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Be Fully Human

「日本とフィリピン社会により広く大きな貢献をする」ことをミッションにした青年による、その実現までの道のりを綴ったブログです。このブログを通して、ひとりでも多くの方が「ごきげん」に人生を送っていただければ・・・、そんな願いを込めてお送りします~。

話を大学生活に戻します。

 

2007年、大学3年時、インドから帰国した僕はラグビー部の主将を務めました。

 

必死の勧誘の甲斐あってか、入学時7人だった部員も25人にまでなり、部内では数え切れないほどのぶつかり合いもありましたが、最後はチーム一丸となり良い形で終われました。

 

引退後、しばらくもぬけの殻となっていましたが、ふっとラグビー部を引退し、不都合な真実に気がついてしまったのです・・・。

 

僕はラグビーをとったら何もない・・・。

 

今までラグビーしかしてきませんでした。

 

英語も勉強してきましたが、人に自慢出来るほどでもありません。

 

ラグビーをとった自分・・・。

 

何も残ってはない!?

 

ちょっとショック・・・。

 

それならば、「新しい自分」を創ろう。

 

ラグビーにとって代わる何かを、新しい環境でつくろう。

 

外大生恒例の「休学」という選択肢を選びました。

 

僕はオーストラリアの大学に一年間留学することに決めました。

 

その大学、オーストラリアでも一番の大学ということで期待大でした。

 

欧米圏の大学は寝る暇もない程勉強しなければならないとききます。

 

(よっしゃ!)

 

ラグビー、浪人生活を通して「努力し苦労した先に成功や感動、充実感がある」というマゾチックな価値観で凝り固まっていました。

 

翌年の留学に期待を膨らまし、ひょっとしたらパツキン美女と・・・などと淡い恋心を抱きながら・・・僕は出発前日までジムで筋トレに明け暮れました。

 

悲しいかな、準備というと身体を鍛えることしか浮かばなかった私の脳みそ・・・。

インド人は貧しい人は本当に貧しい。

 

物乞いのお婆さんは手の指が全て切られてなかった。

 

子ども達は汚れた顔に汚れた服を着て、裸足のまま旅行客に小銭をもらおうと手を差し伸ばす。

 

「親はどこ?」と聞いたら顔を振られた・・・。

 

本当に逞しく生きている。

 

勝手に観光客について歩き、ガイドをし始め、終わったらお金をもらおうとする。

 

重たい荷物を頭においてヨロヨロしながら運んだり、観光客5、6人の大人を乗せた小舟を一人で漕いだり、ガンジス河の写真を手に売り回ったり、この国の子ども達は本当に「生きて」いた。

 

・・・

 

ある一人の子どもにガンジス河沿いを案内してもらいました。

 

色んなところに連れて行ってもらいました。

 

でもメインストリートでは「ここは警察がいるから離れてくれ」って。

 

「自分はライセンスがないから見つかったら捕まるんだ」って・・・。

 

一生懸命ガイドしてくれた。

 

12歳って・・・。

 

・・・

 

ベナレスを発つ一日前、夕方一人でガンジス河を眺めていると横に5歳くらいの男の子が座ってきて、ニコニコ微笑んできました。

 

めちゃくちゃかわいい。

 

でもその後、近くにいたインド人の少年が日本語で「ソイツ、ソウヤッテカネトロウトシテイル!」って指差してきました。

 

今までニコニコしていたこの男の子の顔を見ていると「何ばらしよるとやっ!」といった表情をしてその少年を睨んでた。

 

人間くせえなあ・・・。

 

その日本語で話し掛けてきた少年は「俺はここのポリスだ!」と言って敬礼ポーズでニコニコしてた。

 

後に他の旅人と一緒に小舟に乗る約束をしていたので、「お前も一緒に乗るや?」って誘ったらめちゃくちゃ嬉しがっていました。

 

でもいざボートに乗ろうとした時、船漕ぎのおじさんからこの少年だけは止められたんです。

 

「お金は僕が払うんで」と頼んでも駄目だって。

 

この少年とおじさんが言い合いをし始めたがポリスどうちゃらという言葉が聞こえてきた・・・。

 

恐らく警官が見たらこの少年も日本人を騙したとみて捕まえるっちゃろうな・・・。

 

この少年は納得して「俺はここにいるから行ってきな。」って僕に言ってきた。

 

