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Be Fully Human

「日本とフィリピン社会により広く大きな貢献をする」ことをミッションにした青年による、その実現までの道のりを綴ったブログです。このブログを通して、ひとりでも多くの方が「ごきげん」に人生を送っていただければ・・・、そんな願いを込めてお送りします~。

バヌアツ人は一体何を食べるのでしょうか?

 

まず、何といってもバナナ、タロイモ、キャッサバ、ヤムイモ!


今まで中学校の社会科の資料集でしか見たことがなかったものでした。

 

これを現地では「ラプラプ」という伝統料理にして食べるんです。

 

バナナの葉の上に擦ったタロイモまたはバナナをのせ、ココナッツ・ミルクをまぶし、バナナの葉をかぶせ大きな石を置き蒸し、出来上がると丁度こんにゃくのような弾力のある食べ物になります。

 

これを切って皆で頂くんですが、味は・・・ラプラプとしか例えようがありません。笑


 

 

他にはそこら中を歩く鶏。

 

海に近いこともあり、魚。

 

地域性か、日本人には馴染みのない魚も捕って食べます。

 

七色のエメラルド色をした魚やエンゼルフィッシュのような魚。

 

最初は抵抗ありましたが、手づかみで食べる焼き魚は美味しいんです。

 

たまに鮫もコウモリも食べました。

 

結婚式などのお祝い事では牛肉、豚肉も食べるんですが、日本のようにパックに包装されているわけもなく、牛もその場で皮を剥ぎ・・・とにかく、自然と共に生きていました。

 

首都などではオーストラリア米が輸入され、米も食べるようです。

 

バヌアツは工場が少なく、輸入に頼っているため首都のスーパーに並ぶ食料品は法外なほど高いんです。

 

例えば日本では300円程で手に入るコーンフレークなど、バヌアツでは1000円もする高級品に・・・。

 

だから島に住む人達はほとんど自給自足の生活を続けています。

 

・・・

 

バヌアツの朝は鶏の鳴き声から始まります。

 

朝7時から皆で朝食を戴くんですが、毎朝ちょっとリッチにもレモンティーが飲めるんです。

 

レモンティーといってもリプ○ン等はもちろんこの島にはありません。

 

ではどうするかというとやかんで先ず雨水を沸かします。

 

そして外にあるレモンの木の葉っぱを一枚取ってきてコップに入れお湯を注ぎます。

 

最後に買いだめしてある砂糖の缶から砂糖を入れ、かき混ぜれば出来上がり!

 

キリスト教であるバヌアツは毎回、食事は神様へのお祈りから始まります・・・。

 

アーメン。

 

お祈りを終え、レモンティーを飲もうとしますが、神様が僕に試練を与えているのか、それとも買い置きしてある砂糖の缶が問題なのか、砂糖と一緒に多量のアリもレモンティーに入っていました・・・。

 

だからコップの水面にプカプカとアリが・・・。

 

指で取り出すのも何だか失礼な感じがするので、いつも「頂きます!」と覚悟して一気に飲み干しました。

 

(あぁ~今、食道にアリが入っている~!)

 

・・・

 

日本とは異なる環境、食生活からか、数ヶ月間で3度、情けないことに僕は体調を崩してしまいました。

 

中でも三度目は一番ひどかったです。

 

悶絶するほど激しい腹痛に襲われ、もう、これは死ぬと思いました。

 

今までラグビーをしてき、少しは痛みに強いはずだったんですが、今回ばっかしは本当に駄目だと思いました。

 

島には病院や薬局もありません。

 

仕方がなくホームステイをしているホストファザーに藁にもすがる思いで頼みました。

 

「腹が痛くて死にそうなんです。どうにかしてくれませんか・・・」

 

こちらの必死さが伝わったのか、「これは大変だ!」と思ってくれたようで、険しい表情を浮かべ、「ならそこに寝ろ」と言ってきました。

 

(うぅ・・・頼む・・・)

 

僕は言われるがままにそこに仰向けで横たわりました。

 

すると彼は奥からなんと聖書を持ってきて僕のお腹の上に置き、祈り始めました!

 

「オ~ゴッド~、オ~ゴッド~!」

 

・・・

 

(ふざけんな!!!)

 

・・・

 

でもその真剣な彼の表情にどうすることも出来なせんでした。

 

トホホでした。

 

諦めてその日は一日中寝ました・・・が、翌日驚いたことに完全に治っていたんです!

 

・・・

 

(うわぁ~神様はやはりおられるのか!)

