次の日の朝四時、鎖を上げ、次々と黒い煙を出し勇壮怒涛の如く出港する。
「さらば、故国よ、栄えあれ」と変わり行く桜島の風景をじっと見つめる兵隊の姿。その胸のうちはどんな気持ちで一杯なのだろう?
天気晴朗なれど波高し。船団は5列ぐらいに先頭から並び、敵の待ち伏せや攻撃を避けるため「のじ運動」と呼ばれる、右に十五度、左十五度というジグザグ運転を始める。周りは駆逐艦が固め、時々駆潜艇が、速力を上げ船団の前に出たり後ろになたりして護衛する。

 



三十分ぐらいすると地平線の方からマストすれすれにゼロ戦が飛んできた。飛行士が手を振るのが見える。羽を左右に揺らせながらみるみる空の中に消えて行き忘れた頃また現れる。便乗海軍も前、横、後ろ、甲板と交替で見張りにつく。本船の海軍は船橋で厳重な見張りを続ける。水夫も一人ずつ交替で見張りをする。「これじゃあ、敵潜水艦もでれないだろう」と何も知らない私たちはのんきに話す。
お昼の準備のために賄いに行っていたら、交尾の方で大騒ぎしている。何事が起こったのかと急いで行くと、
「釣れた。釣れた」と叫んでいる。見ると大きな魚が遠くに飛び上がっている。
「沈んだら口が切れるからだめ」
「引け」
「いや、引くな」とおおはしゃぎ。
やっとのことで釣り上げる。
「シイラーだ」と誰かが言う。
「刺身で食うとうまいぞ」と喜ぶ。
「よし。今晩は刺身だ」と毛針を船の後方に流していた。
賄い長と機関長は暇だからいいなあとうらやましくなる。ぼろ船船団だからスピードが遅いところにきてジグザグ運転だから、魚を釣るには最高らしい。
夕食は刺身や吸い物などで、いつも文句を言う連中も今日はおいしそうに食べていた。田舎ではサンマかいわしぐらいなものだから、刺身など初めて見る。
生で食べるなんて気持ち悪く、とても食べる気にならないので誰かにあげた。私はみんながおいしそうに食べるのを不思議に見ていた。でも、吸い物はすごくおいしく何杯でも食べてしまった。
「早く後片付けをして、お前は八時から十二時まで聴音器に出てくれ」と言われ兵隊と交替する。
耳に当てて聞いたが、船団の雑音だけで、ただガーガーうるさく、
「こんなの物わかるもんか」と馬鹿にして聞いていた。
とても、長く感じ、嫌であった。舵取りを見たり、周りを見たりしたが夜は真っ暗でかすかに舵取りの人の羅針盤が見える程度である。
暗い海の中を針でも見つけるように厳重に見張っている。声も出さずに緊張しきって、危険がないか海面をにらんでいる。何だか今にも魚雷が飛んでくるようで恐ろしい。考えれば考えるほど何となく足がすくみような恐ろしさである。
時々、ジグザグ運転のため隣の船と衝突するかと思うほど近づき、あわてて舵を反対に取り、どうにかかわす事がある。
航海士がメガホンで
「馬鹿野朗、ちかづけるな」と怒鳴る。
十二時になると、
「怪しいものが見えた」とか
「変だ」とか次の見張り員に報告して交替する。
船底の機関部に当直として入る機関部の人達も、
「大丈夫か?」と聞きながらびくびくして入っていく。
中には浮き袋を持っている人もいる。いくら、浮き袋を持って行っても敵にやられたらどうせ助からないのに。
気の毒だと思った。
機関部が攻撃を受ければボイラーが爆発し、蒸気が噴出す。石炭を炊く火夫は釜の火をもろに被ることになる。
さらに上の方からは鉄の梯子とか色々なものが落ちてくる。電気も消えてしまうだろうから絶対助かる見こみはない。
昼間は上から飛行機で見ると敵潜水艦がよくわかるらしい。
しかし、夜はゼロ戦も帰ってしまうし暗やみでは視界も悪い。
夜中の十二時から四時は、「魔の地獄ワッチ」という。
敵潜水艦が船団の中に潜り込み、我が物顔に暴れ回る時間帯であるそうだ。よく、やられるらしい。
時々、機関部の人は甲板に上がってきては、「何か、変わったことはないか?」とか
「大丈夫か?よく、見張っていてくれよ。頼むぞ」と何度も念を押す。最後は祈るように訴える。
他の者は昼の疲れもあって、横になってしまえば危険も何もかも忘れてぐっすり寝入る。
そして夜が明けたとき、
「あー、無事であったか」とホッとする。さらにゼロ戦が飛んでくればもう安心である。
どの船も大波に揺られながらも懸命に走り続けた。
三昼夜危険海面を走り続けた朝、
「入港準備だ。忙しいから手伝え」と早くから起こされる。
荷役の準備を始めるため甲板に出ると、透き通るような海面でまるで鏡の上を走っているようなすばらしい風景が目に入った。
私はすっかり南洋だと思い込み、ソテツの木を見て
「椰子の木だ。椰子だ」と叫び、遠くに見える丸木舟を見て、
「土人だ、土人がいる」と叫んでしまった。
本当に遠くに来てしまったと思う。

