ABO FANはアウトであるとABO FANは言った
ABO FANさんは、どう思ったのかわかりませんが、消耗戦が膠着状態に陥り、撤退戦をはじめたように見えます。具体的には、仄めかしで詳細を言わない、心理学を知らない人とは議論ができない、等々。
で、その中で、いくつか大変に面白いことをおっしゃっているのだが、発言から3日もたったし、本人からこの件については訂正もなにもないようなので、ちょっとだけツッコまさせてもらいましょう。このコメント から。
「大村さん」というのは大村政男氏のことで、私は「古川竹二に見る台湾とアイヌ民族への「まなざし」 」の中で、血液型性格判断の初期史について、手頃なまとめとして氏の著書「血液型と性格」を挙げておいたのである。
私としては、どう考えても、大村氏の著作を挙げることをもって「アウト」などと言われるような文章は書いていないつもりであるが、そのことは措いておき、いかにこれがブーメランであるかをごく簡単に示しておこう。
ABO FAN氏のウェブページは、御存知(の方はソレナリにマニアック^^)のように、実に膨大である。彼の余計な文章を無視して読める能力があれば、資料的価値はあると言えよう。
…が。ちょっと読めばわかるし、検索なんかしちゃうと一発でわかるのだが、ABO FAN氏のウェブページ、そこかしこで大村氏を引用しまくりなのである。しかも、大村氏、時々血液型と性格の相関を肯定するような発言をイキナリテレビでしてしまうなど(ABO FAN氏が言うのとはまた別の意味でちょっと問題があるよう。他にも)、ABO FAN氏おおはしゃぎなのである。
たとえば。このページ には、こんなことが書いてある。
ちなみにABO FAN氏のページに見られる傾向として、1つのページがやたらと長いということが挙げられる。上で引用した部分も、順に読んでいくと見つけるのは困難だろう。「大村」などでページ内検索をすることをオススメする。
他にもいろいろあるんですけどね。「大村政男 site:www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/ 」などのようにしてgoogle検索すると、色々見つかって面白いですよ。
もちろん私は大村さんが全面的にアウトだとは思っていません。コメント欄でABO FANさんが挙げた『「血液型と性格」の社会史」(松田薫、改訂第二版)の補章で、大村氏らへの痛烈な批判が述べられていますが、ざっと見た限り、批判としては的外れのように思えます(が、まだ全体を見ていないので、判断は保留しておきます。読後、新たにエントリを書くつもりです)。
いやあ、ホントABO FANさんは幸せですよね。そんなことを見なかったことにする能力に長けていて。
で、その中で、いくつか大変に面白いことをおっしゃっているのだが、発言から3日もたったし、本人からこの件については訂正もなにもないようなので、ちょっとだけツッコまさせてもらいましょう。このコメント から。
どうか、ご自分でお調べください。FSMさんが大村さんの本を引用した時点で、私的にはアウトです。
なにしろ、業界内の「常識」では…。(以下自粛)
たぶん、FSMさんは、そんなことを知らない方が幸せに人生を過ごせると思いますよ。(苦笑)
「大村さん」というのは大村政男氏のことで、私は「古川竹二に見る台湾とアイヌ民族への「まなざし」 」の中で、血液型性格判断の初期史について、手頃なまとめとして氏の著書「血液型と性格」を挙げておいたのである。
私としては、どう考えても、大村氏の著作を挙げることをもって「アウト」などと言われるような文章は書いていないつもりであるが、そのことは措いておき、いかにこれがブーメランであるかをごく簡単に示しておこう。
ABO FAN氏のウェブページは、御存知(の方はソレナリにマニアック^^)のように、実に膨大である。彼の余計な文章を無視して読める能力があれば、資料的価値はあると言えよう。
…が。ちょっと読めばわかるし、検索なんかしちゃうと一発でわかるのだが、ABO FAN氏のウェブページ、そこかしこで大村氏を引用しまくりなのである。しかも、大村氏、時々血液型と性格の相関を肯定するような発言をイキナリテレビでしてしまうなど(ABO FAN氏が言うのとはまた別の意味でちょっと問題があるよう。他にも)、ABO FAN氏おおはしゃぎなのである。
たとえば。このページ には、こんなことが書いてある。
実は、この本は血液型と性格の関係を否定している代表者の一人、大村政男さんの『血液型と性格』という本です。もちろん、詳しく統計データをあげて血液型と性格の関係を否定しています。その分析の正確さとデータ量、歴史的な経緯の著述、参考文献の豊富さはすばらしいと言えるでしょう。私はこの本の内容自体に疑問を持つわけではありません。こんなに大村さんをベタボメするようなウェブページ、もう完全にアウトですよね!!
