foo-d 風土 -34ページ目

foo-d 風土

自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

染めと織の万葉慕情89

  白玉を手には巻かずに

    1983/12/23 吉田たすく

 

 

 玉の緒の歌です。

 巻第七の「玉に寄す」一群の中の歌。

  葦(あし)の根の

   ねもころ思ひて

      結びてし

    玉の緒といはば

     人解かめやも

 あしの根のこまかくいりくんでいるように、深く心をこめて結んだ玉の緒なんだから、と言ったなら、人はその緒を解きはしないだろう。

 こまかい思いで心をこめて結ばれた二人だもの二人の仲を割きはしないだろう、と詠(うた)っています。 玉の緒をとじて結ぶときの気持ちと二人の仲とを結びつけた歌です。

 つづいて白玉の歌です。

 水底に

  しづく白玉

     誰ゆえに

   心つくして

    わが思はなくに

 海の底に沈んでいる真珠のようなあなた。 あなた以外の誰によっても、私はこんなに心を尽くし物思いすることはありません。海の底でかがやく玉、まだ手に入れてない玉、その玉のようなあなたと恋のせつなさをうったえています。また、それに答えるような歌もあります。

 白玉を

  手には巻かずに

    箱のみに

   置けりし人ぞ

    玉なげかする

 玉も使わないで大切に箱にしまっておく人は、玉はなげきます、というので、これとよく似た事に、高価なお茶碗 (わん) や茶道具を使わないで箱にしまってばかりいるのは、茶碗や道具が泣くとよく言います。

 しかしこの歌のもう一つの裏の心は、女性の言葉で、「私を箱入り娘にしてないで手に巻いて下さいね」といっているのです。以前に袖(そで) 巻く歌がありましたが、袖でなく緒を手に巻くというのも同じ共寝を暗示しております。

 真珠を緒に間をあけながら通していくようすを詠って、人をなぐさめる歌もあります。

 白玉の

  間開けつつ

    貫ける緒も

    くぐり寄すれば

     またも合ふものを

 白玉と白玉の間をよけて通した紐も、くくり寄せれば玉はまた一緒になるのですから。

今一緒になれないからといって、なげいたり、あせったりしなさんな。じきに結ばれますよ。

玉の緒、たぶん麻の繊維をよって作った緒なのでしょう。その細い緒を人の心の表現に詠っているのです。

    (新匠工芸会会員、織物作家)

 

…………………………………………

今号は、1983年12月23日に日本海新聞に掲載されたもので、次回90回の染めと織の万葉慕情は翌年1984年1月9日です。

 �丁度40年前父が2年がかりで書き進んだ道を同じ季節に合わせながらここまで辿り着いてきました。  今号で来年となります。本年はお読みいただきありがとうございました。

 来年もよろしくお願い致します。

     良いお年をお迎えください。

 高山市にあり、建築と空間の美が魅力、自然史・歴史・美術・書を配置した美術館。

建物が素晴らしく、とてもゆったりとしていて静かですごく気に入っていて数年に一度企画展があるときに行っています。
 約3時間かけて車で行くのですが、同じ岐阜県なのにあまりにも離れていますね。

 

  本日は行く途中 ひるがの高原は雪で真っ白 春以降初めての雪 ワクワクし 高山方面に下ってくると紅葉が少しのこり、晩秋のイメージでした。

 

さて、到着すると高山は雪などなく初秋のイメージでした。

 

 

 

 今回の特別展は「北大路魯山人展」と「古代アンデス文明展」で、それに「大観と玉堂」展と常設展を拝見しました。

 

 

 魯山人展

 

 

 

 

 

 

 

この美術館所蔵品の展覧会でしたが、一般的な魯山人作品は結構尖ったイメージや派手すぎるものも多いのですが、展示作品は随分おとなしく、使い勝手の良さそうな器が多く、料理を盛りやすい良いものばかりでした。

…………………………………………

 

 子供の頃 魯山人の器が嫌いでした。

 あまりにも主張しすぎて料理の前に出てしまう。 料理に沿うべきだ、合わないと思ったのです。

 

