びあんちギア 先日の事故 で、体はあざがある程度で問題ないのだが、びあんち が故障した。ギアの調子が悪い。変速する時になかなか噛み合わない。一時的なものかと楽観視していたがそれは甘かった。今すぐにでも修理に出したいところだが週末に、費用3万円の割には決して元がとれない面倒くさい用事が入っていて、金欠に拍車をかける。かわいそうなびあんち。どうやら僕は友人よりも自転車のほうが大事なようだ。
世田谷文学館 文学に描かれた世田谷
花森安治と「暮らしの手帖」展
世田谷文学館

環境が違えるもの、時代を違えたもの、知らない観点を知る。知れて良かった。

上京した者同士の子で、引越しも何度か経験し、僕は故郷という概念が薄い。愛着もない。多くの文豪が世田谷を愛し、したためている。江戸川乱歩、永井荷風、坂口安吾、大江健三郎、寺山修司などの町にまつわる作品や収蔵資料が展示されていた。羨ましくもある。目を引いたのはムットーニ の3つからくり箱。中島敦「山月記」、萩原朔太郎「猫町」、海野十三「月世界探検記」の世界が、正方体の中で繰り広げられる。それはまさにコスモスだった。動きと光りまで計算されて、ストーリーは進む。

花森安治が生前の頃の「暮らしの手帖」を知らない。現在の「暮らしの手帖」もほぼ知らないが。戦後間もない時に、今も勝るものがないほど、ポップで尖がって暖かい雑誌があった。編集長にして装丁、イラスト、コピー、デザインまでこなすマルチはしかも、全てにおいて抜きんでている。彼が日本を作ったと言えるかも知らん。

20年近く会っていない、20歳近く年上の親類が死んだ。今年一番の冷え込みと言われた日に、公園の木で首をくくり、早朝発見された。

ソウウツカズンの親であるソウウツセカンドアーントとはまた別のアーント、ソウウツファーストアーントには3人の子供がいた。イチバンウエは学業優秀で歯科医になる。イチバンシタは少し知的障害がある。マンナカに手間はかけなかった。赤の他人であるブンレツさんはマンナカの中学校卒業式に、アーントの代理で出席した。彼の父親は早くに亡くなっていて、アーントは仕事優先の人間だった。そのアーントも20年前に病死した。それ以来、僕はアーント一家と疎遠になる。

イチバンウエは独立し、イチバンシタは嫁ぎ、マンナカがアーントの家と家業を継いだ。それが悲劇の始まりだった。マンナカの妻はアーントの死を機に、自らの親と妹夫婦を彼女が遺した大きな家に同居させる。マンナカは四面楚歌だったが、情の薄い親族に頼らず頼られず、しかし彼の性格は飄々としてそれをおくびにも出さない。

悲劇は、それ以前から始まっていたのかも知らん。アーントには税理士がついていて、それは彼女の愛人でもあった。アーント亡き後も税理士は離れない。人の良いマンナカはむしり取られていた。さらに、その税理士は、マンナカの妻とできた。マンナカは、自らの母と妻が。

マンナカは手先が器用だった。僕が高校生まで使ったベッド。ソウウツシニアとブンレツさんの結婚記念にそれは、マンナカが作ってくれたものだった。趣味はプラモデルで、同じ趣味を持つ仲間の名前を、プラモデル一つ一つにつけてあった。

イチバンシタの夫もまた早くに亡くなり、マンナカだけがイチバンシタに優しかった。そのマンナカが自殺したとイチバンウエは言えず、イチバンシタには真相を隠して心筋梗塞だと伝えた。

マンナカは人の迷惑になることを嫌った。この世を去る前に全てを用意した。遺影までも。

彼の妻と子供は、通夜の時でさえケロッとしていたという。近しい人は悲しまなかった。僕がその場で悲しめなかったのは、知らされた時には既に通夜が終わっていたから。ソウウツシニアも、イチバンウエも、呼ばれなかった。