 

ホストファザーに「ありがとう」と言うとわが事のように喜んでくれました

 

・・・

 

神様、いや仏様?どちらでもいいけど、ありがとう!

小学校は午後2時半に終わります。

 

それから翌日の授業の準備をして帰宅するんですが、放課後はよく子ども達と遊んでました。

 

さて日本の子達は普段放課後に何して遊ぶんですかねえ?

 

DSPSP、サッカーやパソコン、または塾通いといったところでしょうか?

 

ではこのバヌアツの子ども達、一体何をするのかというと、皆、木の枝で作ったお手製のパチンコと小石を手に山に登り、小鳥をハンティングするんです!
 

上手に小鳥の鳴き声を真似してゆっくり忍びより、狙いを定めて石を放つ!

 

バシッ!

 

勿論、捕った鳥はお持ち帰り。

 

 

夕飯が少しゴージャスに。

 

たまにコウモリもハンティングしたことも・・・。

 

他には洞窟内で遊んだり、


岩に登って海に飛び込んだり、


たまにマネキンが漂流してきたり、


また本物の蔓で出来たターザンロープもあるんですが、それに掴まり、

 

「アッアッアー!」

 

お腹が空けば至る所にマンゴの木があるため、長めの枝で突き、マンゴを頬張れます。

 

とにかく何もかもワイルドなんです!!

最初は子ども達についていくのに必死でしたが、人間というのは凄いもので、一ヶ月程生活するとそこの環境に慣れるものなんですね。笑

 

3ヶ月経ったある日の放課後、一人で村まで帰宅中、木に登って木陰で休んだり、草をちぎって手首に巻いてブレスレッドを作ったりして楽しんでいる自分にフッと気がつきました・・・

 

このライフスタイル、日本より合うかも・・・。

 

・・・

 

夜になるとよく外でご飯を食べました。

 

夜空を見上げると満天に星空が輝き、大きな満月が優しそうに見守ってくれています。

 

ご飯を食べ、外で30分程寝転がっていると10個以上の流れ星を見ました。

 

人生初の流れ星。

 

となりで一緒に寝ていたクリストファーという10歳の男の子が僕の肩を叩き、「あっ流れ星だ!」と言って手を組み、お願い事をしています・・・。

 

(あぁ~幸せってなんだろう・・・。)

 

そう感じずにはいられない夜のひと時が流れていきました・・・。

バヌアツで用いられる言語について触れてみます。

 

一体バヌアツ人は何語を話していると思います?

 

驚いたことにバヌアツには何と107の言語があるといわれています。

 

島が違えば文化も違い、部族ごとに独自の言語をもっているんです。

 

それが全く違う言葉。

 

でもこれでは国がまとまるわけがない・・・ということで彼らは公用語としてビスラマ語という言葉を使っています。

 

このビスラマ語、面白いことに英語のサウンドをベースにそれを簡略化して自分達で独自の言語を作り上げてしまったものなんです。

 

例えば英語だと「どこに行くの?」はWhere are you going?となりますが、ビスラマ語ではというとYou go where? となるんです。

 

また英語では主格、所有格、目的格と、例えば I - my - me- mine といったように人称代名詞が変化しますが、ビスラマ語ではどこにこようがme なんです。(Miと音のまま記述)

 

他にもat, on, in, between, along等多々ある前置詞もすべて long で表します。

 

つまり I go to school だったら、Mi go long skul と!(単語も発音そのまま表記)

 

"Hi, Shin! You go where??"

 

"Mi go long skul"

 

といった感じ。

 

それじゃあ「過去に行った」ならどうなると思いますか?

 

英語ではgo wentに変化しますよね。

 

でも、こんな不規則変化はややこしい!面倒くさい!

 

ということで、「昨日学校に行ったよ」だったら、

 

Mi go long skul finish!

 

と最後に「finish」を付けたら「もう終わったこと!」ってなります。笑

 

非常にJapanese-friendlyな言葉でダイスキ。

 

分かりやすく何か気持ちがいい!!

 

あと僕が一番好きな言葉なんですが、英語には誉める言葉がたくさんあるんです。

 

Nice, Good, Great, Awesome, Fantastic, Lovely, Beautifulなどなど・・・。

 

でもビスラマ語はたった一言!

 

"No.1" (nambawanと表記)

 

何か美味しいものを食べている時、

 

"Um Nambawan!!"

 

なにか僕がちょっと親切にした時、

 

"Wow, Japanese Nambawan!