その時の本当に悲しそうな顔が今も忘れられません・・・。

 

・・・

 

デリーに戻って飛行場へ向かう日の午前中、東京でインド雑貨屋を経営しているインド人に食堂で出会い色々な場所に連れて行ってくれました。

 

富裕層がショッピングに来るようなお店が建ち並ぶ場所で缶ビールを買ってくれ広場で二人で飲んでいると靴磨きの兄弟がやって来て隣のインド人の革靴を磨き始めました。

 

僕はスニーカーだったので関係なかったんですが、兄の方が、これも汚れているから磨かせてくれと言って磨きだしました。

 

靴紐の先にあるプラスチックが取れて無かったので紐を通すことができず、この少年はライターで靴紐の先を焦がし、火が付いたまま「アチッ」と言って指で丸めて紐を通しました。

 

自分はビールを片手に靴を磨いてもらい何様なんだと思い胸が痛くなりました・・・。

 

完成した時にありがとうって手を合わせると、「合わせないでくれ。仕事やけん。」って・・・。

 

12歳と18歳。

 

学校には行けなかったって・・・。

 

・・・

 

僕は偶然日本に生まれました。

 

もしインドで生まれていたら・・・。

 

もしこの少年達が日本で生まれていたら・・・。

 

なんで生まれた国が異なるだけでこんなにも立場が違うのだろう・・・。

 

なんで一生懸命働いている子ども達が船にも乗れず、観光に来た外国人の靴を一生懸命磨いているのだろう・・・。

 

・・・

 

ニューデリーの中心部で空港行きのバスを待っていると、急にインド人のおじさんが焦ってやって来て喋り出してきました。

 

「今、日本人があそこの広場でお金をばら撒いて大変なことになっている!そいつは英語がわからないから警官も困っている!」

 

おじさんは僕が日本人だとわかると「急いであそこに行ってくれ!」と言ってきました。

 

慌てて現場に一緒に駆けつけると24、5歳程の男がウエストボーチからお金をばら撒き、7,80人程の人だかりができ、ライフル銃を持った警官が立ち往生しているでは!

 

その男のところまで行くと「I tell you the truth.」だの「World order」だの叫びながら狂ったかのようにお金をばら撒いていました。

 

その姿に若者(ばかもの)の僕はプツリときてしまい、気づいたら胸ぐらを掴み博多弁丸出しでボロクソに怒鳴っていました。

 

でも「いや、アジアのトップカントリーとして」だの「唯一の原爆被爆国として」だの訳の分からないことを叫び続けたので、ぶん殴ってしまいました。

 

インド人が7、80人輪になって囲まれる中、ぶん殴り続けました。

 

そしたら警官に止められました・・・。

 

・・・

 

僕は偶然だけど「日本人」として生まれました。でも生まれた以上は日本人として何が出来るか考え、そして行動していかないとって、そう、強く思った日でした。

 

・・・

 

このインドへの一人旅で、本当にインドの子ども達から多くのことを学びました。

 

日本に帰国し、この国は平和だなって改めて強く感じます。

 

僕は日本が好きです。

 

自分が育った国を愛するという感情は至って自然な感情ですよね。

 

でも今の日本を愛せません。

 

日本の為に、世界の為に何かをしなければという思いが宿った21歳、初めての海外一人旅でした。

上海で乗り継ぎ、10時間かけてインドに到着。

 

ドルをルピーに両替しようと歩くと色々なところから「こっちに来い」と怪しげなおじさんが手招く・・・。

 

(ぬお~インド人!)

 

空港ロビーで一夜を過ごし、僕は長渕の唄の舞台、ガンジス河があるベナレスへ。

 

空港を出るやいなや客引きのタクシードライバーがスクラムを組んで待ち構えている。

 

(旅行本で読んではいたが、ついに来たな・・・)

 

小心者の僕はそこへ向かうまでしばらく躊躇しましたが「エイッ!もうどうにでもなれ」と突き進むと案の定、何人ものインド人に囲まれました。

 

あるインド人に半ば半強制的にタクシーへ連行(?)され、とにかくガンジス河の畔まで行ってくれと頼みました。

 

早速乗り場でタクシー代を払い、乗ると胡散臭いドライバーの親父がしきりにニヤニヤしながら話しかけてきました。

 

「ユー アー マイ ゲスト! アイ キャン ヘルプ ユー」

 

「アー ユー ハルピ?」

 

「ユー アー ベスト マン!」

 

「アイ キャン ヘルプ ユー!」・・・。

 

「オーケーオーケー」と苦笑いしながら答えていると途中、ガソリンスタンドがあり、その親父は降りてどこかへ消えてしまったのです・・・。

 

(あっやられた!逃げられた!)

