ほたるいかの書きつけ -73ページ目

「水からの伝言」はどうやって作られているのか(1)

 「水からの伝言」(以下「水伝」)が実際にやっていることについては、田崎さんの「『水からの伝言』を信じないでください」 に詳細にまとまっているし、つい最近、PSJ渋谷研究所Xのところでも、「『水からの伝言』の基礎知識」 が公開された。どちらもきちんと本質をおさえて丁寧に批判しているので、ぜひ御一読いただきたいと私も思っているのだけれども、元々の「水伝」のテキストに即した批判が見当たらないようなので、資料的意味も込めて、ここに記しておくことにする(どこかのサイトでされてたらすいません。ま、こういうのはあちこちにある方が、目に触れる確率も高くなると思うので、良しとしてください)。

 彼らのいうところの「実験」(科学的な実験などと呼べるものではないことは既に散々指摘されているので繰り返さない)の方法については、「水からの伝言 vol.2」(以下「水伝2」)、「水からの伝言 vol.3」(以下「水伝3」)の巻末に掲載されているので、興味のある方は実物を参照されたい。

 まず、「水伝2」には、どういう結果が出るもので、どうやって写真をピックアップしているのかがごく簡単に述べられている。批判する上で重要なので、全文引用しよう(p.139)。
結晶写真・撮影記録について
私たちは撮影ごとに、結晶のでき方をグラフにして保存しています。たとえば、本著89ページでご紹介した「蓮の花の写真を見せた蒸留水」の結晶の場合、左のようなグラフになります。
グラフは左から、美結晶、美傾斜、六角形、放射状、格子、不定形、陥没、結晶なし……と別れています。一番多く現れた不定形の結晶の中から江本会長がもっとも美しいと感じた3枚です。ちなみに下の12枚も、同じ時に撮影した50枚のうちの一部です。
なお同時に英訳文も掲載されているがここでは省略する。

 「本著89ページ」には、「『蓮の花』の写真」と題して、4枚の写真がp.90とあわせて載っている。うち3枚は、上で引用したような結晶の写真である。残りの1枚は、蓮の花の写真の上に水の入ったビンが置かれたものを撮影したものである。縮尺が判然としないが、L判ぐらいの写真の上に、化粧水程度のサイズの、ラベル等は何も入っていない透明なビンが置かれている。蓋は白い。
 この写真が何を意味しているかというと、江本流に言えば、蓮の花の「波動」(かなんか知らないが)をビンの中の水に転写している、ということだろう。この水をどう結晶にするかは後で述べるが、決して写真を見せながら結晶を作るわけではない。写真を見るのはビンに入っている間だけである。

 「グラフ」は表とともに示されており、その内容は、
  • 美結晶:5
  • 美傾斜:5
  • 六角形:0
  • 放射状:5
  • 格子:2
  • 不定形:31
  • 陥没:2
  • 結晶なし:0
となっていて、表の最後には「評価点数 44.8」と書いてある。点数のつけ方については不明だが、指針は「水伝3」に書いてあり、これも後述する。また何を持って美結晶だの美傾斜だのと判断するのかは不明であるが、観察者が決めるらしい。それぞれのカテゴリーがどのような結晶なのか例でも出してくれればよいのだが、そういうことは見たかぎりは書いていないようなので、それも不明である。

 さて、引用した文章は、p.89の「『蓮の花』の写真を見せた蒸留水」についてのものであり、他のページについても同様にピックアップしているという保障は(引用した文章だけからは)ない。そこで、他のページでは違うやり方をしているという可能性もあるということを留保しつつ、とりあえずこれが全体を貫く方法であると仮定して話を進める。

 まず、本文で紹介された3枚の写真は、「一番多く現れた不定形の結晶」のうちの3枚であるということだ。全部で50個の検体のうち、不定形が31枚と群を抜いて多い。これは、要するに結晶の作り方が悪いので、歩留まりが悪い、ということだ(これは kikulog でも何度も指摘されている。平松式人工雪発生装置などを使えば、子どもでも綺麗な結晶を簡単に作れる)。「水伝3」にも3例載っているが、そちらも不定形が50個中40前後と多い。そこで、もし一番多く現れたカテゴリーの結晶で代表させているなら、「水伝」に出てくる結晶は、ほとんどが不定形のものであると言ってよいだろう。

