11章 終戦

 

八月に入り暑さも厳しく、毎日裸になってポンプで水を汲み上げる作業をしていた。
それが終わると海で泳ぎ、川で体を洗った。石垣に潜っているウナギを竹の枝の先に餌をつけて取って食べたりした。
タバコも無いので吸いたい人は松の葉やいたどりの葉を雑誌の紙に巻いて吸っていた。
この頃では敵ももう焼きつぶす場所がなくなってきたのか空襲は少なくなる。本土決戦に備えているのだろうか?陸軍などは弾を撃たなかったので、敵機はたまに来ては悠々と飛んで正確に軍の施設や工場を爆撃していた。
鉄砲も銃剣も無い兵隊が一杯居ると聞き驚く。鉄砲も無いのによく「戦争しろ」などと軍部は言えるものだ。
これでも戦争に勝つのだろうか?日本はどうなのだろうか?それでもみんな「まだ、勝つ」と信じていた。


八日過ぎた頃、農家からタイヤの無い荷車を借り、二、三人で配給の食糧を取りに敦賀に行く。
すると、至る所に立て看板があった。そこには
「敵は死に物狂いで新型爆弾を広島に落とした」と書かれていた。他にも
「触れると火傷をする」とか、
「白い物を着れ」とか、
「光を見たら注意しろ」とか書かれていた。
航海士が、
「何か話では凄い爆弾らしく、今までの何十倍の威力でかなりの犠牲者が出たらしいと聞いた」と言う。




食料を取り、ガラガラと車を引いて石ころ道を汗を流しながら船に帰った。
毎日、ジリジリ照りつける太陽が、空に我が物顔で居座っている。相変わらず、ふんどし一枚で排水作業に汗を流す。
ダレてくると海に飛び込み体を冷やし作業を続ける。
死んだ賄いの代わりに敦賀から臨時で日本海汽船のコックが乗船してきた。
話では敦賀の近くの福井県出身だそうだ。乗る船も無く待機していたらしい。
船が敵に沈められ、日本海汽船には乗る船が無く困っていたそうだ。
わずかな情報では、沖縄も完全に米国の手に落ち、機械化部隊が二、三日で飛行場を作り、本土を襲っているらしい。
「♪貴様と俺とは同期の桜、 同じ航空隊の庭に散る」と、反撃に各飛行場から
「神風特別攻撃隊」として志願兵の大学生たちが祖国のために、片道の燃料で、水杯を交わし沖縄の戦艦や航空母艦に体当たりして戦果をあげているらしい。
私は単純に、
「百機くらい飛ばして敵の奴らを叩き潰せば良いのに」と思った。
「本土決戦に備えて余り飛ばさないのかもな」と仲間同士で話したりした。

数日して、敵は九州にも新型爆弾を落としたらしいと言う情報が入る。
イタリアが降伏したことは前に聞いていたが、今度はドイツが連合軍に降伏したらしいと聞く。
頼みのドイツのヒトラーが自殺したとか、日本は世界を敵にまわしても最後まで戦うらしいとか色々なことを耳にする。
しかし、仲間のドイツの降伏はみんなかなりのショックを受けたらしく考え込んでしまう。
「日本は神の国だから日露戦争にも買ったんだ。必ず神風が吹くから大丈夫」と誰かが力づける。




今日は空襲も無く、のんびりと小川で体を洗う。夕方、晩飯を食べた後一息つき「ホッ」とした頃、
「大変だあ」と、誰かが陸から帰ってくるなり大声で叫ぶ。
「ソ連が宣戦布告し、戦車で満州に攻め込んで来るらしい」と言う。
「冗談言うな。ソ連とは戦争をしない条約を結んでいるじゃないか」
「本当だって。ラジオで聞いたんだから」と真剣に言う。
しかし、誰も信じない。まもなく別の人が帰ってきて同じ話をする。
「どうやら本当らしい」
みんな深刻になる。
「これからどうなるんだろう?」などいろいろ話す。
「ソ連の野郎、裏切りやがったな」
「畜生!」と歯ぎしりしたり、悔しがったり、地団駄踏んだりとみんなやるせないといった表情である。
「日本は駄目か?いやいや、田舎にはバリバリの在郷軍人が一杯居るから心配ない」
「奴ら、ただ殺してやるから安心していろ」など強気な会話をした後、眠りについた。
次の日も排水作業に何もかも忘れて打ち込んでいた。これからどうなるかなど考えてもどうにもならない。成り行きに任せるより仕方が無い。


