常総市の弘経寺に参拝した後、

厄除で有名な天台宗の別格本山 元三大師 安楽寺を訪れました。

この寺院は菅原道真を祀る大生郷天満宮の別当寺として

延長7年に、道真の子・景行により創建されたと伝わる古刹です。

江戸時代の初期には天海より慈恵大師良源が勧請され

江戸城の鬼門鎮護の寺院として庇護されました。

 

安楽寺には3つの参道があり、願い事により通る門が異なると言います。
東の参道には福禄門,南には長寿門,西には子安門があり、

各門をくぐり最後に、諸願成就門を通り元三大師さまにお参りをします。

 

◆子安門(西門)

◆安楽寺

茨城県常総市大輪町1番地

山号・・・正覚山

院号・・・蓮前院

宗派・・・天台宗

寺格・・・別格本山

開基・・・菅原景行

創建・・・延長7年(929年)

本尊・・・阿弥陀如来

【安楽寺の由緒】

当寺院の創建は延長7年(929年)菅原道真の子・景行が当地に移り住んだ際、父・道真を

祀る大生郷天満宮を勧請し、その別当寺として開いたのが始まりと伝えられています。

因みに同じく菅原道真を祀る太宰府天満宮(福岡県太宰府市)の別当寺院も同名の安楽寺と

称しています。

当初は古寺家に境内を構えていましたが戦国時代になった天正年間(1573‐1591年)に

北条氏と多賀谷氏との戦乱の兵火により堂宇が焼失、後に多賀谷氏によって現在地に移され

堂宇を再建し山号を正覚山に改め定海法印を中興開山の祖としました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで多賀谷氏は主家の佐竹氏と同様東西中立を保ったため

改易となり、庇護者を失い一時衰微しましたが、江戸時代になると上野の寛永寺から

元三大師を勧請、安楽寺は寛永寺の鬼門にあたることから江戸城鬼門除けの祈願寺として

幕府から庇護され、3代将軍徳川家光から寺領20石を賜ることになり、厄除けの寺院として

隆盛を極めました。

以来、関東の天台宗の名刹として寺運が隆盛し最盛期には末寺、門徒寺、塔頭など合わせて

60箇寺を擁していましたが、その後衰退し明治時代初頭には36箇寺、明治36年(1963年)

には28箇寺に減少しました。

近年まで壮麗な堂宇群が残されていましたが昭和30(1955年)の火災で本堂、客殿、庫裏

など多くの建物が焼失しました。現在ある堂宇の殆どはその後再建されたものですが

広大な境内は往時の名残が感じられます。

◆境内案内図

この寺院の寺域は約2万2千坪と広大です。

◆境内

表参道から歩いてくると長寿門が出迎えてくれます。

この門は寿命を延ばす門と云われています。

◆長寿門(南門)

長寿門には山号である「正覚山」の扁額が掲げられています。

◆長寿門 扁額

自然豊かな境内は時代劇やNHK大河ドラマ、映画などのロケに度々使われているそうです。

◆表参道

◆鐘楼堂

◆伝承「人柱お伽羅哀話」

昔、幾日も幾日も大雨が降り続いた年がありました。鬼怒川は増水し、河畔の村々では

皆が今にも決潰しそうな堤防を固唾をのんで見守って居りました。渦巻く濁流に全てを押し

流される恐怖心は募るばかりで誰も彼も為す術もなく天を仰ぎ無力感に襲われるばかりでした。
そんな時 誰云うともなく「龍神様に人柱をたてて怒りを鎮めてもらおう」と言い出しました。