ちなみにABO FAN氏のページに見られる傾向として、1つのページがやたらと長いということが挙げられる。上で引用した部分も、順に読んでいくと見つけるのは困難だろう。「大村」などでページ内検索をすることをオススメする。
他にもいろいろあるんですけどね。「大村政男 site:www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/ 」などのようにしてgoogle検索すると、色々見つかって面白いですよ。
もちろん私は大村さんが全面的にアウトだとは思っていません。コメント欄でABO FANさんが挙げた『「血液型と性格」の社会史」(松田薫、改訂第二版)の補章で、大村氏らへの痛烈な批判が述べられていますが、ざっと見た限り、批判としては的外れのように思えます(が、まだ全体を見ていないので、判断は保留しておきます。読後、新たにエントリを書くつもりです)。
いやあ、ホントABO FANさんは幸せですよね。そんなことを見なかったことにする能力に長けていて。
古川竹二から見た「思想犯」
前回に引き続いて古川竹二の『血液型と気質』(1932年)からの引用である。古川については、とりあえず前回のエントリ「古川竹二に見る台湾とアイヌ民族への『まなざし』
」を参照していただきたい。
前回紹介した章の少し前に、「第一章 家庭及び学校に於ける訓育の根拠」という章がある。ここで古川は徳育に血液型を活用せよと主張する。そして、「第三節 家庭及び学校に於ける訓育に対する本研究の暗示」という節で、犯罪と血液型の関係が議論される(なお第四節では軍隊における応用例が紹介されている)。
第三節は、第一項と第二項に分けられている。第一項は「犯罪者の血液型に就て」であり、新潟刑務所収容者についての調査である。これはまあ他でも紹介されていたと思うので、ここでは紹介する。興味深いのは、次の第二項である。「思想犯人の血液型に就て」と題されたこの項では、思想犯について勝手な理屈を並べたてているのだが、それを通して、古川の論理展開の強引さのみならず、古川にとって、あるいはさらに教員養成に携わる者や国家から見て「思想犯」というものがどう位置付けられているのかを伺う一つのエピソードを提供している。ちなみにこの節はこの二つの項しかない。
以下はp.240~p.243の引用である。前回同様、引用にあたっては現代仮名遣いに改めている。第百一表直後の箇条書きの部分を除き、太字強調は引用者による。
読まれる際は、ぜひ1932年という時代を念頭に置いていただきたいと思う。いわゆる15年戦争が勃発、傀儡国家である満州国が作られ、大学を含む教育界への締め付けが急速に進む時期である。なおそのあたりの事情は、『日本教育小史』(山住正巳、岩波新書)に概略がある。
さらに、皇国民錬成教育のカナメは徳育であった。「一旦緩急アレバ義勇公に奉」すために、知育偏重との批判が繰り返し語られ、道徳教育が徹底されたと言う。そして、古川は、自分の学説がその徳育を強化するために重要な役割を果たせるのではないか、と期待をしているのである。権力から語られる道徳と国家目標は表裏一体のものであるいい例だろう。
戦後教育の出発点は、そのような国家に奉仕する国民を作ることの否定から始まったはずだ。そして、その精神で教育基本法も作られたはずだ。古川が唱えた血液型気質相関説は、そのような流れから見れば一つのエピソードに過ぎないだろう。しかし、古川を通していまの我々が学ぶべきことは、単にニセ科学の代表選手としての血液型性格判断を学ぶというに留まらないと思われる。
我々は、どのような人を育てたいのか。どのような価値観を持つ社会に生きたいのか。それが問われているのだと思う。
なお、ここでの「被告人」がどの事件で検挙された者かはわからないが、「備考」として引用されている東京日日新聞の記事は、3・15事件であろうか(事件そのものは1928年だが、1931年から宮城裁判長のもとで公判が行われていたようである)。
前回紹介した章の少し前に、「第一章 家庭及び学校に於ける訓育の根拠」という章がある。ここで古川は徳育に血液型を活用せよと主張する。そして、「第三節 家庭及び学校に於ける訓育に対する本研究の暗示」という節で、犯罪と血液型の関係が議論される(なお第四節では軍隊における応用例が紹介されている)。
第三節は、第一項と第二項に分けられている。第一項は「犯罪者の血液型に就て」であり、新潟刑務所収容者についての調査である。これはまあ他でも紹介されていたと思うので、ここでは紹介する。興味深いのは、次の第二項である。「思想犯人の血液型に就て」と題されたこの項では、思想犯について勝手な理屈を並べたてているのだが、それを通して、古川の論理展開の強引さのみならず、古川にとって、あるいはさらに教員養成に携わる者や国家から見て「思想犯」というものがどう位置付けられているのかを伺う一つのエピソードを提供している。ちなみにこの節はこの二つの項しかない。
