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自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

染めと織の万葉慕情49

  麗しき姿 (1)

   1983/03/18 吉田たすく

庭のサンシュの黄色な花も満開になり、桜前線も南から近づきます。 時おり雪がちらつきますが、もう春です。

 竹取の翁の話の続きですがも春、青春のころの衣服やスタイルが詠われています。

水標(みはなだ)の 絹の帯を 引き帯なす 錦帯に取らせ 海神(わだつみ)の殿の甍(いらか)に 飛びかける すがるのごとき 腰細に 取り飾らひ まそ鏡 取並(な)め掛けて 己(おの)が顔 かへらひ見つつ 春さりて 野辺を巡(めぐ)れば おもしろみ 我を思へか さ野つ鳥 来鳴き翔(かけ)らふ

 高貴な美男子の着こなしが、細かく描かれているのがおもしろいです。

 先週は二色綾織の靴下に、黒のうるしの革靴をはいて庭に立ったところでしたが、それを見ていた乙女が私にくれた帯です。水とはうすい藍色で、すでに藍染の布があったのです。その薄青色の絹の帯を引き帯みたいにして、朝鮮半島から来た舶来の帯にとり付けては、海の宮殿の屋根に「飛びかはす、すがるのごとき細腰につけて飾って」

 すがるとは、じが蜂の事で、蜂の腰は大変細いでしょ。

 そのように、ウエストを細くスタイルよく帯をきゅっとしめて取り飾るというのです。現代のスタイルは、ウエストを細くヒップの形よくはったのが喜ばれますが、万葉の当時の乙女の姿も同じ事を詠った歌があります。ところが翁は男です。

 当時のハンサムは、乙女と同じ細腰をよしとしたのでしょう。翁は自分の青年時代の姿をこのように表現しているのです。

 その麗しき姿を鏡で見るのです。「まそ鏡取り並め掛けて」というのですから、今でいう三面鏡のように前、左右も見られるように鏡を並べて、自分の顔をためつすがめつながめ見たのでしょう。春ともなって野辺をさまよえば、風流だ、粋だと私を思ってか、野のキジまでも来て鳴き、まわりを飛びかっています。

 そのようだから、乙女達はもちろんの事、私のまわりに寄り集まって来たというのです。なんとも、竹取の翁の若いころのベストドレッサーぷりがうかがわれて来ます。

                        (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 …………………………

『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 これは新聞の切り抜きしか残されていず、古いもので読みづらい部分もあり、一部解説や余話を交えながら私が読み解いていきます。

 尚このシリーズのバックナンバーはアメーバの私のブログ 「food 風土」の中のテーマ『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

https://ameblo.jp/foo-do/

 …………………………

吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいます。

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

#染めと織の万葉慕情 #たすく織 #吉田たすく #倉吉市×#酒 #染織 #万葉集

染めと織の万葉慕情48

  春の歌(2)

   1983/03/11 吉田たすく

 

 この前の文に「庭のサンシュの木の枝に黄色なつぼみがふくらみ」と書いたつもりのサンシュが、ミスプリントでユの字に一本加わってサンショになってしまって、サンショにどうして黄色いつぼみがつくんだ、という指摘をうけて大わらいしましたが、あれはサンシュのつぼみの事でした。そのサンシュのつぼみも、この一週間の春雪に降られる寒さにもかかわらず、五分咲に明るく開きかけて来ました。 この花が満開に近くなると、今度はレンギョウの黄色い花がじゅずつなぎに開き、一日一日と春色を濃くして行きます。

 さて、竹取の翁の歌のつづきですが、このたびは翁の華やかな少年時代に、こんなにあでやかで華麗な衣服を着た事をならべつくして女の子に大変もてた事を詠うのです。

 さ丹(に)つかふ 色なつかしき紫の 大綾の衣 住吉の遠里小野のま榛もちにほしし衣に 高麗錦 紐に縫ひ付け 刺部重部 なみ重ね着て打麻やし麻績の子ら あり衣の宝の子らが うったへは緑(へ)て織る布 日ざらしの 麻手(あさて)作りを 信巾裳(ひらみ)なす 脛裳(はばき)に取らし 若やぶる 稲置娘子(いなきをとめ)が 妻(つま)どふと 我(わ)れにおこせし