 

・・・。 笑 

 

素敵な言葉だなあ。

 

あとはその昔、イギリス、フランス両国に占領されていた歴史的背景があり英語、フランス語も公用語となっています。

 

学校は英語校、フレンチ校とあり、英語校では算数も英語、フレンチ校であれば算数もフランス語となっており、6歳くらいの子でも自分達の言語、ビスラマ語、英語と3つの言語を自在に操るんです。

 

でも識字率の問題で、流暢に話せる子も読んだり書いたり出来ません・・・。

 

なので授業では読み書きを中心とした授業を心がけました。

 

バヌアツをはじめとする太平洋に浮かぶ国々の人々は言語能力に長けていて、世界に存在する言語の約3分の1の言語が太平洋諸国内で使われているらしいんです。

 

すごいですよねこの多様性。

 

僕もビスラマ語を習って、日常生活はビスラマ語で生活していましたが、なにぶん英語と似ているため、英語を喋っているのか、ビスラマ語を喋っているのかよくわからなくなり・・・

 

日本帰国後、僕の英語は何か「?」マークがいくつも付いてしまうようなレベルとなっていました・・・。

 

あれ?笑

レレパ島は人口が約200人の小さな島です。

 

周りはエメラルドブルーの綺麗な海に囲まれ、スノーケリングをするとニモが顔を出してきます。

 

ボートで島を一周すると野生のイルカに出会うこともあります。

 

でもそんなレレパ島、ひとつ不都合な真実を兼ね備えていたのです。

 

水と電気がない・・・。

 

電気が無いのはまだロウソクや懐中電灯を使えばなんとかなります。

 

でも万物の根源である水がないとは・・・。

 

川も井戸もないんです。

 

ではどうするかというと現地の人は大きなタンクに雨水を溜めて、それを飲み、また洗濯から食事までその雨水ですべて用を足します。

 

雨が降った日など、「それきた!」と皆村の人たちは、たらいを幾つも外に出し、水を溜めるんです。

 

赤道近くに位置するこの島は年中常夏で、尋常ではない暑さ。

 

雨水とわかっていますが、暑さに耐え切れず、僕も何度か飲んでいました。

 

雨水を飲んだ後の複雑な心境と、ちょっとした満足感の何ともいえないあの感情は、松尾芭蕉なら歴史に残るような一句を書いたにちがいありません・・・。

 

やはり日本人の僕はあまり雨水を飲むことが出来ず、現地の人が代案を教えてくれました。

 

それは学校が終わった放課後から始まります。

 

子ども達数名に声をかけ、海辺まで下ります。

 

そこに木彫りのカヌーがあるんです。

 

そこから何をするか・・・

 

子ども達とそのカヌーに乗り込み、漕ぎ、海を越える!!

 

うぉ~~~!!!

 

別の島に着いたらカヌーを乗り捨て、ちょっとしたジャングルを潜り抜ける!!

 

うぉ~~~!!!

 

前を歩く子ども達は手に大きなナイフを持ち、行く手を阻むツルをズバズバ切り、道を進む!!

 

気分はもうジュラシック・パーク!!

 

うぉ~~~!!!

 


進むこと約5分、そこにはなんと大きな川が流れていました。

僕らはそこで水を汲み、体を洗ってまたカヌーへと戻ります。 

「日が沈む前に帰らなければ!」

 

気分は大航海時代のフロンティアでした。

・・・

 

このような生活を送っていましたが、海が荒れ、どうしても川に行けない日も勿論ありました。

 

夕暮れ時、子どもと遊んでいる最中、喉が渇いてどうしようもない時もありました。

 

(あ~この島に自販機はないとかいな?)

 

(誰か・・・水をくれ!)

 

そんな煩悩が僕を苦しめましたが、心配ご無用。

 

そこは南太平洋、バヌアツ共和国。

 

ちょっと視線を上にあげるとヤシの実さん達が微笑んでいるではありませんか。

 

そして視線をちょっと下げてみると、かわいい僕の生徒達が鬼ごっこの最中、僕にタッチをして逃げようとしているではありませんか。

 

・・・

 

「トレボ!ココナッツ取ってきてくれんかいな!?」

 

10歳のトレボーという活発な男の子は「俺に任せておけ」といった表情をして、意気揚々と椰子の木に向かい、いとも簡単にスラスラと登り始め、椰子の実を落としてくれました。

 

それを現地の子は歯で剥き、その中にあるココナッツ・ミルクを飲むんです。笑

 

僕も真似して歯で剥こうと試みましたが、カチカチの椰子の実の皮・・・。

 

負けたくない一心で挑み続けました。

 