以下はp.240~p.243の引用である。前回同様、引用にあたっては現代仮名遣いに改めている。第百一表直後の箇条書きの部分を除き、太字強調は引用者による。
読まれる際は、ぜひ1932年という時代を念頭に置いていただきたいと思う。いわゆる15年戦争が勃発、傀儡国家である満州国が作られ、大学を含む教育界への締め付けが急速に進む時期である。なおそのあたりの事情は、『日本教育小史』(山住正巳、岩波新書)に概略がある。
第二項 思想犯人の血液型に就て以上である。古川の発想が、国家政策を推進するものであり、またそのことに対する疑いをまったく持っていないことが窺われる。戦前の教育は、教育勅語のもとに国家に奉仕する人材育成を最大の目的としていた(皇国民錬成教育)わけだが、そのように子どもを教育する教師を育てたのは師範学校である。そして、古川はその(女子高等)師範学校の教授であった。
現今我が国の教育界に於て最も憂慮すべきは、学生の危険思想問題であるが、彼等が此の思想に傾く事が何に原因するやは未だ確たる調査が無いようである。思うに其の直接の原因の何たるやを問わず、我が国建国以来数千年を費して築き上げられた国家思想に反する危険思想を奉じ、之を我が国に実現せんと計画する人々には、其の気質上にほぼ一定の特徴が存しはしないであろうか。此の問題を追及する事は吾人の久しく熱望した所であり、又今後の学校に於ける訓育の上に資する事僅少ではあるまいと考えて居った所のものである。
本問題に対する考察の資料として、吾人は最近某共産党事件の被告人八十六名の血液型に就て、長崎医科大学解剖学教室、秋吉氏が調査せられ、吾人の所説と深き関係あることを発表せられたものを以てしようと思う。氏は之等の人々の教育程度と血液型との関係を調査せられ次表を得られた。(社会医学雑誌、第五二七号、昭和五年十二月)(引用者注:この論文のタイトルは、「所謂主義者(思想犯人)の血液型に就て」である。)
第百一表
教育程度 A/P O A B AB 人数 高校以上ノ者 0.87 28.6 46.4 17.9 7.1 28 中等学校 1.27
32.4
41.2
23.5
2.9
34
小学校 1.67
37.5
33.3
25.0
4.2
24
右表を見ると次の如き興味ある事実を示して居る。
一、O型者及びB型者は、犯人の教育程度が低くなる程増加して居る。
二、A型者は教育程度が高くなる程増加して居る。
三、AB型者は教育程度高き犯人に多い。
前項に述べたように石橋氏(引用者注:新潟医科大学法医学教室石橋無事氏)に依れば、智能犯人はA型者多く、暴力犯人にはO型者が多かったのであるが、此の事実は右表に於て明かに示されて居る。秋吉氏は之を説明して、
之等主義犯人の中に高等教育を受けて、外国思想を比較的よく咀嚼し得る者の中に特にA型者多きを見る。反対に主義者犯人中にても直接外国思想の文献を咀嚼し得ず、只他人の教唆に依りて所謂社会運動の第一線に立ちて暴力行為的運動を行い、治安維持法違反に触れたる者は、多くO型に属せる事実を見たり。と言われて居るのであるが、此の事実は真に深き意義を有するものと考える。而して是等三種の団体に就きてA/Pを計出すれば、高等教育を受けたる者は0.87であるから消極的であり、つまり表面に出でて活動する事を好まず、裏面に於て事を画策する犯人の多い事を示して居る。
之等の関係は又本表に比較対照せる如く、智能犯と暴力犯とに於て、前者にA型者多く、O型者少く、後者はO型者多く、A型者少き関係と彼此相通ずるものあるを如実に支持するものなり。
然るに中等程度の教育を受けたる者に在っては1.27であり、小学校出身者に在っては更に増加して1.67である。即ち教育の程度低き者程積極的に表面に現われて実際運動を企つる者の多い事を語って居る。是等の現象は血液型が示す気質と教育程度の低き事とを考察する時、恐らく識者の首肯せらるる所であると考える。
備考 目下、東京地方裁判所に於て、宮城裁判長の下に、審理せられつつある共産党の公判の記事(昭和六年七月二十二日東京日日新聞所載)によれば、某被告は党の内部の問題につき、裁判長に対して次の如く述べたと云うことである。『インテリは、労働者と相容れず、労働者はまた単に、前衛分子たるに満足して、主義の原理を知ろうとしない、これが日本に於ける共産党の現状である』と。此の説明は、前に表示したる共産党員に於ける、知識階級者と然らざる者との間の、血液型の頻度の相違、従って気質の相違を、真によく裏書きして居るように思われる。
夫れ故に青年客気の赴く所、過って危険思想に陥り易き者にも、其の有力なる一因子として、生来の気質が関係して居ると思われる節があり、其の直接の誘因としては、社会的乃至経済的事情等が、数え得られると見て大過無いであろうと考える。此の点、青年等の教育に携る者の特に深慮すべき問題ではあるまいか。
