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Be Fully Human

「日本とフィリピン社会により広く大きな貢献をする」ことをミッションにした青年による、その実現までの道のりを綴ったブログです。このブログを通して、ひとりでも多くの方が「ごきげん」に人生を送っていただければ・・・、そんな願いを込めてお送りします~。

DTCの中で、通称KBという皆から一番尊敬されている人がいました。

 

 

45歳の大柄な体格のフィリピン人。

 

実はこの人こそ、ゴミ山で出会ったエフレンを育て、エマニュエルというノーベル平和賞ファイナリストを育て、クリスという6歳の子を、数々のボランティアの子達を更生させていった張本人だったんです。

 

彼は20歳の時、ストリート・チルドレンに対するボランティアを始めていました。つまり25年間もこの活動に従事しているんです。

 

KBはいつもエフレンの後ろにいて、精神的に彼を支えていました。

 

エフレンの考え方や哲学は全てこのKBに教わったというんです。

 

つまりこの影の立役者、KBという人物が皆のメンターのような存在でした。

 

僕はこの方からも多くのことを教えてもらいましたが、なぜ彼がこの活動を始めたのかという彼の人生ストーリーは、少し信じられないような、本当の話でした。

 

・・・

 

1985年、KBは19歳の時まで筋金入りのギャングだったといいます。

 

親から暴力を受け、米軍に入りフィリピンから脱出しようとも試みましたが失敗し、その年のクリスマスの夜、「もうこんな人生意味がない。こんな人生、神にくれてやる」(フィリピンはキリスト教の国)と、ドラッグを大量に飲み、酒を飲み、リストカットをして自殺を図ったというのです・・・。

 

でも翌朝、KBは朦朧と目を覚ましました。

 

なんと生きていたんです。

 

その時彼は「自分にはこの世でまだ何かすべきことがあるのではないか?」と直感的に感じたらしいんです。

 

そして翌年1986年の元旦に新年の新たな決意をしようと長らく足を運んでいなかった教会に向かいました。

 

教会の中で説教が始まりましたが、なにやら外がうるさい。

 

KBが外に出て見ると、ギャング達が教会の外で騒いでいたらしいのです・・・。

 

KBはギャング達に対して怒って注意しました。

 

「お前達、教会の周りでうるさくしてはいけないと学校で習わなかったのか?」

 

するとギャング達はこう応えたと。

 

「学校には行けなかった。」 

 

・・・

 

(これだ!自分がやらねばならないことなんだ!神が自分をこの場に導いてくれた!一度捨てた人生、これからの人生はボーナスだ。もう人のために生きてやろう!)

 

KBはそう心に誓い、以来25年間、ストリート・チルドレンへの教育活動を無償で行ってきたというのです。

 

そしてその活動を通し、CNN HEROを、ノーベル平和賞ファイナリストを、数多くの誠実な少年、少女を育ててきました。

 

何か物語のような、嘘のような本当のような話なのですが、僕は本当の話だと思いました。

 

何故なら何か言葉では言い表せないオーラというか空気というものを、この僕でもKBからやはり感じました・・・。

 

昔は今と違い本当に悪かったと本人は言っていますが、想像も出来ないほど今はユーモア溢れる優しい人です。

 

自分の人生をゆっくり回顧しながら話してくれた後にKBが最後に言った一言が印象的でした・・・。

 

People can change and I changed. 

(人間は変われる。そして俺は変わった。)

僕はフィリピン滞在中、エフレンと共に行動していましたが、彼は僕の予想を遥かに超える人気ぶりで、フィリピンではすでに有名人の一人となっていました。

 

ゴミ山に向かう道中、台車を押している中、至る所から「エフレン~!」という声が飛び交います。

 

また平日はフィリピンナンバーワンの保険会社の80周年記念や新聞社のフォーラム、政済界のCEOが集うパーティー、新商品発売の広告写真撮影、また有名ブランドとのコラボの発表会(利益の一部が基金となる)等、ありとあらゆる所からゲスト・スピーカーとして招待されており、基金集めを兼ねて、駆け回っていました。


 

  


 

また滞在期間中、ちょうどエフレンの人生ストーリーを題材にした2時間もののドラマが収録されるということで、撮影現場にも連れて行ってもらい、有名な俳優、女優さん達と交流しました。