 




水夫は急いで食事を済ませ出ていった。ガラガラと錨が下ろされる。すぐ、だるま船が引かれて来た。それに便乗兵隊が荷物を一杯持って乗り移り。無事上陸する。
また、甲板関係全員でまず上陸用舟艇(小型の船)を慎重にヘビデリックで吊り上げ海に下ろす。積む時よりは簡単に済んだ。
そのうち、今まで本船に乗っていて、さっき下船した設営隊が荷揚げのため再び乗って来た。年を取った田舎百姓は、荷役が初めてらしく可哀想に暑い中怒鳴られたり、殴られたりしていた。設備も悪く、海岸に丸太を組んで橋を架けジャッキやチェインブロックを使って、半日もかかりやっと一台自動車を陸に上げる。
困難な作業に上役の隊長は焦り怒鳴るが仕事は進まず、思う通りに行かなかった。
三日ぐらい過ぎた頃から少しずつ荷役も陸の人達もなれてきたのか、一台を一時間くらいで陸揚げできるようになった。
一週間以上も掛かり無事荷役が終わりホッと一息する。
そんな時、誰かが話しているのを聞く。
「ナンバースリー機関員はここで生まれたんだって。ここは鹿児島県大島郡というそうだ」
私はそれを聞いて、南洋だと思ってはしゃいだことに今さらながら赤面する。
「何だ。南洋かと思ったら大島か。友達にも自慢できない。笑われそうで話もできない。」
ここで南方から帰ってくる船を待ち、船団を組み返るらしい。
船での生活は毎日上半身裸でぼろのズバンをはき裸足である。着る物も手ぬぐいもない。
「ハイ。ハイ」と怒鳴られながらの食事の準備や後片付け、そして洗濯である。しかし、飯が腹一杯食べられるし、おかずもおいしいので何とか救われる。初めて塩辛が出たとき、こんな物食べられるかと吃驚した。
また八つ当たりで私が怒鳴られるかと心配したら、
「みんな結構うまい」と食べていた。
名前の知らない食べ物が多く、驚いてばかりである。カレーなども知らなかったからみんなに笑われてしまった。
「田舎ではバッタやコオロギを食べていたのか」とからかわれる始末である。
山も美しく、波も無く静かで箱庭にでも入ったような感じであった。外部との連絡も無く、時々水上飛行艇が飛び立つ練習をしていた。新聞、ラジオもないので何の情報も入らない。
四、五日間、暑いので泳いだりしてのんびり過ごした。そのうち、船がぽつりぽつり入って来た。機関銃二丁ぐらい取りつけて防備した漁船に海軍が乗っていた。輸送船の護衛する護衛艇らしい。鯨を取るキャッチボートなども海軍に徴用されていた。船首、船尾、甲板を大砲で武装した鯨船は、乗組員は全員海軍の兵隊で優秀な軍艦として活躍していた。
陸軍と海軍が仲が悪く、陸軍は陸軍で船を造り、陸軍の兵隊が乗り、陸軍の野砲で武装していた。たとえば、陸軍が上陸用舟艇などを持っていて、陸軍の兵隊がのるというように・・・・・・・・
「陸軍と海軍が仲が悪いため勝手に戦争しているんだ」と誰かが笑っていた。
船長が迎えに来た通い船で司令部に行った。
暫くしてから、帰るなり深刻な顔をして全員を集めて話しをする。
「司令部の話では、帰る船はほとんど攻撃を受けて無事に内地に帰れないらしい。しばらく危険な状況なので、攻撃されたとき怪我しないよう割れ物など整頓して置くように。身の回りの物にも注意し、いつ船がやられても大丈夫なようにして置くこと。みんなが無事帰れるように職場をまもってくれ」ということだ。
どうやらここを出ると敵潜水艦がうようよいるらしい。のんびり過ごしていたこの数日間がうそのようである。みんなの顔に緊張が走る。
次の日、駆逐艦、漁船の護衛艇、キャッチボートの護衛艦、そして南方帰りの貨物船5艘とともに内地に向け出港した。全員緊張し、夜・昼と見張りを続ける。
そのかいあってか、幸運にも敵の攻撃も無く無事軍港佐世保に入港する。