さらに、皇国民錬成教育のカナメは徳育であった。「一旦緩急アレバ義勇公に奉」すために、知育偏重との批判が繰り返し語られ、道徳教育が徹底されたと言う。そして、古川は、自分の学説がその徳育を強化するために重要な役割を果たせるのではないか、と期待をしているのである。権力から語られる道徳と国家目標は表裏一体のものであるいい例だろう。
戦後教育の出発点は、そのような国家に奉仕する国民を作ることの否定から始まったはずだ。そして、その精神で教育基本法も作られたはずだ。古川が唱えた血液型気質相関説は、そのような流れから見れば一つのエピソードに過ぎないだろう。しかし、古川を通していまの我々が学ぶべきことは、単にニセ科学の代表選手としての血液型性格判断を学ぶというに留まらないと思われる。
我々は、どのような人を育てたいのか。どのような価値観を持つ社会に生きたいのか。それが問われているのだと思う。
なお、ここでの「被告人」がどの事件で検挙された者かはわからないが、「備考」として引用されている東京日日新聞の記事は、3・15事件であろうか(事件そのものは1928年だが、1931年から宮城裁判長のもとで公判が行われていたようである)。
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古川竹二に見る台湾とアイヌ民族への「まなざし」
古川竹二
は現在の血液型性格判断の開祖とも言える人物である(最初に言い出した人物というわけではないが)。東京女子高等師範教授をつとめた教育学者である。彼を含めた血液型性格判断の歴史的事情については、拙ブログのエントリ「血液型性格判断前史
」をご覧いただきたい(無論、不完全な紹介である。血液型性格判断の初期史については、大村政男『新訂 血液型と性格』に詳しい)。
さて、古川竹二は戦前の人物なので、なかなかその文献に直接触れる機会は多くない。心理学者による紹介がPDFになってあちこちに散在してたり、『現代のエスプリ』の特集「血液型と性格 その史的展開と現在の問題点」に割と詳細に述べられている程度である。ネット上で見られる詳しいものとして、「古川竹二の血液型気質相関説の成立を巡って : 大正末期~昭和初期におけるある気質論の成立背景 」(佐藤達哉、渡邊芳之)をここでは挙げておこう。
ところが、幸いなことに、先日、古川竹二の著書『血液型と気質』(1932年)を見せていただく機会を得た。その中で、いままで簡単な紹介のみでしか知らなかった文章について、原文で触れることができ、大変興味深かったので、何回かにわたって紹介していきたいと思う。
最初は、台湾とアイヌ民族を比較した節である。これについては、「北海道人はどんな性格かII(2)アイヌ民族と台湾先住民の比較 」(大村政男、浮谷秀一)に簡単に紹介されている。一部が引用されているのだが、カッコ書きで「古川の文章は原文のままでは差障りがあるので、無難なところだけを引用している」とある(「現代のエスプリ」でも、大村氏が対談の中で簡単に触れている)。これをここでは全文引用することにする。かなり酷い言い方をしているところが随所にあるが、資料として耐えていただきたい。
ところでこの部分を紹介する意図を少し述べておきたい。
血液型性格判断を批判する際の視点として、優生学や差別との関連が語られる。だが、古川のこの本を読むと、関連どころか、始めから差別的な視点に満ちていることがよくわかる。無論、古川には自分が差別をしているという自覚はなかったろうし、また彼を取り巻く人々の間でも、それが差別であるという発想はなかったかもしれない。しかし、そのことは、日本のアカデミズム、あるいは教育者の間では、当然のように差別的に台湾やアイヌの人々を「まなざ」していた、ということを意味する。日本がどのように「まなざ」していたか、ということを物語る一つのエピソードとして、見ていただけたらいいのでは、と思う。
では、以下に『血液型と気質』p.257~p.263、「後篇 訓育への応用 第三章 徳化の問題より見たる台湾蕃人と北海道アイヌ人との民族性の比較」を引用する。引用に当たっては現代仮名遣いに改めた。数字の一部は算用数字にしてある。表題及び「松葉農学博士」の文の引用を除き、太字強調は引用者による。傍点は下線に改めた。数値については上でリンクを貼った大村・浮谷論文を参照されたい。
大村氏は「原文のままでは差し障りがある」と述べたが、血液型性格判断の文脈に留まらず、戦前の日本による台湾等への「まなざし」が注目される現状では、紹介する価値があると考える次第である。
なお、日本から見た台湾については、「Apes! Not Monkeys! はてな別館 」の「『博覧会の政治学』 」「空爆の歴史と台湾 」が参考になるのでぜひ参照されたい。
あと1、2回ほど、『血液型と気質』からは紹介していきたい。それを通じて、血液型性格判断が抱える問題、日本の植民地支配の問題、さらには現代にまで通ずる日本の戦後教育の課題が見えてくるのではないか、と思う。