 

ディレクターにメディアのもつ影響力の強さを説き、本当に国を変えようとしていた姿が印象的でした・・・。

実際にケニアやナイジェリア、インドネシアなどでもこの教育活動を応用しようという動きが世界各地で始まっているらしいんです。

 

一日3から5本の講演をこなし、くたくたのはずのエフレンはそれでもいつもこんな僕を気遣ってくれました・・・。

 

移動中からっている重たいバッグを持ちましょうかと尋ねても、いつも彼は断ります。

 

エクゼクティブが集うパーティー等、すべてが珍しい僕はパシャパシャ写真を撮っていると、いつもそのカメラを取り上げられ、僕を撮ってくれるんです。

 

朝食に出たフィリピンの美味しいソーセージを貧乏人の僕は「うまいうまい」とはしゃぎながら食べていたら、エフレンはそのソーセージだけを残していて、食べ終わった僕のお皿にそっと入れました。

 

リュックサック一つで来てしまった僕はパーティーに参加するための服がなく、その服も貸してくれ、恥ずかしいことに寝巻きもない僕に、新品の服を貸してくれました。

 

道を歩く際も僕の肩に手をおき誘導してくれ・・・。

 

毎回、エフレンのスピーチ後、自分達の活動に影響を受け日本から駆けつけたと場違いな僕を皆に紹介してくれ、何故来たのか、何を学んでいるのか等、聴衆の方を前にお話しする機会も頂きました。

 

その様子が翌朝の現地新聞の一面に載っており、自分の名前とインタビュー内容が書いてあるのを見ました。

 

もう訳がわからない・・・。

 

(自分はとんでもない人の横に今いるんだ・・・。)

 

何故今ではこんなに有名になったエフレンがこんな僕に対して優しいのか?本当に訳がわからず、僕は本人に直接尋ねてみました。

 

すると一言こう言うんです・・・。

 

「シンプルなことだよ。隣で困っている、必要としている人のヒーローになっているだけなんだ。」

 

エフレンはCNNでのスピーチで述べたことを本当に実践していました・・・。

毎週土曜日、10代のボランティアの子達が早朝集まり、台車を押し、朝7時から夕方6時まで一日かけて4か所を周ります。

 

そこで彼らが読み書きから算数、衛生指導等をストリート・チルドレンに教えるんですが、驚いたことが2つあります。

 

まずは教える場所。

 

ゴミ山の上や路地裏、そして何と墓場までが教室となるんです。

 

 

地面にシートを敷いて、墓場ではコンクリートの塀に座り、授業が始まります。

 

学校を途上国に建てることも大事な援助ですが、人さえいれば教育が成り立つというシンプルな事実に気づかされました。

 

2つ目は教えているボランティアの子達。

 

10代とは思えないほどマチュアなんです。

 

そのメンバーは地元の高校生や大学生。

 

中には元ギャングのリーダーだった17歳のランドルフ、15歳までドラッグを用い、悪さばかりしていたマイケルなんて男の子もいます。

 

また驚いたことに11歳の男の子まで子ども達に教えているんです。

 

この子、クリスという男の子なんですが、ゴミ山で育った子。


 

 
 
 

聞くと6歳の時、ゴミ山のあちこちで焚かれる焚き火の前で遊んでいる際、後ろからギャングに押され右ひじに大火傷を負い、この団体が養子として預かり治療したそうです。

 

今もその傷跡が痛々しく残っています。

 

でもこのクリス、その経験から救急箱を台車にのせ、毎週土曜、ストリート・チルドレンの怪我の手当てを始めたというんです。


 

 

子どもの発想ってホントに驚かされますね。
 

またエマニュエルという17歳の少年は、幼少時代、学校の先生から理不尽なイジメ、暴力を受け学校に行けなくなった子でした。

 

でもこのDTCで更生し、子どもの人権を守る運動を始め、なんと保護者にまで教育をし始めたらしいんです。

 

そしてその功績が認められ、昨年2009年のノーベル平和賞の子どもの部門のファイナリストの一人に選ばれています。

 

日本では10代なんて何も出来ない青二才というイメージがありますが、この子達は「正しいことをするのに年齢なんて関係ない」と。

 