 

 



巡洋艦や駆逐艦など色々の艇や貨物船が入っていた。軍港は錨を下ろすことができず、浮きVに船を繋ぐのである。
錨のチェーンで繋ぐ仕事がよくわからず、どやされて大変であった。
兵隊が、「弾薬を取りに行くので誰か手を借りたい」と頼みに来たので、私は靴を借り水夫と一緒に山奥について行った。
途中検問が厳しく何回も調べられる。目的の弾薬庫に行くと「船に届ける」との事である。兵隊は「用事があるので海兵団を通り帰ってくれ」と言う。しょうがないから二人で町を通り海兵団入口に行く。銃剣を着けた歩哨が睨み付けるように立っていた。
見ていると兵隊達が歩調を取り敬礼して通る。どうしてよいか分からず、うろうろしていた末に、同じように敬礼して通ったら銃に剣をつけた兵隊に捕まり、こてんこてんにどやされたり、脅かされたりしてやっとの思いで船に戻る。とんだ災難である。
軍港は厳しいが設備が良く、信号の旗を上げると何でも補給してくれた。有難い事に海軍の帽子や水平服、それに地下足袋が配給になった。やっと靴が履けこれで安心して仕事ができる。まるで海軍の兵隊と間違えそうな服装であるが、たとえ真っ黒のぼろぼろズボンでも本当に助かる。おまけに石鹸、ちり紙、かりんとう、虫がついている羊羹でも最高のおいしさであった。大事にすこしずつ食べた。
当軍港では、艦隊勤務の水兵がてきぱきと動く姿が見える。艦砲を撃つ訓練など実に機敏である。
艦の整備をしたり、暇さえあれば手先信号や手旗信号の練習をしている姿が見えた。
朝六時にラッパが勇ましく鳴り、総員起こしである。各艦、一斉に甲板に並び体操。終わるとピーポー笛が鳴り水兵が甲板に並び、隊長がホースから勢い良く水を出す中、進めの合図で甲板洗いが始まる。
「力が入っていない。ケツが高い、低い」と水をつけたロープで殴られたり、蹴られたりする。三回こすっては進み、ピカピカと鏡のように磨く水兵の姿が目の前に見える。
八時、小さい魚雷艇に至るまで一斉にラッパによる軍艦旗掲揚である。
全員敬礼して旗に注目。それが終わってやっと朝の始まりである。
本船にも船に引かれて大勢の人夫と、艀(はしけ)、だるま船が横付けになり、荷役係の指示にしたがって、戦艦の大砲より大きい砲身砲台や機関銃や弾薬、それに戦車攻撃地雷など色々の軍事物資を積み始める。荷物には、北大東島とか南大東島守備隊行きと書いてあった。どの荷物にも天地無用、取り扱い注意、危険としたためてあった。爆発しないように静かに、慎重に積んでいた。
隣の沖のほうには日本郵船の浅間丸欧州航路の客船がデーンという感じに停泊していた。それほど雄大なのである。その大きさにみんな唖然としていた。
「どうせ乗るならあんな船に乗りたい。同じ船でも月とスッポンだ。本船は泥船だよ」と誰かが言っていた。
夕方になると軍艦旗が下ろされ、各艦船からはピーポーと笛が鳴り上陸員は整列し、ボートで上陸して行く。各ボートが競争して上陸して行く姿が見える。
暫くして外出した水平が帰り、消灯ラッパが鳴り一日が終わる。軍港は静かになるがパトロールは厳重に監視している。
次の日も軍の食料とか機械類を一杯に積みこみ、甲板にも軍用自動車のトラックを積んでいた。
三日間かかって荷役が終わる。今日は酒の配給があり、久しぶりに火夫や水夫達が一緒になり飲む。私達は、
「あれ持って来い。これ持って来い」と奴隷のようにこき使われる。
さらに酒に酔うと、湯のみ茶碗は壊すやら、鍋はたたいて曲げてしまうやらで滅茶苦茶である。片付けるのが大変である。
茶碗の代わりを貰いに行くと、「ない」と言われさんざん怒られる。
ベークライトの臭い茶碗をくれたがお湯を入れると、割れるのでどうしようもない。まったく、困ったものだ。
石鹸が配給になると山のような洗濯物を押し付けられる。
何の楽しみも無く、怒られてばかりの中にも救いはやって来た。