そして苦難の果て、ほんの少し皮が剥けました。が、しかし、「ぺッ」と剥いだ皮を吐き出そうとしたら、口の中、真っ赤。血だらけでした・・・。

 

その傷口にしみながら戴くココナッツ・ミルク・・・。

 

「生きる」って素晴らしいなと実感した夕暮れ時のことでした。

僕はレレパ島に唯一存在するアマロ小学校という小学校で一学期間、英語を教えることになりました。

この小学校、日本の小学校と比べてみると、まずは先生の数。

日本での小学校の先生の数は、例えば神戸では約30人前後となりますが、このアマロ小学校、先生の数が僕を除けばドナルド校長先生ただ一人・・・。

 

このドナルド、馬鹿力で底抜けに明るいんです。

 

いつもガハガハ大笑いしており、ハイタッチでもしようものなら、もうその日はチョークが握れません。

 

痛がる僕を見てさらにガハガハ笑っていました。

 

生徒数は全員で54人。

 

そのクラス分けが面白い?んですが、1年、3年、5年、6年。

 

あれっ2年、4年はどこいった?

 

1年と3年が一緒の授業を受け、5年、6年が一緒に受けていました。

 


年齢は6歳から14歳まで通っており、中学校がないこの島では小学校卒業後は別の島に移り、そこで下宿生活をしなければなりません。

 

お金がない子などは中学校に行けず、6年生を何年もやっています。

 

だからこのような年齢層になってしまうのです・・・。

 

最初に授業をするために教室に入った時のことは今でも忘れません。

 

生徒の顔が皆同じ・・・。

 

メラネシア人である子ども達の肌の色は黒く、髪はカールしており、男の子も女の子も皆同じにしか見えません。

 

それに加え、名前の発音も難しく、いつも出欠をとる時、笑われました。

(しばらく彼らと過ごすと一人ひとりの区別はつくようになったのですが、4ヶ月後に日本に帰国し、電車に乗った時、今度は逆に日本人の女性が全く同じに見えました・・・。環境というものは怖いものですね。)

 

僕は主に5、6年生の授業をみていましたが、授業中、よく生徒がいきなりバタンッとこけていました。

 

「なんじゃっ!?」

 

恐る恐るその子を見てみると、なんと椅子の脚が1本足りんとです。

 

その子、バランスを取りながら授業を受けていました。

 

これぞ文武両道!

 

彼らは脳と肉体を同時に効率よく鍛えていたのです!

 

というのは冗談で、やはりここは発展途上国。

 

「教科書出して」といっても誰も出しません。

 

皆忘れてくるなんて馬鹿なと思っていると、ある子が教卓を指差していました。

 

そこにはボロボロになった教科書がたった6冊。

 

子ども達は班を作り、そのボロボロの教科書一冊を6人で一緒に読んでいました。

 

日本やオーストラリア等の先進国では生徒一人ひとりが教科書を持ち、配るためのプリントはパソコンでつくり、当たり前のようにコピー機を使って人数分のプリントを作っていました。

 

でもこの学校にあるものは、黒板とチョーク、ボロボロの教科書6冊にぐらついた机と脚の足りない椅子だけ・・・。

 

「日本で生まれ育ってきた」という当たり前の事実を、僕は改めて真剣に考え始めました・・・。

翌朝、ロビーに行くと壊れたテレビの前でまん丸としたおじさんが居眠りをしていました。

 

外へ出てみる。

 

驚くほどの快晴。

 

目の前には緑が広がり、静かな朝。

 

しばらくするとアグネスがやって来て一緒に教育局やと向かうことになりました。

 

椰子の木やバナナの木が道に並ぶ・・・。

 

「ザ・太平洋」という感じ。

 

通り過ぎる人は皆、僕に笑顔で「ハロー」と声をかけてきます。

 

僕もニコッて、それに応えました。

 

歩くこと5分、教育局に到着。

 

中に入るとオフィサーが3人。

 

皆アロハシャツを着て笑顔で迎え入れてくれました。

 

僕はひとまず安心しました。

 

そして午後、いよいよ僕が派遣されるレレパ島という島に向かうことになったのです。

 

(これからサバイバル生活が始まるったい・・・。)

 

タウンにアグネスと行き、缶詰やナイフ、ろうそくに懐中電灯等を買い、段ボールに詰め込みました。

 

(いよいよサバイバル、始まるったい・・・。)

 

期待と不安でいっぱいでした。

 

・・・

 

教育局に戻ると、体重100キロ程ありそうなずんぐりむっくりした男が外で僕らを待っていました。

 