「見て見ろよ政治家を。何歳なんだあいつ等は?」

 

「僕たちは小さいけど重要なチェンジを起こせる存在なんだ。」と・・・。

 

ノーベル平和賞のファイナリストのエムは「将来はフィリピンの首相になって、この国を絶対変える」と本気で語ってくれました・・・。

 

・・・

 

「人のため」に時間を費やしている彼らは、僕の想像を遥かに超えるほど、マチュアでした。

 

「人格者とは人のために生きることが出来る人」と以前、大学の学長が言っていたなあ・・・。

 

僕もそんな人間になりたいと素直に思いました・・・。

2009年、大学生活の最後の年。

 

悶々とした日々を送っていました。

 

年末実家に帰省しても、これまた一人部屋で翌年からのビジネスライフのことで悩んでいました。

 

・・・

 

そんな一人寂しいクリスマスの夜、気分転換をしようとテレビをたまたまつけたんです。

 

すると米国CNN放送で「HEROES」という特番の再放送が流れていました。

 

そして画面上には一人のフィリピン人が・・・。

 

まさか、その後の人生が、この瞬間に変わる等、知る由もありませんでした。

 

・・・

 

ところでこのCNN「HEROES」という番組に関して少し最初に紹介しておきます。

 

この「HEROES」という番組、世界中で人道活動している名もない方々に対して、例えば「この国でこういうことをしている方がいる。」という具合にCNNのWEB上に誰でもノミネートできるんです。その後、何百万票と世界中からオンラインで投票が行われ、TOP10が決定。感謝祭の日にアメリカの大きなシアターで表彰され、中でも一番投票数が多かった者がHERO of the Yearという賞を与えられ、表彰されるといった内容の番組です。

 


アメリカのみならず世界中で放送される有名な番組で、僕が観たのは2009年、その栄えあるHero of the Yearに輝いたのはエフレン・ペニャフロリダという28歳のフィリピン人でした。

 

 

このエフレン氏、何をしているのかというと、Dynamic Teen Company  (以後DTCと表記)というNGOを立ち上げ、フィリピン、マニラ郊外にあるゴミ山で働くストリート・チルドレン達に無償で教育活動を12年間も行っていたんです。

 

同氏によると、このゴミ山で育つ子ども達はほとんどが将来ギャングになり、刑務所に入りと、人生を棒にふってしまうケースが多いらしい・・・。

 

エフレン自身もこのゴミ山付近で育ち、幼少期ギャングにイジメられていました・・・。でも彼は幸運にも小学校に通えたらしく、奨学金を受け、高校まで進学しました。

 

「自分は教育を受けたことで人生のチョイスを頂いた。このチャンスを他の子ども達にも与えたい。」

 

そのような熱い想いを胸に、彼は16歳の時、高校のクラスメイトと共にDTCを設立、子ども達のためのボランティア活動を始めました。

 

ゴミ山で働く子は生計を立てるため、学校に行く暇がないとよく聞きます。であれば自分たちから行ってやろうと、台車に小さな黒板とチョーク、ノートに鉛筆を入れ、ゴミ山までそれを押し歩き、なんとそのゴミ山の上で授業を始めたというんです。

 

それ以来、近くの高校生や大学生のボランティアの子ども達と一緒に読み書き能力、算数、歯磨き等の衛生指導を行い、これまで多くのゴミ山の子ども達を更生させていきました。

 

その活動の功績が今回称えられたのです。

 

・・・

 

僕がまさにテレビをつけた時、エフレン氏が壇上で表彰され、スピーチをしていました。

 

そのスピーチに心が震えました・・・。

 

「私達の地球上はヒーローで満ち溢れています。年齢や貧富の差、性別や人種、体型等に関わらずにです。私達は偉大なるひとつのタペストリーなのです・・・。私達一人ひとりの心の中にヒーローが潜んでいます。ただ、その心の中のヒーローを見つめ、探して下さい。そして隣で必要としている人のヒーローになってください。

 

今、この会場にいる皆さんやテレビを見ている皆さんの心の中のヒーローは解き放たれることを待っています。そのために、他人に目を向け、その人に尽くし、また尽くすことに喜びを見出してください。

 