夕方、川島一等航海士が
「安藤にも、上陸させてやれ」と言ってくれた。しぶしぶだが許可が貰えた。
地下足袋を履き、海兵団を通り、検問所で荷物を検査され、銃に着剣を着けて監視している歩哨に軍属証を見えるようにし、歩調を取り敬礼したままで門を出る。それでやっと自由になる。しかし、海軍の新兵は上官を見るたびに敬礼をしなければならないから休む暇が無く可哀想である。
映画館に入ったら白い水兵服を着た兵隊で一杯であった。みんな、朝から晩まで上官に殴られ蹴られの毎日である。
映画館だけが誰にも気を使うこともなく落ち着ける場所なのであろう。つかの間の自由と平和の世界、流れる音楽を聴きいつのまにか安心したように眠っていた。
映画が終わっても食べたり飲んだりする店が無く、先輩達は遊郭に女を冷やかしに急いで行った。私はぶらぶらしてまた検問所を通り伝馬船で帰る。
次の日朝、忙しく片付けをして軍港を後に出港する。
三時ごろ、三池港岸壁に船を繋ぎ、石炭補給ハッチに山のように燃料の石炭を積んだ。
そして次の朝、いつものように起きて食事の支度をして、残り物を捨てようと下を見たら大きい雪だるまのような物が浮いていた。
何かと良く見ると、つなぎ服に革靴を履いてうつ伏せになっている。ぶくぶくに膨れているが明らかに人間である。
「ギョッ」とした。初めて土佐衛門というのを見た。すぐに報告に行く。
九時頃、警察が来て調べていった。前の船の無線士が酔っ払って落ちたらしい。
そんなことをあわれむ暇も無く、もうその頃は本船は忙しく岸壁を離れ出発していた。
沖に出ると相変わらず見張りに忙しい。沿岸であり、危険も少ないことから兵隊と水夫の二人ぐらいの見張りであった。
午後から私が見張りに立つ。波も穏やかで漁船や九州の山々が青々と見えた。気持ちが良い。
暫くすると零戦が長い吹流しをつけ飛んできた。敵機想定して、「パパパン」と機銃を撃ち、上になったり下になったりと訓練していた。
一晩過ぎた夕方、再び鹿児島に着き船団待ちをする。いつもと同じように兵隊を乗せた船、貨物自動車を積んだ船などが敵機に見つからないように竹の葉や木の枝でカモフラージュしていた。桜島は相変わらず煙をもくもく出していた。
次に日、また武官府から兵隊が来て消化講習や、万一機銃掃射を受けて水が入ってしまった時の応急手当の仕方、そして消火器の詰め替え方とかを指導して行った。仕事もせず講習ばかりである。 
四、五日すると続々と大きい船から千トンぐらいの小さな船まで集まってきた。また、鹿児島の港は賑やかになり、勇ましく感じる。
また船長が船団会議に行き、未明、黒い煙はき次々と港を後に勇ましく出る。本船は三十番目ぐらいである。
湾を出ると危険海面なので駆逐艦が前になったり後ろになったりして輸送船を守る。船は敵の攻撃の的を避けるためジグザグ運転をする。
いつ魚雷が飛んでくるかとみんな真剣に見張りを続ける。港を出てすぐに待ち伏せされて攻撃を受けた船もいるので警戒しなければならない。そのうち
「水平線に飛行機発見!」の見張りの声。
「対空戦闘用意。配置につけ」
「配置良し」
その時、空の彼方から零戦が羽を振り勇ましく飛んでくる。そして前方へ飛んで行きまた見えなくなる。敵への緊張感が張り詰めているとき、その姿は本当に頼もしい。
嬉しさにみんな帽子を取り声を出して夢中で手を振る。
忘れた頃またやってきてすぐ飛び去って行く。このように昼間は頼もしい見方がいるから良い。
しかし、一転して夜は地獄に足を踏み入れたようである。船は火薬で一杯だから一発食らったらもうおだぶつである。前回よりも数倍の緊張の連続である。
二晩ろくに眠らず、夕日が沈む頃、沖縄や南方行きの船と別れる。煙を出し遠ざかる船団を見ながら、
「今晩あたりやられるであろうか?」哀れ悲しく感じる。ただ、ただ無事を祈るだけである。
