鶴ヶ城(会津若松城)
悲劇の名城。会津若松城は、美しくも悲しい城です。
雪国会津若松市にある鶴ヶ城に雪が降り積もると、一面の雪景色にけぶるとうに立つ天守閣が儚げな姿を見せてくれます。
桜の時期には、満開の桜が花びらをひらひらと堀に落とし、それがこの悲劇の城に彩りを添え、
明治という新しい時代を作るための礎いや生贄となった人々にどうしても思いを馳せることとなります。
【鶴ヶ城の歴史】
◆葦名氏~伊達氏の時代
会津の長年支配していた葦名氏の七代目蘆名直盛が築き、代々蘆名市の居城として栄える。
戦国時代には葦名氏が会津を中心として周囲に力を示したが、奥羽の独眼竜伊達政宗と激戦を繰り広げた結果、葦名氏は滅ぼされ伊達氏の支配下にはいった。
しかし、当時は既に豊臣秀吉の元で天下は治まりつつあり、政宗は大名同士の私闘を禁じた秀吉の怒りに触れ、有名な秀吉の小田原攻めに参陣した後、臣従を許され命は助けられたものの会津周辺の土地を取り上げられた。
◆蒲生氏~上杉氏の時代
代わって会津へは信長の娘婿として将来を嘱望されていた蒲生氏郷が入り、関東の徳川家康と奥州の伊達正宗の両者に
睨みを利かせることになった。
次代のホープとして期待されていた氏郷だが、1556年に40歳の若さで没してしまう。
その後を嫡男の蒲生秀行が継ぐが若年ということもあり、枢要の地会津は取り上げられ、
上杉景勝が120万石の太守として入城。
秀吉としては最大のライバル家康を北の会津から牽制してくれる実力を持った大名を置きたかったと言われている。
一説では、氏郷が死去した時に秀行に継がせたくなかったものの甥の秀次が認めてしまったため認めざるを得ず、秀次の戦略眼の無さに失望したとの話も伝わっている。
◆関ヶ原~江戸時代
その後、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことで当地を支配する上杉家は米沢に転封され、会津は蒲生秀行~加藤嘉明と移り変わる。
そして1643年に家光の弟である保科正之が入ることで、明治維新まで松平氏が支配することになる。
この保科正之が藩祖となったことで会津松平藩の方向性が定まることになった。
正之は朱子学を信じるとともに家光に固く信頼されたことで、徳川家への恩義や忠義、武士としての理想の生き方を藩の方針とし、幕末に至るまで戦国~江戸時代初期の侍としての精神を持ち続けた精強な会津藩を作り上げた。
★会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。そのほかに有名な会津の訓示として「ならぬものはなりませぬ」も含蓄(笑)のある言葉です。
http://bakumatu.727.net/aidu/aidu-kiso-kyoiku-ju.htm
◆幕末~明治
幕末には戦国最強の一角を占め旗本八万騎と称された三河武士も侍魂を失い、戦闘員として役に立たなくなっていた時代に、黒船から始まる戦乱に会津松平藩が登場してきたのも藩祖の強烈な方針が生きていたからです。
しかし、斜陽の徳川将軍家に忠義を尽くし京都守護職として攘夷志士達と戦い続けた会津藩はその忠誠心を天皇・将軍に称されながら、薩族会奸と並列に並べられ長州系浪士と相いれなかったはずの薩摩藩が坂本竜馬・中岡慎太郎の尽力により薩長同盟が成立したとたん、会津藩が最大の敵とされ、京都~大阪~江戸~会津と戦線が展開される中で、最後まで抵抗を続けることになったのです。
最終的に新政府軍と会津を中心とした奥州越列藩同盟の戦いは、会津鶴ヶ城の攻防戦が最大の激戦となり、白虎隊の悲劇、土方歳三の奮戦、西郷頼母の件など悲劇を幾つも生み出し落城しました。
会津若松城の美しき姿を見る時には過去の歴史を振り返りながら見ると、また違った観点で見ることができます。