 赤みがかったいきな色合の紫の派手な模様で、住吉の遠野小野というところの榛(はん) の木で染め上げた衣に 高麗錦(舶来の上等なにしき)の紐を縫いつけて重ね着をし、なおその上に麻績ぎの子や財部の子らが、打って作った糸を機にしかけて織った布を水につけ、日によくほして仕上げた。麻の手織の布をス・トールにかけたり、また・スカートにはいたように可愛らしく着こなしたものだ。 またいつも御殿で生活している稲ぎ乙女が、私に求婚のために送ってくれた。

 靴の話も出て来ます。

 おちかたの二綾下沓(したくつ) 飛ぶ鳥の飛鳥壮士(あすかおとこ)が長雨いみ縫ひし黒沓(くろくつ)さしはきて庭にたたずめ退(まか)な立ちと障(さ) ふる乙女がほの聞きて

 舶来の二色の綾織の靴下をはき、飛ぶ鳥のアスカの村の靴作りの名人が長雨の日をよけて縫い、黒漆をぬって作った革靴をはいて庭にさまよっていると、「庭に立ってないで帰りなさい」と母に邪魔にされた女の子がほのかに耳にして…..

 革靴をはいた美少年の姿がうかがわれておもしろいものです。当時の服装は、ちょうど現代の形によく似ています。

    (新匠工芸会会員、織物作家)

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいます。

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#染めと織の万葉慕情 #たすく織 #吉田たすく #倉吉市×#酒 #染織 #万葉集

染めと織の万葉慕情47

  春の歌(1)

   1983/03/4 吉田たすく

 

 先週、先々週の歌は、伯耆の国府(倉吉)で憶良が作ったではなかろうか、と私が思った貧窮問答歌でした。ちょうどこの二週間は、東京での「たすく手織展」のため東京へ行き、この間東京にも雪が降ったりして寒い日が続きました。昨日、倉吉に帰ってみますと、行く前は細い小枝に小さな黒い粒が点々とあった庭のサンショの木の枝には、明るい黄色なつぼみがふくらみ、もう春なんだよと言ってるようです。

 寒く貧しい生活の表現の媒体に染織品のぼろを使って作った憶良の歌とは対照的に、春のように華麗ではなやかな染織品をならべて高貴優雅な生活を詠った歌があります。 春らしくこの歌を送ります。大変に長い長歌ですが、その前にこの歌を作った解説がのっているのでその前文を(小学館の古典文学全集により) のせてみます。

 昔、竹取の翁(平安時代の竹取物語とは違います)が春の丘に登り見晴らすと、にぎやかにご馳走を煮ている九人の花のようにうるわしい美女に出会います。 美女たちはからかい気分で言うには「ここに来て火を吹いておこして下さいな」。ニコニコつつき合いながら言うには「誰なのよ、このおじんを呼んだのは」と馬鹿にします。答えて言うには 「思いもかけず美しい仙女さまにお目にかかり、とまどっている心をどうすることもできません。なれなれしく近づいた罪は、できれば歌で償わせていただきます」と前おきして、歌を詠うのです。 からかわれたしかえしなのでしょう。 年とって今は醜い自分ではあるが、若いころにはこんなにぜいたくで豪華な生活してたんだ、と言う事を身につける衣料衣服で詠いあげるところが見どころです。

「みどり子の 若子髪には たらちし 母に懐(いだ)かえ 紐繦(ひむつき)の 平生(はふこ)が身には 木綿肩衣(ゆふかたぎぬ) 純裏(ひつら)に縫(ぬ)ひ着(き) 頸着(うなつき)の 童子(わらは)が身には 夾纈(ゆひはた)の 袖着衣(そでつけごろも) 着しわれを にほひ寄る 児らが同年輩(よち)には蜷(みな)の腸(わた) か黒し髪を ま櫛もち ここにかき垂(た)れ 取り束ね 上げても巻きみ 解き乱り 童(わらわ)になしみ」…..

