第10章 七つ役(ななつえき)の死
次の日、舞鶴から連絡があり、
「曳き船が近いうちに行き、本船を曳いて舞鶴のドックに入れる。準備に掛かれ」との話である。
お寺から賄い部が全部引き上げる。
引越しを済ませてまた船で食事をするようになる。
お世話になったお寺や近くの農家の人たちにお礼をして別れる。
舞鶴行きを喜び、曳き船を待った。
一日待って、曳き船が来た。曳き船の蒸気を使い、錨を上げ、準備が出来て曳き始める。
曳き船が右からと左からと曳くがビクともしない。いくら曳いても動かない。
必死になって曳くが力がないのか少しも動かない。ついに諦めて、曳き船は舞鶴に帰って行った。
次の日、大勢の海軍の兵隊が来て、ガチガチに固まったセメントを一俵、一表滑車で吊り上げ海に捨てて船を軽くするという。
ハッチを開け作業に掛かるが、人力で固まったセメントを上げて海に捨てるのは大変な仕事である。
「焼け石に水」で仕事は少しも進まず、結局効果があがらなかった。
一日で諦めたのか、兵隊は次の日から来なかった。
こんな調子で、舞鶴行きもお流れで、水の汲み出し、食料の野菜の買い出し、泳ぎの練習の日課が続いた。
そのうちかなり泳ぎに自身がつき、とおくまで泳ぎに行くようになる。
海草やウニなどを取りに出かけるようになり二、三日過ぎた晩、また空襲があり爆撃機がいっぱい来た。
しかし、敦賀を通り過ぎ、福井か長岡か、どこか知らないが飛んで行ってしまった。
暫くすると空が真っ赤な夕焼けのように明るくなる。
何処だかわからないが空襲で焼かれているのが見える。
敦賀と同じように、町が悲惨な焼け野原になるのかと思うと悔しさで一杯になった。そしてまた、
「日本はどうなるのか?」という不安で胸がかきむしられる思いであった。
梅雨もあがり、毎日カンカン照りの暑い日が続く。相変わらず水を汲み出すポンプ押し作業である。汗を拭き拭き交替で仕事をする。汗をかくと、海に飛び込み泳ぐ毎日である。
食べ物もかなり悪くなり衣類等の配給も乏しくなる。石鹸などの日用品もないので、部屋の寝台には南京虫、着るものにはシラミやノミで悩まされる。陸と離れているので蚊には刺されなかった。虫も居なかった。
今日は先輩が結核で田舎に帰るので、後輩と二人で荷物を駅まで運んで見送る。行李詰めの荷物を棒に通し、二人で肩に担ぐ。
最初は軽いと思ったが、山道、曲がりくねる海岸道などの長い道のりは、照りつける太陽の下、しんどいものだった。
日陰で休み休み行くが大変である。
敦賀の町の近くのトンネルの中は、軍の重油かガソリンかわからないが、空襲を避けて倉庫代わりに二列両方に並べられていた。その上に、焼け出された被災者が寝起きして乞食のような生活をしていた。
町に入ると、木もなくまともに太陽に照りつけられ暑く砂漠のようであった。あちらこちらに焼けトタン板やレンガを集めて生活している人が居た。大きな土管にわずかな世帯道具を持ち込み生活している人などもいて哀れであった。
ただ、焼け跡から吹き出ている水道の水が自由に飲めるのが唯一の救いであった。交通機関のバスもなく駅まで何もない焼け跡を歩き続けた。駅まで送って別れる。
彼は広島だが、途中空襲で線路が破壊されているのでいつ無事に帰れるかわからない。
朝出ても帰りは二時頃である。腹がぺこぺこでまずい飯も飲むように美味しく食べた。
帰ると、機関員の松井君に召集令状が来ていて、すぐ静岡連隊に入隊を命ぜられたらしい。
次の日、機関部は朝飯を食べた後、五、六人で敦賀駅まで見送りに出かけた。
十時頃、警戒警報が鳴り、
「若狭湾に敵艦載機数十機来襲。厳重注意せよ」と言う。
兵隊は直ぐ戦闘準備に入り空を見張る。
十一時半頃、敵グラマンが編隊で湾の方から来た。隊長の