悲劇の名城。会津若松城は、美しくも悲しい城です。
雪国会津若松市にある鶴ヶ城に雪が降り積もると、一面の雪景色にけぶるとうに立つ天守閣が儚げな姿を見せてくれます。
桜の時期には、満開の桜が花びらをひらひらと堀に落とし、それがこの悲劇の城に彩りを添え、
明治という新しい時代を作るための礎いや生贄となった人々にどうしても思いを馳せることとなります。
【鶴ヶ城の歴史】
◆葦名氏~伊達氏の時代
会津の長年支配していた葦名氏の七代目蘆名直盛が築き、代々蘆名市の居城として栄える。
戦国時代には葦名氏が会津を中心として周囲に力を示したが、奥羽の独眼竜伊達政宗と激戦を繰り広げた結果、葦名氏は滅ぼされ伊達氏の支配下にはいった。
しかし、当時は既に豊臣秀吉の元で天下は治まりつつあり、政宗は大名同士の私闘を禁じた秀吉の怒りに触れ、有名な秀吉の小田原攻めに参陣した後、臣従を許され命は助けられたものの会津周辺の土地を取り上げられた。
◆蒲生氏~上杉氏の時代
代わって会津へは信長の娘婿として将来を嘱望されていた蒲生氏郷が入り、関東の徳川家康と奥州の伊達正宗の両者に
睨みを利かせることになった。
次代のホープとして期待されていた氏郷だが、1556年に40歳の若さで没してしまう。
その後を嫡男の蒲生秀行が継ぐが若年ということもあり、枢要の地会津は取り上げられ、
上杉景勝が120万石の太守として入城。
秀吉としては最大のライバル家康を北の会津から牽制してくれる実力を持った大名を置きたかったと言われている。
一説では、氏郷が死去した時に秀行に継がせたくなかったものの甥の秀次が認めてしまったため認めざるを得ず、秀次の戦略眼の無さに失望したとの話も伝わっている。
◆関ヶ原~江戸時代
その後、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことで当地を支配する上杉家は米沢に転封され、会津は蒲生秀行~加藤嘉明と移り変わる。
そして1643年に家光の弟である保科正之が入ることで、明治維新まで松平氏が支配することになる。
この保科正之が藩祖となったことで会津松平藩の方向性が定まることになった。
正之は朱子学を信じるとともに家光に固く信頼されたことで、徳川家への恩義や忠義、武士としての理想の生き方を藩の方針とし、幕末に至るまで戦国~江戸時代初期の侍としての精神を持ち続けた精強な会津藩を作り上げた。
★会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。そのほかに有名な会津の訓示として「ならぬものはなりませぬ」も含蓄(笑)のある言葉です。
http://bakumatu.727.net/aidu/aidu-kiso-kyoiku-ju.htm
◆幕末~明治
幕末には戦国最強の一角を占め旗本八万騎と称された三河武士も侍魂を失い、戦闘員として役に立たなくなっていた時代に、黒船から始まる戦乱に会津松平藩が登場してきたのも藩祖の強烈な方針が生きていたからです。
しかし、斜陽の徳川将軍家に忠義を尽くし京都守護職として攘夷志士達と戦い続けた会津藩はその忠誠心を天皇・将軍に称されながら、薩族会奸と並列に並べられ長州系浪士と相いれなかったはずの薩摩藩が坂本竜馬・中岡慎太郎の尽力により薩長同盟が成立したとたん、会津藩が最大の敵とされ、京都~大阪~江戸~会津と戦線が展開される中で、最後まで抵抗を続けることになったのです。
最終的に新政府軍と会津を中心とした奥州越列藩同盟の戦いは、会津鶴ヶ城の攻防戦が最大の激戦となり、白虎隊の悲劇、土方歳三の奮戦、西郷頼母の件など悲劇を幾つも生み出し落城しました。
会津若松城の美しき姿を見る時には過去の歴史を振り返りながら見ると、また違った観点で見ることができます。