第7章 ドッグに入る

 

 

大阪港に入港したのは、空っ風の吹き、あられ混じりの寒い日であった。
「会社からボーナスを持ってくるぞ」とか、
「また国債や債券でくれるだろう」
「ありがたくないなあ」などこぼしてみたり、喜んでみたりと誰もが口軽くなっていた。
そのうちに船は港に入り錨を下ろした。
母港大阪に着き、みんな喜びで一杯である。
機関関係の連中は荷役の準備が無いので、もう上陸の支度をしてそわそわしていた。
間もなく、通船で会社の社長や乗り組み員の家族がどやどや入ってきた。家族が肩を抱き合い、喜びの再会をしていた。言葉も無く、涙、涙であった。
同じその時、俺達は明日の荷役の準備で忙しかった。仕事が終わった頃、「サロン士官食堂に来るように」と言われる。
急いで行き、甲板部の人たちが整列する。一人、一人順番に食堂に入り、賞与を貰う。
「次、安藤」と呼ばれ中に入ると、社長、一等運転士、パーサーがおり、「よく頑張ってくれた」などねぎらいの言葉を掛けられた。
「債券と国債を買って田舎に送っておいたから、君の小遣いは五円である。間に合うだろう?悪い遊びをしてはいかんよ」と言われ五十円の明細書を貰った。たとえいくらでも嬉しかった。

 



夜はみんな上陸してしまって船の中は静かであった。
次の朝若い徴用工なのか何だか訳のわからない、のそっとした人夫が来た。変だと思って見ていたらウインチから出るドレン(蒸気の冷めてお湯になったもの)を缶詰めの缶で飲んでいた。
「油くさい蒸気のお湯を飲むより水を飲めばいいのに」と思った。
点呼を取り、荷役に掛かる。彼らは中国の捕虜らしく、監督にどやされないすれすれのところでゆっくり荷役をしていた。火夫が、「たあたあゆう」とか何とか「冷水」の事を中国語で言うと、
「冷水腹壊すから駄目」と、手振りで示した。
監督が会津の人で、「彼らは誇り高くて、日本は中国の属国位にしか考えていないらしく、甘やかすと働かないし、どやしても駄目で扱いにくい」とこぼしていた。
食糧のない時なので麦飯のお昼を食べていた。
五、六日して石炭の荷下し作業も終わり、木津川ドックに船は入った。二、三日は忙しかったが、その後はかなり暇であった。
船はボイラーの火も落とし、風呂も沸かす事も出来ないので、ドックの大きな真水の風呂に入るのが一番の楽しみであったが石炭の配給で一日置きらしく、毎日は入れない。
油で汚れてしょうがないので町の風呂屋に行ったら、ここも二日に一回しか入れないらしく満員であった。湯はぬるく、石炭が無いから湯の量も半分以下で、子供達が裸で震いていた。
造船所も「ペンキが無い。あれが無い。これが無いと」ないないずくしで仕事も思うように出来ないらしい。工員も食べ物が無く、その日を生きるのが大変らしい。
「これで戦争に勝てるのか」と、ひそひそと話しているのをあっちこっちで聞く。
そうとう陸の人たちは苦しい生活をしているらしい。今まで情報がまったく無かったので、どういう状況かわからなかったが、少しずつ解った感じである。

職人達は仕事をする事から、ブローカーに早変わりしていた。先輩達は航海中に積みにから、盗んだものを彼らに売り、金回りが良かった。
しかし、革の靴を闇で買ったら二百円したと聞いて吃驚した。
田舎でさんざん苦労して育てた馬を軍馬として、売った金額と同じぐらいなのである。
村で大騒ぎして、隣組や親類を呼んでお祝の酒を飲んだことを思い出し、ほとほと驚いてしまった。
何時の間にか、こんなに物が不足してしまったんだろう。
余りの不足に配給も思う通りに行かないため、闇で横から取引されるそうだ。一般の人たちは苦しい生活を送っている事であろう。戦争に勝つまでは、我慢、我慢である。

 






造船所の隣には、空襲を受けてやられたのか、戦時標準型の船の後ろ甲板が無残な姿をさらしていた、聞く所によると出港まぎわに爆雷を積み込んでいる最中、誤って爆発したらしい。工員や職員が大勢死んだらしい。さらに、遠くの民家のガラスまでが爆風で゛割れたらしい。