朝、目を覚まさすと首が痛い。寝違えた。加えて先日痛めた箇所も悪くなっている。

渋谷で半蔵門線に乗ろうとして階段を降りているとベルが聞こえる。走って駆け込んで、閉まりかけのドアをすり抜けた。その危機一髪ぶりに我ながら満足する。表参道で千代田線に乗り換えようとして階段を降りているとまたベルが聞こえる。走って駆け込んで、閉まりかけのドアをすり抜けて、勢いあまって滑って転んだ。右の足首をひねる。しかしその痛みよりもまず、この状況をどうするか。転んだままの体勢でいるわけにもいかないが、さも転んでないよとでも言いたげに慌ててすぐに立ち上がるのもどうかと思う。なぜか僕は下を向いたままいったん正座をして深呼吸する。辺りを見回すと瞬時に顔の向きを変えた人が3人。空いている座席に座って足を組み、足首を揉んだ。

渋谷に戻ってきて狭い路地に入り、そこに止めてある愛車の鍵を解く。またがって通りに出ようとした時、激しい衝撃に見舞われて、女性の悲鳴が響いた。気づくと自転車から放り出されている。何が起こったか一瞬分からなかった。辺りを見回すと同じように人が倒れていて、自転車が転がっている。衝突したようだった。悲鳴を上げたと思われる女性が寄ってきて「大丈夫ですか」と声をかけてきた。「問題ないです」と言って起き上がり、ぶつかった男に歩み寄った。彼もまた立ち上がった。「怪我はない?」「はい」「良かった。お互い気をつけよう」彼の尻をポンと叩いて、僕は足早にその場を去った。非は、おそらくこちらにある。彼も相当なスピードを出していたと思われるが、僕は進行方向を完全に見ていなかった。毅然とした態度をとったものの、実は左の手首がかなり痛かった。

首が満足でないと動きがコミカルになる。手首と足首も不自由で、全てにおいてやる気が失せる。

壁際の狭いテーブル席で向き合い、焼き鳥をほお張りながらビールを飲む。僕の真後ろに出入り口があって「いらっしゃいませ」の掛け声と共に冷たい風が入った。彼女の異変を確認した。振り返ると1組のカップルが立っている。過疎にならない この町で、彼女の知人と遭遇する確率は低くないだろう。友人かと聞いてもうわの空だった。はあ、さては。

執拗に昔の恋人かと問いただす。「そう思ったけど似ている人だった」なんて、5秒でばれるひどい嘘をついて何になるのか。「どこに座った?」と振り返りたくない彼女に尋ねられた。そのカップルは僕らのテーブルと垂直に位置する窓際に座った。女性のほうは壁で見えないが、男性の横顔がちょうど視線の真中に入る。向こうも当然気づいていて、ちらちらこちらを見るが、その都度に凝視している僕と目が合い、気まずそうに背けている。僕はその様子がいたく面白かった。彼女と向かい合い、その後方に彼女の元恋人が控えている。この画は、そう見られるものではない。

良い別れ方をしなかったそうである。サディスティックな一面が顔を出し、いくらか挙動不審に陥って会話が滞る彼女に対して「いいから元カレ元カノの話を肴に飲もうぜ」と言うとさすがに怒られた。大きな声を出すなと。さらにはいつまで見ているのだと。

僕もひどい結末を迎えた経験がある。しかも僕は別れた女の悪口を平気で叩くが、彼女の「あいつが昔より不細工になっていたことはショックだが、ブスを連れていた点は良かった」というセリフは阿呆だと思い、その旨は伝えた。

博士の愛した数式 素数や虚数は覚えていた。完全数と友愛数は劇中で知った。オイラーの公式が理解できなかった。この辺りが文系である僕の限界だ。算数は得意だったが、数学に入ってから僕はついていけなくなった。しかし今でも数字は好きで、何に対しても数値化したがる傾向がある。数式に美しい美しくないがあるという概念は、何とはなしに分かる。第1回本屋大賞を受賞した原作。ひらがな漢字に埋もれて√などの記号や数式が表れたら、それは斬新だろう。目を引く。映像の場合はどうだろう。

