自己受容から広がる世界~ゆるなら風舎~ -30ページ目

自己受容から広がる世界~ゆるなら風舎~

くにのまほろば《奈良》大和郡山市で
『カウンセリングルーム風舎』を営んでいる女性カウンセラーの日記です。
カウンセリング・箱庭療法・心理学レッスン・セラピスト支援などをしています。

昨日の記事「わかろうとしていない相手との喧嘩は不毛」の続きです。

 

では、わかろうとしている相手との喧嘩は?

これは、実は徒労に終わることが多いのです。

 

 

大人になってから

「喧嘩してでも話すべきよ!でないと、わからないでしょう?」

と言う人が現れました。

 

その人は、わたしをわかろうとしていました。

わたしのことを理解したいと心から思っていることが

とても伝わってきました。

 

わかろうとしてくれているので

初めから喧嘩になることは、もちろんなかったのですが

自分がわかるまでは引き下がってくれません。

 

喧嘩になりそうになって

わたしが

「喧嘩してまで話すことではないでしょう。もういいでしょう。」と言うと

その人は言ったのです。

「喧嘩してでも話すべきよ!でないと、わからないでしょう?」

 

ああ、そうか。

心からわかろうとしている相手には

喧嘩してでも、しっかりと伝えることも必要なんだと

わたしは、思いました。

ですから

喧嘩になっても、話してみることにしたのです。

 

 

けれども

それは徒労に終わりました。


考えてみると、あたりまえなんですね。

喧嘩になる時点で

一方は理解不可能であり、一方は説明不可能である

という状態なのですから。

 

 

わかりたいという気持ちは大切ですが

どんなに説明してもわからないことがあるのです。

 

たとえば

豆腐を見たこともない人に

豆腐の味や食感を説明することはできません。

相手が食べたことのある

似た味のものや似た食感のものに例えれば

ある程度は伝わりますが

似た味のものも似た食感のものも食べたことがない場合

それはとても難しい。

 

では、どうすればいいのか。

わからない部分を

お互いに尊重すればいいんです。

 

 

静かに話してわからないことは

喧嘩してもわからないのです。

 

喧嘩というのは

尊重し合うこととはかけ離れているので

たとえわかりたいという気持ちがあったとしても

喧嘩は徒労に終わります。

 

尊重がないところに理解は生まれない。


「わからないことはあるよね。」

「そうだよね。」

そう言い合えるところから

相手を理解するということが始まるのかもしれません。

 

 

あ、もちろん

ただ腹が立って喧嘩になるということはありますよ。

人間ですもの。

 

 

 

[カウンセリングルーム風舎]のHPはこちら

昔、イケメン2号に言われました。

 

「お母さんと喧嘩をするのは難しいからね。」

 

どんな話をしていたときかは覚えていませんが

その一言が印象に残っているので、少し考えてみました。

 

確かに、喧嘩はしたくありませんし

したくなから、極力しません。

それは

言いたいことを我慢して仏の心でいるということではありません。

そこにエネルギーを費やさないだけなのです。

 

子どもの頃は、喧嘩をしかけてくる人もいました。

けれど、喧嘩をしかけてくる時点で

わたしの気持ちや考えなんて、どうだっていいのです。

それを思うと、なんだか悲しくなって

喧嘩をするほどのエネルギーが湧かなかったのです。

 

わたしの声が届かない相手に

何を話せばいいのかわからないし

自分の悲しい気持ちを押してまで

わかってほしいとは思いませんでした。

 

わかろうとしていない相手に話すことほど

不毛なことはありませんからね。

 

 

自分の気持ち、自分の考えをぶつけるだけで

わたしの気持ちや考えはどうでもいいのなら

わたしが付き合う必要はないのです。

壁や石ころとでも喧嘩してください。

 

わかろうとしていない人との喧嘩は不毛なのです。

 

では

こちらのことをわかろうとしている相手

理解したいと思っている相手とならば、どうなのか?

長くなるので、続きは明日。

 

 

 

[カウンセリングルーム風舎]のHPはこちら

寒くなってくると

小学校のマラソン大会のニュースが

あちらこちらで聞かれます。

 

イケメンたちが小学生の頃も

冬は毎年、マラソン大会がありましたが

特に印象に残っているのが

イケメン2号が4年生のときのことです。

 

幼少時、よく高熱を出していた2号は

走るのが苦手でした。

マラソン大会は、毎年ビリで

3年生までは

泣きべそをかいて、帰ってきました。

 

4年生のマラソン大会は

違っていました。

当日までの練習のときも

前年までとは違って意欲的だったんです。

 

そして、当日

帰宅した2号は

「ビリだった~」と言いながらも

すっきりした顔をしていました。

 

何かを掴んだんだなと

思っていましたが

それが何かは、年度末の作文で知りました。

 

作文には

「ぼくはマラソンを、最後まであきらめずに走りました。

結果はビリでした。

ぼくは競争には負けましたが、自分の弱い心には勝ちました。」

と、書いてあったんです。

 

 

順位をつけることで子どもが傷つくからと

手を繋いでゴールさせる運動会があるそうですね。

 

それは

子どもの心が傷つかないよう、保護するのかもしれませんが

心を育むことはできないと思います。

 

順位をつけると

下位の子どもは、もちろん傷つきます。

そうして

傷つくということを学び

他者に優しくなり

傷ついても大丈夫ということを学び

立ち上がる力を身につける。

 

そんなこんなを繰り返し

自分には力があることを体感していくのですよね。

 

傷ついても大丈夫

そこから学び、進んでいく力が備わっている。

 

守ることは大事

そして

見守ることも大事

 

負うた子に教えられた、マラソン大会の思い出です。

 

 

 

[カウンセリングルーム風舎]のHPはこちら

子宮にいるときは

羊水に守られていてあたたかく
へその緒から栄養は注がれてきます。

生まれてくると

子宮の中ほど安全ではありませんから

不安でも怖くても

あたりまえなんです。


へその緒は切れてしまうから
とても不安定で孤独なのも

あたりまえ。


 

人って

なんて繊細な生き物なんでしょう。

孤独を感じる繊細さが備わっているんです。


そして

 

それぞれが孤独だからこそ
お互いの孤独を抱きしめることができるんです。

さびしくてもいいのです。
あたりまえなのだから。

「さびしい」と言って
「うん。さびしいね」と返ってくる。


そうすると
さびしさが和らぎます。

 

「さびしい」と言う人には

「うん。さびしいね」と返せばいいのです。

 

「うん。さびしいね」

これだけでいい。

 

そうすると

互いの孤独に思いを向けられる

互いの繊細さを大切にし合える

温かさを交換し合えるのだと思います。

 

 

 

[カウンセリングルーム風舎]のHPはこちら

*** *** *** ***

 人生は後ろ向きにしか理解できないが

 前を向いてしか生きられない

 

  (セーレン・キェルケゴール)

*** *** *** ***

 

確かになぁ。。

 

今の自分が、過去を理解することはできるし

過去の様々な統計や研究に照らし合わせて

今の状態を理解することはできます。

 

けれども

過去に戻ることは不可能で

生きていくのは、この先の未来です。

 

過去を未来へ生かせるように、理解できるといいですね。

 

ガチガチに固定してしまった目線での理解は

どこか見落としがあるもの。

 

前へ向かってしか生きられないのだから

後ろを振り返るときに

できるだけ柔軟な捉え方で理解することができるといいなぁ。

 

そんなことを思いました。

 

 

 

[カウンセリングルーム風舎]のHPはこちら