今回は、茨城県常総市に鎮座する『大生郷天満宮』を紹介します。
菅原道真の遺骨を御神体とし、遺族によってお祀りされたのは
『大生郷天満宮』だけであることから、「太宰府天満宮」「北野天満宮」と共に
日本三天神の1社に数えられ、〝御廟天神〟とも云われています。
境内の裏手が神苑として整備され「菅原道真公御廟所」が置かれています。
日本各地に菅原道真を祀る神社が一万余社あるといわれる中で
関東以北の天満宮では最古のものと伝えられています。
前回のブログで紹介しました『安楽寺』は
当天満宮の別当寺とされ、守護するために建立されたと云われてます。
◆社号標と一之鳥居
◆大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)
茨城県常総市大生郷町1234
【社格等】
村社
【ご祭神】
●菅原道真(すがわらみちざね)・・・天神様、学問の神様、平安時代の貴族・学者・政治家
【大生郷天満宮の由緒】
当天満宮は、延長7年(929年)菅原道真の第三子菅原景行によって創建されました。
景行は延喜3年(903年)2月25日九州太宰府に没した父・道真の遺言により、
家臣数人を伴い、遺骨を奉持し諸国を遍歴すること二十有余年、延喜4年(926年)
現在の真壁町羽鳥に一旦は祭祀するも、3年後の延長7年(929年)当時飯沼湖畔に
浮かぶ島(現在地)を、道真が永遠に鎮まり給う奥都城と定め、羽鳥の墳墓を廃し、
弟等と共に遺骨を奉遷し、祭祀されました。
日本各地に道真を祀る一万余社の神社がある中で、遺骨を奉祀し、遺族によって
創建されたのは当天満宮唯一であることなどから日本三天神の一社に数えられています。
当天満宮は、天正4年(1576年)、大正8年(1919年)と二度の火災で多くの
社宝・古文書などを失いましたが、現在「御鏡天神画」「御神酒天神画」「御南天神画」
「三十六歌仙画」「北野天神縁起絵巻」「十一面観世音菩薩画」などの茨城県及び
水海道市指定文化財を保有しています。
ご祭神である菅原道真は、天神大自在威徳天神と崇められ、「願うて叶わざるものなし」
とされ、「全能の神」とされ気宇広大の御神威を示され、特に「学問」「子育」
「人生教訓」「技芸」の守護神として、多くの人々に崇敬されています。
◆参道の男坂
◆二之鳥居
◆狛犬
道真の遺言は「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、
地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と書かれていました。
天満宮が大生郷に遺骨を祀られたときの石碑です。
◆刀研石
◆手水舎
御祭神である菅原道真の誕生日が丑年、丑日であったと伝わることから、
天満宮では牛を眷族(神に仕える動物)とされてきました。
◆御神牛
社殿は天正4年(1576年)の兵火により焼失され、下妻城主多賀谷氏の援助により
再興されましたが、大正8年(1919年)再度の火災により社殿は焼失してしまいました。
現在の社殿は昭和30年(1955年)に再建されたものです。
◆拝殿
さざれ石は、国家「君が代」に詠まれている事で、その名を知れ渡っております。
学名を石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)と云います。
これは、石灰石が長い年月の間に雨水で溶解され、その時に生じた粘着力の強い
乳状液(鍾乳石と同質)が、少しづつ細石を凝結して巌(いわお)となったものです。
その形状はまさに、強固団結の精神を意味し、家庭も企業も心を合わせれば、
絆が深くなり、千代に八千代に末長い繁栄と幸福を呼ぶ、めでたい石であります。
◆さざれ石
◆拝殿 扁額
◆社殿
浄土真宗の開祖である親鸞上人が布教巡礼の際、お手植された杉と伝えられています。
明治35年(1902年)の台風で木が折れ、大正8年(1919年)の社殿炎上で類焼しました。
◆親鸞上人礼拝の杉
この碑は、つくば市に鎮座する蚕影神社(蚕影山神社)のことでしょうか。
◆蠶影山神社
◆日露戦役紀念碑
明治44年(1911年)に発見された桜川市真壁町羽鳥の歌姫神社にあった石碑と
大生郷天満宮の石碑は、共に今日では碑文を判読できなくなっていますが、
菅原景行が羽鳥の地に菅原神社を建立し、後に景行・兼茂・景茂の三兄弟が神社を
大生郷に移したことが記されていたと云います。
◆慰霊碑
◆稲荷社
この本殿は昭和4年(1929年)に再建されたものです。
◆本殿
◆庚申塔
左側から春日社、熊野社、八雲社、香取鹿島社です。
◆境内社
◆社務所
こちらの授与所で御朱印をいただきました。
◆授与所
◆絵馬掛け
御朱印には菅原道真が愛した、梅の印が描かれています。
◆御朱印