さて、古川竹二は戦前の人物なので、なかなかその文献に直接触れる機会は多くない。心理学者による紹介がPDFになってあちこちに散在してたり、『現代のエスプリ』の特集「血液型と性格 その史的展開と現在の問題点」に割と詳細に述べられている程度である。ネット上で見られる詳しいものとして、「古川竹二の血液型気質相関説の成立を巡って : 大正末期~昭和初期におけるある気質論の成立背景 」(佐藤達哉、渡邊芳之)をここでは挙げておこう。
ところが、幸いなことに、先日、古川竹二の著書『血液型と気質』(1932年)を見せていただく機会を得た。その中で、いままで簡単な紹介のみでしか知らなかった文章について、原文で触れることができ、大変興味深かったので、何回かにわたって紹介していきたいと思う。
最初は、台湾とアイヌ民族を比較した節である。これについては、「北海道人はどんな性格かII(2)アイヌ民族と台湾先住民の比較 」(大村政男、浮谷秀一)に簡単に紹介されている。一部が引用されているのだが、カッコ書きで「古川の文章は原文のままでは差障りがあるので、無難なところだけを引用している」とある(「現代のエスプリ」でも、大村氏が対談の中で簡単に触れている)。これをここでは全文引用することにする。かなり酷い言い方をしているところが随所にあるが、資料として耐えていただきたい。
ところでこの部分を紹介する意図を少し述べておきたい。
血液型性格判断を批判する際の視点として、優生学や差別との関連が語られる。だが、古川のこの本を読むと、関連どころか、始めから差別的な視点に満ちていることがよくわかる。無論、古川には自分が差別をしているという自覚はなかったろうし、また彼を取り巻く人々の間でも、それが差別であるという発想はなかったかもしれない。しかし、そのことは、日本のアカデミズム、あるいは教育者の間では、当然のように差別的に台湾やアイヌの人々を「まなざ」していた、ということを意味する。日本がどのように「まなざ」していたか、ということを物語る一つのエピソードとして、見ていただけたらいいのでは、と思う。
では、以下に『血液型と気質』p.257~p.263、「後篇 訓育への応用 第三章 徳化の問題より見たる台湾蕃人と北海道アイヌ人との民族性の比較」を引用する。引用に当たっては現代仮名遣いに改めた。数字の一部は算用数字にしてある。表題及び「松葉農学博士」の文の引用を除き、太字強調は引用者による。傍点は下線に改めた。数値については上でリンクを貼った大村・浮谷論文を参照されたい。
第三章 徳化の問題より見たる台湾蕃人と北海道アイヌ人との民族性の比較いかがであろうか。血液型性格判断として見た場合、まさに結論ありきの我田引水であり、牽強付会に満ち溢れていると言えるだろう。一方、差別の問題として見た場合、現代から見るならば、あまりにも酷い蔑視である。主なものだけを挙げるとしても、
吾人は次に一民族を徳化する事の難易が、如何に其の民族性と深き関係を有するものであるかを本章に於て考察し、本篇の目標とする訓育研究の資料とし、一は以て為政者の一考を煩し度いと考える。
右の資料として吾人は昭和五年十月、突如蜂起して暴威を振い、残虐を敢てし所謂、霧社事件なるものを惹き起したる、台湾蕃人の民族性を窺い、其の対照として北海道に於けるアイヌ人の夫れをも考察しようと思う。
霧社事件の原因として、台湾警務局は十一月二日左の声明を発表した。(東京朝日新聞 十一月四日所載)
本件の原因に関しては、目下調査中にして正確には判明せざるも、今日までの調査の結果を綜合するに、左記各号の如きは其の主なるものにあらざるか。吾人は以上が果して本件の真の原因であるか否かを知る事が出来ないのであるが、其の直接の原因としては恐らく斯様な事が挙げ得られるのであろう。
一、出役回数増加、元来霧社蕃人は伝統的に他より使役せらるることを潔しとせず、且つ男子は専ら狩猟を事とし労役をいとい、農耕に従事し又は労役に服するは、女子の業となす風習を有す。然るに最近各蕃社とも競ってその改善に努むる傾向あり、その結果として勢い出役回数増加するは免れざる事にして、これに含む所あるものと推せらる。
二、蕃婦関係、此の点に就いては風説あり、内査を進めつつあるも未だ事実を探知するを得ず、唯霧社分室、佐塚警部の妻は白狗蕃頭目の娘なるが、白狗蕃と霧社蕃とは同種族なるも同部族にあらず。故に白狗出身蕃婦の夫に統管せらるるを快しとせざりし事情ありしにあらざるか。尚霧社には往時より内地人と蕃人と結婚したるものあり、その中には円満なる結果を見ず、離婚されたるものあるを恨めるものある事情あるものの如し。
三、マヘボ社頭目の不平、今回騒擾の主謀者については未だ確実に判明せざるも、マヘボ社頭目モーナルダオは性凶暴にして、しばしば不穏の言動あり、且つ彼の妹が明治卅年頃内地人と内縁を結びたるに、その内地人に捨てられてより内地人に対し悪感を持つ事情あり、以上の事実がこんがらかって、モーナルダオは花岡一郎を説き彼の勢力範囲なるマヘボ、ボアルン、スーグ、プカサンの蕃人を糾合し、反抗の挙に出でたるにあらずやと考えられる。と