時々空襲警報が鳴る。しかし工員達は慣れっこになっているらしく少しも驚かない。空を見るとB29が白雲を吐いて飛んでゆくのが見えた。
「何処の軍事工場が爆撃を受けた」とか、
「零戦が敵機を打ち落とし、アメリカの飛行士が落下傘で下りて捕虜になり、縛られ殴られ蹴られ、その上ペロペロの夏服で寒さに震いていた」などいろいろの話を聞いた。

道でポスターを見かける。
「だせ、一億の底力。勝利の日まで一心一対勝ち抜くまで戦地に送ろう、一粒の米と弾を。敵も必死の死に物狂い。負けるな、勝つまでは」と言うポスターである。
隣組は強制疎開させられ、爆撃の際燃焼を少なくするために間引き的に家を壊していた。作業には主婦達が動員させられていた。
夜映画に行く。空襲警報が鳴ると直ぐ中止され、追い出されてしまう。
喜劇役者エノケンの「勝利の日まで」と言う映画を期待して見ていたら、只歌ばかりで意味も無くぜんぜんつまらなかった。
しょうがないから千日前に行く。娯楽も暗く、何か食べ物を求めてうろうろしている人ばかりである。遊びは射的屋とか玉突きとかである。
先輩が松島遊郭に冷やかしに行くと言うのでついて行く。ここだけは兵隊や船乗りなど色々の人たちが、
「キャーキャー」と笑ったり、引っ張ったり賑やかで、暗い戦争を忘れさせてくれる唯一の場所だった。豆電球の暗い所でいちゃついているようであった。

暗い世の中である。ここまで戦争が切羽詰まっていようとは思わなかった。今度ドックを出たときは恐らくもう駄目であろう事は誰の目にも明らかであった。
「ここで家族に会っておかないと、きっと二度と会うことが出来ない。この機会を逃したら恐らくだめだろう」と、船長と一等運転士が相談し、交代で遠方から最低の日数で帰すことにきまる。それを聞いて、
「良し少しでも多く金儲けをして田舎に帰ろう」と決心する。
「潜水艦に追われた時、どうせ命がないのなら食べてしまおう」と思ったが、もし休暇でも出たときに妹達へのお土産にしようと我慢して食べずに取っておいた菓子がある。それを、内緒で職工のおじさんを呼んで売る事にする。
「子供がどんなに喜ぶだろう」と、おじさんは喜んで、
「全部売ってくれ」と金を出す。
「田舎のお土産だから全部は駄目」と言うと、
「他に何かあ売ってくれ」としつこく言う。
「誰かに見られたら困るから」部屋をおいだした。
それでも少し売っただけなのだが給料ぐらいの金で売れて大分儲けたように感じられた。
配給になった羊羹とかお菓子とか、よだれが出そうに成るくらい食べたくとも妹達の土産にとぐっと我慢した。妹達の喜ぶ顔が浮かんでくる。
いよいよ、休暇が出た。
釜石の菊池操舵士と見習の黒磯の伊部と私が一緒に行く事になる。事務長が、
「佐世保海軍の命令により、塩釜港にて乗船する者であることを証明する」という証明を貰い、私達は出発の準備をした。
当時は,公用とか理由がないと切符は買えなかった。みんな役所や軍の証明がないと買うことが出来なかった。
それに,外に出るときは、食べ物は持参せねばならなかった。食べさせてくれる所がないのだからしょうがない。
二日分の、甘くない乾パンを賄いから貰い、風呂敷に包み、少しの菓子の土産を持ち、出発しようとした。すると先輩達が、
「おふくろの乳を一杯飲んで来い」と冷やかす。
その声を後に出ようとすると、士官の年寄りが、
「東北は寒い。それじゃあ駄目だ。途中何があるかわからん」と言って、見張り用のオーバーを持ってきてくれた。
有りがたい。寒い所であるから、本当に助かる。

大阪駅で切符を買い、朝の汽車に乗る。何も解らず、ただ夢中で乗っていた。
汽車の中は軍人や疎開者など荷物を一杯持った人達で身動きが出来なかった。
押されて友達の伊部とどんどん離されてしまった。ただ顔を見合わせて目で合図していた。
故郷に帰れるのはとても嬉しいが、命がけの旅である。