彼の名前はドナルド。

 

僕と一緒に働く先生兼校長先生でした。

 


握手を交わしましたが、力が尋常じゃないんですこの巨漢校長。

 

手が折れるかと思いました。

 

すぐに僕らは車に乗り、目的地レレパ島へと向かいました。

 

レレパへと向かう道、舗装されていないガタガタ道をジェットコースターのようにアップダウンしながら進む。

 

そして一時間後、突然海辺に止まり降ろされました・・・。

 

「あれがレレパよ。」

 

アグネスがそう言って指を差すとエメラルドブルーの綺麗な海の向こうに小さな島が見えます。

 

「はあ~。」

 

「さあ、サバイバルタイムの始まりよ!ハハハ!」

 

アグネスはそう言って僕の肩をポンッと叩き、車に乗り込み僕とドナルドを残し、タウンへ帰っていきました。

 

(あれがレレパかあ・・・。)

 

 
ドナルドも今回が初レレパらしいがきくと20分に一本くらいはボートが来て乗せてくれるといっていました。

 

20分待ってみる。

 

ボートが来る気配はなし。

 

1時間経過。

 

なし。

 

2時間経過。

 

なし・・・。

 

さすがにドナルドもしびれを切らし、何故か落ち葉を拾い始めました。

 

僕も真似をして集めたが何のためにかわかりません。

 

ちょっとした山になる程集めると、ドナルドはポケットからマッチを出し、落ち葉に火をつけ狼煙を上げ始めました。笑

 

(おいおい、今21世紀ばい!)

 

・・・

 

狼煙はどんどん大きく、天へ天へと昇っていく。

 

でも、誰も来ない・・・。

 

こうなれば人間はどうするか・・・。

 

ドナルドは海で泳ぎ始めました。

 

「心配いらないよ!」

 

そう言って遊び始めたんです。

 

(そうやね。)

 

灼熱の太陽に照り続けられた僕も、妙に納得し、海で遊びました。

 

綺麗な海でした・・・。

 

遊び疲れて日向ぼっこをしていると約1時間後、遂にボートが来ました。

 

(さあいよいよやん。)

 

小さなボートで海を渡る。

 

(ぬお~今、俺は太平洋におるったい!うっひょ~生きてるぜ!)

 

あの時の快感は今でも忘れられません。

 

・・・

 

ボートで約20分、遂にレレパ島に到着しました。

 

岸に着くとすぐに、僕はナタパオ村という村に案内され、コンクリートむき出しの小さな建物に連れて行かされました。

 

「ここがお前の家だ。」

 

何者かにそう言われ、中を覗くと5歳と10歳くらいの男の子達が緊張した面持ちで僕を見ていました。

 

聞くとここは村長さんの家らしい。

 

辺りは白い石ころがただただ広がり、椰子の木々の間に点々と他の家が見える。

 

トタンで作られた家もあれば、縄文時代の資料で見たような家もある。

 

「ケケケケッ・・・」

 

至るところにニワトリ。

 

着いた時は夕方5時辺りでした。

 

あまり人影を見かけませんでした。

 

家の中にはただプラスチックのテーブルとイス、色あせたイエス・キリストの絵が壁に飾られてある・・・。

 

10歳のクリストファーという男の子に連れられ、別の家に行きました。

 

そこはレンガブロックを積み上げて出来た家なんですが、僕はそこで夕飯を頂くことになりました。

 

もう暗くなっていたのでロウソクに火が灯される。

 

バヌアツ人はメラネシア人なので肌の色が黒い。

 

だから夜は白い目と歯だけが妙に際だって見える。

 

ちょっと異様な空間だったんですが、そこで待っていたおじさんは村のお偉いさんのようで、レレパの教育事情やいかに教師が今必要だったかなど話してくれました。

 

初日はいきなりお堅い話でしたが、正直、ロウソクの火のもとで頂く初めての夕飯に、「今後ここでどういう生活が待っているのだろう。」という不安で頭がいっぱいでした。

 

(こんな小さな島にも人間が住んでいるんだ。)

 

・・・

 

夜、月明かりを頼りに家に帰りました。

 

そして間もなく床に就く。

 

(明日からどんな生活が待ち受けとるっちゃろう・・・。)

 

・・・

 

「ケーッココココココケーッ」

 

朝4時。

 

目覚まし時計が鳴る前にニワトリの鳴き声に目が覚める。

 

(さあ、いよいよ始まりたい。)

バヌアツ共和国。

 