 

ウェルカム トゥー インディア!

 

もう仕方がないので一人で歩いて行こうと拙い英語でガソリンスタンドのスタッフに道を伺うと、ここからあと25キロほどあるというではないか・・・。

 

ジ・エンド。

 

仕方がなく車の中でボーっとしていると40分程経ってドライバーが戻ってきました。

 

「アー ユー ハルピ?」

 

・・・。

 

ぶん殴ってやりたかった。

 

ガンジスまで向かう道中は一人旅が初めての僕にとって本当に「カオス」でした。

 

牛の群れは横切るわ、野犬は至るところにいるわ、原付ノーヘルの三人乗りはいるわ、反対車線関係ないわ、まるで映画の中にいるかのような感覚でした・・・。

 

タクシーとリクシャを乗り継ぎ、やっとのことでガンジス河に着きました。

 

もう日も暮れかかっており、とにかく住む宿を探してドミトリーへ。

 

安いだけあって部屋はとてもきれいだとはいえません。

 

(なんでこんなところに来てしまったのだろう・・・。)

 

旅の疲れもあってか、呆然としていました。

 

ご飯を食べて一人屋上で月を眺め、一日目にも関わらず、すでに日本が恋しい。

 

「お母ちゃん・・・」と思わなかったことが、せめてもの救いでした。

 

部屋に戻ると音楽を奏でる者、本を読んでいる者、怪しげな煙をいぶかしている者、色んな人がいました。

 

その中で僕は偶然、2人の日本人に呼びかけられました。

 

広島から来た26歳と28歳の日焼けした男性。名前はハバラさんとニタンダさん。

 

色々なことを話していると、なんとこのお二方、その春から小学校と中学校の先生になるというではありませんか。

 

聞くと先生にはなりたかったけど大学を卒業してすぐになりたくはなかったと。

 

色んな経験を積んだ後になりたく、日本中を旅したり、自転車でアフリカを縦断したりしたって。

 

そして昨年、通信教育を死ぬ程頑張って夢を叶えたと・・・。

 

僕が先生になるかどうか迷っていることを打ち明けると、「人生焦っとるよ。まだ二十一歳やろ?これから何でも出来るやん!」だって・・・。

 

自分がやってきたことに自信を持ってこれたから今があるって。

 

26歳と28歳。

 

魂があるからめちゃくちゃ若く見えました。

 

21歳の当時の僕にとって「あかんわ!あり得ない!」と思っていた新任教師が目の前にいました。

 

それも2人も・・・。

 

見た目は別に格好いいとは言えない人達でしたが、僕にはめちゃくちゃ格好よく見えました。

 

この夜の後、二、三日一緒に行動を共にしました。

 

二人と別れる際、腐り果てていた夢にまた火が灯っていた自分に気がつきました。

インド・・・。

 

「カレー」「テクノロジー」「牛」「ブッダ」「七三ヘアー」「ボリウッド」・・・。

 

何か様々なものが入り混じり、混沌としている響き・・・。

 

20歳の大学2年時、ある疑問が頭に浮かび、それが離れなくなりました。

 

真面目で暇な若者であれば一度は考えるだろうこの疑問・・・。

 

「何のために生まれてきたのか・・・」

 

2年時、一目惚れをした後輩の女の子にフラれ、生きた心地がしなかったある日、一人校舎の外で歌を聴いていました。

 

僕が尊敬してやまない男、長渕剛の唄。

 

ランダムに曲を流していると「ガンジス」という唄が耳に入ってきました。

 

10分近くあるこの唄に耳を澄ましていると何か言葉には表せない強い衝動に駆られました。

 

「インドに行きたい」・・・。

 

「何のために生きているのだろう?」という問いの答えを見つけたかったんでしょう・・・。

 

その頃、失恋の悩みとは別に将来の夢も揺らぎだしていた時期でした。

 

僕は以前ブログに書いたように、英語教師になるという夢を持っていました。

 

でも周りの学生は英語を「道具」として、例えばアメリカで映画関係の仕事に就きたいとか商社マンになって世界中を股にかけビジネスをしたいという人ばかり。

 