  ところが合わないと思っていた器が、あるとき料理にすごく合うものがある事に気がついて、魯山人の器は一つの料理をイメージして作られたのだということがわかってきたのです。

魯山人の器はたくさん作るものと一点ものがあり、特に一点ものの世界は今は大好きな作家となっています。

 

 「器は料理の着物」

 

   着る人を選びます

 

 料理だけが良くても物足りない

  器だけが良くても未完成

 

着物と料理が調和してこそですね

 

  魯山人は素晴らしい

 

 …………………………

  

そして

 その料理を食べるに値する人間であるか

   常に問いかけねばなりません

    料理は奥が深い世界です

…………………………………………

 光ミュージアム

  岐阜県高山市中山町175

美術館と考古学博物館の機能を備えた総合博物館

建物はマヤ文明の建物をモチーフにしている。内装の多くは左官の挾土秀平。

展示室は大きく3つに分かれており、自然史展示室、人類史展示室、美術展示室から構成される。自然史展示室は約12000点、人類史展示室は約2000点、美術展示室は約1000点の収蔵品を有している。

 美術展示室では、浮世絵と近代日本画、洋画を展示している。浮世絵は肉筆浮世絵約420点と版画約220点を合わせて約650点ほどを収蔵。肉筆浮世絵は、かつて那須ロイヤル美術館にあった小針コレクションを、閉館後に散逸の危機から救うため一括購入したものが中核となっている。また、近代日本画は、横山大観、竹内栖鳳、上村松園、前田青邨、棟方志功など、洋画はモネやゴッホなどを所蔵している。その他に、アウレリア・ムニョスやロバート・ラウシェンバーグなどの現代アートや、市川米庵、比田井天来、手島右卿などの書のコレクションも充実している。

お母さんのニコがメインで

その子達3人揃ってパーティです。


会場は畑のログハウスです


今日は冬至ですね

 

   冬来りなば

    春 遠からじ

 

 この言葉は日本のことわざではなく、イギリスの詩人、シェリーの詩『西風の賦』の一節「If winter comes, can spring be far behind?」を訳したものだそうです。

 つらい時期を耐え抜けば、幸せは必ず来るというたとえ。長い冬を耐えて春を待つ気持ちの表現としても用いられます。

 先日のことですが、秋の名残りの情景を観ようと、12月10~11日に最後の紅葉を観に宮内庁の桂離宮、修学院離宮道、仙洞御所の三ヶ所へ行ってきました♪

全て予約のみですし、桂離宮以外は無料でありがたいです。

まさか離宮を三ヶ所も同時に回る人は少ないでしょうね。でも、これがいいのです、その良さその違いが如実にわかります。

まず行ったのは桂離宮です。

 

紅葉はほぼ終わり、初冬の桂でした。

 

 

 

 

​​​​​​​

 …………………………

 長く沈黙の美であった桂離宮を世界に発表したのはドイツの建築家ブルーノ・タウトです。

 日本建築として世界に有名な日光東照宮と桂離宮。

極端にゴテゴテとして豪華すぎて日本建築らしくない日光に対し、静寂の雅と言うべき桂離宮という両極端な建築が。面白いことに、同じ年に出来ています。

ブルーノ・タウトは日本インターナショナル建築界からの招待で1933年5月4日念願の来日を果たします。

 敦賀に到着した翌日、タウトは桂離宮に出会います。長らく憧れていた日本の美を間近でみた感慨もひとしお、タウトはこのときの印象を「泣きたくなるほど美しい」と日記に記しています。タウトは翌年の5月にも桂離宮を訪れ、この二回目の桂離宮体験は、タウト著『日本美の再発見』の中のエッセイ「永遠なるもの」に結晶します。

 『永遠なるもの』においてタウトは、静寂の支配する庭園前にしたときの感興を次のように書いています。(以下、引用は篠田英雄訳、岩波書店。)

「(私たちは二人の日本人と同行していた)今こそ真の日本を知り得たと思った。しかしここに繰り広げられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる。私たちはこの神秘にもたぐう謎のなかに、芸術の美は単なる形の美ではなくて、その背後に無限の思想と精神的連関との存することを看取せねばならない。(中略)私たちは暫くここに立ち尽くして、互いに話すべき言葉を知らなかった。」