「撃て!」の命令。
「ダダダダー、ダダダー」と機関砲が鳴り響き、敵を撃ちまくる。
船の前の通路に隠れる。鷹が獲物を襲うように敵は勇敢に襲ってくる。本船を狙い爆弾を二発落とした。
しかし、寸前のところで海に落ち大きな波が持ち上がり沈んだ。
敵は何回にも本船を狙い、機銃掃射を繰り返す。
そのうちに敦賀の艦船や鉄道、軍施設に向かって襲い始めた。
敵が去って外に出ると、
「誰かコックがやられた」と言う。
賄い部のコックが飯を炊き終わり炊事場から、
「来た、来た」と敵飛行機を覗いた時に敵の機関銃の弾にやられたらしい。
弾がボート甲板の鉄板を抜き、コックの右お尻に当たり吹き飛んだらしい。
行ってみると、甲板は血で真っ赤に染まり、お尻は白い骨のようなものが見えていた。コックは何か言おうとしている感じで苦しそうに唸り、
「ピクッ、ピクッ」と息をしていた。
残酷だがどうすることも出来ずにただ見ていた。早々に次の空襲に備える。
あっちこっちで兵隊が「弾がない。弾がない」と言うので弾を弾倉に詰めて、何回も船橋で戦闘している兵隊の側に運んだ。
船で敵の襲撃を受けると逃げ場がない。通路の奥や機関部の倉庫に逃げれば安心かと思うとそうでもない。なぜなら入り口が一箇所なので爆弾で入り口をふさがれると出られなくなってしまうからだ。
ふさがれたら周りは鉄板なので一巻の終わりである。ここが安全という場所がない。しいて言うならば、船の前の方が比較的狙われない安全な場所ということになる。
弾薬を運び船橋から帰ろうとした時、大きな声で、
「敵機来襲!」
「ダダダダッ」と撃ちまくる音。
逃げる場所がなく急いで士官食堂に逃げ込む。
そこには誰かと思ったら同期生の「七つ役」が居るではないか。昼の用意か何かしていたのだろう。その時、
「ピュー、ピュー」と凄い音と、節分の豆を撒くような
「パラ、パラッ」という音。
「ピュー、ピュー」「パラ、パラッ」
そのうちに前が見えないほどの煙に撒かれる。恐ろしさでテーブルの下から椅子の下に潜る。
ただ、夢中で逃げ惑う。だんだん煙が薄れて周りが見えてくる。
うずくまっていた顔を上げると目の前に七つ役のお尻があった。
いきなり、機関見習の吉岡が通路で「痛い!やられたー」の声。
「痛い、痛い」と唸っている。
その時、また、
「パラ、パラッ」と敵の襲撃する音がした。
すると「ウッ!」と目の前の七つ役が前につんのめるように倒れた。
「どうした?七つ役。」呼んでも返事がない。
暫くしてやっと静かになる。どうやら敵は去ったらしい。すぐ、七つ役の所に駆け寄るがすでに息は絶えていた。
愕然とした。自分の目の前で同胞が死んでしまうなんて・・・。
「馬鹿野郎ー、なんでやられちゃったんだよう。生き返れよ、七つ役!」
いくらゆすっても反応はなかった。
悲しんでばかりは居られない。すぐ気を取り直して外に出て甲板長に報告する。
「何!、やられた?」
誰もがショックを隠しきれない。
やられた機関員を誰かが船に乗せて陸地に向かっていた。どれくらいの怪我かわからない。
「誰かが、腹が減っては戦が出来ない。飯食うべ」と言った。
死んだ者は仕方がない。どうしようもない。いくら嘆いても帰って来ないのだから。
飯を取りに賄いに行くと、コックは舌を半分出し、白い顔で人形のように無残な姿で死んでいた。
時間は三時頃である。コックが最後に炊いた飯をみんなで食べる。
「もう、炊いてもらえないんだなあ。可哀想に」と誰かが一言喋るとみんな無言になる。
その頃、見送りに行っていた機関員たちが無事に帰って来た。
「駅でグラマンに狙われ、タジタジだったよ。焼け跡で逃げ場を失い危なかった。危機一髪で助かったよ。