現に「ラグビー部、外国語学部」というとコネなどないけど商社マンの先輩が実に多いんです。

 

英語教師というのはその「英語」がゴールであって、他の皆が世界を飛び回っている中、日本という小さな国の小さな町の小さな校舎の中で世界も社会も知らないまま一生を終えていくのだろうか・・・。

 

なんか教師になるということが格好悪いことのように感じ、「選択肢の1つにしよう」とか、「一度どこかに就職した後、先生になろうか、あっ、でもそれをしたら新任で26、27歳やんか!そんな新任教師見たことないぞ!あかん!」など今まで背中に一本通っていた芯がなくなり、視野の狭い僕は将来の夢を他人と比べて思い悩んでいました・・・。

 

その悩みを解決したかったからなのか、失恋の傷を癒したかったからなのかはわからないが(前者であることを望む)、インドで色んなことを感じ、考えたいと思ったんです。

 

そして僕は部活がオフの春休み、リュック一つ、インドへ向かうことにしました。

 

21歳、人生初の一人旅というやつです・・・。

2005年春、僕は晴れて大学生となりました。

 

今まで育ってきた福岡を離れ、神戸での生活が始まりました。

 

「神戸」・・・。


響きがいい。

 

お洒落で港が美しく、夜景が綺麗で・・・。
 

九州の田舎者の僕にとって、神戸はまさに夢の街だった・・・はずが・・・。

 

僕が入学した神戸市外国語大学は神戸市とはいっても西区の果ての山奥。

 

山に囲まれ、田んぼが広がり海は見えず、夜景の「や」の字もそこにはない・・・。

 

 

(くそっ騙された!)

 

完全なる僕の妄想でした・・・。

・・・
 

大学生活は目的をもって入学したため、充実していました。

 

英文法好きの受験英語の叩き上げで育った僕は英語を聴き話すことが今まで皆無でした。

 

せいぜい外国人レスラーがリング上でマイクパフォーマンスをすることくらい聞いたことはありましたが、今思うとそのレスラーはメキシコ人。

 

 

つまりスペイン語だったようです・・・。

 

周りを見渡すといかにも英語がお出来になりそうな人たち・・・。

 

洋楽はこれだの洋画はあれだの、彼らの話す内容は僕にはさっぱりでした。

 

リスニングの授業も聞き取れず、劣等感の塊・・・。

 

だがこの「劣等感」は力だなって今になって思います。

 

僕はi-podに英語教材を入れて聴き、続けて声に出す訓練を文字通り四六時中やりました。

 

通学中、電車の中でもブツブツ。

 

授業間の移動中もブツブツ。

 

傍からみたらおかしな人。

 

大学の規模は公立大学ということもあり、極めて小さく、食堂に入ると誰かしら知り合いがいるというアットホームな雰囲気。



「就職するために4年で卒業して3年時から就活を・・・」という感じは全くなく、多くの学生が2年生、または3年生が終わり休学して留学や一人旅に出ます。

 

1年後、復学、計5年かけて卒業するということが当たり前という風潮が当時はありました。

 

良い悪いはともかく、僕はこののんびりした感じが大好きでした。

 

授業は主に英語学を専攻し、at,in,onの本質的違いは何か、toという概念は一体何なのかなど社会には全く役に立たない(教授の皆さん、ごめんなさい)ようなことを「お~atの本質はpointだったのか!」と人一倍感動しながら受講していました。

 

また部活はラグビー部に所属し、熱い青春時代をおくれたように感じます。

 

入部当時7人しかおらず、最弱チームでしたが、熱い先輩、面白い仲間に恵まれ、素直にラグビーが好きになりました。

 

充実した大学生活でしたが、中でも特筆すべき出来事を2つこれから綴っていきたいと思います。

 

2つとも海外での経験であり、僕の人生に大きな影響を与える出来事となりました。

 

1つ目は2年生が終わった春休みに行ったインドへの一人旅。

 

2つ目は3年生が終わり休学していった豪州留学、そしてバヌアツ共和国という国での経験。

 

この経験で僕は頭のネジが若干緩んでしまったようです。

 

この経験がなければ、今もっと普通に生きれたのかも・・・。

肌寒く感じ始めた初秋、僕は交通事故に遭いました。

 