この頃、何だか不思議なくらいに空襲警報が無く「変だなあ?」と思っていた。
今まで敵の飛行機が毎晩襲ってきていたのに、今では不気味なくらい空襲が無く静かである。敵は本土上陸に備え、着々と準備をしているのだろうと想像していた。いよいよ本土決戦が近いとみんなは予期していた。

「何か、明日、天皇陛下が十二時に放送するらしい」と聞く。
なんだろう?きっと
「最後の一兵まで戦え。上陸する敵を全滅させよ」という言葉であろうと思っていた。
よし、明日はラジオのある家に聞きに行こうと決めた。
ところが、賄い長と甲板長が話し合っていて、
「食料の配給を取りに行かないと、おかずに出すものが無い。安藤を借りて、敦賀駅の先の倉庫に配給の魚をとりに行ってもらいたい」と言われてしまう。
朝起きると、今日も一日暑くなりそうな日であった。ポロポロの黒い麦の飯に、塩汁だけは腹いっぱい食べられた。飯を食べ終わると、賄い長と一緒に農家に荷車を借りに行く。
賄い長が話をして、頭を下げて借りた後、
「これで頼む」と配給の切符を出し、
「ここで受け取ってきてくれ」と説明を受けて別れる。
それからトボトボと石と砂利の道を江戸時代の大八車の引き綱を肩から胸に掛けて、両手で支えながら敦賀に向けて歩き出す。山道は日陰で良いが、海岸になるとジリジリと照りつける太陽で汗だくだくであった。
曲がりくねる道を歩くだけでも大変なのに、カンカン照りと車引きの三重苦であった。時たま、軍のトラックが凄い埃を出して通過した。
トンネルには焼け出された連中が涼しそうにドラム缶の上にむしろを敷いて寝ていた。
トンネルを過ぎると焼け野原の敦賀の町が遠くまで見渡せた。坂を下ると、鳥居だけの気比神社の森があった。
焼け跡の町には犬小屋のような、焼けトタン板で作った家があちらこちらにあった。
水道の水だけは、焼け跡から吹き出ているので、不自由なく飲めて助かった。

駅に来ると、あっちこっちに出征するらしい大学生や民間の人たちが、仲間の寄せ書きしたペロペロの日の丸の旗を両肩から腰に掛け、勇ましく軍歌を歌い賑やかに見送られていた。


不思議に空襲の被害に遭わなかった駅の近くの倉庫で、配給の氷箱に詰まった魚の木箱を二つ受け取り車に積んで帰りを急ぐ。
天皇陛下からのお言葉は何なのかこの耳で直接聞きたいからである。
しかし、いくら急いでもとても間に合いそうにない。残念だが諦めるしかない。
車からは氷が溶けて、しずくが垂れて落ちていた。
一時半頃、やっと飯を食べたお寺の所に到着する。汗まみれの額を手で拭う。
すると、私の横を陸軍の兵隊たちが何か気の抜けたようにダラダラと歩いて行く。


「陛下のお言葉を聞いたのになんてだらしが無い。いよいよ決戦なのにこんなだらしの無い兵隊でどうするんだ」
と腹立たしい気持ちで睨んだ。

また、必死に歩き出す。何かあちらこちらから、
「戦争に負けた」とか、「終わった」とか聞こえてくる。
しばらく行った所で農家の子供たちに会った。
「戦争に日本は負けたんだって」と言う。
「デマだろう」と私は言った。今の兵隊は朝鮮の兵隊が多いからきっとデマを流しているんだろう。


気にせず、私は魚を伝馬船に積み、荷車を返して船に帰る。
船に乗ってすぐ先輩に聞いてみる。
ガーガー、何を言っているのか良くわからん。『忍び難きに忍び、絶え難きに耐え・・・』とか何とか良くわからないが、とにかく負けたようだ」
「何しろ戦争は終わったんだ」
「いや、これから戦うんだ」とかそれぞれ色々なことを言うので訳がわからなかった。
誰も仕事をしようとしない。皆、深刻に考え込んでいた。
「女はアメリカの遊びにされ、男は奴隷にされ、日本民族は滅ぼされアメリカの国になってしまう」など勝手に想像していた。
私にはこれからどうなるのかなど想像もつかなかった。
晩飯を食べてから、みんなで陸に上がり、ラジオのある家に聞きに行く。そして、みんな真剣にラジオを聞いた。
「内閣が辞職して、鈴木内務大臣になった」とか、
「誰が責任を取り、自殺した」とか余り良くわからなかった。結局、誰も何もわからなかった。