その声は次第に広がり、誰を人柱にするかということになり、誰もすすんで人柱にたてようと

する人は居りませんでした。
人柱をたてるとは難工事の際荒ぶる神の心を和らげる為犠牲(いけにえ)として生きた人を

水底や土中深くに生き埋めすることであり、誰一人として愛しいわが子を人柱にはしたく

なかったのです。
その時何処からともなく「お伽羅を人柱にしよう」と誰かが言い出しました。お伽羅と云う

娘は諸国巡礼の母娘の二人連れで旅の途中常総市まで来た時母は病気で亡くなり、天涯孤独の

身となった娘でした。名主が境遇に同情し奉公人として養って居りました。

気立ての良いこころのきれいな娘でしたが、村人達は身よりのないお伽羅を人柱にしようと

したのでした。名主は反対しましたが他に代わりがあろう筈もなくとうとう賛成し人柱とする

ことが決まりました。嫌がるお伽羅を「皆の為村の為に犠牲になってくれ」といい

水中に投げ込んでしまいました。お伽羅は哀しい悲鳴と共に激流の中に没してゆきました。

やがて悲しい出来事も終わり村は水没することもなく家屋財産田畑何一つ失うことなく

人々は助かりましたが、一人として明るい表情を見せる人はいませんでした。

皆が罪の意識にさいなまれ、ある者は「川の中からお伽羅の泣き声が聞こえた」といい、

又村に疫病が流行りはじめると「お伽羅の祟りだ」と言って畏れました。
いつしか人柱にしたお伽羅の供養をしようということになり村中こぞって鬼怒川辺りで

お伽羅の霊を慰めました。村落の菩提寺でもあり此の地方の本寺でもある安樂寺に供養塔を

建ててお伽羅の菩提を弔いました。

疫病もおさまり平安な暮らしが戻るとお伽羅の供養のためとして「伽羅免」と呼ばれる

田畑をお寺に寄進し永代に亘り供養がつとまるようにとの村人の願いからでした。

ここにまつられる石塔は村人の改心と感謝の誠をあらわしたものと伝えられています。
優しいお伽羅の哀しい一生を思い遣り懺悔と慈悲の懇ろなる供養と末永き回向が勤められ

ますことを念じつつ
南無阿弥陀仏 南無妙法一心観心 合唱

◆お伽羅の供養塔

◆不動明王像

◆地蔵尊

数多くの映画、NHK大河ドラマ、ドラマなどの撮影に協力してきたそうですが、

主な大河ドラマは「新選組!」「功名が辻」「風林火山」「武蔵」「軍師官兵衛」、

ドラマでは「JIN-仁-」「陽炎の辻スペシャル」「輪違屋糸里~女たちの新選組~」

など多数あります。

石標には「元三大師慈慧大僧正深秘尊像出現之霊井」と刻まれ

手水舎には元三大師が出現されたと伝えられる権者井戸の水が引かれています。

◆手水舎と権者井戸

寺伝によると元三大師が出現されたと伝えられる井戸ですが

現在も枯れることなく湧き出しています。

◆権者井戸

南北朝時代、南朝方の重臣・新田義貞の側近の一人で、その勇猛な戦いぶりから

四天王の一人に数えられた篠塚伊賀守重広とその一族の供養塔です。

◆篠塚伊賀守重広一族供養塔

◆庫裡

東の福禄門,南の長寿門,西の子安門からそれぞれくぐり抜け

この諸願成就門を通り本堂、元三大師堂にお参りをします。

◆所願成就門

元三大師は、比叡山を中興した良源(慈恵大師)のことです。

良源は元旦から三日目に亡くなったことで元三大師と呼ばれるようになりました。

「おみくじ」の元祖ともいわれ、生前に描かせたという鏡に映った自身の姿が

厄除けの護符(御札)などとして各家庭で祀られる慣習があります。

  

所願成就門をくぐると正面に元三大師堂があり、左手に本堂があります。

◆本堂前境内

元三大師堂の両側にある蝋梅が咲く季節になると甘い芳香に包まれます。

◆本堂

良源(慈恵大師)は、正月三日が命日であることから、元三大師の通称で親しまれ

天台宗の多くの寺ではだるま市が行われます。
当寺院でも毎年1月3日に護摩供養が行われ、開運の福ダルマを求める参拝客で賑わいます。

左から如意輪観世音菩薩、不空羅索観世音菩薩、准胝観世音菩薩、 十一面観世音菩薩、

馬頭観世音菩薩、聖観世音菩薩、千手千眼観自在菩薩。

◆七菩薩像

◆伝教大師像

◆本坊常行院

良源(元三大師)を祀っている元三大師堂です。

◆元三大師堂(慈恵大師堂)

元三大師堂の左手に如意輪観音菩薩像があり、その左奥に日吉山王権現廿一社があります。

◆元三大師堂から所願成就門を望む

◆福禄門(東門)

京極高通、小一郎父子の墓、親子如意輪観世音像があります。

◆旗本高家京極家墓所

◆表参道 南門

御朱印は本尊の「阿弥陀如来」さまと「元三大師」さまの2種類をいただきました。

◆御朱印

  

◆安楽寺周辺マップ

<参考文献>

・安楽寺公式ホームページ

・現地案内看板およびパンフレット

・ibatabi.com

・常総市観光物産協会ホームページ

・ウィキペディア