旧東海道逢坂越え(7)より

 

前回より「鉄色」が強めになってきて、旧東海道と言う江戸時代を感じさせる話はどこかに行ってしまってます(汗)。

 

旧逢坂山ずい道東口

 

という状況下で寄り道したのが、「旧逢坂山ずい道東口」との看板が掲げられた場所です。西口については、(5)で紹介した通りです。

 

なんで西口の表記が「旧東海道線 逢坂山とんねる跡」で、東口が「旧逢坂山ずい道東口」と異なるんでしょうね。前者が旧日本道路公団が、後者がJR西日本が設置したから?前者が昭和に、後者が平成に設置したから?

 

そういうことは気になるけど気にしないように頑張って(?)、設置されている案内板の説明に眼を通します。

 

 

説明によると旧逢坂山ずい道は、明治11年(1878年)に東口、遅れて西口から掘削を始めたそうです。明治維新から10年ちょっとで、日本人の技術者・技能者が主体となってずい道竣工できたことは、鉱山掘削の技術があったとはいえ、すごいことだと改めて感じます。

 

あと、明治11年といえば大久保利通が暗殺された年でもあり、以下の記事で取り上げたアニメーション主人公たちが活躍した年になるようです。

 

 

主人公達が京都に向かった頃は、ずい道はまだ竣工前だったかもしれませんね。彼らが東海道通っていたら、工事現場見ていたのかも。・・・ちょ、アニメは架空の話だったはず

 

ずい道観察

 

ずい道を真正面より鑑賞します。2015年3月の訪問時画像を使ってます。今回(2022年5月)は季節的に、伸びた木々の枝葉でずい道の一部が隠れてしまったためです。

 

 

茶色い“妄想線”(謎)を書き入れてみました。こんな感じで線路があったのかも

 

右側のずい道は閉じられますので、左側のずい道を観察します。

 

 

左側も入坑後すぐ先で閉じられていますが、少しだけでもずい道の雰囲気が味わえるようになってるのは嬉しいです。

 

坑門上部にある扁額には『楽成頼功』の文字は時の太政大臣である三条実美の揮毫と先の説明板に記されていて、更に「落成」の“落”が“落盤”に通ずる忌み言葉とされ、縁起の良い「楽」を用いたとも記されてます。

 

幸い落盤があったような話は伝わっていませんが、約80年後に名神高速工事で西口を破壊されたのは残念だったかもしれません。

 

坑門内に入ります。

 

 

ドアの向こうに行ってみたいような(笑)。

 

ここは現在「京都大学 防災研究所 付属地震予知研究センター 逢坂山観測所」になっているそうで、京大の広報物でも紹介され閲覧することができます(2023年5月現在)。

 

そおっと歩かないと地震計に反応されてしまう?(爆)

 

妄想が続く

 

地図を掲載するのを失念してました。

 

 

地図左下に拡大図を入れてますが、「←ずい道東口」の所に今立っています。

 

ずい道で振り返り、鉄道がずい道を出た先の風景を確認します。

 

 

また「妄想線」が入ってます。真正面にあるビルへ向かってます。

 

ビルの近くには、これまた有名な鉄道の遺構が残っています。ずい道見学に満足したことからここを後にして、ビルのある場所へ向かいましょう。

 

ビルの麓につきました。

 

 

ビルの基礎に当たる部分に、煉瓦の橋台跡が残っています。先の地図に「煉瓦橋台跡(ビル)」と書き入れています。

 

今立っている場所は旧東海道に当たる県道で、並行して京阪電車も走っている所です。それらを跨ぐ鉄橋があったと思われます。その「妄想線」を画像に書き入れてます。

 

ちなみにずい道が竣工された1880年には京阪電車は走っておらず、1912年に立体交差を完成させたうえで京阪電車が通るようになったとのことです。(Wikipedia先生の情報

 

この後線路は現在の大津駅に向かったのかと言えばそうではなく、現在の国道1号とほぼ同じ場所を通って、現在の膳所駅(当時の大津駅)へ向かったそうです。下のページで話題にしてますので、お時間ありましたらご覧ください。

 

 

さて、いい加減に旧東海道の話に戻さないと(汗)。

 

では、大津市街地の中心部へ向けて旧東海道を歩みましょう。

 

 

次回、上記画像のすぐ先で、前回紹介した神社へ立ち寄ります。そこでこのシリーズは終了予定になります。

 

旧東海道逢坂越え(9)

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