軍人は威張り、一般の人は小さくなり、押されて通路に座るのがやっとである。
こうして、どうにか東京に着く。上野駅が懐かしく、ここで東北べん聞いた時にやっと、初めて我が家に帰る実感が湧いてきた。また無事で帰れるという思っても見ない幸運に嬉しさがこみ上げてきた。
上野で汽車に乗ると、また凄く込んでいた。女の人が、
「用を足しに行くから降ろして」と、大きな声で言うと、
「そこで、やれ」とか、
「穴に木栓を詰め、出ないようにしておけ」とか、ずーずー弁で冗談を言って笑っていた。
八時ごろの汽車は動く灯火管制で、中は薄暗く、暖房もない。混雑しようか゛関係なく、ただ人を運ぶだけである。何事もただじっと我慢の連続である。
本もラジオも無いし、伊部と遊ぶものも無いので自然と田舎の思い出話になる。暫くするとうとうとし始める。

朝方伊部は嬉しそうに黒磯駅で降りた、そして五時半頃、菊池さんと別れ、それから郡山で下りた。
寒いので駅の待合室で待った。
駅は朝早くから切符を求める者で一杯であった。リュックサックを背負った疎開者、子供や主婦でごった返していた。
私も並んで磐城常葉(いわきときわ)までの切符を買った。すると隣の子供連れの主婦が、
「平(たいら)の方に行くのでしたら、荷物が一杯のうえに子供が居るのでお願いします」と頼まれた。そこで重い荷物を持ってあげる。
荷物を送っても、疎開荷物で駅は溢れる程なので思うように届かないらしい。仕方ないので鍋、釜持参の疎開だそうだ。



朝一番、薄暗い六時過ぎ、やっと、何度も夢にまで見た懐かしい故郷の駅に着く。後は転がるように雪の山道を走りに走った。夢中で走った。息を切らしながら、重い玄関の戸を思い切りあける。
兄嫁さんが飯を大釜で炊いていた。吃驚する。驚きながらも、「よく来たない。うん、うん、」と声を弾ませながら話す。
すると、声を聞きつけて母が飛び起きてきた。
「良く、来た。良く、来た」と直ぐ隠居の祖父祖母に知らせに行く。
「 何時までいられるか?」
「 何処から来たか?」
「 夜寝ないで疲れたろう」 家族皆んなで心から気をつかってくれる。そんな温かさに、胸が熱くなり、涙が出る。
母は無事を喜び、神棚に飯を上げて感謝のお祈りをする。そして鍋の中の麦をかき分けて、白いところだけをわたくしによそってくれた。卵と白菜を出しながら、「晩げ、ご馳走するから」と言った。 
お金やお土産などは有り難そうに、一旦お金は神棚に、お土産は仏様にあげる。それからお土産は子供達に分けた。
妹達はとても喜び、甘いものを大事そうに少しずつ味わって食べていた。我慢して食べないで良かったと思った。
田舎はタバコ仕事で忙しい。私の家も歩く踏み場もないほど家中に煙草が山積みにされていた。ちょうど専売局に納める前で凄く忙しい。
息子の相手していられないほど忙しい。一枚、一枚広げたり、束ねたり葉分け作業したりと、子供まで手伝っている.私も手伝おうとすると、母達は
「夜寝ないで来て、疲れているんだから寝ろ、寝ろ」としきりに進めてくれる。
お言葉に甘えて、隠居で少し寝た。
田舎に帰っても軍関係の話は秘密だから話せないし、かといってほかに面白い話があるわけでもないので特に家族と話すわけでもない。どうという事もなく、山や畑を眺めているだけだ。しかしそれが落ち着く。とても安らぐのである。何を見ても何となく懐かしく胸が熱くなる。何もない山里だが口に出せない良さがある。ただボーとしているだけで満足である。
二時間位寝てから起き、
「いいから。いいから」と、皆が言うにもかかわらず、何もする事もないので煙草仕事を手伝う。 
「おめえが通った隣の町の学校の近くに、東京の中野と言う所から、学童疎開で一杯わらしっこが来ているんだ。爆弾が落ちるとかで、わらしっこ、旅館で勉強しているんだ」
「わんげ、生まれた家が恋しくて汽車の線路歩いている所捕まり泣いていた」とか、
「こんな狐の居る田舎なんて嫌だ。死んでも良いと東京に帰った」とか
「どこそこの家に来た人は、木で飯が焚けない」とか、
「雪道で迷い、我が家に帰れなくて泣いていた」とか、
「どこの誰が死んだ」など色々、たわいもない話がたくさん聞けた。
このような世間話は興味深くもあるし、面白いし聞いていて楽しかった。
あっと言う間に一日が過ぎる。
そして二日目には餅をご馳走してくれた。
空襲が激しくなると兄さんたち青年団は、敵の飛行機の通過を軍に報告する監視所に交代で行くらしい。また、安積の飛行場造りに動員させられたりして家の仕事も碌に出来ないらしい。
煙草納期で忙しいので、親類や近所にも行かず、休暇が終わろうとしている。
「明日、帰るか」と思うと心は止めど無く沈んで行く。
寂しい。空しい。何とも言うことが出来ない気持ちに襲われる。胸がどきどきと高鳴る。田舎の見納め。これが最後の別れ。
とうとう三日目が来た。