「赤ん坊の赤子頭のころは(たらちし) 母にい抱かれ紐付の衣をまとい、幼児髪のころは絹綿のちゃんちゃんこを一つ裏に縫って着、丸襟の少年髪のころは、しぼり染の袖付け衣を着ていた私が、輝くばかりの、皆さまがたと同じ年ごろには、真黒な髪をで解いてここらまで垂らし、取り束ね上げてまげを結ってみたり、解き乱して少年姿にしてみたりして」とつづきます。これから青年の派手な衣服が詠われて来るのですが、 クライマックスは来週にまわします。

    (新匠工芸会会員、織物作家)

 

#染めと織の万葉慕情 #たすく織 #吉田たすく #倉吉市 #染織 #万葉集 #山上憶良 #染織家 #新匠工芸会

染めと織の万葉慕情46

  憶良の貧窮問答歌(2)

   1983/02/25 吉田たすく

 先週に続いて、伯耆の国庁に来ていた山上憶良の貧窮問答歌を取り上げてみます。 万葉当時の貧者の生活が、写生風に詠まれているので興味深いものです。この歌は貧者と窮者の問答で、かなり長い長歌です。本文と訳文をならべると紙面が足りませんので、岩波の文学大系の訳文をのせてみます。

 貧者が問います。風に雨や雪をまじえて降る夜、寒くて固い塩を取っては糟湯(かすゆ)をすすり、咳をしては鼻をぐすぐすさせ、少しばかりの髯を撫でては、自分を置いて能ある人間はあるまい、と大いにうぬぼれてはいるのだが、寒さは身にこたえるので麻の夜具をひっかぶり、布肩衣(麻の粗末な袖なし)をありったけ着てもまだまだ寒い夜なのに、自分よりも貧しい人の父母はおなかがすいて、こごえて、妻や子は力なく声を立てて泣いている。こんなとき、お前はどんな暮しをしているのだね。

 窮者は答えて。 天地は広いが、自分のためには狭く身のおきどころがなく、太陽や月は照れども自分のためには照って下さらない。この世は闇だ、だれもがこんなのか、自分だけなのか。

 人間に生まれ耕作をしているけれど、綿もない袖無も海草のみるのようばらばらにやぶれてぶら下がったボロはかり肩に打ちかけて。

 つぶれた、傾いた家の中に、土にじかにわらをばらまき敷いて父母は上座の方に、妻子たちは足の方にすわっては嘆き悲しみ、かまどには湯気も立てず、米を蒸す器にはくもが巣作って飯をたく事も忘れ、ほそぼそ小鳥のように嘆いている時、短い物を切り縮めるようにむちを持った村長めが、寝床まで来て年貢を出せとわめきちらす。 こんなにもつらいものか、世の中に生きる道とは。

 染織品のぼろの言葉で、貧者の生活を表現しています。 伯耆でこの歌を作ったとは書かれていませんが、国庁跡のあたりを歩いていると、この地で作った歌のように思われるのです。

 山上憶良は、このような歌のほか、子を思う歌

 瓜食めば

  子供思ほゆ

    栗食めば

  ましてしぬばゆ

  いずくより

来たりしものそ

眼交(まながい) に

もとなかかりて

   安眠し寝さぬ

 銀も金も玉も

 何せむに

  勝れる宝

   子にしかめやも

 などの歌があります。

 これらを見ますに、身近な人たちへの思いやりの深い人であったとうかがえます。

                 (新匠工芸会会員 織物作家)

 

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 これは新聞の切り抜きしか残されていず、古いもので読みづらい部分もあり、一部解説や余話を交えながら私が読み解いていきます。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいます。

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

#染めと織の万葉慕情 #たすく織 #吉田たすく #倉吉市 #染織 #万葉集 #山上憶良 #染織家 #伯耆国分寺跡 #打吹山 #新匠工芸会

染めと織の万葉慕情45

  憶良の貧窮問答歌(1)

   1983/02/18 吉田たすく

 朝の散歩は歩かないで、自転車で行くことにしています。家から一時間で歩いて帰る半径にくらべて、自転車で走ればかな遠方まで足をのばすことができるのです。いろいろと風景の違った所へ行ってこられるのが楽しみです。