その夜は、深刻に日本の将来とか今後どうなるのかなど色々話をした。しかし、話し合ってもただ悲観的な考えだけで明るい話や前向きの希望のもてる話は無かった。
「無条件降伏」という言葉がよくラジオで聞かれたが、私は意味が良くわからなかったので先輩に聞いた。
「アメリカの言う通りになること。つまり、奴隷になることだよ」と教えられた。


ただ毎日、飯だけを食べ誰も仕事をせず、ボーとしているようにブラブラしていた。敦賀から来た人が、
「今まで捕虜だった奴が、監視だった兵隊に車を引かせて後ろをブラブラ歩いていたよ。まるで逆になった」と言った。士官が、
「戦争も終わったし、空襲も無いから、暑いので一番ハッチの上にオーニングカバーテントを張ることにする」と言い、作業を開始する。
終わると、泳いだりテントの下で涼しい風を受けて昼寝したりと自由気ままにしていた。

次の日、陸の農家の新聞を見てみんな驚いた。
「七十五年間、草木も生えぬ広島・長崎」とか、
「人も住めぬ町。瓦まで溶かす恐ろしい、かつて無い原子爆弾。悲惨。被害甚大。人々は水を求め、何十万の犠牲者」と書かれているではないか。
「ちくしょう。アメリカの野郎。悔しい」と思ったが、
「これじゃあ、戦争に勝つわけがない」と諦める。
「軍の指導者が責任を取り、拳銃自殺した」とか、
「武装解除」とか、何がなんだかわからないことだらけであった。世の中は完全に混乱していた。

夕方、朝鮮の方から来たのか、二、三艘の貨物船が入ってくる。その中に「御代丸」がいた。同じ会社の船である。
みんな懐かしさで手を振る。機雷にでもあたらなければ良いがと心配する。心配をよそに御代丸は無事に入港する。
海軍の兵隊は機関砲を取り外し、五、六人残して解散する。そして、それぞれの故郷に帰って行った。
「羨ましい。我々はどうなるのか?」
乗組員の朝鮮人もいつの間にか帰って居なかった。
次の日の昼頃、米軍の飛行機が低空で飛んで来て、敦賀の連合軍捕虜に食料や衣類、日用品らしいものを落下傘につけて一杯落としていった。
話では、その次の日は見違えるような軍服姿になり、専用列車で金沢の方に行ったそうだ。
新聞を見ると、「米軍司令官マッカーサーが厚木飛行場に到着」とか、
「連合軍どこそこに進駐」とか書かれていた。
みんなどこに逃げているのか心配であった。

一週間も過ぎた頃、海軍の掃海艇がドラム缶の筏を曳き、掃海を始める。
「アメリカが船で来て、自分で落とした機雷で沈めば良いのに」とみんなで話していた。
その日の夕方、御代丸が朝鮮に日本人を引き上げに行くと、五、六艘で出港した。
「キセンノ、ブジナ、コウカイヲ、イノル」と旗流信号をあげて見送っていた。
無事に港を出るかと思う間もなく、
「ドドーン」と機雷に触れて一瞬波を被った。
「大変だあ!」
見ていると、御代丸は陸に向かって海岸にのし上げるように進路を変えていた。
その内、改E型八百八十トンの戦標船なども機雷に触れて沈んで行く。すぐ、敦賀から曳き船などが向かっていた。私たちもすぐ支度をして、御代丸へと急いだ。
山道の曲がりくねる海岸道の北陸道を敦賀と反対の出口の方に向かった。だいたい四キロくらい歩いてやっと到着した。
海岸際にまで御代丸がのし上げられ、陸から船まではすぐであった。幸い、機雷爆発が遠かったらしく、被害が少なくてみんな無事であった。
「ああ、良かった」
今日はゆっくり話ができるような状態ではないので、
「また、後から来るから」と言って私たちは帰ることにする。

山道の帰りはとても疲れた。すると仲間の一人が、
「もし、トラックが来たら俺が止めて乗せてもらえるよう頼んでみるから」と言い出した。
そこへタイミングよく遠くからトラックが走ってきた。手を上げてトラックを止めた。
乗せてもらえるか話をしようと近づいて、ふと荷台を見ると、今、機雷でやられた戦標船の連中が血だらけでうめいていた。もうすでに死んでしまっているような人も居た。
「いいです。申し訳ありません。すぐ走ってください」と敬礼した。
トラックは再び煙をあげて敦賀に向かって走って行った。
「戦争が終わったのに可哀想。痛いだろうに。これからあの石ころのゴロゴロした砂利道を病院まで行ったら、傷口も大きくなって半数以上が死んでしまうのではないだろうか」
私たちは諦めて、トボトボと歩いて帰った。