その朝、まず神様に、ご飯を供え、家族全員で
「無事に帰れるように」と、祈ってくれた。
今度は祖父が前回のように、
「朝茶はその日の災難をのがれるから」と勧めてくれる。母が、「土産にと言っても何も無いから」と、餅を丸めて包んでくれた。
言葉少ない中、握り飯の弁当と、土産の餅を持って立ち上がる。 みんな涙をこらえて、「くれぐれも気をつけて」と言う。
「うん。うん」静かに何度も頷く。悲しい別れをする。

雪道を父と二人で駅に向かって急ぎ足で歩いて行く。その背中に、「また来いよー」「きっと帰って来るんだぞー」微かな声が響いてくる。
振り返ることも無く、白い息を吐いて黙々と歩く。
駅で軍属証明所を見せ、すぐ切符を買う。残っていた郡山から塩釜の切符を誰か欲しい人に売り、代わりに郡山までの切符を買う。
「ただで郡山まで送れると」父は喜び、一緒に汽車に乗る。
「遠い大阪に一人で帰るのだし、間違えると困るから、良く駅員に聞くんだぞ」と、とても心配していた。
郡山で上野駅行きに乗せてもらい、父と別れる。気を付けろよ。
「上の人の言うことを良く聞くんだぞ」と言いながら、見えなくなるまで手を振っていた。
東京に行く汽車はそんなには混雑していなかった。
途中、雑誌も何も無いから、じっと窓からの風景を眺めていた。
何時発の汽車に乗ったのか、何時に着くのかも何も解らなかった。行き当たりばったりである。
五時頃上野駅に到着した。
「何でも良いから東海道線に乗れば良い」と思い、来た電車に乗る。
横浜を過ぎた頃から、電車はガラガラになった。変だと思っていたら案の定、熱海どまりであった。
そのまま、そのホームで待っていると間もなく電車が着たので、また確かめもせず乗った。すると次の駅が
「来宮」と言う。
急いで鉄道地図を見たら、間違いである事に気づく。
すぐ、次の駅で下りる。田舎の駅で下りる人も二、三人しかいなかった。
うろうろ、きょろきょろしていたら,駅長が声を掛けてきた。
「坊やどうした?」
「大坂に行くんだ」と私が答える。
「 ここは大坂には行かない。困ったなあー、切符をみせてみろ」と駅長。
「どうしょう」と私は心細くなる。
「貨物で送り返すか」と駅長は言いながら、大坂行きの時刻表を調べてくれる。
「今日は大坂行きの終わりだ。駅に泊まれ」と言って、駅の中のストーブの側の椅子に座らせてくれた。
「坊やの田舎は?」
「福島」
「そうか。福島か何にやってるんだ?」
「百姓」
「百姓か。そうか。それじゃあ、今度買出しに行くから、住所教えてくれ。米はたくさん取れるか」など色々聞かれた。
それから駅の古い官舎に寝かせてもらう。
男達が兵隊に取られてしまったせいか、珍しい事に若い女の駅員もいた。仕事が終わったのか,女の駅員と男の駅員が二人ずつ来て床を取り寝る。
しかし、若い男と女は夜遅くまで、
「きゃっ、きやっ、手が触れた。足が触れた。」とかいちゃついて、こちらの方がよく眠れなかった。
次の朝、「坊や、今度は間違わずに行くんだぞ」と言って朝一番の電車に乗せてもらう。
「熱海は何番線に乗れ」と教えてくれて別れる。
とても、とても、親切な駅長さんで助かった。
熱海で大垣行きに乗る。米原駅あたりは大雪で、汽車の暖房が無く寒くて、寒くてオーバーを借りてきて本当に大助かりである。
大垣で一時間ぐらい待ち,やっと姫路行きに乗る。
「あー、これでやっと無事大坂に帰れる」と、ホッとする。
「田舎育ちで,人任せについて歩いていたので、一人旅は慣れなくて苦労ばかりである。
右も左も解らないので゛地図とにらめっこしながら必死である。
どうにか大坂に到着する。市電に乗り換え、乗り換え木津川で下りる。
船に到着したのは夜の九時頃であった。
「早かったな。もう一日ゆっくりして帰ればよかったのに」と言われる。
伊部も菊地さんも、まだ帰っていなかった。焦って帰って、ちょっと損した気分である。土産の餅を残っている人たちにあげた。
「珍しいなあ」とストーブで焼いて食べる。
「美味しい」と、皆な喜んで食べてくれた。