併し乍ら吾人は、是等直接の誘因の奥に更に最も本質的な因子が潜んで居ると考えるものである。即ち夫れ等外的原因の外に、蕃人夫れ自身の中に本質的の因子を蔵して居る事を思惟するものである。吾人は此の消息を血液型の方面から推知する事が出来るように考える。左に桐原・白・古市の諸博士の調査報告を資料として、台湾蕃人の諸種族の血液型の頻度を表示すれば次の様である。
第百八表
(引用者注:各部族については省略。A/P値は Active/Passive 比の意味であり、A/P= ( O% + B% ) / (A% + AB%) と定義されている。これを団体(活動)性指数と呼んでいる。)
A/P O A B AB 人数 調査者 (台湾人の)平均 1.84 41.18 29.85 21.50 7.50 計3216
日本人 1.08 31.00 38.20 21.20 9.60 20297 ・家二十二氏ノ平均
今是等台湾蕃人の平均の血液四型の頻度と、内地人の夫れとを比較する時、直ちに識者に気付かるる事は、O型者とA型者とに於て、大いに其の趣を異にせる事であろう。即ち内地人に於ては百人中三十人に過ぎないO型者(引用者注:上記表は日本人約2万人、台湾人約3200人のデータ。依って、ここは「30%」程度の意味である)が、蕃人に在っては四十名を越えて居る。然れば即ち蕃人の中半数に近い人々は剛毅沈着であり、強固なる意志の所有者である事となる。吾人が嘗て掲げた団体の中で、O型者の多い団体は陸軍大学出身将校団であり、51.5%がO型者であった。智能に於ては勿論比較すべくもないのであるが、其の気象・気質に於ては両者相通ずるものが有りはしないであろうか。次に温和従順であるA型者は、蕃人に在っては僅かに29.85%であるから、内地人の38.20%なるに比し遥かに少数である。
吾人は此処に彼等の民族性の因て来る事情が存しては居ないかと考えるものである。即ち元来O型者には、前述せる如く自身の強い、精神力の旺盛な、所謂きかぬ気の人が多い。吾人は其の面影を幼児に於てさえ既に見る事が出来る。夫れ故に彼等を徳化するには余程の努力と忍耐とを要するであろう。智育に依ってするも亦容易の業ではあるまい。
斯かる民族性を有して居るが故に、彼等が少数なるに拘らず、決して侮るべからざる底力を有する民族である事を推知する事が出来る。嚮に述べたるが如く松葉農学博士等が馬匹の血液型と其の性癖との関係に就き調査報告せられたものにも、
O型の馬匹は咬癖、蹴癖或は抗癖を有し、一般に悍感強し。とあったのは、又以て類推の資料とする事が出来よう。
台湾蕃人が斯くの如く剽悍なるに反し、北海道アイヌ人は未だ彼等の如き暴挙を敢てした事を聴かないようである。のみならずアイヌ人は次第に退嬰して其の滅亡も遠からずとさえ言われて居る。然らば即ち彼等と台湾蕃人とは、其の民族性が大いに相違して居り、従って調査にかかる報告を表示すれば次の如くである。
第百九表
A/P O A B AB 人数 調査者 日高アイヌ 1.08 22.02
33.33
29.93
14.68
509
二宮Grove二氏ノ平均
十勝アイヌ 1.78 25.53
30.80
38.60
5.15
227
中島氏
平均
1.43 23.78
32.07
34.27
9.92
計736
右表に明かであるように、アイヌ人に於てはO型者が23.78%であるから、台湾蕃人の41.18%なるに比すれば遥かに少数であり、内地人(31.0%)の夫れに比すも亦大いに劣って居る。次にA型者数はアイヌ人も台湾蕃人もほぼ同じであるが、B型者に於ては、アイヌ人に在っては大いに増加して他の三型者の何れよりも多い。斯様にB型者が多い事は、過去を顧み悩む事や、行末を思い煩う事の少い即ち現在を楽しい満足して行く人の多い事を意味して居る。
アイヌ人が内地人に圧迫せられて、次第次第に北方に退きつつある事は、彼等の中に剛毅果敢なO型者が甚だ少数であり、他の三型者が大多数を占めて居る事から当然推知し得られるようである。
以上の如く考察して来ると、台湾蕃人が治台既に三十年に及ぶもなお徳化至難である事も、北海道アイヌ人が内地人の自然の圧迫に抗する気力無く、退きに退いて、自滅せんとしつつある事も、総べて是等の民族中に存する一の不可抗なる原因に依るものでは無いかと考えられる。夫れ故に若し台湾蕃人を温和従順ならしめようとする根本的手段を求むるならば、如上の理由に依って吾人は、蕃人と内地人との結婚に依り、彼等の間のO型者の数を減せしむる事にありと考える。斯様にして彼等の間にO型者が減じ他の三型者が増加する時、血縁に繋る人情の美と相俟って、彼等に対するに武力を以てする必要の無い時代が来るように思われる。勿論吾人の此の要求は其の実行が甚だ困難であるに相違無い。然し乍ら若し教育のみに依って彼等を和げんとするならば、更に長き年月を要しはしないであろうか。
