血液型性格判断・ニセ科学・差別、あるいは「科学」と「価値」 | ほたるいかの書きつけ

血液型性格判断・ニセ科学・差別、あるいは「科学」と「価値」

 きくちさんのこのインタビュー記事 をきっかけに、あちこちで血液型性格判断に関する議論(というかなんというか)がまきおこっているようですね。私のところへのリンクを貼っていただいたり、あるいはブクマの関連エントリということで飛んで来られる方もそれなりにいらっしゃるようです(というか、ログを見てて気がついた。ちょっとまた忙しくて、こんなにあちこちで騒がれていると気付いてなかった)。
 で、ちょびっとだけ見て、いくつか気になったことがあるので、過去エントリへのリンクを示しながら、簡単にコメントしたいと思います。

 血液型性格判断はニセ科学でもあるし差別とも絡んでいます。これはTAKESANさんが主張されている通りですね。人によって重点の置き方は違うけれども、でもまあ「差別」であるということはほぼ自明であるので、今更あまり論じられてこなかったのだと思います。それはもちろんネット上でのことで、血液型性格判断を取り上げている(批判的にですよ、もちろん)心理学関係の書物などでは、たいてい差別のことにも触れられています。
 いやもちろん「自明」だとは言えないのが残念ながらいまの社会的状況ではあるのでしょうけれどもね。
 私も差別に関しては以下のエントリで取り上げたことがあります。
   血液型性格判断前史
   『AERA』11/19:血液型性格判断を肯定

 メディアということでは、これも関係するでしょう。
   血液型と性格に強い関係はないことがわかっています
   『an・an』の血液型特集:ダメだこりゃ

 これらをふまえた上で、では科学的には「血液型と性格」の関係はどうなっているのかについて、以下を見ていただければと思います。
   「血液型と性格」論文レビューをするにあたって
   「血液型と性格」の正しい理解のために:松井(1991)その1
   「血液型と性格」の正しい理解のために:松井(1991)その2

【ニセ科学であることと差別であること】
 「血液型と性格」も、ある意味「水伝(水からの伝言)」と似たような面を持っていると言えるでしょう。
 「水伝」において、(A)その道徳の部分(あるいは価値判断の部分)である「ありがとうと言いましょう」を導くために、(B)「『良い』言葉をかけると『綺麗な』結晶ができる」、という「ウソ」をついたわけです(提唱者である江本勝が自覚しているかどうかはわかりませんが)。「水伝」の価値判断に関わる部分は、その「ウソ」がウソであると判明した時点で崩れ去ります(論理的には)。
 ここで、価値判断の部分は、単に「ありがとうと言いましょう」にとどまりません。「たかが」水に、高度に発達した精神活動を行う人間の意思を従属させるという問題、人間関係から生じ、また人間関係そのものとも言える「言葉」そしてその意味付けを、人間から独立した存在に委ねることの危険性。論理的につきつめて考えていけば、「水伝」の価値判断そのものが、大きな問題を抱えているということに気付くはずです(これらについても多くの議論の蓄積があります)。
 そして、この「水伝」の価値判断が問題であるということは、仮に「良い」言葉が「綺麗な」結晶を作ることが本当だったとしても、問題であることは論を待たないでしょう。Bが成り立たなければAは崩れ去りますが、Bが成り立とうが成り立つまいが、AはAとしてそれ自身で問題なわけです。

 血液型性格判断においても、社会における受容の仕方を見てみれば、同様に(a)血液型で人物を判断するという「差別」の部分と(b)血液型と性格に強い相関があるという「ウソ」の部分があるわけです。ここで a の中身を見てみれば、就職差別や人事における差別という明らかに問題となることもあれば、人間関係がうまくいかないことを血液型の「相性」のせいにしてしまうという、コミュニケーションの観点からはまさに「退廃」としか言いようのない結論を導くことも含まれるわけです。 a が成り立つためには b が成り立っていないといけないのは自明です。だから、多くの人は b について、つまり血液型性格判断のニセ科学性について言及する。だが、たとえ b がウソではなく、強い相関があったとしても、それを理由にやってはいけないことってのは世の中あるわけです。

 「水伝」の場合には、Aの部分の問題が結構入り組んでいて、問題が問題としてあまり気付かれにくいという面がありました。それに比べると、血液型性格判断の場合の a の問題はあまりにもわかりやすく、もはや論じるまでもない、というところでしょうか。

 というわけで、血液型性格判断に関しては、「ニセ科学」でありかつ「差別」の問題であると言えるのです。そして、血液型性格判断のニセ科学性を批判する人の多くが、その根底には「差別」という問題があると捉えている、という印象を私は持っています(持ってない人もそりゃいるでしょうけど)。批判することで優越感を持つ人がいるのかどうかは知らないけれど、言ってることが理にかなっているならば、その人が優越感を持ってたって別にいいんじゃないですかね?大事なのは、血液型性格判断がきちんと批判され、この社会において、重要視されなくなるということなんじゃないでしょうか(人に反感を持たれるような優越感があるとすれば、それはちょっと困りものですが)。