この間の雪の次の日に、自転車で伯耆国分寺跡(ほうきこくふあと)(注1)へ出かけました。日向の道は雪がとけ、日陰や林の中にはまだ雪の白さが目立っていました。鼻から出る息は白く見え、ハンドルをにぎる手先は、切れるように冷たい

朝でした。

 国分寺跡を通り、国庁跡(こくちょうあと)に来ました。雪をかむった農家の屋根、屋根の向こうに打吹山(うつぶきやま)(注2)が黒く見えていました。 この国庁で、かつて昔、山上憶良が伯耆の国政をとっていたことが思われて来たのです。 憶良のような国造(くにのみやっこ、こくぞう)は、このあたりのどんな館に住んでいたのでしょうか。また、そのころの庶民はどんな家に住んで

いたのでしょう。竪穴の住居か、ほっ立柱の草屋根だったのだろうか。 床があっただろうか、 土間の上にごろ寝だったのだろうか、などと考えているうち、憶良の貧窮問答歌が頭にうかんで来たのです。

 この歌は貧者窮者が問答の形で詠い、実に写実的な表現で当時の貧しい人の生活を書き残しています。伯耆の国で詠んだとは記されていませんが、この歌を読んでいると、ちょうど今立っているこの地、伯耆国庁のまわりの貧しい住居・生活そのものを詠んだもののように思われてならないのです。

 草屋根のすき間から大山(だいせん)おろしの雪まじりの風が住居内に音を立てて吹きすさぶ生活が見えるようです。

  万葉の染織に関係する歌はどの歌も恋歌や愛の歌につかわれていて、はなやかで、なまめかしい歌ですが、まったく正反対にこの憶良の歌は染織の言葉でいかに貧しいかを表現しているのです。

 

 「寒くしあれば 麻 (あさぶすま)引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと服襲(きそ)へども 寒き夜すらを」

と、おんぼろ生活の形容につかっています。

麻のドンゴロスのようなぼろの夜具を引きかぶって、袖なしの麻のチャンチャンコを有りったけ着こんでも、まだまだ寒くと詠うのです。

 今は新築の家の並ぶ道を自転車で走りながら、万葉のころの貧しい人たちの生活を思いうかべたことでした。

来週は山上憶良の貧窮問答歌の全文をお送りしましょう。

                 (新匠工芸会会員、織物作家)

…………………………………………

 (注1) 伯耆国分寺跡(ほうきこくふあと) 鳥取県倉吉市国府、国分寺 天平13年(741年)聖武天皇の発願により全国の国ごとに造営された国立の寺院跡です。 国府川左岸の丘陵上に立地する奈良時代創建の伯耆国の国分僧寺跡。寺域は東西約182m、南北約160mで、溝と土塁(南側は溝と築地塀)で画される。南門、金堂、講堂の伽藍中軸線があり、塔は東南隅に位置する。

 天暦2年(948)焼失。出土遺物は、多量の瓦のほか、風鐸、杖頭などで、創建時の軒丸・軒平瓦は伯耆国分寺特有の文様をもつほか、塔跡付近出土の風鐸はほぼ完形の稀な例である。

 

 (注2) 打吹山(うつぶきやま)は、鳥取県倉吉市にある山で市を象徴する山、天女伝説のある山で、残された天女の子どもが、この山の頂で太鼓や笛を吹いて天に帰った母親を思い偲んだと伝えられている。この打吹山を中心に倉吉の街が開かれた。山頂には打吹城が戦国時代まであり、豊臣秀吉により滅ぼされた。標高204m。

#染めと織の万葉慕情 #たすく織 #吉田たすく #倉吉市 #染織 #万葉集 #山上憶良 #染織家 #伯耆国分寺跡 #打吹山 #新匠工芸会

染めと織の万葉慕情44

  酒の歌(3)

   1983/02/11 吉田たすく

 

  もう一度、大宰府で詠んだ大伴旅人の酒の歌をとりあげてみましょう。

旅人は大酒をのみ、歌を作り、歌い、騒いだ様子を表わした歌に「酔泣」(えいなき)という言葉で表現したようです。
その酔の歌が三首あります。

 

 賢(さか)しみと

  物いふよりは

   酒飲みて

酔泣(えいなき)する

  まさりたるらし

 