 …………………………

 私は子供の頃、日光東照宮を見た時、あまりにもキラキラと成金趣味。繊細さ、潔さがなくただ豪華すぎて大嫌いで、逆に桂離宮の潔さサラッと間をとる美しさが大好きでした。

その頃出会った本がタウトの『日本美の再発見』でした。中学1、2年の頃でしょうか。

 自分では言葉に表せない事がタウトによって桂離宮の良さ日光東照宮の醜さ表現されていてとても嬉しくなったものです。

余談ですが、そして私はこの本に感銘し、18歳の時には、タウトの歩いた同じコースで金沢、白川郷合掌集落、下呂、名古屋をヒッチハイクで旅行しています。

ゆず味噌作り 身土不二

「物語のある料理『野の花料理・恵那の野山の 蕎麦懐石』」で毎回柚子味噌を少しだけ使用していますが、3年寝かせた美味しい柚子味噌がとうとう切れてしまいました。

 今年は柚子味噌を作らねばならないと思い、恵那の自然に実った柚子をいただいていましたが、忙しくてなかなか作れませんでした。 柚子も古くなってくるので、ようやく、時間を見つけて作りました。

材料
 恵那の野に自然に実ったゆずの皮
 地元恵那市の白みそ 米味噌
 恵那の蜂が採ってきた柚子蜂蜜
 恵那市の醸造元の日本酒
 みりん(マクロビのオオサワジャパン製)

 (食材は、無農薬か自然栽培品のみを使い、砂糖は基本的に体に良くないので使いません)


A
 ゆずの皮2個を下ろし、
 2個を微塵切り
 ゆずの搾り汁適量


鍋に、白味噌(米麹を使って作られる甘口の米味噌)と米味噌味噌
日本酒と味醂、柚子蜂蜜を入れ火にかけます。
粘りが出た頃に材料Aを入れ混ぜ合わせて数分火にかけて出来上がり。

 

これをまた3年ほど冷蔵庫で寝かせて熟成させます。
まったりと練れた味の美味しい柚子味噌ができあがります。


味醂以外は全て地元恵那産の食材です。
身土不二 地産地消
…………………………………………

 身土不二(しんどふじ)とは、「身と土、二つにあらず」、つまり人間の体と人間が暮らす土地は一体で、切っても切れない関係にあるという意味の言葉です。言葉の起原は大昔の仏典に遡ることができますが、現在では食の思想として「その土地のものを食べ、生活するのが一番健康によい」という意味で使われています。

第18回美食の会

2023年自分へのプレゼントとして、仕事納めの翌日に絶品フレンチはいかがですか。

11月に皆様に感動していただいたベルエキップの会を年末ぎりぎり、12月29日(金) 17時より行います。

 

 

 

8名満席でしたが、昨日2名急遽仕事で欠員となり2名再募集いたします。

今回予定

フランス産の高級鴨やフォアグラは、もう日本には入ってきません。三つ星レストランにはもう在庫も切れていて食べられません。この貴重な品をまだあるうちに食べてしまおうという企画です。

 

●最高級の フランス ラカン産  生後60日のピジョン

●マダムビュルゴーシャラン鴨のアピシウス風ソースビガラード

 11月に食べたマダムビュルゴーシャラン鴨のローストですが、あまりにも上品で綺麗すぎる味だったので、それを更に上の世界へと昇華させるアピシウス風ソースビガラードです。

●「王様のレストラン」でも紹介された最高級オマールブルトンのびっくりムース11月に食べてその美味しさに、再度リクエストしました。

●オマールブルトン

「青い宝石」とも言われる世界最高級フランス ブルターニュ地方のブルーのオマール海老、甘みが濃厚で「海老の最高峰です。

これらに地元 瑞浪市の野菜を使った12~14品のコースです。

 これだけの贅沢な料理は、東京の三つ星レストラン等でも食べられないのじゃないかなっと思います。 東京で食べればおそらく50000円以上する料理です。

 