 



二、三日、田舎に帰っていたら、何だか船の様子が変わっている。
新しく甲板見習が三人入っていた。伊部は見習から水夫として転船だそうだ。
私は見習から、ドバスと言う心得に昇進して、便所掃除になる。
兵隊も新しい人と変わったりしている。
また、船首の甲板に二十五ミリ機関砲が二門取り付けてあり後ろ甲板には兵隊の大部屋が新しく作られていた。
爆雷で穴の開いた鉄板も取り替えてある。前の古くて錆付いた鉄板が置いてあったが、それを見て驚く。
こんなに錆付いた鉄板だったのか、叩いてみると、薄くて紙のようである。 「良く持ちこたえてくれたものだ」と感心する。
他にも人が大勢集まってきて、
「命拾いした」とみんなで顔を見合わせる。

内海の後輩が機関に入る。一緒に飯を運んだ小さい藤村も、火夫の石炭運びに昇進した。しかし身体が小さいので、ちゃんと勤まるか心配である。
賄には、内海の同期生だった岩手生まれの、七つ役という名前の男が乗ってきた。
人事の異動があった。
士官で私の事を良く可愛がってくれた二等航海士の田辺さんが新造船の田賀丸に乗ることになる。残念である。
「荷物運ぶの手伝ってくれ」と言われたので、荷物を持って浪速造船所まで市電を乗りつぎ一緒に行く。
造船所の貨物駅には女の機関士が黒い顔で石炭を焚き、機関車を運転していた。
田賀丸は戦時型二、三型で本船より随分広いので大きく感じた。
ここの造船所では職工一人に連合国の捕虜五、六人付いて溶接や、その他色々の仕事していた。
従って、捕虜の作った船に私達が乗っていると言っても良いぐらいである。変な感じである。

「身体に気をつけて」
「また、会おう」と田辺さんと別れる。
船に帰ると、内海から苦楽を供にしてきた伊部が、
「新しく他の船に乗船する」と下船して行く。とても寂しいが、明るく、
「気をつけて、頑張れな」と声を掛けた。
「きっと、変わった良い船に乗るんだろうな」と羨ましく思う。
寂しさと羨ましさの入り混じった複雑な気持ちで別れた。

我々は軍関係なので飯だけは食べたいだけ食べられた。しかし民間の船などは盛りきり飯で、満足に食べられず大変らしい。
造船所の工員たちが、「鳥の餌にするから、残飯を入れてくれ」と缶を持って本船に来たりする。
また、無理に仕事を頼むときは、飯を食べさせる条件で頼む。
造船所以外の業者に食べさせると、食べながら、誰も見ていないと、手早く飯ごうに、飯を詰めて持ち帰る。
帰って子供に食べさせるようだ。それほど食べ物に困っているようだ。
もう、寒い盛りである。夜はストーブの火が消えると寒くて眠れなかった。
見習には毛布を貸すが、見習が終わると取り上げられる。
「自分で用意しろ」と言われるが、用意できるはずが無い。
しかたく、毛布無しで寝る。配給の薄くてペラペラのオーバーを布団代わりにかぶるが、寒くて寒くて丸く縮こまって寝る。当然、朝起きると腰がおかしくなっている。
送ってもらっても、この時代では何時受け取れるかも分からないし、まして買う事も出来ないし、まったく困り果てていた。
空襲もだんだん激しくなり、
「昨夜は、どこそこの軍事工場が爆撃された」とか、良く聞くようになる。