 黙(もだ)をりて

  賢(さか) しらするは

   酒飲みて

  酔泣するに

   なほしかずけり

 

 賢人ぶって物を言うよりは酒飲む方がとか、また黙って利口そうにふるまっているよりは飲んで酔泣きする方がよっぽどいいよ。

 狩猟、歌、舞、文筆などの遊びの道に心楽しまなくなれば、酒を飲んで酔泣きするのがよかろう、という歌も作っています。

 

 世の中の

  遊びの道に

   すずしくは

  酔泣するに

   あるべかるらし

 

 また玉よりも宝よりも、一杯(ひとつき)の濁り酒にまさるものなし、と詠っています。

 

 価無き

  宝といふとも

   一杯の

  濁れる酒に

   あにまさめやも

 

 夜光る

  玉といふとも

   酒飲みて

  情(こころ)をやるに

   あに若かめやも

 

 さらに詠います。 言う事もする事もないほど貫いものの極みは酒だよ、と。

 

 言はむすべ

  せむすべしらず

    極まりて

  貫きものは

   酒にしあるらし

 

 こんなにも、酒を駆歌(おうか)して詠いつくした旅人でありました。 これらの歌は、九州の大宰府の館で作られたものばかです。しかし、旅人の酒をほむる歌は、京をこうる寂しさを無理にカバーした歌であったのかも知れません。

 あの豪快な歌を作った同じ館で詠った歌に、こんなにも寂しい歌が残されているのです。

 

 わが盛り

   またをちめやも

   ほとほとに

  奈良の京(みやこ)を

    見ずかなりなむ

 

 私に若い盛んな時期が戻って来るであろうか。いや、戻って来ないであろう。 あのにぎやかな奈良の都を再び見ることは、おそらく出来ずに終わるであろう。

 

 わが命も

  常にあらぬか

   昔見し

  象(さき) の小河を

   行きて見むため

 

私の命は永久であってくれないか、昔見た吉野のさきの小川に再び行って見るために。 旅人の両面の現れた歌として、大変興味をもって読んだことでした。

 

                (新匠工芸会会員、織物作家)

 

染めと織の万葉慕情43

  酒の歌(2)   1983/02/04 吉田たすく

 先週、大伴旅人の酒の歌を二首のせましたが、万葉巻三に酒をほむる歌が十三首ならんでいるうちの二首だったのです。

ほかにも、おもしろい歌があります。

 

昔、禁酒の法律を出した国がちょいちょいありました。 中国でも、魏の国の太祖が禁酒令を出した事があったそうです。酒好きの人たちは大変困った事でしょう。ところが、頭のいい人もいるもんで、酒という名前を変名して濁酒を賢人と呼び、黒酒を聖人といって酒をのんだ故事があるのです。 この故事をもとにして、旅人が詠んでいます。

 

 酒の名を

  聖と負(おほ)せし

   古(いにしえ)の

  大き聖(ひじり)の

     言のよろしさ

 

 酒の名を聖といって飲んだ、昔の大聖人の言葉の何とよいことよ、というのです。飲むなといってもだめだよ、なんとしてもごまかしても飲んじゃうから。

また、同じく中国の故事で、魏晋のころ七人の賢人が竹林に入って酒を飲み、琴を弾じ清談をした。 竹林の七賢といわれる故事にならって。

 

 古の

  七の賢(さか)しき

   人どもも

  欲(ほ)りせしものは

   酒にしあるら

 

 旅人は、ずい分の酒飲みだったのでしょう。 中国の賢人も酒ずきだよ、おれもそうだぞ、と歌っているようです。

もっときびしい歌があります。

 

 あな魏(みにく

  賢(さか)しらをすと

   酒飲まぬ

  人をよく見れば

    猿にかも似る

 

 ああ、みっともないやつ。偉そうにすまして酒を飲まない人をよく見ると、猿に似てるがな。 とうとう、飲まない人を猿にしてしまいました。

酒ってうまいです。 また、ほろ酔い気分のよい事ってありません。

 

 今(こ)の世にし

   楽しくあらば

    来む世には

   虫に鳥にも

    われはなりなむ

 