後輩のラグビーの試合を見て、原付バイクで代ゼミに向かっていた日曜日の昼下がり、タクシーに後ろから激しい勢いで追突され、病院に運ばれました。

 

幸いにも命に別状はありませんでしたが、腰を痛め、またまさかのキン○マが流血し、キン○マを縫うために入院する羽目に・・・。

 

「事故に遭うような奴は受験も落ちるから気をつけるように」・・・

 

代ゼミが始まった時に担任の先生に言われた言葉を思い出し、今考えれば全く論理的ではないこの発言を僕は鵜呑みにしてしまいました。

 

パニックになったんです。

 

「いかん!このままじゃヤバい!ダメだ!」

 

退院直後から人が変わってしまったかのように勉強しました。

 

睡眠時間も1、2時間。風呂も食事も移動も分単位。

 

自分を自分でがんじがらめにして勉強しました。

 
・・・

そんな生活を送っていたある日曜日。

 

自習室で勉強をしていた時のことでした。

 

いきなり耳元で「パンッ」という音。

 

その瞬間、いきなり目が見えなくなりました。

 

「あれっ・・・」

 

視界がぼやけてものが見えないんです。

 

最初は寝不足かなと思い顔を洗いに行くも全く変わりません。

 

文字がぼやけて見えないんです。

 

丁度メガネやコンタクトを外した後にものがぼやけて何も見えない感覚のそれ。

 

「あれっ・・・」

 

それでも教科書に顔をギリギリまで近づけて無理やり勉強しました。

 

すると今度は首の前面が硬直し出し、息も吸いづらくなりました。

 

常に首を絞められている感覚で、気が付けば息をしていないということがそれ以降頻繁にありました。

 

症状はどんどん悪化。

 

一人自分の部屋で勉強していたら目の前でパチパチッと火花が散ったり、もう寝ようと思い電気を消したら部屋の隅で異様な光が見える。

 

陽炎のようなものも出てきました。

 

勉強をしたくても文字が見えず、志望校であった神戸大学の判定もA判定からC判定に落ち、絶望的・・・。

 

眼科に行っても「異常なし」と言われ・・・

 

親には「二浪しても仕方がないやんね」と慰められ、「最初から二浪するって決める馬鹿おるか」と暴れちぎり・・・。

 

どん底でした。

 

文字が見えない悔しさで、何度一人部屋で泣いた夜を過ごしたかわかりません。

 

首には週3回、ラグビー部時代お世話になった鍼の先生の元で鍼治療を受けました。

 

20センチほどの大きな中国鍼を首の前方部、のど元に垂直に打っていく。

 

激痛が走りますが、何とか文字が見えるようにとすがる思いで通っていました。

 

そんな絶望の中にいたある日、いつものように鍼を受けていました。

 

するとふと他の患者さんが入って来て、その患者さん、入るやいなや「ウワッ」と大声を上げてよろめいたんです。

 

きくとこの患者さんは気功の先生であるらしく、僕の「気」が部屋中暴れちぎっているというのです。

 

元々、精神世界や宗教的なものに疎い自分でしたが、東洋医学に造詣が深い鍼の先生がその時このようなことを話してくれました。

 

「修行僧って滝に打たれて修行するよね。その時ものすごく集中している。すると見えないものが見えてきたり、聞こえないものが聞こえてくる。それを彼らは神様や仏様の声とて受け取っているんだ。君は今、受験勉強を通して、修行僧と同じことをしているんだよ。今見えている光や陽炎も奇妙に感じるかもしれないけど、心や精神は今、大きく成長しているから安心しなさい。君はいいことをしているんだよ。」って・・・。

 

横にいた気功の先生もうん、うんと優しく頷く・・・。

 

「救われた」と思った。

 

僕は精神世界とかわからないけど、「本当はよかったんだ。」って・・・。

 

何か訳がわからなかったものを受け入れることがその時初めて出来て、帰り道、ワンワン泣きながら帰った。

 

「よかったんだ」って・・・。

 

それからというもの、冷静さを取り戻し、ゆっくり生活をするようになりました。

 

勉強も虫眼鏡を使って文字を読んだり、様々な工夫をして。

 

年を越して受けたセンター試験は8割3分。

 

夜中、一階のパソコンで予想判定を確認すると、第一志望校はC判定だった・・・。

 

「まだ戦える」と思いました。

 