 豪州の都市ケアンズから真東に飛行機で約3時間かけたところにある島国。

パプアニューギニア、ソロモン諸島、フィジーと同じくメラネシア圏に属します。

 


小さな島が連なって出来た国で、島の数は87個、その面積は新潟県と同じといわれています。

 

人口は約20万人。

 

島それぞれに独自の文化を持っていて、ある島はサンゴ礁で形成されており、またある島では火山が隆起して形成されているなど全く色が違うんです。

 

機内ではアロハシャツに綺麗な花を頭につけた添乗員の人たちが優しく微笑んでいました。

 

(うわ~本当にバヌアツに向かっとるったい・・・。)

 

期待で胸が膨らみました。

 

・・・

 

空港に着いた時はもう夜の11時半。

 

辺りは電灯もなく真っ暗。

 

外に出ると、ある女性がボードを抱え、こんな遅い到着にも関わらず、待っていてくれました。

 

「シニ!?」

 

「あっアグネス!?」

 

僕は嬉しさのあまり飛びつきました。

 

その夜は都市部の安宿に泊まることになりました。

 

辺りは真っ暗で何も見えません。

 

「これからどげんことが待っとるっちゃろう・・・。」

 

ワクワクして眠れなかった、と書こうとしましたが、実際は一晩中、虫に悩まされ眠れませんでした・・・。

 

・・・ 

バヌアツ共和国。

 

南太平洋に浮かぶ島国。

 

そもそも何故僕は南太平洋に興味があり、トムという友人に出逢ったのか・・・。

 

全ては辞めた豪州の大学の授業に始まります・・・。

 

ある授業の一コマで、特別に南太平洋諸国のどこの国だか覚えていませんが、その国出身の教授が南太平洋についての特別講義をしてくれました。

 

僕はそこで南太平洋の文化、価値観にとても惹かれたんです。

 

きくと南太平洋に浮かぶ国々にはそれぞれハワイのフラダンスのように伝統ダンスとレゲエ音楽があるという。

 


その土地と先祖と家族を大切にする文化が未だにあり、何か昔の日本にあったといわれるものがそこにあるらしい。

 

具体的に何があるのかはわからないが魅力的な地域に感じました。

 

その授業が終わり、家まで帰宅していた時、留学生交流会等で仲良くなっていたソロモン諸島の友人のジョージに会いました。

 

 
「ねえ、今日南太平洋のことを授業で習ったったい!南太平洋の人って皆、その土着の土地とか家族とか先祖とか大切にするってね!」

 

「お~グッドグッド!そうなんだよシニ。(shiniと呼ばれていた)太平洋はグレートだぞ!」

 

「へえ~一度行ってみたいね~。今度色々南太平洋のことについて教えて!」

 

「もちろんだ。ユー マスト カム!」

 

それからしばらくそのまま南太平洋の素晴らしさをジョージから聞きました。

 

「いいかシニ、ドバイとカリフォルニアの水族館のイルカはソロモン出身なんだぞ!」

 

「ソロモンの一番高級なホテルは日本が建てたんだぞ、「キタノホテル」というんだ!」

 

「日本のツナ缶工場もあって、そのツナがとにかく美味しいんだ。俺の叔父は子どもにそのツナ缶の名前を付けたんだぞ!えっ、どんな名前かって?「タイヨウ」だよ。ちなみにどういう意味なんだ?ほうそうか、「大洋」という意味か!いいじゃないか!ワッハッハ!」

 

僕はすっかりジョージの話の虜になっていました。

 

「うわ~、めっちゃ面白そ~!」

 

ジョージの横に二人同じような容姿をしたずんぐりむっくりの男がいました。

 

「おっシニ、紹介するよ。こちらがパプアニューギニア出身の○○で、こちらがバヌアツ共和国のトムだ。俺たちは似たような言葉を使うんだ。だから「ワントク」と言って俺たち皆、家族なんだ。」

 

僕は二人と握手を交わしました。

 

それがトムとの初めての出会い。

 

「俺にもその言葉教えて!そしたら俺も家族の一員になれるけん!ハハハ!」

 

「その通りだシニ。ユー マスト ラーン!」

 

・・・

 

それからしばらくして彼らと別れました。

 

ウキウキした気分で家に帰りました。

 

・・・

 

話を戻します。

 

僕はトム、そしてアグネスからの連絡でバヌアツ行きが決定しました。

 

しっかり準備していかなっと、一生懸命勉強したことを覚えています。

 

そして8月下旬。

 

僕は学校でcertificate と推薦状を遂に手にしました。

 

ちなみに学校最終日、成績優秀者としてSpecial Awardも頂きました。

 