 今、飲んでいる。 こんなに楽しいんだもの。 来世は虫でも鳥でもなってもいい、もっと飲め飲め、俺はかまわん。調子よくなってまいりました。

 

 

 生者(いけるもの)

  ついにも死ぬる

   ものにあれば

  今(こ)の世なる間()

    楽しくをあらな

 

もう死んでもよい、酒を飲んで楽しければ・・・。

 

 大伴旅人はよほど酒が好きで、大変に酒のよさを謳歌したものです。 私のような酒好きは大賛成です。 旅人の気持ちがよくわかります。

 酒を飲みながら、こんな歌を読んでいるとやめられません。

      (新匠工芸会会員、織物作家)

 …………………………

 

いかにも 酒を飲んで微笑みながら話している時の 親父らしい文でした。

 

 私が子供の頃、毎晩来られる様々な客人と台所で円形の卓袱台を皆で囲み、楽しく酒を酌み交わす父の情景が甦ります。いつもこんな楽しい話を交えながら遅くまで談笑し、時には下手なマンドリンを弾きながらお客様や皆でロシア民謡やシャンソン、童謡等を歌いました。

 ちょっと飲み過ぎた日はそこで寝てしまい、寝室まで運んで行った事も何度か。

   遠く温かい 思い出です。

 

 恋に病み

  けふ死ぬほどに

   いと熱き

  をとめにふらせ

     紅梅の露

 

あなた恋しさのあまり

 今日死ぬかも分からない私に

  どうか紅梅の露をください  

 

せつない恋心ですね

 

山川登美子の21歳の時の歌です。

 

 山川登美子と与謝野晶子は友人同士で共に歌誌「明星」を代表する詩人であり、2人は詩だけではなく、共に与謝野鉄幹に恋心を抱く、恋のライバルでもありました。

鉄幹が明星を立ち上げて二年目。登美子21歳 晶子22歳 鉄幹27歳

  紅梅は鉄幹の好む花

恋の歌と言ったら「乱れ髪」の与謝野晶子を超える人はいないと言われますが、この山川登美子の歌も負けてはいません。

上の歌を作る前に下記の歌を作ります。

 

 髪長き

  少女(おとめ)とうまれ

   しろ百合に

  額(ぬか)は伏せつつ

   君をこそ思へ

 

 髪の長い少女として生まれた私は

  白いユリの花に額を当てて

   あなたのことを思っています

 

 長い黒髪の少女が、下を向いて咲く白百合の様に、恥じらいながらうつむき加減で好きな男性のことを想い焦がれている様に感じました。

 百合はとても香りの強い花ですし、純潔などの比喩としても使われますから、若くて清潔な匂い立つ官能という印象さえ感じさせます。

 その激しい恋心を「額は伏せつつ」と恥じらいながら「君をこそ思へ」と心に秘めた恋の情熱を感じさせます。

 すごく情熱的で魅力的な女性だったのですね。 

 与謝野晶子ほど赤裸々ではなく、しっとりと恋を歌い上げる。

 僕はこちらの方が好きです。

 

 登美子は、与謝野鉄幹にこの詩を見せ、その後 「白百合の君」 と呼ばれますが、その「君」というのを鉄幹は気付いていたのでしょうか。

 気づいても女性遍歴の凄い鉄幹はのらりくらりと恋遊びを続けたことでしょう。

 僕など単純ですから、こんな歌を渡されたらすぐに恋してしまいそうです。

 

やがて。

 

 それとなく

  紅き花みな

   友にゆづり

 そむきて泣きて

   忘れ草つむ

 

 登美子は、与謝野鉄幹を自分の方に振り向かせようと晶子と争ったのですが、 紅き花である鉄幹を友人の晶子に譲ろうとする。

登美子は悲しみながら二人に背中を向けて、 ひとり自分は忘れ草を摘むというものです。

 

 そして晶子は鉄幹と結婚。

 

 傷心の登美子は別の相手に嫁ぎ やがて肺結核で29歳で亡くなります。

 …………………………

 

 花をみると

  様々な思いが浮かんできます

   花が誘っているのですね

 