それを確認して廊下に出ると、景色が全てセピア色、赤く見える・・・。

 

「こわっ!」と思い2階に駆け上がり布団をかぶりました。

 

翌日、鍼の先生に聞くと、心は闘志に燃えていると赤くなると。

 

「自分の心を見たんだよ」と。

 

・・・

 

そして迎えた二次試験。

 

結果は神戸大学国際文化部、不合格でした・・・。

 

後期試験で神戸市外国語大学英米学科に合格し、僕の浪人生活は幕を閉じました。

 

今でも不思議に思うのですが、「合格通知」を手にした瞬間、今まで見えていた光や現象は全て消えたんです。

 

一体何だったんでしょう・・・。

 

とにもかくにも大学に合格しました。

 

2005年、春のことでした。

 

この地獄のような浪人時代が全ての始まりだったんでしょう。

「運命」ってあるんでしょうか?

 

入学前の3月に「代ゼミ体験入学」というものがあり、何気なく出席してみました。

 

一通りの学校説明を受けた後、スクリーン上で約10分間の録画された授業を見たのですが、あの時の衝撃は今でも覚えています。

 

英語講師、仲本浩喜先生との出会いがまさにその時でした。

(出会いといってもスクリーン越しでしたが)

 


授業は英語の分詞構文の授業だったんですが、仲本先生は一人五役してアメリカ日本語学校に通うアメリカ人学生のモノマネをし、いかに大学受験の文法問題がおかしいかを日本語を教えることで教えてくれました。

 

本当に目から鱗でした。

 

あとで知ったんですが、仲本先生は上智大学外国語学部卒業、大学院では生成文法専門、コテコテの文法オタクとしての経歴を持っていました。

 

僕はこの先生にハマりました。

 

なぜ?

 

それは「雑談」が面白かったから。笑

 

仲本先生の授業の途中で織り交ぜる雑談は、空手のことからヤ○ザのことまで全く授業とは関係ない内容で、ちょーウケた。めちゃくちゃウケた。笑

 

その辺りのお笑い芸人よりウケる。

 

雑談界の巨匠だったのです。

 

受験を控えている受講生が教室内でスクリーンを前にニヤニヤほくそ笑んでいる光景は外から見た他の生徒には気味悪く思えたと思います。

 

でも、その笑いに惹きつけられるかのように、一般の受験生が嫌がる「英文法」がパズルのように面白く感じ、代ゼミ入学後、成績は瞬く間に上がりました。

 

おそるべき雑談!(もちろん英語力もですよ!笑)

 

何がともあれ、僕は英語が好きになりました。

 

代ゼミの正規授業では他の英語講師の授業も受けたのですが、皆それぞれ個性的で破天荒で、彼らのメッセージが今の僕の考えを相当形作っています。
 

仲本先生以外の先生からも多大なる影響を受けました。

 

 

浪人生は一度負けた人間です。

 

人生で初めて高校生でも大学生でもない、つまり社会的ステータスが無くなる時期で、これは繊細な人ほど気になり、自虐の種になります。

 
もしかしたら不登校生も同じような心境なのかもしれません。

 

志望校に受かる保証も無ければ来年どこで何をしているかもわからない。

 

情緒不安定な時期。

 

そんな中、ある先生が言っていました。

 

「君らは今、駅のプラットフォームに佇んでいる。行先のわからない電車に駆け込み乗車をするよりも、一年間、しっかり考えて自分で行先の決めた列車に乗車してください。」って。 

 

またある先生が言っていました。

 

「「理解する」という英単語はunderstand。つまりunderstand。「下に立つ」というのが本質的な意味なんだ。人を理解するには上から見下ろしてもわかならい。人の下に立って初めて理解することが出来る。君たちは今、どん底にいるかのように感じているかもしれない。でもその経験は後に非常に大事な意味をもつようになる。だから逆に僕はおめでとうといいたい。」・・・。

 「予備校」とは受験に必要な小手先のテクニックだけを教えるところだと思っていました。

でも僕は予備校講師からもっと人生にとって大切な根本的なことを学びました。

 

・・・

センター試験を終え、二次試験前の仲本先生の最後の授業はもう今も忘れられません。

 

いつも冗談で笑わせる。

 

でもその日の授業は違っていました。

 

全ての授業を終え最後にこう言われた・・・。

 