いつもボランティアの皆に言っています。君が夢見る世界にするために先ずは君自身が変わりなさいと。私も私自身が夢見る世界にするために、私自身が変わります。そして一人ひとりがそのように変わっていけば、世界を変える必要はなく、もうその瞬間、世界は自ずと変わっているでしょう。」

エフレンのスピーチ(英語)

 

・・・

 

久しぶりに心が動きました。

 

自分の心は自ずと欲しているものを知っているのか、気がつけば涙が溢れていました。

 

・・・

 

僕はいても立ってもいられなくなりました。

 

(よしっ、就職する前に自分自身に杭を打っておくために、フィリピンに行こう。)

 

バイトでお金を貯め、航空券を買い、いつもからっているリュックサックに2枚のTシャツとショートパンツ、そしてトイレットペーパーを入れ、気づいたときにはもう関西空港のロビーで搭乗案内を待っていました・・・。

 

出発1週間前、DTCがあるであろう地域で日本人男性が強盗グループにより殺害されたニュースを耳にし、小心者の僕はかなり恐怖に苛まれました。

 

でもそれが僕を止める要素にならないくらい僕の中ではエフレンに会うことの想いは膨らんでいたんです。

 

2010年2月9日、マニラ到着。

 

その後数日間、マニラ近郊の学校やゴミ山を周り探しました。

 

13日の土曜日、遂にDTCの場所をつきとめ、念願のエフレンと遂に初対面しました・・・。

 

嬉しさのあまり感極まって泣いてしまいましたが、エフレンは優しく肩を抱いてくれ、残りの滞在期間、一緒に行動することとなったのです。

 


エフレン率いるDTCの活動に参加し、感じたことをこれから書き綴りたいと思います・・・。

 

「就活」

 

・・・

 

今思い出すと何だったんだろうと思うんですがその理由はいつか書きます。

 

元々、教員志望でありましたが一度社会を経験したいという理由から始まった就職活動。

 

とりあえず様々な業界を見て応募しないとリーマンがっと焦っていました。

 

業界は食品から航空会社と色々見て回りましたが、いまいちグッとくるものがありません。

 

唯一あったといえばラグビー部諸先輩方が多く勤務する総合商社。

 

何を具体的にしているのか、OB訪問で伺っても結局わからなかったんですが、一言素直に先輩方の姿が格好良かったんです。

 

ピンッと伸びた背筋、ビシッときまった縦じまのスーツ、信念をもって情熱的に仕事に取り組まれている姿に憧れを抱いていました。

 

「でも将来教師になりたいのに・・・う~ん。」とずっと悩み続けていた記憶があります。

 

・・・

 

大学時代に慕っていた先輩には「もう教師になりたいんだったらなれよ」という助言を頂きました。

 

今思い返すと、本当にそうだなと思うんです。

 

でも当時の僕は漠然とした「社会経験」をしないとって思っていました。

 

また後に迫る留学費用のためにお金を稼がないとって。

 

・・・

 

最初は50社ほど応募しようと思っていましたが、悩んだ挙句、結局、9社だけ応募しました。

 

でも、よせばいいものの、面接で毎回聞かれてもいないのに「将来は教師になって日本を変えます。」など的外れなことを言ってしまっていました。

 

どうも嘘をついたらいけない気がして馬鹿正直に言っていたんです。

 

聞かれてもないことを言うこと自体、馬鹿でした。

 

でも、有り難いことにあるセンサメーカーから内定をもらいました。

 

そこは激務であると有名だったんですが、年収ランキングに毎回顔を出すような企業で、「利益追求」「効率主義」という言葉が似合う会社でした。

 

バヌアツ帰りの僕の価値観とは無縁だと思いましたが、「激務である」ということが気に入りました。

 

それは浪人、ラグビー、留学経験を通し、「苦労の先に成長、成功がある」という価値観を持っていたからなんです。

 

「どうせやるならキツイところで働こう。」と。

 

でも内定をもらってからの大学最後の年、僕は彷徨いました。

 

すぐ迷い、落ち込む性格が全面に出てきてしまったんです。

 

(果たして、本当にこの選択でよかったとかいな?来年の就職に向けてビジネスの勉強をしたいっちゃけど・・・やる気がでらん・・・。そもそもセンサメーカー・・・興味ねえよなあ・・・。)