いよいよ船の修理も済み、会社や家族、そしてドック関係者に見送られ大阪を後に瀬戸内海を通り、門司港に向かって出港した。
今度は、
「水夫見習の仕事がいつになったら覚えられるんだ」とか、
「力がない」とか、怒鳴られたり、こずかれたりの毎日であった。
見習が入っても相変わらず、下は下であった。
航海中は暖房の蒸気があり暖かく寝られたが、停泊すると寒くて寒くて、朝起きると腰が曲がって動かない。腰が痛いので門司で医者に行ったら「風邪から来ている」と言われた。
この寒さでは風邪をひかないほうがおかしい。
しかし風邪だからと言って寝ている訳にもいかない。
門司で燃料の石炭補給して、一路佐世保に向かう。
関門海峡を出れば危険区域である。ボートを外に出し、何時船がやられても直ぐ乗れるように準備する。どやされながらの作業の毎日であった。
「大沢」という、子どものようなに可愛い見習いが入り、私達が憎まれ役に成るのが目立つようになる。
「仕事が出来ない」とか、やけに嫌がらせをされるようになった。
佐世保軍港に入りブイに船を繋ぐ作業をしても、
「あーでもない。こうしろ」と文句を言われ通しである。
佐世保に入港する。
戦争が激しく、敵機動部隊はじわじわと本土に接近しつつある。警戒に出払ったのか、艦や艇が少なかった。
操舵手の増村さんに、
「スグ、ナガサキ、イサハヤニ、ニュウタイセヨ」という、召集令状が来たので急いで下船する。
「安藤は毛布無いから、俺のをくれていくから」薄い毛布をくれた。これで寒さから逃れて眠れると思うと、拝むほどに嬉しかった。本当に助かった。
「駆逐艦で護衛してやるから」と元気良く言って下船して行った。
海軍の髭を生やした年より臭い兵隊が衣納を担ぎ、本船の防備隊として十人ぐらい乗船してきた。兵隊も全部で二十人ぐらいになり、暇さえあれば、対空戦闘訓練に励んでいた。
また、積荷の荷役作業が始まった。
「今度はどこに行くのか」など、とても興味があった。
積荷は今までと同じ、砲身砲台、弾薬、食糧の米や味噌、地雷、セメントなどの軍の物資であった。武器や弾薬の積荷は一杯で゛一番船倉には塹壕を作るためのセメントその上に米俵を積み、平らにしてから大勢の大工によって板を張り宿舎を作る始末であった。
甲板への出入階段も作られ。船の後方サイドには青空の吊り便所が海に突き出して取り付けられた。どこからみても丸見えで、ぶら下がる感じの仮の便所である。それが終わると今度は甲板に、前から隙間無くコタツ櫓(やぐら)ぐらいの大きさの鉄の箱のような物を、そろりそろりと静かに積み並べていた。
火気厳禁と書いてあった。
何かと荷役隊長に聞いてみた。
「人間魚雷の火薬だ」
「一発でも弾が当たったら、この船は影も形も無くなくなってしまう。あなた達の肉の固まりも無くなるだろう」と言う。
皆んな驚きを通り越して、開いた口が塞がらない。
これじゃ、特別攻撃隊である。死にに行くような者である。
いよいよお国の為に死ぬ時が来た。靖国神社に祭られる時が来たのだ。
増村さんは運が良かった羨ましい、しかし今更どうする事も出来ない。覚悟決めるしか無いようだ。
「年は皆な同じだ」と、年よりが言う。
「年寄りも若い者も、皆んな、一緒に同じく死ぬんだから、皆んな同じ年だ」と言う。

気が付くと、いったい何十個積んだのか知らないが、火薬が甲板一杯積まれていた。
係りの隊長は、
「よろしくお願いします。ご無事をお祈りします」と敬礼して作業員と帰って行った。
二段に積まれていたが、案外固定されて動かなかった。大工たちが動かないように、くさびを入れたり、火薬の上に板を敷いて通路を作り、歩けるようにしていた。爆雷も四個から六個ぐら積みこんだようだ。

これで命令があればいつでも出港準備が整った。
次の朝、がやがや、どやどやと武装した海軍が百三十人位乗り込んで来て凄く賑やかであった。
食器や鍋や毛布など色々生活物資も積み込まれた。
各隊装備し、場所を見つけては、三脚を立て六点五ミリ機関銃を取り付けて敵機来襲に備えていた。

第8章 「対空決戦」に続く