「僕は皆には申し訳ないけど、君らがどこの大学に行こうが、正直全く興味がない。そんなもの全然興味がない。でもね、そんなことよりも皆がこれから十年後、二十年後、どれだけ汗かいてキラキラした顔で働いているか、そのことにものすごく興味がある。またその時、顔を見せてほしい。それでも君らは去年受験に負けたんだ。明日・・・落とし前つけてこいよ。」・・・

 

涙が溢れてしょうがなかった。

 

高校時代、あれほど○○大学○○大学と言われてきました。(すぐに左から右だったが)

 

予備校講師の方こそ、○○大学何人合格させたかという結果が重要になるはずなのに、そんなものどうでもいいって・・・。

 

僕はどれほどあの先生に影響を受けたか、計り知れません。

 

と、このように少々感慨深く書いてしまったのにも訳があるんです。

 

僕の浪人生活は、ある日をさかいに、順風満帆なものとは程遠いものとなってしまったから・・・。

僕が卒業した高校は県内有数の進学校でした。ちなみにタモさんと同じ高校です。

1年時から○○大学○○大学と耳にタコが出来るほど言われ、3年時にはもう絶望的。耳から血が出るのではないかというくらい言われました。

実際、僕の耳は左から入った情報はすぐに右から抜けるような仕組みとなっていたため、血は出さずに済みました。

でも担任から授業中に言われた言葉は今でも忘れません。

 

「今年は○○大学に○人合格させることが鍵となるだろう。いいか、大人の社会はギブ・アンド・テイクだ。俺はお前たちに勉強を教えてあげている。だからお前たちは成績を上げて俺の株を上げろ」
 

「ハッ?何ば言いようとや?」って思いました。

当時17歳の僕はムカッときて睨み返しました。「絶対目逸らせてたまるかクソ」って。

向こうが目を逸らしたのでふっと周りを見渡すと、皆、真剣な顔をして聞いているではないか!ウン、ウンと頷いている・・・。

 

「おい、ちょっと待って!!目を覚ませんかいっ!大体大人が子どもにものを教えるということって契約と?教育ってなんや?そもそもお前、給料もらいよろうが馬鹿ちんが!」

 

全ての原点は、あの憂鬱なそして威圧的な空気がこもる教室の中で感じた、反抗心からだったのかもしれません。

 

僕は部活引退後、教師になることを志し始めました。

何の教科等決めておらず、取りあえず大学に行かなければと初めて気づきました。

3年間置き去りにしていた勉強を始めましたが、センター試験まであと3ヶ月。僕は高校1年生の1学期の内容から始めました。1年間浪人しようと決めていました。むしろ親も「1年くらい真剣に勉強せんか馬鹿たれ」といった感じで許してくれました。

 

現役時代に受けたセンター試験は散々たるものでした。

結局私立大学も受けず、ラグビーだけすればいい大阪教育大学の体育学科を受けました。

入試本番前日、学ランを着て、初めて訪れた大阪に興奮。

真っ先に「なんばグランド花月」に行き、平日の昼間におばちゃん達の間に座り、オール阪神巨人の漫才をゲラゲラ見て笑っていたことが今では懐かしく思います。

 

後期試験も受けず、周りの友達が大学入学、後期試験の準備をしていた3月の春休み。僕は一人、博多駅付近に位置する大手予備校「代々木ゼミナール」の申込みに向かいました・・・。 

皆さん、はじめまして。

僕はアメリカ、バーモント州にあるSITという大学院でTESOL(英語教授法)の修士課程を先月終了した27歳、九州出身の田舎もんです。

大学院では「英語教育」に関連することを主に学びましたが、「経験から学ぶこと」「生徒中心学習」を提唱する大学院であるため、「経験学習」や「カウンセリング」など、教育と臨床心理を足して2で割ったようなことを学んできました。

これまでの27年間、たかが27年間ですが、色んな国で、色んな人に出逢って、色んなことを見て、聴いて、感じて、考えて、プラプラしてきました。

今までの学びを、そしてこれからの学びをポジティブに活かすために、これから僕は「教育」に携わっていきたいと思っています。

そして中でも不登校生、日本で悩んでいる青少年、途上国で貧困の中にいる子どもたちを対象に教育活動を行っていきたいと思っています。

その理由は追々書いていこうと思っていますが、このブログを通して、少しでも皆さんの心に火が灯るようなブログにしていけたらなと思います。

それでは宜しくお願いします~。