次の日、ランチが艀(はしけ)を曳き、本船に来た。武装解除のため、機銃や機関砲を回収するそうである。本船の兵隊たちが舐めるように磨きに磨いていた大切な機銃などは、ごみを捨てるように艀に投げ込まれていた。兵隊たちは弾を海に捨てていた。
「機雷は後で処理班が来る」と言って解散した。
全部荷物をまとめてそれぞれの故郷に帰って行った。

汽車は復員軍人で一杯であり、連結の所や客車の屋根までと乗れる所はすべて人で埋まっていて、トンネルで窒息死するものや振り落とされて死ぬ者などが後を絶たなかったそうである。
みんな故郷に急いでいた。
しかし、急いで帰っても、空襲で親や兄弟を失って誰も迎えてくれない者もたくさん居た。帰る所のある者はまだ幸せであった。
新聞では、
「東京湾において、戦艦『ミズリー号』の艦上で日本国と軍や内閣の降伏調印式があった」とか、
「東條内閣はどうなったか?今どうしているか?」とか、
「責任とっていつ死ぬのか?命が惜しいのか?」とか、
「戦争犯罪人として連行される」とか色々書かれていた。
しかし、世の中は少しずつ落ち着きを取り戻しているように感じられた。


なんだかんだと九月になり、船では買い出しや排水作業をまた始めるようになった。農家にも明かりが灯り、まさに戦争が終わったんだと感じられた。
私たちはいったい今後はどうなるのだろうか?会社も先がわからない。まして軍はなくなってしまったので、軍関係はどうなるのか皆目検討がつかない。
解散できないまま、ただ暮らしていた。
船ではもう今までの上下関係は無く、腕力のある連中が上に立った。
夜は賭博をうったり、村の娘を冷やかしたり、また、どこから聞いてくるのかどこの倉庫に何が入っているという情報を得ては、軍の倉庫の手薄を狙い塩を盗んできた。
なぜなら、村では塩一升は米一升と交換してもらえるからである。それほど、塩が不足していたのである。

夜は軍の監視の目をかわして泥棒し、昼は寝ていた。また、仲間を見舞いに病院へ行けば手当たり次第に革靴や、色々の物を盗むなどメチャクチャな生活を送っていた。


何日かして、機雷処理班の若い海軍の連中が海防艦でやって来た。何で帰らないのかと聞くと、
「家に帰ったが親も兄弟も誰も居ないので、また艦に戻って来た」と答えた。
「ここは飯の心配もなく天国だよ。これからは仕事もなく、失業者が溢れるばかり。ここは給料ももらえる上に特別配給もある。それでみんな戻って来た者ばかり」と言う。
そして、楽しそうに歌を歌いながら、板を敷いて機雷を倉庫から転がし海に捨てていた。

潜水艦に終われ、今にも船がやられるかという危ない時にも最小限に節約していた機雷が惜しげもなく
「ドブーン、ドブーン」と海に捨てられて行く。
節約したために逆にやられて死んだ者もあったかも知れない。命と引き換えにしてまで大切にしていた機雷が今はごみのように無残に海に沈んで行く。なんともやるせない。
捨て終わると、また次の船に向かって艦は動き出した。去って行く彼らの後姿を見ながら
「俺なんかは田舎があるから幸せなんだ」と思った。
自分の家が、そして家族が心配で夜も眠れない者の中では、大阪や近県などの近い人にだけ様子を見に行く許可が出た。

もう九月半ばである。少しなりとも落ち着き、村にも復員してきた若い者を見るようになる。

その頃、我々を大阪の会社から内海海員養成所まで迎えに来てくれた配乗の落田さんが、やせ細ったキリギリスのようになり、骸骨のように目だけギョロギョロさせて苦労して船にやって来た。
船長が喜んで迎えた。そして、士官たちと何かを話していた。後で聞いた話では、大阪はどこまで行っても瓦礫の山と焼け野原であるそうだ。
凄い空襲だったそうで話にならないらしい。被害とか惨禍とか犠牲とかいう言葉を通り越しているそうだ。
その上、食べ物もなく大勢の人が餓死しているらしい。配給なんていつ受けたかわからないぐらいないらしい。
まして、会社などなく、これから先どうするのかわからないそうでだ。政府船舶運営会に任せる以外ないとの事だ。
御代丸とも連絡を取って来てもらい話をしたらしい。帰るとき、米を土産に持って帰った。

