墓を建てること自体、法律的に義務付けられていないものの、

亡くなった人を埋葬する慣習は古代から脈々と受け継がれている。

ただ初期段階では偉人や武将など上流階級だけに限定され、

平民には墓を建てる習わしなど存在していない。

そんな墓に関わる経緯に興味を抱き歴史を紐解いてみた。

古代における代表的な墓は言わずと知れた古墳、

地位の高い人物がより権力を誇示する傍ら、

それを後世に継承するため大掛りな造作を施工している。

飛鳥時代には仏教の伝来と共に火葬の風習が世間に拡がり

平安時代には供養塔が、鎌倉時代は五輪塔が主流で

当時の石工集団の石塔は今も全国各地で見受けられる。

室町時代になると位牌なども文化として伝わり、

徳川幕府では寺院が地域住民を管理する檀家制度を設けられ、

墓に関しては仏教と密接に関係を持つようになる。

即ち庶民でも墓を建てる習慣が徐々に浸透し拡散する。
 但し貧しい庶民に立派な墓を建てる財力が乏しいため、

川原の石を積み立てるなどして墓の原型が形づくられていく。

ただ人口密集地域では墓地が不足したため、

土葬から火葬への転換が余儀なくされ

遺体を出来るだけ小さな遺骨にする傾向が強くなる。

そして江戸時代が終焉を迎え明治時代に入ると
 政府は墓地や埋葬に関し治安維持や公衆衛生という観点から

「墓地及埋葬取締規則」を制定する。

かつて墓は個人用として捉えられていたが

墓地不足などの諸事情に因り、個人から家族のものと

位置付けられその継承者を一家の長男と定めている。

(但しこの規則は昭和時代に廃止)

昭和23年に「墓地、埋葬等に関する法律」と

「墓地、埋葬等に関する法律施行規則」が制定され、
 次第に今様の墓の姿へと整備されていくのである。
ただ最近は人口の大都市集中や地方過疎化の傾向が強くなり、

墓のマンション化や樹木葬など合祀現象が顕著となると共に、

地方を中心に「墓じまい」現象が生じている。

 

 

私の母は父より早く先立ち、父は17年前に他界した。

空き家と化した実家は幼友達の好意で何とか維持できたものの、

5年前に地元の空き家バンク制度に登録し、翌年に売却している。

そんな状況下で今年政府の指示に依りコロナ渦が明け、

実家の墓も何とか処置せねばと考えていた矢先、

弟が「そろそろ墓じまいをしたらどうだろう?」と提案。

彼の居住地から実家まで車で1時間半もかかる状況下で、

地元の付き合いは勿論、盆暮れなど墓守も努めるなど

地元対策を一手に引き受けてくれている。

関東や関西に住む兄や私は直ぐに提案を受け入れて賛同。

それから墓じまいや遺骨の移管に関する煩わしい行政への書類手続きや

諸事情により遺骨を受け入れる我家の墓の改装工事も済ませ、

五月中旬、兄弟は連添いと共には日本海を一望できる海辺の丘に集結。

当日石材店も駆け付けてくれ、宮司に依るお祓いを執り行ない

長男から順番に皆で参拝をして無事儀式を終えた。

宮司が石材店が納骨室から取り出す数個の骨壺を眺めながら、

「本当は一年祭の後、骨壺から遺骨を取り出して保管するものですが。

二つの骨壺を関西へ移送するそうですが一年祭の後と同じ手順を踏んで下さい。

具体的には納骨室の地面をお塩と米で清めて神札を置き

その上に遺骨を撒いて此処の砂を被せて自然に還して下さい」と教示する。

滅多に起こらない「墓じまい」かも知れないが

宮司から正式に骨壺と遺骨に関する取り扱いを聞くのは初めて。

漠然と「人間は自然から生まれ自然に還るもの」と理解していたのだが、

権威ある宮司の言葉は衝撃的で重く、しかも説得力がある、

もやもやした気持ちが霧が晴れたようにスッキリした。

古稀を過ぎれば終活の一環として参考になるかも知れない、

今後はこの教えをベースロードに墓守を努めれば良いと

皆で大きく頷きながら聞き入った。

 

 

早速、両親の遺骨を取り出して風呂敷に包と同時に

残された遺骨を斎場で引き取って貰い、

弟が骨壺を石材店に持ち込み処分を依頼して「墓じまい」を終了。

夕食はホテル近くの古民家を改造した居酒屋で

幼友達や従兄弟を招待しささやかな宴を開催。

煮付けの付け出しも旨く、とりわけイカや魚の刺身が新鮮で

ビールで喉を潤しながら美味な料理に舌鼓を打つ。

 

氷の上のイカの刺身が新鮮で旨かった。

四隅においてあるのは4人分のわさび。

 

「小さい頃の食事はまた刺身かとうんざりしていたが、

都会ではこんなの、絶対食べられないな」

「ホンマや、グニャグニャしてなくてコリコリしてる」

実家を売却し墓じまいも終えたものの、生まれ故郷はただ1つ。

翌朝皆で食事を済ませた後、

兄夫妻と共に両親の遺骨を載せた車に移動し、

運転しながら機会があればまた帰省したいと思いつつ

浜田自動車を南下し中国自動車道を東へ疾走し

自宅を目指した。

 

今、バラ園が見頃を迎えつつある。

 

茎先の方は蕾みも多く、本格的なピークは未だのようだ。

 

白いバラが沸き立つように咲くなか、

ピンクのバラが混じり程良いアクセントになっている。

 

(写真撮影日は5月23日火曜日、近くの公園にて)