第18回美食の会

参加資格 私の知り合いの方か、FBで友達の方。

FB、メッセンジャー、インスタ等で連絡ください。

 

フレンチレストラン ベルエキップ 12月29日(金)17時

予算24000円位(飲み物別)

住所 岐阜県瑞浪市薬師町2-55-1

0572-68-2361

 

 

愛知県・岐阜県の方は大丈夫ですが、年末のため、交通要注意です。

 

電車の方

恵那駅16:30⇨瑞浪駅16:46着

JR名古屋発中央線 16:02⇨千種16:12⇨瑞浪駅16:52着

タクシー5分

 

帰り

瑞浪駅21:03⇨21:55

   21:24⇨22:20

…………………………………………

今年は美食の会も4回開催させていただきました。

参加された皆様ありがとうございました。

また来年 おいしいものの会を行いたいと思います、来年もどうぞよろしくお願い致します。

年越し蕎麦はいかがですか

 

 

 普段は「物語のある料理『野の花料理・恵那の野山の 蕎麦懐石』」に、本年も東京や大阪、名古屋など日本各地から恵那まで来ていただき本当にありがとうございました。

 懐石では自家石臼手挽きで日本一粗挽きの超々粗挽き十割蕎麦を限定4名様分だけ打っているのですが、年末だけはこだわりの手打蕎麦屋さんの様な少し粒子の細かい蕎麦粉を使い、そして、そば屋さんより旨味を出すために太打ちで数十人前ほど打ちます。

 蕎麦粉は全て八ヶ岳山麓産の高級新蕎麦です。

この時期に新蕎麦?っと思われる方も多いと思いますが、秋に採りたての新蕎麦は色と香りは良いのですが、旨味がまだ乗っていません。だから私は秋に新蕎麦は使いません。

 使うのは数ヶ月寝かせて熟成し、新そばが美味しくなる今、丁度年末位からです。

 1種類だけ打つ方が楽ですが、それではつまらない。周之介っぽくないので、3種類の蕎麦を打つことにします。

 年越し蕎麦は皆さんご家族で食べられるのですから、食べ比べをしていただいた方が楽しいに決まっていますよね。

 沢山の量を打つには麺棒は1本ではなく3本使わなければ打てません。 久しぶりの3本棒での蕎麦打ちです。

お求めの方にはこの中から二種類か三種類を選んでお渡しします。

 今年の年越し蕎麦は3種類打ちます 

 ★1、粗挽き田舎蕎麦

玄ソバ(鬼殻のついたそばの実)を、殻付きのまま大型石臼挽きし、鬼殻で黒めの星(黒い点々)が入り、ザラついた超粗挽き粉。透明感があり、プリンとした食感、野趣あふれる田舎風蕎麦。

 ★2、バランスの良い上品な粗挽き蕎麦

玄ソバから鬼殻を取った丸抜きを、大きさ別に味の強い小粒までを9種類に分け、3種類の石臼で製粉された石臼製粉技術の粋を極めた蕎麦で、苦みのない、風味・甘み・絶妙なコシの三拍子揃った上品で優しい最高級の粗挽き蕎麦です。

 ★3、超粗挽き蕎麦

玄ソバから鬼殻を取った丸抜きを特殊石臼製粉で、手挽き石臼と同様な粒度分布の超粗挽き粉。

 香りよく、旨味の強い超粗挽き蕎麦です。

1.2.3の順番に粒子が粗くなっています。

申し込みされたお客様に家族で食べ比べできる様に二、三種類が入る様にお渡します。

さてどの蕎麦がお口に合うでしょうか。

 太打ちの方が蕎麦の旨味がよく出るので、どれも普通の手打ち蕎麦屋さんより太くしてあり、蕎麦屋では食べられない珍しい太打ちで旨みたっぷりの年越し蕎麦です。

 味より喉越しが何より好きな方には不向きです。

 旨みを一番大切にした蕎麦で、蕎麦本来の旨味をお楽しみください。

 

 

