しかなく

実際には無理なことでした。

 

じっとそればかりに意識を向け続けると

日常生活は送れません。

日常にはやらなきゃならないこと、意識を向けなければいけないことが

山ほどあるし

やりたいこと、興味が向くこともあるのですから。

 

「なんで、こんな大事なことを忘れるんだ!」

「どうでもいいと思ってるんだろう!」

と責める人もいましたが

わたしはどうでもいいとは思っていなくて

かなり大事だと思っていることでも、忘れるわけです。

 

方針を変更しました。

 

覚えておくことをサクッと諦めて

思い出すトリガーを仕込むことにしたのです。

凄く邪魔になるところに、それを見たら思い出すものを置いておくとか

絶対に目にするところにメモを置くとか

今は、スマホの付箋アプリも使っています。

 

とても楽になりました。

 

できないことはできない。

だから、今の自分ができることを探してやってみる。

 

人は自分ができることは、誰だってできると勘違いしがちです。

 

特に、自分が努力してできるようになったことだと

できないのは「努力していない」「さぼっている」

と決めつけてしまうこともあったりするのですが

 

そういった場合

決めつけてイライラする側も、決めつけられて困る側も

どちらもとても辛いです。

 

「なんでできないの?!」

「なんでやろうと努力しないの?!」

と、誰かにイライラするのだったら

その人にできることを探して提案した方がいい。

 

努力では解決しないこともあります。

 

ペンギンに「空を飛べるように頑張れ」と言うのも

おかしな話です。

泳いで海を渡ればいいのです。

 

そのとき、その人ができることをする。

それでいいのです。

 

 

 

[カウンセリングルーム風舎]のHPはこちら

春は芽吹きの季節

 

希望を胸に、気持ちを新たにスタート

という人も多いですね。

 

その一方で

別れの季節とも言えるなぁと

毎年、思うのです。

 

例えば
卒業して友達と別れ別れになる
とか

例えば
子供が独り立ちして家を出る
とか

例えば
仲良しの友達が引っ越す
とか

生活の変化に伴って

様々な別れが、あちらこちらであるものです。


別れは寂しいです。

 

卒業祝い

就職祝い

引っ越し祝い

 

そこには喜びがあります。

それでも

別れは寂しいです。


その「寂しい」は
とても大切な、自分の気持ち

なにしろ
「寂しい」は愛から生まれるのだから。


だから

「寂しい」ときは
― 寂しいよぅ
って
「寂しい」を大切に温めればいいのです。

誰かが「寂しい」と言ったときも

「そうだね、寂しいね」って

その「寂しい」を大切に温めればいいのです。

 

 

 

[カウンセリングルーム風舎]のHPはこちら

「言葉って難しい」

と感じたことのある人は、少なくないと思います。

 

 

違う意味に受け取られてしまって

話がややこしくなったり

ときには

相手が怒ってしまったりね。

 

言葉の意味は、人によって違うので

そういった誤解は起こってあたりまえで

それだけならば

「言葉って難しい」というほどのこともありません。

 

誤解は説明すれば解けますし

お互いに「そうだったのか」とわかって

理解し合うことに繋がりますから。

 

けれども

言葉そのものにこだわってしまった場合は

ややこしくなります。

 

 

お話をひとつ、どうぞ。

☆☆

ある老婦人が孫娘に、ワンピースをプレゼントしました。

そのワンピースは、孫娘がとても欲しかったものでした。

 

「わぁ、おばあちゃん!めっちゃやばい!やばすぎるーーー。」

と、満面の笑みで、彼女は言いました。

 

そして、お礼の言葉を言おうと口を開きかけたとき

老婦人が怒り始めました。

 

「なんですか!やばいなんて、、気に入らないなら返してちょうだい!」

 

横で見ていた母親(老婦人の娘)が笑いました。

「お母さん、今の若い子たちの『やばい』は『素晴らしい』っていう意味なのよ。」

 

孫娘はにこにこして、言いました。

「そうよ、すっごい嬉しいの。おばあちゃん、ありがとう!!」

 

ところが、老婦人は

「やばいなんてのは、女の子が使う言葉じゃありません!気分が悪いったらありゃしない。」

と言って、部屋から出て行ってしまいました。

 

残された孫娘は、しょんぼり。

黙って、ワンピースを袋にしまいました。

☆☆

 

なんだか悲しいですね。

 

老婦人は、孫娘を喜ばせたくて

ワンピースをプレゼントしたんです。

そして

孫娘は、物凄く喜んだんです。

ハッピーエンドなお話のはずが

どうして、こうなってしまったんでしょう。

 

老婦人が

「やばい」という言葉にこだわってしまったからです。

 

「やばい」は、老婦人にとって凄く嫌な言葉だったんですね。

だから、孫娘の満面の笑みに目が行かなかった。

 

自分にとっての嫌な言葉には

人はひっかかってしまうものなので

仕方ないところはありますね。

 

けれども

母親が「やばい」の解説をしているにも関わらず

老婦人は怒ったままです。

 

彼女が「やばい」という言葉そのものに

こだわってしまうあまり

孫娘の心に目が行かなくなってしまったからです。

 

 

塾講師時代に

「おい、くそばばあ!」と、わたしを呼んだ中学生がいました。

その子からは、愛情が感じられました。

 

「くそばばあ」は決して心地いい言葉ではありませんが

大切なのは「くそばばあ」と言った少年の心であって

「くそばばあ」という言葉に対する、わたしの考えではないわけです。

 

わたしは、その少年の愛を感じて

かわいいなぁと愛しくなりました。

 

 

言葉は大切です。

美しい言葉は好きです。

 

わたし個人としては

古文が大好きですし

言葉本来の意味も大切にしたいと心がけています。

 

けれども

言葉は、他者と交流するツールですから

他者の使う言葉は

その人にとっての意味を受け取らないと、もったいない。

相手の心を受け取らないともったいない。

 

言葉そのものにこだわりすぎると

そこを見失ってしまうことがあるなぁ。

 

そんなふうに思うのです。

 

 

 

[カウンセリングルーム風舎]のHPはこちら