 次に、本文に載せられる写真は、「江本会長がもっとも美しいと感じた3枚」だそうである。つまり、江本の主観によってピックアップされる写真が決定されるのである。
 一つよくわからないのは、結晶ができなかったとされる水の場合である。「水伝2」には、祈祷前・後で結晶がどう変わるか、という記事が幾つか載っている。例えばp.123には「『琵琶湖の水にありがとう』祈祷前」、p.124には「『琵琶湖の水にありがとう』祈祷後」の写真が載っており、おそらく、祈祷前の写真は結晶無しに分類された写真と思われる。
 彼らの方法では、歩留まりは悪いとは言え、全く結晶ができない場合がそんなに多いとは考えられないので、祈祷前についてはわざと結晶が出来ていないものをピックアップしたのではないか、あるいは「結晶が出来ない写真のほうが本質を表している」という江本の判断で結晶無しの写真が選ばれたのではないか、という疑念も生じるのだが、文章では定かではない。ただし、上で述べたように、一番多く現れたカテゴリーから選ぶのが共通ルールかどうかもわからないので、カテゴリー選びの段階から恣意的に行われている可能性も否定できない。

 なお、評価点数は、この巻末に例として挙げられた蓮の花の写真の場合しか書かれていない。他の写真なり文字なりの場合、どのような点数だったかは定かではない。

***

 書き出したら長くなりそうな気配が生じてきたので(またかい^^;;)、続きは次回に。
 ただ、今回の部分だけ読んでも、江本らが何をやっているのかよくわからない部分が沢山あるということは理解できると思う。実験の手順がきちんとかいていないというだけでも、科学の実験としては落第である(これ以外にも落第である理由は山ほどあるが)。

 繰り返すが、このエントリはあくまでも江本らのテキストに即した批判というのが趣旨なので、「水伝ってなに?」という疑問をお持ちの方は、冒頭に掲げたように、まずは田崎さんやPSJ渋谷研究所Xでまとめられた文書を読まれることを強く推奨します。

アレシボ・メッセージ・マフラー

これ 、ちょっと欲しい、かも…

江原啓之、旭川大学の客員教授に

 出遅れた感じもするけれども、やはり書いておかないといけないような気がするので。

 旭川大学が、江原啓之を客員教授に迎え、新設の保健福祉学部で生命倫理や終末期ケアに関する講義を行う予定らしい。詳細は「江原啓之を客員教授に迎える旭川大学学長の言い分」 (『世界の片隅でニュースを読む』)などに載っているので参照されたい。

 大前提として、大学には学問の自由があるし、また保障されるべきであるので、どんなムチャクチャな内容であっても、それを理由に構成員を解雇するようなことがあってはならない(この場合は客員なので事情はやや異なるだろうけれども、考察の指針として、学問の自由は忘れてはならない)。したがって、学問の自由及び言論の自由を基礎にした批判によって、江原及び江原を採用した旭川大学の見識を問うことになる。

 問題は、
  • 「スピリチュアル」カウンセリングで名を売ってきた江原が、生命倫理や終末医療で一体何を語れるというのか。これから現場に出て行く学生たちにとって、江原の講義を聞くことはなんの意味があるのか。
  • 江原に対する社会的批判も強くなりつつあり、特にカルトや霊感商法などの蔓延に結果的に手を貸した形になっている存在を、大学としてサポートし社会に再び認知させようとすることの是非はどうなのか。
というあたりだろう。

 大体、こんなことをしていたら、それこそイオンド大学並みの扱いをされたって文句は言えなくなると思うんだが…。


太田龍と江本勝:番外編

某所でとりあげられてて知った「太田龍の時事寸評」 の2008年2月23日の記事。第2339回。
公開講座で出された質問を引用しつつそれに答えるという形で展開していく。
(前略)

○江本勝氏の著書の中で、
 440HZ が人間にとって一番心地よい響き(振動)である、と書かれていた。

○ところが、千八百年代後半、
 イタリアの音楽家ベルディが音域の基本を432ヘルツにして、

○その後、千九百年代前半に、
 ロンドンの会議で、440ヘルツを国際基準にしたと。

○440ヘルツと言えば、現代のポップ・ロックの基本振動。

○蜂に440ヘルツの振動を聴かせると攻撃的になり、432ヘルツの振動を
 聴かせると穏やかになり、太陽の振動も関係していると。

(略)