「努力が報われた・・・」とひとり、心の中でガッツポーズをしたあの時の感覚が、今も僕の背中を押してくれています。

 

2008年9月、学校からもらった各書類を握りしめ、期待と不安を抱えながら、僕は遂にエア・バヌアツに飛び乗りました・・・。

 

未知の国、バヌアツ共和国へと旅立ったのです・・・。

 

2ヶ月後の5月、ついに学校が始まりました。

 

 

クラスは大学のそれとは違い4、5人の少人数。

 

日本人や韓国人、台湾人とアジア系の生徒のみでしたが意識的に休み時間も英語で話しました。

 

元々英語教師を目指していた自分にとって授業は当に英語教育に関する事。

 

全て吸収しようと全力で力を注ぎました。

 

 

でも、自分で決断してこの道を選んだものの、正直内心は暗かったです・・・。

 

(果たしてこの選択でよかったっちゃろうか・・・)

 

(一人キャンベラから飛び出して来たものの、友達は皆キャンベラやし、今頃パブで楽しい時間を過ごしとるっちゃろうな・・・まじ寂しい・・・。)

 

(その後途上国へ行くといったものの、当てなんてねえよ・・・どうするっちゃろうか俺?)

 

(そもそも大学で勉強一生懸命したくオーストラリア来たのに、成長できよるっちゃろうか・・・。)

 

内心、不安な毎日を過ごしていましたが、僕はその後、ある男の一本の電話に救われることになりました。

 

「今、どこにいるんだ?」

 

それは辞めた大学のバヌアツ人の友人からの電話でした。

 

彼の名前はロビン・トム。
 

年齢は30歳くらいで、母国では弁護士、法学の修士号を取得するためバヌアツ政府から派遣されていた男でした。

 

彼とはしばらくぶりの会話でした。

 

僕は大学を辞め、シドニーに移り、英語教師養成学校で訓練を受けていること、そしてその後どこか途上国に行こうと計画していることなど、津々浦々話しました。

 

すると、一言こう言ってきたのです。

 

「だったら俺の国に来い。」

 

「えっ?」

 

「いいから俺に任せろ。俺は毎日神様にお祈りをしている。だから全てポッシブルだ。」

 

・・・

 

その後一ヶ月、何も音沙汰がありませんでした。

 

トムの話を忘れかけていたある日、迷惑メールのフォルダに一通、見知らぬ人からメールが・・・。

 

「アグネス」という人から。

 

メールを開くと、VANUATUと書いてある。

 

「バ、ヌ、ア、ツ・・・あっ、バヌアツ!」

 

なんとトムがアグネスというバヌアツ政府の方に紹介してくれていたのです。

 

「うあ~!」

 

・・・

 

読むと「しっかり今の教育機関で勉強し、certificateと推薦状を持って来ること」と書いてありました。

 

「うあ~!」(二回目)

 

読み進めると、僕を派遣しようと予定している島は電気も水も無いと。

 

「うあ~!」(三回目)。

 

最後に「エンジョイ、サバイバルタイム!ハハハ!」と・・・。

 

飛び上がりたいほど嬉しかったです。

 

「よっしゃあ~!道が拓けた!なんや電気も水も無いって。まじゾクゾクするっちゃけど!とりあえず目の前の勉強を頑張らないかんばい!」

 

未知のものへと向かうワクワク感、これたいこれ。

 

パソコンを目の前にガッツポーズをしているところを、変な顔したオージーの先生たちが通り過ぎて行きました。

2008年1月吉日、待ちに待った豪州留学への出発。

 

飛行機でシドニーに着き、手配してくれた留学斡旋会社に福岡が誇る伝統の銘菓「博多通りもん」を手渡し、いざ大学のあるキャンベラへとバスで向かいました。

 

海、燦々と注がれるサンシャインに真っ白なサンドビーチ・・・。

 

僕のオーストラリアのイメージはこんな感じでした。


なのにキャンベラよ・・・。

 

なぜ貴方は内陸に位置するのですか?

 

なぜ海がないのですか?

 

なぜこんなにも寒いのですか?