登場人物で名前が判明しているのは家政婦の杏子だけだった。杏子を雇う未亡人、未亡人の義弟で事故により80分しか記憶が持たない博士、博士にルートと呼ばれる杏子の息子。杏子は最初にそこでは家政婦が長続きしないことを伝え受け、未亡人から仕事内容を説明された時に博士と会わせてもらえず、緊張をあおる。初日、博士の家の扉を開けると、白いメモ用紙を褐色のジャケットに貼りつけて、尋常でない様子が一目で分かる博士が登場する。毎日、訪れる度に同じ会話を繰り返すことで、その緊張が和みに変わった。

博士の計らいで杏子は息子を連れるようになる。息子ルートはこれでもかと、できすぎの子供だった。博士に対する接し方は杏子よりもはるかに勝る。そのルートの、成人して教師となった姿が、物語をつむぐ。原作小説は杏子の語りなのに、なぜ変えたのか。杏子と博士の交流よりも、ルートと博士の交流に重きを置いたのかと思う。

柏松竹はこれにて閉館、その最終回に行った。サービスとして自動販売機のジュースが無料で施された。イベントはなく、寂しい幕引きだった。他の観客全てが退場するまで待って、最後の一人となる。

夢を見た。それは悪夢にも似た。よく覚えていない。夢の中の自分はクリアでクレバー。泉のように言葉が溢れ出て、文章をしたためるとそれは非の打ち所がない、流れに淀みがない、しかしその記すという行為すら結局は夢であるがゆえ、意味もなく、読み返そうとしてもその活字はにじんで、ぼやけて、読み取れない。

モーリス・センダックの作品はそんな夢に近い。「かいじゅうたちのいるところ」「まよなかのだいどころ」「まどのそとのそのまたむこう」の3冊が家にあった。幼い頃、畏怖のような気持ちを抱きながら、側面全てに手垢がつくほど読んだイラストのキャラクターは3頭身から5頭身くらい。今にしてみればバランスが悪いように思えるが、子供の視点からは違和感がなく、世界と合致する。先日の夢、僕は空を飛び、怪獣に遭遇し、後は覚えていない。

「かいじゅうたちのいるところ」がスパイク・ジョーンズ監督、トム・ハンクス製作で映画化されるらしい。嬉しいような期待を裏切るような複雑な気持ち。

モーリス・センダック
かいじゅうたちのいるところ

2月1日はプロ野球12球団一斉キャンプイン。どこのファンも一様に夢が見られて、最も平和で分け隔てなく楽しい時だ。その楽しさを味わえなくなる時期はさまざまで、オープン戦から不安が露呈するチーム、開幕早々転ぶチーム、終盤息切れするチーム、最後のポストシーズンで涙を呑むチームと、徐々に脱落するわけで、まあ、今年最後まで笑っていられるのは、中日ドラゴンズなわけだが。

しかし懸念されることは多数ある。まずは先発投手。ローテーション6枚で見ると、広島や巨人と同レベルのように思えてしまう。

 川上、中田、マルチネス、山本昌、朝倉、山井

契約更改で揉めている川上は二桁勝利とローテーションを守ったことでエースの責任を果たしたと思っているらしく、それならその程度の期待に留める。完璧超人の中田にはエース級の活躍を期待しているが、マルチネスと共に2年目のジンクスが心配である。山本昌に無理はさせられず、朝倉と山井の頭が悪い子コンビは二人で一人分として足して二桁勝てば御の字だろう。しかし、中日の強みは投手の層が厚いこと。右腕に中里と佐藤、左腕に石井とチェン。才能豊かで若い投手が、ローテーションの座を虎視眈々と狙う。