○ベルディの432を440に変えたのは、

○疑いもなくイルミナティの陰謀であろう。

(略)

○このように見ると、江本勝氏の前出の著作の叙述。
 これは、訂正を必要とするのではなかろうか。
 
 陰謀論はともかく。
 この指摘に対し、江本勝はどうする!?
 今後の展開が楽しみだなあ。(^^)

電子は陽子のまわりを「回って」いるか

 水素の起源について書いたときに、「わかりにくい」と言われてこのエントリ に追記をした(かえってわかりにくかったりして)。確かに元記事は端折りすぎてて後から読むと「なんじゃこりゃ」という感じがしたので、御指摘深謝なわけだが、書きながら色々考えていた。

 ある程度専門的な話を一般向けにわかりやすく書くというのは、それ独自のスキルが要る。だから最近は「科学ジャーナリスト」だけじゃなく、「サイエンスコミュニケーター」なる職業が生まれたりしているのだろう。実際、自分で書きながらも、本質を抜き出し、不要な細かい部分を捨象し、かつ嘘ではなく、わかりやすく書く、というのがいかに難しいかを実感する。これはどの分野(学問に限らず)にも共通の問題なのだろうけれども、特に物理系(というか数式を多用する分野)にはそれ独自の難しさがある。

 例えば今回の水素原子の場合。電子は、本当は陽子のまわりを「とりまいている」。「いまこの位置にいる」ということではなくて、ある範囲の領域に、「この位置にいる確率は何%」という形で表現されるような状態だ。存在確率を濃淡で表せば、陽子のまわりをボヤ~ッと取り巻いているようにも見え、「電子雲」と呼ばれる。
 こう言われると、「ビー玉みたいな粒子が陽子のまわりをクルクル回っているというのは間違いだったのか。一個の電子が溶けるがごとく陽子のまわりを包んでいるのか」というイメージになってしまいがちなのだが、上で書いた説明をよく読めばわかると思うがそれは正しくない。でも、普通わかりませんよね。じゃ、いったいなんなんだ、となる。

 量子力学の重要な概念の一つは、物質は粒子でもあり波動でもある、ということだ(この場合の「波動」はもちろん物理で出てくるちゃんとした波動ですよ)。でも、そんなものは日常世界には存在しない。粒子が波打って進むというわけでは勿論ないし、粒子が膨らんだり縮んだりしながら波打って進むというのでもない。
 で、結局、そのときそのとき、考えたい問題に応じて、「いまはこういう状況だから波として考えよう」とか「粒子として考えよう」とかするわけです。で、「あ、いまのところまでは粒子で考えてきたけど、ここから先は波の性質を考えとかないとおかしくなるな」とかやるわけ。非専門家から見たら、「なんてご都合主義な」と思われるかもしれない。
 そう、ご都合主義なんですよ。イメージを頭に描く段階では。ご都合主義でない部分は、たいてい数式で表されているから、数式をいじくった結果をどうイメージするかの段階で、どうしてもご都合主義的に考えてしまうのだ。これはどうしょうもないことで、それは我々人間は日常世界のイメージをもとに量子力学的な世界のイメージを構築するしかできないからなのだ。つまり、数学的結果の「解釈」の部分なのだ、問題は。

 物理学(に限らないけれども)は数学という強力な道具を得、人間がイメージできないような世界の姿すら明らかにすることに成功してきた。ところがこの道具は厄介で、扱うのが場合によってはかなり難しかったりする。だから、道具の扱いに苦手意識を持ち、扱い方の訓練を避けてしまうと、科学者の語る世界はわけのわからないどこぞの世界の話だというようになってしまうのだと思う。。

 道具が大切な別の世界の例、ということで、大工さんを考えてみよう(私は大工さんの世界をそんなに知っているわけではなく、世間に流通しているイメージしかそれこそ持っていないので、間違っていたらすいません)。例えばカンナという道具がある。ホントかどうか知らないけれど、「向こうが透けるぐらい薄く削れて一人前」なんて話を聞いたことがある。それぐらい道具に熟達して、初めて家が建てられる、というわけだ。誰でも簡単に想像できるように、そんな技術のない大多数の人々は、自分で立派な家を建てるなんてとてもできない(ログハウスとか、素人でもできるキット的なものはあるみたいですが)。
 その一方、建てることはできないけれども、どうやって家が建てられるのか、とか、どの柱がどのように家を支えているのか、とかは、素人でもなんとか理解はできそうである。つまり、家の建て方の「理解」というのは、素人でもそれなりには可能、というわけだ(私がちゃんと理解しているかは別問題ですが)。