「あの船団は無事に目的地に着くであろうか?夕べは大丈夫であったろうか?」など案じながら、朝早く起こされ荷役準備に忙しい。甲板関係全員汗だくで仕事をする。飯をだべる暇がない。
忙しい中、荷揚げの兵隊がやって来た。重量物だから陸揚げが大変である。そのうえたいした設備もないのでもっと大変である。砲台を一門下ろすのに半日も掛かることがあった。舵取りや水夫が機械ウインチを交替でする。兵隊も前より少しなれていくらか良い感じなったが、相変わらずどやされたり殴られたりしている。
荷物は北大東、南大東と分けられ木帆船に積まれ次々輸送される。
やっているうちにだんだんと早くなり、一週間ぐらい掛かって無事陸揚げが終わった。
もし、途中で攻撃されて船が沈んだらこれだけの荷物が届かないことになる。そのために戦争に負けてしまうかも知れない。そう考えると輸送船の任務も重要なものであるとつくづく思った。
荷揚げが済むと船は鎖を上げて湾を出、島づたいに走る。
「見張りは安藤一人で良い」と言われ見張りに立つ。
島の山々が良く見え、本船と一緒にカモメがたくさん気持ちよさそうに前を飛んでいた。前方の湾入口に、攻撃された戦時標準型六千八百トン級が大きく腹を見せて陸にのしあげていた。哀れな姿であった。
「見張り解除」
船は湾に入り、目の前に大きな町が見えてきた。島で一番大きな名瀬港である。町から離れたソテツの木の茂る島独特の櫓の米倉は何か南国らしい感じで、戦争を忘れた平和のそのものであった。
荷役の準備をしていると、がやがやと眉が濃くて目のギョロギョロしている裸足のおじさん達が来た。何を言っているか全然わからなかい。まるで外国にでも来た感じである。そのうち材木のいかだがきて、船に積み込まれる。
学校が終わったのか、私と同じぐらいの子供たちがきゃーきゃー言って平泳ぎで泳いでくる。船から陸まではかなりの距離であるが、船の高い甲板から飛び込んだりとさすが島の子供たち、全然平気である。まったく感心させられる。子供たちとは何とか話しが通じるようである。話を聞くところによれば、学校でも靴は履かずみんな素足であるそうだ。なかなかたくましい。
次の日、名瀬港を後にまた島づたいに走る。再び町のある港に入る。そこは古仁屋港らしい。港には、良く似た形の船が停泊していた。誰かが
「武州丸だ」と指を指す。向こうも気づいて大声で手を振っていた。
「誰々が乗っている」とか、手旗信号で
「コンバンアソビニイク」などと話していた。
錨を下ろすと、すぐに三番船倉に荷物を積むとの事なので準備する。荷物は内地に疎開する人たちの箱に入った荷物やタンス、そのほか雑貨類で一時間位で終わった。ハッチを閉めその上にタイヤのないおんぼろバス二台に積み、急いで動かないようにワイヤーで止める。後片付けをして、明日の準備を完了させる。
その頃、同じ会社の武州丸には女性やランドセルを背負った子供、そして年寄りなどが、
「きゃーきゃー」言いながら乗り移っていた。
武州丸は台湾から来たらしい。後三日もすれば懐かしい内地に到着する。みんな張り切っているらしい。疎開の子供たちや母親達など全員は、暑いので、三番デリック(起重機)を中心にオールリングカバーを張り、風で飛ばないように回りを止めただけの仮テントのようなところで寝泊りするらしい。
三番船倉の上など、敵の攻撃を受ければ落とし穴に落ちるように船倉に落ちおだぶつになる危険な場所である。
しかし客船などないから貨物船で帰るより仕方がない。内地まで我慢してもらうしかない。
夕方武州丸では、先生か誰かが送りにきたらしく、だるま船と手を振り別れていた。本船からは、
「砂糖を貰ってきて明日お汁粉を食わせるから」と武州丸に伝馬船を漕いで大勢遊びに行っていた。
私は食事の後片付けをして疲れたので寝た。

 

 

「武州丸やられる」に続く