次に懸念されるのは外野の両翼。選手会長に就任した井上が張り切っていて、春ゴリラとして中日では立浪に次ぐ長さの8年連続開幕スタメンは濃厚だ。4月は良いとして、その後もレフトとライトに井上とアレックスが入るようでは、外野の守備範囲は大変なことになる。昨年、西武からトレードされてきた大友は、照準を開幕に合わせたため失敗したように感じる。先のゴリラとコネくり外人と、4月から争ってはいけない。同じ轍を踏まぬよう、日本ハムから来た上田は交流戦が始まる頃に照準を合わせてほしい。

 三塁・森野、左翼・アレックス、右翼・上田

秋季キャンプに続き地獄のノックを受け、首脳陣の期待の大きさがうかがえる森野には、僕も多く を望んでいる。もし立浪の調子が良いようなら、三塁に縛られず今季も内外野を。

 谷繁、井端、福留、岩瀬

この4選手が長期離脱した時は「ごめんなさい」と白旗宣言をせざるを得ない。荒木やウッズ、岡本辺りでも厳しい。穴が多いのが気になる。正直、日本一を掲げるがしかし、道のりは険しい。

下北沢の駅前は放置自転車が多く、何の団体か分からないが、ビブスのようなものをつけた者が数名、駐輪させまいと周辺に目を光らせている。僕はダイエーの利用客を装って、そこに止めた。死角、穴場として知られる置き場所である。

数時間後、戻ってくると放置自転車の数が膨れ上がっている。緑のびあんち号 はすぐに確認できたが、そばで中年の女性がうごめいていた。彼女の自転車の前輪に、隣のペダルがしっかりと噛んでいる。四苦八苦する様子をうかがっていると、彼女も僕に気づいて助けを求めた。正直だるいが、それが片づかないと僕のも出せない。「絡まっちゃったのよ。こんな近くに止めて嫌ね」なんて愚痴を言われても「まあ、不法に駐輪している僕らも文句は言えないんですけどね」と応えるほかない。「あなたのはどれ」誇らしげに僕はチェレステグリーンを指差す。「あら素敵ね」悪い気がしない僕はあごをしゃくって眉を動かす。

鞄を置き、上着を脱ぎ、力ずくで隣の自転車を退かす。「どうもありがとう。ごめんなさいね」としかし「僕のが出せないからね」礼を言われる筋合いはないのだ。それでも彼女はにこやかに、今度は手伝ってくれようと周囲の自転車を寄せて、僕はスムーズに愛車を取り出せた。「こちらこそありがとう」「それではごきげんよう」と彼女は先にその場を去った。チェーンを外して僕もまたがる。

すぐに追いついた。追い抜きざまに「さようなら」と手を振った。

エリ・エリ・レマ・サバクタニ 自殺願望が湧くウィルスが蔓延した近未来、二人のミュージシャンが奏でる音だけが、発病抑制に繋がる。映像も発想もいかにも青山真治らしい、たむらまさきと仙頭武則とのトリオ5作目。あうんの呼吸だと思われる。

様々な音に音楽を見出す二人。彼らのノイズ、世界を救うといわれるその音楽は耳障りだった。どこかの芸人が、UFOを呼び寄せるネタに使用するものと同じ代物も、まるで崇高なミュージックとして捉える。

青山真治の作品はどうも相性が良くないらしく、今まで観賞したもので響いたのは「EUREKA ユリイカ」だけだった。それでも、予告で見た映像に惹かれて本作の観賞に至る。七里圭監督作「のんきな姉さん」からひらがなに改名したたむらまさきが、英語表記では“TAMRA”となっていることに今日気づいた。1960年代から活躍するカメラマンによる、スクリーンが立体的に見える映像が美しい。中でもハイライトとなるシーンは出色だった。緑の草原に青い空、そこを1台のバンが一本道に導かれる。起伏によって一旦消え、再び画面に登場して車は止まる。奥行きが幻想的ですらある極彩色の風景に、演奏装置と四方にスピーカー、パフォーマーとオーディエンス。絵画のようだった。