その頃、新潟の連中が帰り始める。
「長岡なんか空襲で焼けないから、電気を煌々と付け、町はレコードをジャンジャン鳴らしていてすごいそうだ」
「遊ぶんなら長岡で遊んで帰れ。平和ってすごいぞ」
「これから世の中が良くなるぞ」などと明るく会話をしていた。
今までの暗い話から少し前向きの新しい話を聞き、救われた感じがした。
北陸にも秋の気配が感じられ、朝夕涼しくなって来た。時には寒さも感じられ波も荒くなる。稲も実り、農家は稲刈りで忙しいらしい。
日本海の海は一寸先も見えないほどの猛吹雪になるそうだ。
二、三日して敦賀から曳き船が艀を曳いて来て、本船に横付けにして帰って行った。何かと思ったら、冬は越せないので船の備品やロープ、ワイヤーなどの道具、そして備え付けの物で外せる物はすべて外して敦賀の倉庫に納めて解散するとの事である。
「解散」と聞いて、嬉しいのだがまだ実感が湧かなくて変な気分である。
ただ帰りたいと思うだけで家に帰ってあれがしたい、これがしたいという希望は何も無かった。よく考えてみると、一月に帰ったばかりなのである。
でも、何年も帰っていないと感じるほどに色々なことがあった。
長かったような短かったような何ともわからない日々であった。ただ、無我夢中に時を過ごしていたのだと、今、振り返って初めて感じる。
上役の士官が、
「今日からは機関部も甲板部もない。みんな一緒に片付けをしよう」と話す。
機関室には、石炭を焚いたスコップやスパナやモンキーなど以外は何もめぼしい物がない。
そして、めぼしい物はすぐに誰かが目を付ける。スコップなどは、
「俺の家は炭焼きをやるから俺が貰う」と新潟のやろうが一番に言い出した。
甲板には、ワイヤーや滑車ロープ、チェーンなどの他はやはりめぼしい物は見当たらない。
しかし、みんなそれぞれに目を付けてボートの帆などは、
「帰って漁師をやるから」と言って、海で育った連中が喧嘩腰で奪い合っていた。
帆などは着る物の無い時など何にでも使えたからであろう。
ハンマーやペンチなどみんないつの間にか無くなっていた。
自分は欲が無いのか、これといって欲しい物が無かった。
船橋に行ったら、航海しない時に羅針儀(コンパス)に被せるカバーがあったのでこれを貰うことに決めた。
大きい物を入れるための袋の代わりになるので、これに衣類を入れて帰ればよいと思ったからである。舵取りが、
「安藤に先を越された」とこぼしていた。
どうやらみんな目を付けていたらしい。片付けながら、あれもこれもと大変である。しかし、誰でも欲しがる時計などは、
「駄目」と一等航海士が言う。
いくら欲しがっても、倉庫に納める物は駄目と言ったら駄目なのである。
昔の船なので航海用のランプ類が多かった。ペンキも石油も無い。めぼしい物は本当に何も無いのである。
欲しい物があったとしても、重い物は駄目なのである。ただでさえしんどいのにこれ以上荷物が増えては山道を越えられない。
まして人だけで一杯の汽車に乗れるはずがない。欲を出すと結局あとで捨てることになってしまう。

午前中は第一倉庫(ストアー)、午後は船橋とかに分けて整理した。船橋は望遠鏡とか海図、信号機などみんなが欲しがる物が結構あったが全部、
「駄目」
時間を知らせた鐘なども
「学校に寄付するから」と目を付けた者が居たが、
「駄目」
駄目と言われた物などを艀に積む作業が終わると、みんなそれぞれハッチカバーを切り裂き、鞄を縫ったり、リュックサックを縫ったりと袋作りなど帰る準備でそれぞれが忙しかった。早く帰りたかったので、みんな夜遅くまで掛かって夢中で縫っていた。二日ぐらいで全部片付き、最後にオーニングテントカバーを外してみんなで縫い目から破き、分け合った。賄いはまたお寺に引っ越した。

ところがその晩、もの凄い台風が襲って来た。
次の朝、起こされて艀を見ると、本船とつないでおいたロープが風で飛ばされて切れたらしく、見る見る海岸際まで流されて行く。波に揺られている間は良かったのだが、浅瀬で泊まってしまい動けなくなると今度はもろに荒波を被ってしまう。艀は水と砂にまみれてメチャクチャになって少しずつ埋もれて行く。二日も苦労してやっと積んだワイヤー滑車、ランプや時計、ハッチカバーなどが全部海岸に沈んでしまう。
「こんな事になるんだったら、みんなにくれれば良かったのに・・勿体ない」とみんなからため息がもれる。

 

11章「生きて故郷へ」に続く