 花というと奈良平安初期迄は、寒中に耐えて静かに咲き優しく香ぐわう梅のことでした。

 平安中期になると大きく煌びやかな桜に変わっていきますが、香りは微か。

万葉集には梅の歌がたくさん出ていますが、桜は少ないです。

 

 さあどちらが皆様 お好みでしょう。

 

 花よ咲け

  深き想いの

   熱き恋

  花びらに乗せ

   かの君のもと

       周之介

そば酒房 やまびこ(恵那市中野方) 2023/1/29

    
 1ヶ月前
恵那市街から山の方へ車で30分弱 雪の残る道をどんどん山の方へ、こんな山奥の方に蕎麦屋があるの?っと思いながら車を走らせ 人家の切れた峠道を登っていくとある。

恵那市中野方は2年に一度くらい行っているが、その都度お昼には寄っている蕎麦屋さん。

 店内は座敷とテーブル、カウンター蕎麦屋としてはまあまあの広さ。

 


今日は一人なので、カウンターへ座り、車を運転なので蕎麦前も無し。

注文
天もり1280円

蕎麦についてお尋ねしたら、
蕎麦粉は山形産で、製粉は「胴搗き(どうづき)」とのブレンドとのこと。
胴搗きと聞いて驚いた。
 胴搗きは とてもとても珍しい製粉方法。

 そばの製粉は一般的に石臼で石と石を擦り合わせて粉にするのが基本。
特に拘り蕎麦屋は石臼を手で挽いています。 ご存じの方もいらっしゃると思いますが、そばは熱にとても弱く、熱を与えてしまうとそばの命である 香り、風味、色合いを失ってしまうのです。

(余談ですが、私はお客様が来られる時には自家製の石臼で、回転で熱を持たないように一分間に14回という特に低回転でゆっくりと石臼を手で回しながら挽いています。
 挽いた粉はどこの蕎麦屋も篩(ふるい)にかけて粒子の大きさを一定にするのですが、私の場合は、篩を使わない一度挽きで超々粗挽き十割蕎麦にします。とても旨いのですが繋がりにくく、時間も技もかかるので、この挽き方をする蕎麦屋は岐阜県では1軒も無く、日本中でも50軒も無いと思います。)

 胴搗き製粉は石臼のように挽くのではなく、昔、水車小屋の中で行われていた様に杵で搗(つ)いて粉にする方法なのです。この方法のよいところは、石臼よりも熱を発しにくいところです。ただ、搗いていくにはとても大掛かりな装置が必要で、現代では水車でそばを搗くようなところはありません。
以前 長野県茅野市やその他で胴搗そばを食べたことがありますが、石臼の蕎麦よりとても強い粘りがあるように感じました。

 長野県茅野市の業者さんがそばを搗いて粉にする胴搗き機械を開発しされたようで、その器械は300万円ほどで販売をされていました。

さて、やまびこさんですが、
蕎麦粉の産地は山形。 山形はそば街道も3箇所あるような有名な蕎麦産地であり、味わいの深いいいそばを作ります。
その山形で、胴搗きした粉を取り寄せておられました。
蕎麦は30メッシュかとお尋ねしたら、粗挽きの30メッシュとお答えされました。
蕎麦は二八ですが、ただの十割蕎麦よりまともな二八の方が味も濃くて喉越しもよいものです。
切り方は、江戸蕎麦の定法 並切りの切べら23本(1.3mm)と20本(1.5mm) の間位。
現代は17本(1.8mm)位が多いから、けっこう細い方です。

見た目もよく、味のあるいい蕎麦でした。
これは見事な味。
今日の段階で、この一年で岐阜県の美濃国で食べた蕎麦屋のなかで、1番の味でした。
飛騨国を入れた岐阜県全体では2番目の美味しさでした。(ただ、1番の店はちょっと拘りすぎの特殊な店なので比べようがありませんが)