 

・・・

 

人工都市キャンベラは、首都という顔を見せず閑散とした街並みが広がっていました。

 

(まあ勉強目的で来たからいいか。)

 


僕はこの静かな町で一年間暮らす覚悟をした・・・つもりでした。

 

・・・

 

学校はさすがに有名大学ということもあり広大で自然が豊かなキャンパス。

 

留学生用のオリエンテーション等に参加し、自分からも積極的に話しかけました。
 

順調な滑り出し。

 

 

でもいざ授業が開始して気がつきました。

 

大学側と留学斡旋会社の間で手違い・・・。

 

僕の入学はかなり規制されていて履修したかった授業が取れないんです。

 

履修出来た科目はというと宿題もなく、どんどん生徒が減っていくような講義で、自分自身あまり興味がないものばかり・・・。

 

さらに一度留学を経験した人ならご存知だとは思うんですが、大学内には各国・各文化圏の留学生によるコミュニティがあり、僕は案の定、日本人コミュニティに片足を突っ込んでしまいました。

 

このコミュニティというものに足を突っ込むともう日本語で楽に生活が出来るんです。

 

適当に夜は近くのパブに行きお酒を飲み、何となく楽しく過ごす。
 

でも朝起きると「俺何しに来たんだろう・・・。」って思い悩む日々を送っていました・・・。

 
(もっとしんどいことをして成長したいのに・・・。)

 

宿題もなくやる気の起きない講義内容に暇をもてあましてはため息を吐いていました・・・。
 

もっと気楽に構えればいいのに・・・。

 

でも僕には無理でした。

 

(今、後輩たちは一生懸命ラグビーを頑張っているのに、一体俺は何をしているのだろう・・・)

 

こう悩み始めるともう駄目なパターンに入るんです。

 

同時期に留学した外大生の動向が気になりだす。

 

順調そうな様子のメールにますます「俺は何をやっているんだ。」と落ち込む・・・。

 

オーストラリアに来て一ヶ月半、もうすでにジ・エンドでした。

 

とどめを刺さされた日がありました。

 

授業で珍しく課された文献をパソコンでダウンロードして読もうとしていた時。

 

「ダウンロード」のボタンを押し、文献のPDFが現れる。

 

スクロールをして下に動かすと、本のタイトルが。

 

そしてその下にはバーコードが・・・。

 

何か日本語のようなものが書かれている。

 

(むむ、なんやなんや?)

 

よく見るとなんと

 

「大阪外国語大学図書館」

 

・・・

 

(くそっ!なんでわざわざオーストラリアに来て隣の大阪にある本をここで読まないけんとやっ!)

 

・・・。

 

心の中で何かプツンときれました。

 

少しざわめく図書館の中、僕は一人、空に飛んで行った・・・。

 

・・・

 

そんなプカプカ浮かんでいたある日、図書館内のパソコンでネットサーフィンをしていました。

 

すると偶然にもあるホームページに行きました。

 

発展途上国でのボランティアのページ。

 

何気なく見ているとボランティア内容の一覧に「Teach English」というものがありました。

 

押して中に入るとそこにはアメリカ人らしき女性が東南アジア系の子ども達に囲まれ楽しそうな写真がたくさん!


こんな感じの写真

 

(ぬお~~~!)

 

以前のブログに書いたとおり、一年前にインドを訪れた僕にとって、その写真を見ていると何か五感が今にも破裂しそうな勢いでした。

 

しばらくその写真を眺める。

 

・・・

 

(よしっ、これをやろう)

 

何か心の中で紐が再度結びつきました。

 

久しぶりに内なるところから何か湧き上がってきた感覚がわかりました。

 

(うむ、この感覚、正しい。)

 

この感覚、ラグビーをしている最中に感じたものと同じだったんです。

 

これを感じた時、自然とプレイが上手く、そして強くなったということを身体は無意識のうちに覚えていました・・・。

 

僕はすぐに留学生アドバイザーに相談し、大学を辞めようと決意しました。

 

でも多くの大人に止められました。

 

「その大学で一年留学したら来年の就活に有利なのよ」

 

「何事も意味のない学びなんてないのよ」

 

エトセトラ・・・。

 

リスクはありましたが、もうこれしかないと思いました。

 

内なる声に従おう。

 

移民局に何度も足を運び、学生ビザを変更し、僕は大学をドロップアウトしました。

 

そしてその足でキャンベラからシドニーへと向かい、英語教師養成学校を探したのです・・・。

 

ある学校で4ヶ月間でcertificate が取得できるとわかると、そこで勉強した後にどこか他の途上国に飛ぼうと決めました。

 

当てなどありませんでした。

 

もちろん不安しかありませんでした。

 

でもなぜか身体は勝手に動いていたんです。

 

今振り返っても、何が僕をそこまで動かせたのかは未だによくわかりません。

 

ただ一つ言えることは、「教師となり、日本を変える。そのためには先ず自分自身を鍛えねば」という使命感があったということは確かでした。