【「血液型と性格」と「性格の定義」について】
 さて、科学としての血液型の問題の方にいったん焦点を絞りましょう。
 そもそも「性格」ってなんでしょうか。定義できるもんなんでしょうか。
 無論、それについては色々な議論があります(『モード性格論 』あたりを見るのが良いかと思います)。が、いちおう主流の考えは考えとしてあるわけです(ごく大まかには5つに分類される、という、ビッグファイブ仮説)。もちろん10年後にどうなっているかはわかりません。が、多くのプロの研究者が妥当であろうと「今」考えていることを蔑ろにすることが建設的とはとても思えません。なので、自己評定により性格を定義し、それと血液型の相関について調べるというのは十分に意味があります。
 もし、このレベルで相関があるとは言えないということになれば、「自己評定による性格」は血液型との強い相関がないということになります。では、その場合、血液型性格判断が生き残るにはどういう道があるでしょうか?
 一つ考えられるのは、本人による評価ではなく、他人による評価でしょう。
 しかし、これを調査するのはかなり大変だと思われます。ですので、相関があることを示すということ自体がとても大変になります。そして、そのような調査結果は(私の知る限り)ありません(もしかしたらあるかもしれませんが)。それに、もし他人による評価が本人による評価と強い相関があれば、結論は結局変わらないことになります。
 では、そもそも性格など定義できないとしたら?となると、「血液型と性格」の相関を論ずること自体に意味がなくなります。つまり、「血液型と性格に強い関係がある」という言明は事実に反するわけです。事実に反することを、さも科学的根拠があるように主張するわけですから、結局「血液型性格判断はニセ科学だ」ということになりますよね。
 こういったことは、kikulogの「血液型と性格」1、2、3 (リンクは「3」にはってあります)の3000コメントに及ぶ議論の中ですでに出されていることでもあります。

【科学と価値】
 ここでちょっと視点を変えて、先日「ニセ科学批判」界隈で議論になっていたことに目を転じてみましょう。たとえば反社会的な宗教を科学の立場から(あるいはニセ科学批判の一つとして)批判することはどういう意味があるでしょうか?
 オウムのようなカルト集団は、その根本の教義の部分では完全にオカルトであり、事実に即するかどうかという話よりも、いかに教祖に帰依するか、のような「価値判断」そのものがコアになっていると言えるでしょう。しかし、それを根拠づけようとして様々なニセ科学的言説が散りばめられます。
 科学(あるいはニセ科学批判)にできるのは、そのような「ニセ科学的言説」を批判することだけです。(客観的な)事実関係とは独立した価値判断については、どうしようもありません。
 逆に、どうかできちゃったら困ったこともおきるわけです。つまり、価値判断と科学的真偽が切っても切り離せないものだとしたら、たとえば「ありがとう」と言ったら綺麗な結晶ができるなら、我々は「水伝」に従わないといけないのでしょうか?そしてようやく本題に戻りますが、血液型と性格に強い相関がもしあったとしたら、血液型で差別されることも容認しないといけないのでしょうか?
 客観的な事実関係と、価値に基づく判断を分離しておくことは、実は我々人間の「価値」そのものを守ることにもつながるのだと思います。たとえば「体に悪いものほど美味しい」なんて言いますが、体に悪いものを自分の判断で食べるのは「悪」なのか?だとすれば、人間の文化って一体なんなんだ?ということになるでしょう。
 たとえ血液型性格判断に科学的根拠があったとしても、血液型で人を判断してはいけないんです。それが人間が長年の経験から産み出してきた智慧であり、文化なのではないでしょうか。

【おわりに】
というわけで、簡単にと言いつつついつい書き過ぎてしまいました。長文すいません。
 簡単にコメントするだけのつもりでしたので、今回は「血液型性格判断はエセ科学問題ではなく差別問題だ 」(狐の王国さん)と「血液型性格判断がニセ科学だなんてニセ科学だぜ 」(sonickhedgeさん)のエントリ、及びこれらへのブックマークコメントを見てこのエントリを書きました。
 ちなみに「ソース出せ」が出ましたね。「「血液型と性格」論文レビューをするにあたって 」で表明していた懸念が現出しました(苦笑)。具体的にどういう研究がされているかをちょっとでいいので見ていただければと思います。

 こんなに長く書くつもりはなかったので、本来参照すべきブログ・エントリがいくつもあるのですが、省略します。すみません。一つだけ、割と最近のエントリで、差別について論じているものがありますので、参考までにそこにだけリンクはらせていただきます(「「血液型性格判断」批判 前編:ニセ科学批判の練習問題 」(みつどん曇天日記);後編もぜひ)。

(追記)TAKESANさんとこのエントリ「色々説明 」が、上記sonickhedgeさんのエントリについての詳しい説明になっていますので、ご覧いただくとわかりよいかと思います。それと、後半には血液型性格判断に関する膨大なリンク集がついています(私も目を通したことがないものもあったりします)。どれだけ膨大な議論の蓄積があるか、感じ取っていただければ…と思います。
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