昨年12月に大洗へ〝あんこう鍋〟を食べに行ったとき

常総市の社寺を周りました。

「一言主神社」に参拝した後に訪れたのが『弘経寺』です。

 

茨城県に『弘経寺』は3ヶ寺あり、取手市白山弘経寺、常総市飯沼と結城市にあります。

常総市飯沼にある『弘経寺』は、

徳川家ゆかりの寺院で、浄土宗大本山増上寺別院になります。

徳川秀忠の子で、豊臣秀頼に嫁いだ千姫の墓があることで有名です。

江戸時代には浄土宗の僧侶養成機関である「関東十八壇林」としても栄え

十八壇林の中でも上位に置かれた寺院です。

 

◆寺号標と山門

◆弘経寺

茨城県常総市豊岡町甲1番地

山号・・・寿亀山

院号・・・天樹院

宗派・・・浄土宗

開基・・・嘆誉良肇(たんよりょうじょう)

創建・・・応永年間21年(1414年)

本尊・・・阿弥陀如来

【弘経寺の由緒】

当寺の正式名称は「寿亀山天樹院弘経寺」と称し、応永21年(1414年)増上寺を開山

した聖聡の弟子だった嘆誉良肇により創建されました。

室町時代には関東の浄土宗の中心寺院として栄え、多くの学僧を世に送った有力寺院でした。

天正5年(1577年)壇越常陸下妻城主多賀谷氏と小田原北條氏の合戦に巻き込まれ

多賀谷重経が弘経寺に陣を張ったために、戦火で堂宇を焼かれましたが、9世壇誉存把は

下妻に逃れ、後に徳川家康の次男結城秀康の帰依を得て結城に弘経寺を再建しました。

そのため弘経寺は寺院活動の停止を余儀なくされましたが、家康からも信仰されていた

10世照誉了学の代に寺院再興の時期を迎えます。

了学は、徳川三代(家康・秀忠・家光)から帰依、厚遇され特に家康の孫にあたる千姫は

了学に帰依し、弘経寺を菩提所に定め、再建に多大な寄進をしました。

そのため、江戸時代には紫衣壇林として十八壇林の中でも上位に置かれる寺院になりました。

千姫の御殿を移築した壮麗な大方丈は明治39年(1906年)に灰燼に帰しますが、

天樹院殿御廟(千姫の墓所)や遺品、そしてゆかりの品々は、往時の風格を現代に伝えています。

現在、山門は解体されてありませんが石畳の参道の正面に本堂があります。

◆薬師堂

◆弘法大師像

◆地蔵尊

春は桜のお花見スポットしても人気があり、

秋は彼岸花(曼珠沙華)の名所としても有名だそうです。

◆参道

境内には〝落葉アート〟が施されていました。

参道の両側に落ち葉で文字が造られていました。

「日本」の次にあった文字は数字の「17」でした。

そして開山堂の前に「大谷」と書いてあるのが直ぐにわかりました。

◆宗運の貉(むじな)伝説

境内に「来迎杉(らいごうすぎ)」と呼ばれるひと際大きな杉があります。

当寺院2世の了暁(15世紀中頃)の頃の話と伝えられますが、弘経寺で修行中の多くの

僧の中に宗運という名の勉強も熱心で、大変優れた若者がいました。

機転に富み、歌や踊りにも巧みであったため、毎年の開山忌の法要の後には彼とともに

歌や踊りに興ずることを僧たちも村人たちも楽しみしていました。

ある年の開山忌の日、徹夜の法要に疲れた宗運はひと休みのつもりが前後を失い、

深く眠り込んでしまいました。了暁が宗運の眠る部屋を通りかかると、

あろうことか宗運の尻に尾を見つけてしまいました。宗運の正体は狢(むじな)だったのです。

獣の身でありながら僧になりたいという宗運の心根を愛でた了暁は着けていた衣でそっと尻尾を

隠し、その場を立ち去りましたが、わが身の不覚を恥じた宗運は寺を立ち去る決心をした。

寺の皆に別れを伝えた宗運は、境内の杉の大木に登りこう言いました。

「私はこの杉の梢に御来迎を願い、これを受けて極楽浄土に行きたいと思います。

でも、弥陀が現れになられても、どうか御名号を唱えないで下さい。

どうぞ南無阿弥陀仏といわない下さい・・・」沈黙の時が流れ、

やがて大杉の梢には瑞雲がたなびき、阿弥陀仏の御来迎が訪れました。

そのあまりの尊さに人々は宗運の言葉も忘れ、手を合わせて南無阿弥陀仏・・・と唱えます。

その時です。光は雷に変わり、これに打たれた宗運は東の空へ向かい遠く飛ばされました。

数日後、川の畔の村に一匹の狢の死骸が流れ着きます。これこそが雷に打たれ飛ばされた宗運の

亡骸であり、鬼怒川に落ち、小貝川へと流れ、たどり着いたものでしょう。

宗運の流れ着いたこの岸辺はこれ以降、「狢淵(むじなふち)」の名で呼ばれることとなります。

現在のつくばみらい市狸淵です。そして、境内の杉の大木にも『来迎杉』の名が付けられ、

その傍らに建てられた小さな祠には、宗運が自ら彫ったとされる面が納められたと

寺伝は伝えています。

◆来迎杉(らいごうすぎ)