 

内定者合宿というものがあったんですが同期は僕の真逆。

 

有名などこぞこ大学の経営学部や経済学部、学生ベンチャービジネスをやっていますだのブランドの話だのピカピカ、チャカチャカ。

 

(うわ~、到底越えられない人達なんだろうなあ・・・。)

 

この学生最後の一年間で差を埋めないとっと焦りました。

 

とりあえず書店でビジネス本を買い、読んだりなんやりしましたが、心の底から何も湧き上がる熱いものがないんです。

 

(あれ?おかしい・・・。俺らしくないな・・・。)

 

何か悶々とした中、時間だけが過ぎていきました・・・。

 

バヌアツでの自分は一体どこへ行ってしまったんでしょうか・・・。

帰国した2008年12月、僕はプラプラ学校に顔を出しました。

 

Tシャツ短パン、手にはバヌアツの子ども達からもらった木彫りのカヌーの模型、後ろポケットには万が一に備えて、鳥ハンティング用の手作りのパチンコを忍ばせ・・・。

 

久しぶりにクラスメイトを見かけました。

 

形相を変え、リクルートスーツ姿でスタスタと歩いていたんです。

 

「お~い、久しぶり!元気?」

 

「おぉ、久しぶり!元気もなにも就活マジで大変!なんでリーマンショックとかあったんやろうね?ほんと最悪!」

 

・・・

 

リーマンショック?

 

・・・

 

(なんだそりゃ?)

 

世界的な経済危機に追い込んだリーマンブラザーズの破たん

 

・・・

 

完璧「浦島太郎」状態。

 

・・・

 

事情を把握しすぐに切り換えなければと焦りました。

 

僕は予備校時代の影響で英語教師には将来なろうと思っていたんですが、新卒すぐではなく、社会を経験し、大学院で専門的知識を得、世界を旅した後になろうと漠然とした計画を持っていました。

 

だから先ず就活を乗り越えなければならなかったんです。

 

焦る思いで玉手箱ではなかった、リクルートスーツを購入し、いわゆる「就活」を始めました。

2008年12月。

 

バヌアツとは真逆の季節の日本。

 

半袖短パンで関西空港に降り立った僕は先ず真っ先に伺いたいところがありました。

 

留学に出る一年前の2007年、一年間家庭教師をしていた時の、当時中学2年生の男の子の元にです。

 

彼は僕が帰国した時、中学3年生になっていました。

 

T君という。

 

仲良くなると明るい表情を見せてくれるんですが、出逢った当初は真面目で大人しい男の子というイメージでした。

 

実はT君は小、中学校とあまり学校に行けず、不登校生だったんです。

 

塾もあれだからという理由で家庭教師を頼み、僕が派遣されたわけなんですが、最初は勉強どころではありませんでした。

 

親御さんももちろん心配されてて、家に伺っても勉強ではなく、悩んだ本人のことを聴いたり、たまには「今日はすいません。」ということで家にも入れなかったことがありました。

 

でも約半年くらい経った時、少しずつ心を開いてくれて僕も中学時代や高校時代の失敗談を恥さらしながらしていました。

 

中でも英語が面白いと感じてくれ、僕が何を言わずとも英検を取り出したり、勉強をし出したんです。

 

出逢って10ヶ月が経とうとしていた時、学校にも通い出しました。

 

それもクラス一番に登校して・・・。

 

その話を聞く度に嬉しかったです。

 

僕は留学に行くと決めていたので期間は1年間でしたが、もう大丈夫だと思っていました。

 

「T君、大丈夫ですよ!」

 

そんなことをT君の母親に言って日本を発ったことを覚えています。

 

そしてオーストラリアで彷徨っていた翌年の4月頃。

 

T君の母親からメールが着ました。

 

「お元気ですか?(中略)Tは学校に行けなくなりました。3ヶ月間は頑張っていたのですが・・・相変わらずです。」

 

・・・

 

(そうかあ・・・)

 

色んな思いを込めてメールを返しました。

 

「いやいや3ヶ月もよく頑張ったやないですか!ガス欠ですよガス欠。また充電したら一人で頑張れる子だと僕は思いますよ。(中略)あっ気分転換にオーストラリアでもどうですか?高校をこっちで出て、大学で勉強している日本人の学生いっぱいいますよ。道は無限です。」

 

・・・

 

それから僕はバヌアツに行ったので消息はわからなくなりました。

 

(どうしているかなあ?)