- 日本が行ってきた植民地的・差別的支配に目を背ける(台湾・アイヌ双方に対して)。これは例えば「北海道アイヌ人が内地人の自然の圧迫に抗する気力無く」という文章からも伺える。「自然な」圧迫はないだろう。それに、歴史的には活発な抵抗もなされているのである。
- 台湾の人々による日本の植民地支配への抵抗を抑えるために、内地人と結婚させ「民族改造」を行うべしと提案していること。無論、結婚により融和を図るというのは政略結婚ということもあるように古くから行われてきていることではあろうし、また「血縁に繋る人情の美」というのはまさにそのことを指しているだろう。しかしここでの問題は、「O型の者が多いからその割合を減らしてしまえ」という民族の改造を提案しているということだ。支配者の被支配者に対する傲慢な「まなざし」でなくてなんであろうか。
- 台湾の人々をこともあろうに馬と比較していること。原文でもわざわざ太字で松葉農学博士の文章を引用し、台湾の人々を貶めている。(4)台湾の人々と同様にO型の多い陸軍大学出身将校団と比較する際は、わざわざ「智能に於ては勿論比較すべくもない」とし、台湾の人々を貶め、かつダブルスタンダードとしか言えない論法を駆使していること。
大村氏は「原文のままでは差し障りがある」と述べたが、血液型性格判断の文脈に留まらず、戦前の日本による台湾等への「まなざし」が注目される現状では、紹介する価値があると考える次第である。
なお、日本から見た台湾については、「Apes! Not Monkeys! はてな別館 」の「『博覧会の政治学』 」「空爆の歴史と台湾 」が参考になるのでぜひ参照されたい。
あと1、2回ほど、『血液型と気質』からは紹介していきたい。それを通じて、血液型性格判断が抱える問題、日本の植民地支配の問題、さらには現代にまで通ずる日本の戦後教育の課題が見えてくるのではないか、と思う。
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百人目の患者
ええと特に意味はないんですが。
このブログに飛んで来る際の検索フレーズを眺めていたら、「形態形成場 パンデミック」というのがありまして。
…思わず、あああ、なるほど!! と思ってしまったのでした。いや、不謹慎なのはわかっているんですが。(^^;;
※シェルドレイクの「形態形成場理論」はトンデモです。「百匹目の猿現象」も作り話に基づいたトンデモです。そんなことは起こりませんので念のため。
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『この世界の片隅に』(下、こうの史代)
…言葉にできないくらい、凄かった。上中下の下巻。
舞台は戦中~戦後の広島・呉。そこでの日常が、淡々と描かれる。淡々とではあるが、戦禍は確実にやってくる。淡々と主人公を取り巻く人々の日常が描かれることで、戦争の被害が「数字」ではなく「個」に与えるものとして描かれるのだ。
実際、この作品を読んでも、空襲の被害や被爆の全体像はわからない(欄外に注釈が書かれてはいるが)。しかし、それが日常を生きる人々にどのような影響を与えるかは痛いほどわかる。
ぜひ読んで欲しい作品なので、内容については書かないでおくが、特に印象に残った部分をいくつか。
社会構造や加害が垣間見れる場面が一つある。玉音放送のあと、主人公・すずが敗戦に納得できず、「最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?」と外へ出ていく。戦うことが正義と信じ込まされていたすずが、外で出て見たものは、翻る太極旗。そこで、すずは自分が信じていたものが正義ではなかったことに気づき、慟哭する。
もちろん、現実にはそこまで一瞬で見抜く人などそうそういなかっただろうが、この描写があることで、この戦争の意味付けが鮮かになされるのである。
すずに感情移入して読んでいると、この瞬間に自らが信じていたものの欺瞞性が暴かれ、胸が締めつけられそうになる。
玉音放送を描いた作品は山ほどあったと思うが、ここまで鮮かに戦争あるいは侵略というものの本質を描いたものはそうそうなかったのではないか。
空襲で怪我をし、絵が描けなくなることを悟る場面も秀逸だ。単に絵が描けなくなったということだけではない。そこに、すずと他者との関係性の積み重ねが描かれることで、空襲の被害というものの意味が、単なく肉体の損傷というもの以上であることが示される。
最後の場面、広島で出会った戦災孤児とのエピソードは、「その後」への希望を感じさせ、作品全体を感慨深いものにしている。鉛筆で描かれた「手紙」から、すずたちへとつながっていく展開もすばらしい。
内容に触れないように書いたつもりなので、読まないと通じないかもしれない(すいません)。でも、これは読む価値あると思うので。
ついでに、これは日常生活の描写が(マンガタッチではあるが)実にリアルである。それは資料をふんだんに活用しているからなのだろうが、当時の生活というものが想像できるようになっている。