奴ら、鉄道や汽車を狙い、めちゃくちゃに爆弾を落としやがった。鉄道と駅がやられたよ。いつ汽車が動くかわからないらしく兵隊に行く松井を仕方ないから置いて帰ってきたんだ」と言う。
結構損害が出たらしく死んだ人も出たらしい。怖かったそうだ。
しかし、本船が襲撃されて犠牲者が二人も出たことを聞いてもっと驚いていた。
兵隊が
「これを見ろ」と敵の弾でボロボロに穴があき破けちぎれているズボンを見せてくれた。
「凄いなー」
運が良い人は本当に運が良いんだなあ」と感心してしまう。
飯を食べてから、私と大工二人で古い板を集めて間に合わせの棺箱作りを始める。ありあわせの板で簡単に作る。
出来上がると、コックからそっと毛布に包み、血が流れないように油紙を敷き棺に納める。
花も何も無い。誰かが「水を」と言い唇を濡らしてあげる。それから蓋をした。
爆撃の時は、爆風で鼓膜が破れるのでみんな人差し指で耳を塞ぎながら隠れる。
七つ役もそのようにして隠れていたところに耳から耳に弾が抜けてしまったらしい。両方の指が第一関節から吹き飛んでいた。弾の抜けた方の耳は大きく穴があき、どす黒い血が流れていた。とても哀れな死に方である。
「まだ若いのに」と賄い長が涙を流しながら水をあげていた。
私と同じまだ十四歳である。
人生の三分の一も生きていないではないか。何も楽しいことも無く、何も贅沢することも無く、美味しい物も食べられず、笑うことも許されず、ただ毎日苦しみと恐怖だけだったのではないだろうか?
いったい何のために生まれてきたのだろう。いったい私たちは誰のために生きているのか?日本のためなのか?天皇陛下のためなのか?
私たちの青春を返してほしい。
「七つ役よ、もう何も苦しむことは無いんだ。もう何も怖がらなくて良いんだよ。ゆっくり眠るんだぞ。」
七つ役は東北民謡が上手で、よく内海での演芸会でも歌っていた。上手いと評判で、名前もみんなに知られていた。よく船でも軍隊輸送の時、頼まれて歌っていた。
私とは内海時代では班も違うし、船では部が違うのでそれほど親しく付き合っていたわけではなかった。しかし、棺に血のついたまま入れられた姿を見るととても悲しい。
物が無いので何も一緒に入れてあげられないし飾ってもあげられない。そのまま蓋をして船に乗せ櫓を漕いで陸のお寺に安置した。
海岸ではよく、戦争で死んだ人を薪で積んで一晩がかりで焼いていた。
七つ役は何処で焼かれたのだろうか?その後はどうしたのだろうか?私には一切わからなかった。また、聞きもしなかった。
賄いのコックにも広島に妻と子供が居るそうである。どんなにか奥さんが悲しむことであろうか?
事務長が荷物を整理し、舞鶴に事務手続きに行くらしい。休む暇も無く、甲板部は飛び散ったコックの血や肉の破片の掃除をする。肉片は天井板にもこびりつき、ブラシでは落ちないので薄い鉄板で掻き落とす。
気持ちが悪いが、嫌とも言えずに渋々みんなで後片づけをする。海から海水を汲み、何回も洗い流した。
夜は賄い部の近くに行くのが嫌であった。何だか亡霊が出そうな気がするのである。
戦争とは悲惨なものである。明日は我が身である。人が毎日死ぬのを見ていると、だんだん悲しいとか感じなくなってくるのである。涙も出なくなり、無表情になってしまう。何も感じなくなってしまうのである。何と恐ろしいことであろうか。
陸の牛乳屋のおじさんが畑に隠れて昨日の戦闘を見ていたそうだ。敵のやつらは暑いからか裸で操縦し、マストより低く飛び本船に衝き込む形で何回も襲っていたそうだ。機関銃を撃ちまくり、必死に操縦していて凄かったそうだ。顔も見えたらしい。
「あれじゃあ、犠牲もでるだろう」と話していた。
七月も最後の日の戦闘であった。悲惨と恐怖に満ちている一日が終わった。
11章 「終戦」に続く