 

・・・

 

T君のお宅に1年ぶりにお邪魔しました。

 

夕飯をご馳走になり、バヌアツ帰りの僕は目の前の日本食に感動。

 

「ぬぉ~味噌汁!」

 

・・・

 

ご飯を食べ終わり、一服するとT君の母親がT君にトントンとして「あんた言うことあるでしょう?」と言いました。

 

T君は急に緊張した面持ちになり、いきなり立ち上がり、こう言ったんです。

 

「来年の1月から、高校はニュージーランドに行きます!」

 

・・・

 

「えっ?えっ~!!」

 

一般的に人は環境を変えたぐらいで何も変わらないという世間の冷たい目もあります。

 

T君本人もそれをわかっていて自覚していました。

 

「日本にいたら楽に暮らせるけど、わざわざニュージーランドとかそんなキツいところに自分から逃げに行ったりせぇへん!」

 

・・・

 

本当に嬉しかったです。

 

翌年1月、彼は本当に日本を発ち、ニュージーランドに飛んで行きました。

 

ニュージーランドの生徒に交り、留学生用の英語の授業では一番になって表彰もされたと母親から聞きました。

 

彼はその後3年間、ニュージーランドで過ごし、見事卒業を果たしました。

 

先日、日本の国立大学に合格し、今は首都圏の大学で勉強をしています。

 

彼の存在は僕にとってとても大きく頼もしいんです

 

・・・

 

T君これからも頑張れ!

このバヌアツ共和国という国、日本ではあまり知られていませんが2007年、英国BBCの調査で「世界一幸せな国」として特集をされています。

 

みんな笑顔で挨拶を交わし、驚くことにいくら経済的に「貧しい」国といってもホームレスが一人もいないという社会を築き上げています。

 

皆が皆を助け合い、コミュニティの絆を大切にし、先祖、文化を尊び、古き良き時代の日本にあったそれを今でも大切にもち、生きていました。

 

バヌアツ人はバヌアツのことが本当に好きなんです。

 

「バヌアツ、いい国だろ?」

 

「バヌアツ、グッド?」

 

「バヌアツは最高の国だから俺は他の国に行く必要ないよ」

 

「バヌアツ、ナンバーワンだろ?」

 

・・・

 

何度も聞かれました。

 

そのたびに僕は逆に質問をしました。

 

「なんで自分の国がそんなに好きと?」

 

僕は日本人ですが、どこかで自国のことを卑下しています。

 

「エッ!なんでって、そりゃ皆フレンドリーだからだよ!」

 

・・・

 

皆が口を揃えてそう言うんです。

 

その時ふと思いました。

 

(あっ国を愛するというのは別に国歌や国旗の話じゃなくて、その国にいる「人」を愛するってことなのか・・・)

 

家族が好きだから、友達が好きだから、仲間が好きだから・・・

 

だから僕はあの国が好きなんだ・・・。

 

国を愛するということ、それは人を愛するということ

 

・・・

 

電気も水も無い小さな島国で、大切なことをいくつも教わりました。

 

・・・

 

バヌアツでは本当にかけがえのない日々を過ごしました。

 

学期最後の授業を終え、終業式も終えた12月吉日、とうとう出国の日となりました。

 

空港まで何人も見送りに来てくれました。

 

I Sreret nomo!(大丈夫!という意味)と書かれたTシャツ、アロハシャツに木彫りのカヌーの模型、色んなものを頂きました。

 

搭乗の呼び出しがあり、皆とハグしてゲートをくぐる・・・。

 

もう涙なしではくぐれませんでした。

 

(俺はここで生きた。)

 

・・・

 

(ありがとう皆・・・ありがとう・・・)

 

離陸寸前、窓の外を見ると金網によじ登った僕の生徒たちが手を振っていました。

 

(あぁ・・・・さようなら・・・)

 

あの国から学んだものは正直、言葉では表せられません。

 

それは心で感じとったものであったから・・・。

 