リアルなのは生活についてだけではない。兵器もまたリアルなのだ。呉が舞台だから、戦闘機の類のイラストも出てくるのだが、それが結構リアル(マンガタッチではあるけど)。翼の位置とか。彗星や紫電が描かれてて、思わず見入ってしまった(彗星については、子どもの頃に見たテレビの特番で、南洋諸島で発見された彗星の残骸を日本に持ち帰り、復元するというのが今でも印象に残っている。紫電については、もちろん『紫電改のタカ』ですね)。
それから焼夷弾がまたリアルで、クラスター爆弾であることがわかるような描写がされている。
『夕凪の街・桜の国』は映画になったが、この作品は連続ドラマのような形で日常を丹念に描いて欲しいなあと思う。うまく膨らませられれば、NHKの大河ドラマにもなるのではないか。
ちょっとベタボメすぎたかな。でも、それぐらいインパクトがあった。
ちょうど、ノーベル平和賞受賞者17人による、核兵器廃絶へ向けてのアピールが出た(「ノーベル平和賞受賞者ヒロシマ・ナガサキ宣言 」)。旧態依然の日本政府は相変わらず情けなく、米・オバマ大統領が核兵器廃絶へ向けて演説をし日本共産党からの書簡に返事まで出すようなこの御時世に、梯子を外されたような格好だが、「名誉ある地位を占め」るため、努力をしてもらいたいものである。
舞台は戦中~戦後の広島・呉。そこでの日常が、淡々と描かれる。淡々とではあるが、戦禍は確実にやってくる。淡々と主人公を取り巻く人々の日常が描かれることで、戦争の被害が「数字」ではなく「個」に与えるものとして描かれるのだ。
実際、この作品を読んでも、空襲の被害や被爆の全体像はわからない(欄外に注釈が書かれてはいるが)。しかし、それが日常を生きる人々にどのような影響を与えるかは痛いほどわかる。
ぜひ読んで欲しい作品なので、内容については書かないでおくが、特に印象に残った部分をいくつか。
社会構造や加害が垣間見れる場面が一つある。玉音放送のあと、主人公・すずが敗戦に納得できず、「最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?」と外へ出ていく。戦うことが正義と信じ込まされていたすずが、外で出て見たものは、翻る太極旗。そこで、すずは自分が信じていたものが正義ではなかったことに気づき、慟哭する。
もちろん、現実にはそこまで一瞬で見抜く人などそうそういなかっただろうが、この描写があることで、この戦争の意味付けが鮮かになされるのである。
すずに感情移入して読んでいると、この瞬間に自らが信じていたものの欺瞞性が暴かれ、胸が締めつけられそうになる。
玉音放送を描いた作品は山ほどあったと思うが、ここまで鮮かに戦争あるいは侵略というものの本質を描いたものはそうそうなかったのではないか。
空襲で怪我をし、絵が描けなくなることを悟る場面も秀逸だ。単に絵が描けなくなったということだけではない。そこに、すずと他者との関係性の積み重ねが描かれることで、空襲の被害というものの意味が、単なく肉体の損傷というもの以上であることが示される。
最後の場面、広島で出会った戦災孤児とのエピソードは、「その後」への希望を感じさせ、作品全体を感慨深いものにしている。鉛筆で描かれた「手紙」から、すずたちへとつながっていく展開もすばらしい。
内容に触れないように書いたつもりなので、読まないと通じないかもしれない(すいません)。でも、これは読む価値あると思うので。
ついでに、これは日常生活の描写が(マンガタッチではあるが)実にリアルである。それは資料をふんだんに活用しているからなのだろうが、当時の生活というものが想像できるようになっている。
リアルなのは生活についてだけではない。兵器もまたリアルなのだ。呉が舞台だから、戦闘機の類のイラストも出てくるのだが、それが結構リアル(マンガタッチではあるけど)。翼の位置とか。彗星や紫電が描かれてて、思わず見入ってしまった(彗星については、子どもの頃に見たテレビの特番で、南洋諸島で発見された彗星の残骸を日本に持ち帰り、復元するというのが今でも印象に残っている。紫電については、もちろん『紫電改のタカ』ですね)。
それから焼夷弾がまたリアルで、クラスター爆弾であることがわかるような描写がされている。
『夕凪の街・桜の国』は映画になったが、この作品は連続ドラマのような形で日常を丹念に描いて欲しいなあと思う。うまく膨らませられれば、NHKの大河ドラマにもなるのではないか。
ちょっとベタボメすぎたかな。でも、それぐらいインパクトがあった。
ちょうど、ノーベル平和賞受賞者17人による、核兵器廃絶へ向けてのアピールが出た(「ノーベル平和賞受賞者ヒロシマ・ナガサキ宣言 」)。旧態依然の日本政府は相変わらず情けなく、米・オバマ大統領が核兵器廃絶へ向けて演説をし日本共産党からの書簡に返事まで出すようなこの御時世に、梯子を外されたような格好だが、「名誉ある地位を占め」るため、努力をしてもらいたいものである。
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