 少し数に余裕がありますので、FBのお友達で、

30日午後4時以降か、31日に直接取りに来られる方、

 ちょっと良い蕎麦粉なので材料費などで一人前700円でいかがでしょう。

(超粗挽き十割蕎麦なので 湯がき方も付けます)

12月27日の夜迄受け付けますが、ある程度数量限定ですので、お早めに注文ください。

FB、メッセンジャー、ライン、メール、TEL等で必要数をお知らせください。

 毎日使い続けて直しながら使い、ボロボロなった「アンクルリストウェイト 3kg」 の代わりに同じメーカーの新品をようやく2個購入しました。

 

 

1個4000円位ですが、ポイントやその他で最安値を探し1個2266円 両足分で4532円でした。

 

 アンクルリストウェイトは片足2kg (両足で4kg)ならスリムパンツ以外なら2kgだとなんとかスラックスの裾に隠すことができるので 会社員の頃、30年ほど前から仕事中も出張中も含めて一日中足首にはめていました。

アパレルを立ち上げて70店舗の経営(店舗開発・店舗運営・商品デザイナーなど)全てをこなしていて、毎日が休みもなく朝から夜遅くまで働いていたので、ランニングやジョギングなど運動する時間など全く取れない状態でしたから、足におもりをつけることを思い立ったのです。

(一般サラリーマンが仕事中に、この2kgを1日嵌めているだけで、4kmのジョギングに相当して、走らなくても運動効果はあり、緩やかな負荷なので健康にも良いです。)

仕事の日は2kg 。たまの休日は片足3kg (両足で6kg)をはめていましたが、今は会社勤めはしていないので、毎日朝起きたら3kgづつ 一日中嵌めています。

 

 私の体重は常時57.5kg±1.5kgなので、約1割の重さですね。これさえ嵌めていれば運動になり、ふくらはぎも太ももも筋肉質で、運動時間がいらないので楽ちんで助かっています。

 ところで、これを読み、興味を持たれた方、すぐに2kg等を行うと膝を痛めてしまいますから、始めるのなら500gで3ヶ月、1kgで半年と、500gずつ徐々に増やしていってくださいね。

染めと織の万葉慕情88

  玉の緒の歌

    1983/12/16 吉田たすく

 

 

 紐の歌を長い間取りあげましたが、紐には「高麗錦紐解き放けて」などの歌を読みますところ、大陸渡来の錦の布を細く切って紐に作っていた事がわかります。

 高麗錦でなくとも麻の布や倭文(しず) (日本古来の織物)の布などでも作ったものと思われます。細い紐に似かよった染織品に「緒(を)」があります。 今回からその緒の歌をひろってみたいと思います。同じような形態ですが、緒は縒(よ)り糸か組み紐のようなも

ので、織り布の細いものではなく、縄状のものであったようです。 それもそのはず、歌のほとんどが「玉の緒」を詠(うた)っています。

 下紐とくらべ用途も目的も身に着ける場所もまったくちがいます。 玉の緒ですから、今でいうネックレス、首飾りをつづるものです。 それと腕につけるブレスレットの緒とか今の風俗にはありませんが、足の飾りにした足玉などの緒の事です。

