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自己受容から広がる世界~ゆるなら風舎~

くにのまほろば《奈良》大和郡山市で
『カウンセリングルーム風舎』を営んでいる女性カウンセラーの日記です。
カウンセリング・箱庭療法・心理学レッスン・セラピスト支援などをしています。

スケジュール管理はスマホでされている方が多い時代ですが

わたしはアナログ、紙の手帳を使っています。

 

スケジュールだけではなく

出かけた場所のパンフレットや美術展や映画のチケットなど

スクラップできるし

ふと思ったことをメモできるので便利です。

 

デジタルだと、何かを探したいときに

キーワードですぐ見つかる点では便利ですが

なんとなくペラペラめくって眺めることができません。

 

なんとなく眺める中に発見があったりするので

やはり、紙の手帳がいいのです。

 

そうして、時折、古い手帳を眺めて・・
2002年の手帳に、こんな走り書きを見つけました。

「せっかく苦労しなきゃならない環境があるなら、それを無駄にする手はない。」

2002年といえば、ギリ30台じゃないですか!

アラフォーですよ。

ああ、そんな若い頃もあったわぁ(笑)

 

アラフォーのわたしの走り書き

「せっかく苦労しなきゃならない環境があるなら、それを無駄にする手はない。」

なかなか逞しいじゃないですか。



何を苦労と感じるかとか
どういったことを苦労というのかとかは
少し横に置いておきます。
とにかく、わたしにとっては
当時、結構大変な状況だったわけです。

望んで大変なわけでは、もちろんなく
望めば回避できるわけでもなく
現実というものは厳しく、自分の力は小さく
それでも、なんとか切り抜けていかねばならない。

その状況下で書いた走り書きだったんですね。


どうせやらなきゃならないなら
その中でこそ見られる景色、そういう状態でこそ体感できる感情
そういったものを、自分の実にしてやる!
そんな貪欲な気持ちだったのだと思います。

これは、ある意味
もったいない精神ですよね。

 

そうか、わたしはもったいない精神を生かしていたんだな。

 

この、もったいない精神を大事に磨いて温めておけば

いつだって、取り出して使うことができるのでは?

 

過去の自分から、思わぬ贈り物をもらっちゃいました。

 

 

 

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*** *** *** ***

 未来が読めなくてよかった

 あり得やしないことでも好きにかけるから


  (「予感」 とた)

*** *** *** ***

 

アニメ「アン・シャーリー」の主題歌の歌詞です。

 

グリーンゲイブルズに来るまでのアンの境遇は

かなり過酷なものですが

持ち前の想像力を駆使して、彼女は生き抜いてきたのです。

 

彼女の想像は留まるところを知りません。

壮大なストーリーへと、どんどん広がっていきます。

 

「想像は好きにしていいのよ」

何か決まりがあるわけではないですからね。

 

未来だって同じことで

決まった未来が存在するのではないですから

好きに描いていいはずなんです。

 

そんなこと、あり得ないでしょ!

って思うようなことでも

あえて、描いてみることもいいのではないかしら。

 

もしかしたら・・存外そうなるかもしれません。

なにしろ、未来を決める能力なんて誰も持っていないのだから。

 

 

「あり得ない未来を描いて発表する会」

を開催してみるのも面白そうだなと思いました。

 

 

 

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ちまちま作っていた「温室」が完成しました。

 

 

かわいい温室になりました。

 

難しそう、、って思っていたけれど

作り始めると夢中になって、楽しくて~♪

 

近所に、こんな植物園があったらなぁ。。

 

灯りをつけると、さらに素敵。

 

 

上から覗いてみました。

 

 

日が暮れてから

静かな温室で過ごすのは素敵でしょうね。

 

 

 

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「別になにをされたわけじゃないのに、この人嫌い!って思う自分って・・・」

こんな言葉をよく聞きます。

そして、続けてこう言われることがあります。
「なのに、にこにこしちゃうんですよね。表裏があるんです。」

その人に非はないんですよね?
では「この人嫌い!」っていう態度で接するってどうなんでしょう。

 

まずはそこです。

なにもされていない
相手に非はない
そういう状態ならば
相手の目線に立ってみれば
「嫌い!」と言われたり、「嫌いです」という態度をされるなんて

理不尽です。


大人としては、理不尽をぶつけるなんて非礼なことですよね。
「にこにこする」というのは、よくできた対応です。

はい
表裏は大切です。

それでも釈然としないのは
「相手に明らかに非がないのに嫌ってはいけない」
という思い込みです。


納豆が嫌いな人がいますが、納豆に非はありません。
虫が大嫌いな人がいますが、虫に非はありません。

人に対しても同じです。

こういう行動をする人は嫌い
とか
こんな容姿の人は嫌い
とか
こんな考え方の人は嫌い
とか
そういうことはあるものです。

だから
「この人、嫌い!」って思ってもいいんですよ。


「納豆、きらいーー」とか「虫、大きらいーー」とか言っても
納豆や虫は傷つきませんが
相手が人だと傷つきます。

だから
本心じゃなくても、にこにこするのは大切なことなんです。

礼儀だったり思い遣りだったりと

表裏は大事なときがあります。

表裏あって、いいんですよ。

 

 

 

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昨日の記事「わかろうとしていない相手との喧嘩は不毛」の続きです。

 

では、わかろうとしている相手との喧嘩は?

これは、実は徒労に終わることが多いのです。

 

 

大人になってから

「喧嘩してでも話すべきよ!でないと、わからないでしょう?」

と言う人が現れました。

 

その人は、わたしをわかろうとしていました。

わたしのことを理解したいと心から思っていることが

とても伝わってきました。

 

わかろうとしてくれているので

初めから喧嘩になることは、もちろんなかったのですが

自分がわかるまでは引き下がってくれません。

 

喧嘩になりそうになって

わたしが

「喧嘩してまで話すことではないでしょう。もういいでしょう。」と言うと

その人は言ったのです。

「喧嘩してでも話すべきよ!でないと、わからないでしょう?」

 

ああ、そうか。

心からわかろうとしている相手には

喧嘩してでも、しっかりと伝えることも必要なんだと

わたしは、思いました。

ですから

喧嘩になっても、話してみることにしたのです。

 

 

けれども

それは徒労に終わりました。


考えてみると、あたりまえなんですね。

喧嘩になる時点で

一方は理解不可能であり、一方は説明不可能である

という状態なのですから。

 

 

わかりたいという気持ちは大切ですが

どんなに説明してもわからないことがあるのです。

 

たとえば

豆腐を見たこともない人に

豆腐の味や食感を説明することはできません。

相手が食べたことのある

似た味のものや似た食感のものに例えれば

ある程度は伝わりますが

似た味のものも似た食感のものも食べたことがない場合

それはとても難しい。

 

では、どうすればいいのか。

わからない部分を

お互いに尊重すればいいんです。

 

 

静かに話してわからないことは

喧嘩してもわからないのです。

 

喧嘩というのは

尊重し合うこととはかけ離れているので

たとえわかりたいという気持ちがあったとしても

喧嘩は徒労に終わります。

 

尊重がないところに理解は生まれない。


「わからないことはあるよね。」

「そうだよね。」

そう言い合えるところから

相手を理解するということが始まるのかもしれません。

 

 

あ、もちろん

ただ腹が立って喧嘩になるということはありますよ。

人間ですもの。

 

 

 

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