まだまだバヌアツであったことを書こうとおもったらきりがなくなるので、この辺りで筆を止めようと思います。

 

それほど、影響を与えられました。

 

2008年、大学を休学した一年間でとんでもない世界を僕は知ってしまいました。

そんなこんなの日々を送っていましたが、もうすぐ3ヶ月が経とうとしていたある日、どん底まで気持ちが落ちたことがありました。

 

それは自分がしていることに意味を見出せなくなった時でした・・・。

 

というのも僕はバヌアツに本来、学校で英語を教えるために来ました。

 

でもここレレパ島では、別に学校で勉強しなくても自給自足だから生きていけるんです。

 

勉強しなくても毎日畑でタロイモを植えてバナナを植えていれば生きていくことが出来るんです。

 

現にそういうことで小学校も卒業せずに大人になり、畑を耕し生活をしている大人、老人が何人もいます。

 

だから子どもの教育に親も何も関心がありません。

 

教室ではもちろん勉強よりも外で遊びたがっている子もいます・・・。

 

(なんでこの子達は学校で勉強せないけんとかいな・・・。)

 

日本では最悪、生きていくため、仕事に就くために必要だと言うことが出来るんですが、この子達は勉強しなくても生きていくことが出来る・・・。

 

(なんで必要っちゃろう・・・。)

 

わかりませんでした。

 

自分がしていることが何だか無意味なように感じ始めてきました・・・。

 

(はぁ~せっかくオーストラリアであ~だこ~だのして頑張って、ここまで来たのに・・・俺のしよることなんも意味ないったい・・・結局一年間、大人しく大学を辞めずにいた方がよかったとかいな・・・)

 

一人、海を眺めながら数日間、思い悩みました。

 

・・・

 

頭がプシューッとなりそうだったのでこれではいかんと思い、気分転換に週末首都に帰りました。

 

ボートに乗り、軽トラの荷台で揺られて一時間、首都に着くとまた別の世界が広がっていました。

 

僕は自分をここに派遣してくれたアグネスに電話をし、近くのお店でしばらくぶりに合流しました。

 

「どう、レレパでの生活は?」

 

「お~最高!人は優しいし、自然は豊かだし。何より、まだ生き残っとるけんね!」

 

「ハハハ。イエスイエス。レレパはサバイバルライフよ!」

 

僕は本心、レレパでのことで悩んでいました。

 

でも笑顔を装いながら話していたんです。

 

でも本当に僕はその悩み事が頭からどうしても離れなかったので、単刀直入に聞いてみました。

 

「ねぇアグネス?ひとつ質問があるっちゃけど・・・。なんで島の子ども達が学校で勉強する必要があるとかいな?日本じゃサバイバルするために勉強はせないかんけど、レレパやったら別に勉強せんでも畑を耕せば生き残ることできるやんか?なんで子ども達が学校で勉強する必要があるとかなあって思って・・・」

 

するとアグネスは「エッ?」と驚いたような顔をしました。

 

そして当たり前のような言い方で僕にこう言ったのです。

 

「エッ・・・なんでって、夢があるからじゃない!」

 

・・・

 

「夢が何か聞いてごらん?そしてどうやったらなれるか聞いてごらん?」

 

・・・

 

「ハッ」とした。

 

なんだかわからないが、モヤモヤしてものが腑に落ちた感じがしました。

 

・・・

 

夢か・・・

 

僕はアグネスと別れ、月曜日の早朝、レレパへ帰りました。

 

そしてその日の授業で皆にこう言いました。

 

「今週の水曜日、英語のスピーキングのテストをします。一人ずつ、夢は何か?何故なりたいのか?どうやったらなれるのか?この3つを質問するから、英語で答えてもらいます。水曜日までに練習しておくように。」

 

そう言って、2日後の水曜日、実際に一人一人、外に出てもらい、ICレコーダーで録音しながらテストを行いました。

 

「夢は何?何故なりたい?どうやったらなれる?」

 

僕は一人ひとりに聞いていきました。

 

そしたら、この世界地図上では点でしかないような国の島の子ども達が何と言ったか・・・

 

「医者になりたい。」

 

「ナースになりたい。」

 

「先生になりたい。」

 

・・・

 

中にはバスドライバーになりたいという子どももいました。

 