とてもいい味ですが、

蕎麦は生き物 蕎麦粉と水と職人だけの世界。

  どんなに上手な蕎麦屋でも毎回味が変わります。蕎麦ほど変化する物は他の料理にはないでしょう。だから蕎麦は面白い。

 同じお店が同じ粉を使っても毎日微妙に味が変化するんです。

あれから1ヶ月 同じ製麺所でも畑が変わってきますから蕎麦粉も微妙に変化していますから、当然蕎麦の味も変わります。

この一年前は中津川のわくり その半年前は多治見のみず乃が良かった。あくまでも私が食べた日の評価ですから、常に変化します。

今はどんな味をしているのでしょう。

次回伺う時はどんな味を楽しませていただけるでしょう。 楽しみです。



もっと欲を言えばやまびこさんで、30メッシュの胴搗き十割蕎麦を食べてみたいです。

天ぷらは
蕗の薹が。 外は雪だが春を感じさせて いいね

そば打ち場に良いこね鉢がある。


内側も見せていただいたが、
木目が中々いいね。

こういうこね鉢を持つといい蕎麦が打てるだろうと思いながら

次回を楽しみに帰路につきました。

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そば酒房やまびこ

そば酒房とあるが、立地的に車になるので、酒房になることは少ない感じで蕎麦屋さんと見た方がいいかな。

https://www.facebook.com/そば酒房-山びこ-721688537923153/
住所
〒509-8231 恵那市中野方町3470番地3
電話番号
0573-23-2070
営業時間
11:00~14:00/ 17:00~21:00
定休日
月曜 第一・三火曜(定休日が祭日の場合は翌日は休みです)

棚田百選の坂折棚田から車で6分
恵那市街から25分

#蕎麦屋
#恵那市
#手打ち蕎麦
#恵那市中野方
#坂折棚田

 桃の節句ですが、紅梅と白梅を手折ってきて飾ってみました。





60年ほど前の作品で、顔も着物も時代が付いていますが、私の母方の大叔父の廉兵衛おっちゃんの土人形です。 

(後ろの大皿は同じ鳥取県の因久山焼(鳥取藩御用窯)で50年~70年ほど前の作品です。)

ひな祭りは、もとは古代の5つの節供の1つ、五節供の2番目、「上巳(じょうし)3月3日の節供」でした。
 古く中国でみそぎをして不祥を払う行事が行なわれたのにならって、日本でも朝廷・貴族の行事として三月三日に川辺に出て、はらえを行ない、宴を張る(曲水の宴)ならわしがあり、平安時代、「紙」で作った紙雛(人のけがれを移した人形)を川に流す「流し雛」が行われました。これが次第に家に飾る「ひな人形」に代わり、江戸時代(元禄期)に庶民にも広がり祝われるようになったといわれます。
 
今もこの「流し雛」の風習が残っていますが、これも鳥取県。
 鳥取県用瀬町(もちがせちょう)の流し雛が残っています。
旧暦の3月3日男女一対の紙雛を桟俵にのせ、菱餅や桃の小枝を添えて、災厄を託して千代川に流します。無病息災で1年間幸せに生活できますようにと願う情緒豊かな民俗行事です。





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大叔父の加藤廉兵衛(かとうれんべえ)(1915-2012)
  郷土玩具作家 鳥取県伝統工芸士。
鳥取県倉吉市の私の実家から15kmほど離れた田んぼに囲まれた小さな農村に、油屋といわれた長屋門に囲まれた大伯父加藤のおっちゃんの家があり、そこに廉兵衛おっちゃんもいました。
僕は小学生3年の頃、一人で自転車に乗り時々遊びに行っていました。子供用自転車など買う余裕もない家で、乗っていた自転車は家にあった大人用です。小学生3年生には15kmって自転車では1時間以上かかる遠いところでしたが、そんなこと思わず行っていました。
 こんな田舎に大きな屋敷で大正時代建築の洋館も付属していました。モダンな白亜の洋館でなんでこんなど田舎にあるのだろうと不思議でしたが、オシャレだったんですね。
廉兵衛おっちゃんは戦争から帰ってから独自に土人形を作り出し、 遊びに行くと廉兵衛おじちゃんがいつも奥の部屋の縁側で、土をこねて人形を作っていました。 とても愛くるしい土人形は「廉兵衛でこ」「北条土人形」とよばれていました。

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加藤廉兵衛
http://www2.e-hokuei.net/youran/html/35-36/index.html

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