◆宗運堂

◆開山堂

経堂内部には経典を収める輪蔵(回転文庫)が残されています。

八角形を示し、軒は二重扇垂木、腰回りは五手先の腰組を設けております。

中央には心柱を入れ、全体が回転するように考案されています。

◆経堂

参道の両側に落ち葉アートが続いていました。

文字ではなくクリスマスツリーのようです。

CO2 STOPの文字もありました。

この寺院の手水舎では、亀の甲羅から「手水」をいただきます。

これは「良肇上人と飯沼の亀」の伝説が基になっています。

◆手水舎

◆飯沼の亀伝説

当寺院の開山である嘆誉良肇は、境内地選定のおり三猿が現れその勧めに従い

ここを選びました。この地は、東に「鬼怒川」が流れ、西には「飯沼」があり、

北に鬱蒼とした山林の広がっている適地です。

四方を谷が巡り、まるで〝亀の甲羅〟のような地形であったため

「亀島山」と号しましたが、その時、飯沼の主である大亀が現れ

「この土地は私のものである。すぐに立ち去ってほしい」と告げられました。
とりあえず、良肇からの「十年間土地をお借りしたい」の願いが叶えられましたが、

10年後、この大亀が再び現れ、土地を返すように求めてきました。

が、良肇は借用書に一線を加えて「千」としたため、亀は何も言わず立ち去ったといいます。

良肇はこの後、山号を「寿亀山」と改め、この亀の徳を讃えたといわれています。

◆手水鉢(飯沼の亀)

◆地蔵尊

寛永6年(1629年)、当時徳川幕府の要職にあった古河藩主・老中土井利勝が

普請奉行を勤め再建された本堂は平成20年(2008年)に改修されました。

◆本堂

本堂は、桁行十一軒、梁間八軒、入母屋造の建物で、内陣は江戸初期の寺院建築の粋を極め、

豪華な仏具、釘隠など金具、調度品の隅々に至るまで徳川幕府の威光が感じられます。

徳川家の家紋が随所に散りばめられ向拝には見事な彫刻が施されています。

◆向拝

 

正面入口の扉は、文化6年(1809年)に描かれた「寿亀山元建図」の境内配置図にも

残されており、本堂が改修された折に付け加えられたそうです。

◆本堂 扁額と扉

境内は長閑な雰囲気に包まれていました。

◆本堂から山門を望む

良肇により僧侶の教育に力が入れられ、

2世の松平氏宗家4代松平親忠開基の大恩寺開山良暁慶善、3世の曜誉酉冏、

徳川将軍家菩提寺大樹寺開山の勢誉愚底、知恩院22世周誉珠琳、

松平氏宗家3代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏などが輩出されました。

◆書院

◆百万遍念仏供養塔

◆水子供養地蔵尊

千姫は落飾したときより当寺を菩提寺と定めており、本堂左手奥に千姫御廟があります。

当寺には遺髪が納められたとされていましたが、平成9年の保存修理により、

これまで伝えられてきた遺髪ではなく、遺骨が納められていたことが判明しました。

◆千姫御廟

千姫が亡くなった夜、曾祖母・於大の方の菩提寺である小石川伝通院に納められ、

導師・知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。

墓所は伝通院と当寺にあり、また徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた

浄土宗の総本山である京都の知恩院に分骨され宝塔に納められました。

知鑑は後に位牌や遺物を祭るため、伊勢に寂照寺を開きました。

戒名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。

当寺10世了学の時代に、徳川家から、本堂、鐘楼などに莫大な寄進がなされました。

◆天樹院 千姫

徳川家康の孫である千姫は、第2代将軍秀忠の長女として慶長2年(1597年)伏見で誕生。

7歳で豊臣秀頼(11歳)の妻となりましたが、元和元年(1615年)の大阪夏の陣では、

夫の秀頼とその母・淀君の救命嘆願に出城するものの、果たせずに二人は自害してしまいます。

その翌年、30歳の時に本多忠刻のもとに再嫁しました。

勝子姫と幸千代の二児に恵まれ、姫路城で平穏な日々を過ごしました。

ところが寛永3年(1626年)、夫・忠刻と長男・幸千代を病に没してしまいました。

失意の中、当時30歳の千姫は江戸城に戻り、落飾して天樹院と称しました。

その戒師をつとめたのが、深く帰依しておりました弘経寺第10世照誉了学上人(後の

増上寺第17世)です。千姫は弘経寺が荒廃しているのを知り、多大な寄進を行いました。

時は、弟の3代将軍家光の時代でしたが、千姫は家光から尊敬と信頼を受け、

家光の子・綱重の母代となっています。また秀頼と千姫の間には子はありませんが、

秀頼には庶出の子が2人いました。男子は幕府の手により幼くして世を去りましたが、

女児は千姫が命乞いをし、のち鎌倉の東慶寺へ送り門跡・天秀尼となりました。

しかし天秀尼は比較的早く世を去り、豊臣家の正統は絶えてしまいました。

千姫はその後、江戸城北の丸、竹橋で70歳の天寿を全うし、その波乱に満ちた生涯を閉じました。弘経寺には千姫の貴重な足跡が残されています。

◆千姫御廟

弘経寺はお留守でしたので御朱印はいただけませんでしたが

境内の隣に神社が鎮座していました。神宮寺になるのでしょうか。

弘経寺

鳥居の正面にあるのが琴平神社です。

琴平神社の左側にあるのが延命稲荷神社です。

琴平神社の右側にあるのが八幡神社です。

八幡神社の脇に金村別雷神社、大杉神社などの茨城県内にある神社が

境内社として鎮座していました。

◆弘経寺周辺マップ

<参考文献>

・弘経寺公式ホームページ

・現地案内看板およびパンフレット

・トラベル.jp

・ウィキペディア