 「玉の緒」の玉は緒の装飾語で、美しい緒といった意味の場合もあります。これらが枕詞(ことば)に使われて、詠われてもいます。

 照左豆(てりさつ)が

  手にまき古す

    玉もがも

   その緒は替えて

    わが玉にせむ

  照左豆は古来難解とされ、猟夫とか玉商人とかいわれていますがはっきりしない言葉のようです。

  てりさつが手に巻いていた古くなった真珠が欲しいものだ。その古い緒は取りかえて自分の玉にしたい。

 この歌は万葉巻七の「玉に寄す」という一群の中の一首です。

 ついでにほかの玉の歌を読んでみましょう。

 秋風は

  つぎてな吹きそ

    海(わた)の底

   奥(おき)なる玉を

    手に巻くまでに

  秋風はつづいて吹かないでおくれよ、大海の真珠を私の手に巻きつけるまでは。

  秋風よ私の気持をじゃましなさんな、彼女を手に入れるまでは、という意味なのでしょう。

 「玉を「手に巻く」と詠うところを見ると当時のファッションに、腕飾りがはやっていた事が想像されます。

 世の中は

  常斯(か)くのみか

    結びてし

   白玉の緒の

    絶らく思へば

 世の中はいつもこうした無情なものなのか、きつく結んだ真珠の緒も切れてしまう事を思へば。

 色白の美しい彼女もとうとう私をはなれて行ってしまったなげきの歌なのです。

 玉の緒と聞けば、それを飾る当時の女性の首すじやふくよかな胸もと、またしなやかな腕、赤裳裾(すそ)からのぞく小鹿のようなすんなりした白き足もとを思わせてくれますが、玉の緒の歌のたいていが失恋の歌によまれているのがかなしい事です。

    (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

 …………………………

 『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 これは新聞の切り抜きしか残されていず、古いもので読みづらい部分もあり、一部解説や余話を交えながら私が読み解いていきます。

 尚このシリーズのバックナンバーはアメーバの私のブログ 「food 風土」の中の、テーマ『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、ご興味のある方はそちらをご覧ください。

 https://ameblo.jp/foo-do/theme-10117071584.html

 …………………………

吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタペストリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいます。

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

染めと織の万葉慕情87

  忘れさりにし下紐の歌

    1983/12/09 吉田たすく

 

 紐の歌のつづきです。

紐の歌が長くつづき五カ月にもなりましたが巻二十の歌をのせて終わりたいと思います。

 巻二十には防人(さきもり)の歌が、八十数首のせられています。私が若い頃の戦時中には次のような歌をおそわったものです。

 

 今日よりは

  かえりみなくて

    大君の

   醜(しこ)の御楯(みたて)と

    出で立つわれは

 

 めされた今日からはかえりみないで大君の強い御盾となって戦へ出立するのであると。 この歌のような気持ちを持って、戦争へ兄弟や友を戦場へ送り、本人もそのつもりで征(い)き帰らぬ人となったのでしたが、口には言えない本心は、どんなであったのでしょう。 

 万葉の防人はこの歌のような忠誠を誓った勇ましい人達だったのかも知れませんが。歌を読んでみますとこんな益荒男(マスラオ)ぶりな歌は数首もないのでした。

 ほとんどの歌は家人を思い、父母の言葉に泣き、妻を思う、また子を思う歌がつづきます。

 

 から衣

  裾(すそ)に取りつき

    泣く子らを

   置きてぞ来ぬや

    母もなしにして

 

 衣の裾に取りすがって泣く子供たちを郷において戦に来てしまった。その子らの母親も今はいないのに。

 

 それから、妻を思う歌にこんなのがあります。

 

 難波道を

  行きて来までと

    吾が妹子(せこ)が

   着けし紐が

    緒絶えにけるかも

 

 東国の防人たちは陸路で難波へ集結をし、軍船で瀬戸内を九州へ、半島へと出征しました。難波は防人のいよいよ覚悟をおぼえる港だったのでしょう。

 難波へ行き帰ってくるまでと妻が着けてくれた下紐も切れてしまった事だ。 長い出征に疲れはてた歌です。

 

 わが妹子が

  しぬひにせよと

    着けし紐

   糸になるとも

    吾は解かじとよ

 

 わが妻が、私を思い出すよすがにしなさいよと結んでくれた下紐だから、よれよれになって糸になってしまっても私はこれを解くまいと思っている。

 防人たちの歌は益荒男(マスラオ)ぶりでなく手弱女(タオヤメ)ぶりの歌だったのでした。

 

 防人にかぎらず都からはなれた旅先での男子(おのこ)たちは、妻を思う歌に、妻の結んだ下紐をにぎりしめ泣いたのです。 そして紐に誓うのでした。

 

これにこたえて妻も同じく

 

 草枕

  旅行(たびゆく) 夫(せ)なが

    丸寝せば

   家なるわれは

    紐解かず寝む

 

 旅先で一人丸寝をしてるんだもの、私も紐解かないでわびしくあなたを思って一人寝しますよ。 元気で帰ってね。

 