 これと同様に、おそらく、数学という道具の使い方に熟達していなくても、世界がどうやって成り立っているか、物理学的な理解を得るのは可能なのだと思う。多くの科学啓蒙書が売られているけれども、やはり、それは研究はできなくても研究成果を理解することは可能だし、理解したいと思っている多くの人々がいるということを示しているんじゃないかと思う。

 ここで一つ問題が生じる。つまり、その手の啓蒙書だけを読んで、研究ができると思っちゃう人々がどうしても出てくるということだ。縦書きの日本語(つまり数式が出てこないという意味です)で書かれた本がすべてで、その背後にある膨大なロジックや実証の過程に想像が至らない人が生まれてしまうのだ。
 物理的世界を日常世界の言語に置き換えた段階で、最初に書いたように、どうしても不正確な面が出てくる。あるいは一面的な物言いになってしまう。ところが、そういう人々にとってはそれがすべてなので、「波動」にせよなんにせよ、解釈された言葉をつまみ食いしてさらに独自の解釈を加えて「理解」する、ということになる。
 家の建て方がわかっても自分じゃ建てられない、ってことは普通わかると思うんだが、一部の人々にとっては、物理についてはそうは思わないらしい。なので、江本勝や太田竜のように、勝手な解釈で無茶苦茶な話を展開してしまう。

 私は多くの人にそういう啓蒙書を読んで欲しいし、自分でも他分野のものをなるべく読みたい。ただ、そういう本の背後でなされた努力は忘れないようにしたい。そして、啓蒙書に疑問を持ち、やる気があるならば、専門書に挑戦するのもいいと思う。がんばれば、理解できるんだよ、たいていの分野は。新たに大学に入りなおして勉強を開始したと思って努力すれば。そのためにかける労力は、やはり覚悟しないといけないけれど。でもそういうことが割と普通にされる社会ってのは、とても知的で素敵だと思うし、それをする人はやっぱり尊敬に値すると思う。

 さて、ここで表題に(やっと)戻る。
 以前、あるインフォーマルな会合で、某偉い先生がこう言っていた。「みんな電子が陽子のまわりを回ってるって言うけれども、ホントは回ってなんかいないんですよ。だって角運動量ないんだもん」と。まあ確かにそうで、「回り具合」の指標である角運動量は、基底状態の水素では、ゼロなのだ(なおここで言っている角運動量は軌道角運動量で、大雑把に言うと、(電子の質量)×(電子の軌道半径)×(電子の回転速度)に相当する)。だから、正確に言えば、最初のほうで書いたように、ボヤ~ッと電子が取り巻いている雲のようなイメージになる。
 でもですね。では、正確ではないから回っているというイメージを持たないようにしましょう、と言われたら、やっぱり「それはちょっと待ってよ」と言うと思う。正しくはないかもしれないけれども、正しい概念に到達するには経ないといけない概念でもあると思うからだ。イキナリ電子雲の説明をして果たしてどれだけの人が理解できるだろう?もしそういう説明をされたら、高校時代の私はサッパリ理解できなかったのではないか、と思う。

 ついでに言えば、励起状態の電子雲の分布が教科書にはよく載っているけれども、たとえば、複数の電子があったらどういうイメージを持つべきなのか、とか、私にはまだよくわからない。わからないけれども、何が正しいのかは分かっている。字面だけ見ると禅問答みたいだけれども、そういう面はあると思うのだ。

 で何が言いたかったのか自分でもよくわからなくなっちゃったけれども、わかりやすくかつ正しく伝えるってのは難しいですね、ということと、わかりやすい説明の裏には、非専門家にはすぐにはわからない世界が広がっているのだろうな、という想像力を、同時に働かせることが重要なのではないか、ということなのだろうと思う(江本と太田の対談を読んでいただいた方なら同意してくれると思いますが^^;;)。まあこれは他分野に対峙する際の自戒を込めて、という部分も大きいです。
 がんばれば誰にでもわかるけど、それだけの努力は必要、というところですかね。延々書いた割にはソレカイ、という気もしますが、お許しを。(^^;;