「えっ?バスドライバーって、この島そもそも車もないやん!?」

 

僕はそう聞くと、その子は答えました。

 

「病気の人を病院に運べるから」って。

 

・・・

 

みんな「人を助ける」ということが夢になっていました。

 

(そんな夢を持った子ども達と普段から向き合っていたんだ・・・。)

 

・・・

 

バヌアツをはじめとする経済的発展途上国ではそういう職業に就こうとした時、日本以上に学歴がものをいうんです。

 

「あっ夢を叶えるために勉強せないかんったい・・・。」

 

ちょっとくさいけど素直にそう思いました。

 

だったら何が何でも頑張らんと・・・。

 

・・・

 

それ以来、自分に出来る最大限の努力をもって授業を行い、終業式を迎えるに至りました。

 

・・・

 

「なぜ学校で勉強しないといけないのか?」

 

・・・

 

「夢があるから」

 

・・・

 

・・・

 

ここに本質があるような気がします。

 

・・・

 

・・・

 

夢があるから・・・

 

・・・

レレパ島の暮らしはタウンの暮らしとは全然違います。

 

たまに都会のゴチャゴチャした感じが恋しくなる時も正直ありました。

 

一緒に働いているドナルド校長先生も元はタウン出身。彼も時々寂しいようです。

 

ある時、週末実家に帰っていたドナルドがニヤニヤしながら職員室にいた僕に近づいてきました。

 

「シニ、いいものを手に入れてきたぞ。」

 

見ると脇の下から二本のビール瓶を隠し持っているでは!

 

「うぉ~ビール!」

 

brew with passion」で有名な「Turskar」というバヌアツのビール。

 

久しくビールちゃんとはお目にかかっていなかったので僕は少々興奮してしまいました。

 

「いいかシニ、放課後二人で飲もう。」

 

ドナルドはそう言うと算数の授業をしに教室へ向かいました。

 

(うぉ~ビール!)(二回目)

 

(しばらく振りだな。最後に飲んだのはオーストラリアのパブでかあ・・・。)

 

キャンベラで友達と過ごした夜をついつい思い出しました。

 

・・・

 

「カーン」

 

鐘の音とともに午後2時半、学校が終わりました。

 

再びドナルドに会うとお互いに気持ちはひとつ、ベクトルは同じ方向に向いていました。

 

「よしっ」

 

僕らは海辺に下りて行きました。

 

2本の瓶を宝物のように抱きかかえながら・・・。

 

着いた途端、ドナルドは何故か海辺の砂を掘り始めました。

 

「何しよるとよ?早く飲むばい!」と言うと「まあまあ」と言いながらひたすら掘っているんです。

 

15センチ程の深さの穴を2つ作り終えると、ドナルドはビールをそこに埋めました。

 

「先ずは海水で冷やそう。冷たいビールはうまいぞ。ガハハハ!」

 

「お~ドナルド、グッドアイデア!ドナルド、あんた天才!」

 

そうでした。

 

冷蔵庫はこの島には無かったんだ。

 

対岸を眺めながら僕等はしばし待ちました。

 

待つこと15分、「もういいだろう」と僕等は先程埋めたところを掘り始めましたが・・・

 

案の定、見つからない・・・。

 

「あれ?この辺りのはずだが・・・」

 

「おいドナルド!何しとるんじゃ!」

 

焦る気持ちでそこら中の土を掘り返しました。

 

とその時、「カツ・・・」

 

「あった!」

 

ゴールドと緑のラベルが砂の間から顔を覗かせた時、人生の絶頂を迎えたような気持ちになりました。

 

What a wonderful world!

 

「よしよし」ドナルドは豪快に歯で蓋を開け、笑いながら二人で乾杯して飲みました。

 

「プハ~!」

 

ぬるかったけど、うまかったです。

 

思えばほんの数ヶ月前、お洒落なネオンできらめくクーラーの効いた洋風のパブで友達とお洒落をしてビールを飲んでいたなあ・・・。

 

それが今やタンクトップと木にひっかけ、破れたままのビーチパンツ、海を横に90キロマグナムのメラネシア人とビールを海水で冷やして笑いながら飲んでいる・・・。

 

人生は、これだからやめられない!