 たくさんの紐の歌をとりあげてきました。東歌にある庶民のなまの歌、そうでなく家持のような都人までが妻恋の思いを下紐によせて歌っていたのでした。 中には旅先で妻に内しょで紐解いた歌もありましたが、紐の歌は万葉集中に、八十余首もあったのです。

 ところが次の時代の平安の歌集、古今集を開いてみますとただの四首だけでした。

 下紐を二人寝のあと結びあって別れ、再び逢う時二人して解くという男と女のやくそく事が、平安時代には無くなってしまったのか。それとも歌は都人、雲上人のあそびで、下紐などは下品な下賎(げせん)なことで歌になどのせるべきものでは無いと指導されて来たのか。 私にはわかりません。

 古今集の紐の歌は、形式的なきれいな言葉の中にはさまれた紐でした。

 

  紐の歌は以後まぼろしのようにきえさったのです。

 

   (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

 …………………………

 

余談です

 

防人(さきもり)

西暦645年、大化改新で律令国家建設を目指した大和朝廷は、西暦663年、百済を救う白村江(ハクスキノエ)の戦いで唐・新羅連 合軍に敗戦し、北九州の防衛体制を固める必要に 迫られます。

 防人は、当初は全国から徴用されたが、天平2年(730年)からは朝廷の東国掌握政策とも絡み、 もっぱら東国の民のみが徴用されるようになった。防人に召された民は、東山道を武蔵国 国府のあった府中(東京都府中市)に集合した後、国府の役人である防人部領使(サキモリノコトリヅカイ) の先導で遠い旅路についた。

 自分の食い扶持を自分で調達し背負って東海道を陸路野宿を重ねな がら難波津を目指します。難波津(大阪)からは、やっと官費が支給されて瀬戸内海を海路九州の太宰府へ行きます。そこで訓練を受け、筑紫・壱岐・対馬へと配属され、田畑を 耕し自給自足しながら、防備兵として3年の兵役を務めます。(壱岐には150人ぐらい配置されました)

 

 やっとの思いで兵 役を終えた防人達の帰路はまた厳しいものでした。官の援助はなく自力で帰 るしかなく、途中で諦めるものも出て、無事に故郷に帰れるという保証はなかったのです。

 

防人の歩いた道 東山道

東山道(とうさんどう)は、五畿七道の一つ。日本海側も太平洋側も通らず、本州内陸部を近江国から東へ貫いて陸奥国出羽国に至る行政区分であり、幹線道路。

 古代から中世にかけてはその範囲の諸国を結ぶ幹線道路も指したが、江戸時代になると、江戸からの道ができて江戸を起点として西側の中山道と東(北)側の奥州街道などに再編されます。

 

 古代に作られた東山道(とうさんどう)の

神坂峠(みさかとうげ)は、岐阜県中津川市長野県下伊那郡阿智村の間にある標高1,569 mで、木曽山脈南部の主稜線の富士見台(富士見台高原である)と恵那山との鞍部です。 険しい道程から東山道第一の難所として知られ、荒ぶる神の坐す峠として「神の御坂」と呼ばれた(「御坂峠」という別表記はここに由来する)。神坂峠は、急峻で距離も長かったため、峠を越えられずに途中で死亡する者や、盗賊が出ては旅人を襲ったとの記録が、いろいろな古典に書かれている。後に、東山道(中山道)は神坂峠を避けて、木曾谷を通るようになったため、神坂峠を越える者は減少します。

 

日本武尊が東征の際に通り、平安時代初期に、伝教大師最澄は、この峠のあまりにもの急峻さに驚き、旅人のために峠を挟んで両側に広済院と広拯院という「お救い小屋(仮設避難所)」を設けた。『叡山大師伝』に記載あり。

 

『今昔物語集』の巻二十八に、信濃国司の任期を終えて都へ帰る途中の藤原陳忠が神坂峠から谷底へ転落したものの、救出の際にヒラタケを抱えて生還したとの逸話。

 

神坂峠の近く、富士見台高原は北アルプス御嶽山南アルプス、中央アルプスの360°の大パノラマが楽しめる絶好の場所で、私は年に一度位行っています。