遠い夏に想いを -85ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 このところ天気が変わりやすく、健康に気を付けないと、直ぐに体調を崩してしまいそうですね。私は花粉症ではないのですが、花粉が盛んに飛んでいるようで、花粉症の人には辛い季節です。


 日本で杉花粉の飛ばない地域といえば沖縄と北海道です。沖縄は台風など風が強く、杉が育たないそうです。北海道は気候の関係で杉が育たないといわれています。北海道では札幌市の北海道神宮の裏手に植わっている杉の大木が北限といわれていますが、実際はもう少し北の方らしいです。私は札幌生まれなので、子供の頃にこれ等の杉を見ています。とにかく杉は少ないところです。


 ですから、この時期に沖縄か北海道に行けば花粉症にかからないでしょう。但し北海道には白樺の花粉症があります。時期は4月~5月ですが。北欧には多いそうですが、北海道では白樺の花粉症にかかったって話は余り聞きません。


  札幌郊外の白樺林
白樺

 さて、庭にボケの蕾が芽を出し始めました。綺麗な可愛い花ですが、どことなく淋しげな花です。学名にSpeciosaという言葉がついています。「美しい」とか「華やか」などの意味があるそうですが、イタリア語では「もっともらしい」という意味らしく、どっちが正しいのか解りません。

ボケ

 更に、昔に植えたミニバラが一輪だけだけずっと咲いています。じっと寒さや雪に耐えているようで、もう枯れかけていますが、淋しそうです。

ミニバラ


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ





 また昔の話で恐縮です。コーヒーを飲む店をカフェでなくて喫茶店といいました。今でも喫茶店といいますが、絶対カフェとはいいませんでした。フランスではカフェですが、日本ではカフェは夜のお酒を飲む場所でした。時代とともに用語が段々変わってきます。女性が身につける衣類などはすっかり名称が変わりましたよね。

 大学に入った頃は井の頭線の久我山に住んでいましたから、新宿の方が近いのです。しかし新橋の弦楽器店の息子さんに、一時期ヴァイオリンを習ってましたので、遊びに行くときは銀座のほうが多かったです。映画館全盛期で、他に娯楽もなく、よく映画を見に行きました。映画といえば日比谷の映画街でした。

 「レベッカ」、当時読んだ英語のペーパーバック
レベッカ英語

 映画に関しては日比谷の方が新宿より封切り館が圧倒的に多かったです。有楽町の駅から西銀座に抜ける細い道には「レベッカ」という小さいけれど洒落た喫茶店がありました。当時、ダフネ・デュ・モーリアの「レベッカ」がローレンス・オリヴィエやジョーン・フォンテインで映画化されました。ヒチコックの名作です。"Last night I dreamt I went to Manderley again"の回想で始まるスリリングな小説です。レンタルビデオ店で置いてあると思います。当時、日本でも「レベッカ」ブームが起きました。逢引 ( これも死語ですね、デートのことです ) するには隠れ家的な喫茶店でした。

 しかし、今でも一番記憶に残っている喫茶店は、銀座の並木通りの3丁目の角にあった店です。「エチュード」という名曲喫茶です。洒落た店内は照明を少し落としてあります。入り口の側に今では考えられないほどの大きなスピーカーボックスがおいてあります。当時はアンプなど全て真空管の時代でした。LP版はモノラルが大半で、ステレオが出始めていました。大きなステレオの音量が流れ、客は静かに黙って聴いています。

 ある日、店に入るとヴァイオリンの響きがします。魂にガツンとくるほどの音色で飛び上がりそうになり、店の女性に訊きました。
「誰の演奏ですか?」
「ちょっとお待ちください」
奥に行って戻ってきた彼女が小声で言います。
「シェリングだそうです」
曲はバッハの無伴奏のシャコンヌですが、あまりの素晴らしさに身が引き締まる思いでした。

パルティータ2番よりシャコンヌ/H・シェリング(興味ある方は聞いてみてください)
これはデジタルでライブですから当時のLPの音とは全然違いますが。


 店を出ても、頭の中はヴァイオリンが鳴り響いています。
ぼんやりと並木通りを歩いてきて、晴海通りで銀座4丁目の地下鉄駅に向かって進んでくいくと、小雨が降ってきます、そして急に大粒の雨になってきました。

「傘に入りません?」
突然、若い女性の澄んだ声が私の頭のなかの音楽と共鳴したのです。
驚いて振り返ると傘をさした女性が傍にいました。
「私のでよかったら」
「あっ、有難うございます」
私は何の躊躇もなく傘に入れてもらいました。
「地下鉄の駅までですから、直ぐそこです」
大粒の雨の中、80メートルほど女物の小さめの傘の下で寄り添って歩きました。
その間どんな言葉を交わしたか覚えていません。
19歳の私より4~5歳年上の23歳くらいだったと思います。
美しい人です。
「どうも有難うございました」
この見知らぬ美しい女性にお礼を述べて別れました。
通り雨のように雨はこやみになり、地下鉄駅の入り口で空を見上げていました。
彼女は銀座の4丁目の交差点を右に渡り銀座通りに消えて行きました。
当時は年上の若い女性に一番魅力を感じていました。
まるで一瞬の幻のようでした。
別れてから胸がドキドキしたのを覚えています。

 残念ながらプレイボーイ・タイプじゃないので、神様がくれた折角のチャンスを逃してしまいましたが、これが恋に発展すれば・・・・そんな馬鹿な、あり得ない、あり得ない・・・・映画の世界じゃあるまいし。

 当時は若かったんですね。 昔の思い出です。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページ
にもどうぞ


 義理の妹夫婦が夕方突然やってきました。市民農園に彼が畑を借りて3年目になりますが、今年の抽選で更に1年間の延長が決まり、新しい場所に移る前に、今までの土地を整理しなきゃならない。


農園

 そんな訳で畑に残っていたイタリアン・パセリと長ネギを車で持ってきてくれました。イタリアン・パセリは2年は枯れずに葉をつけるらしいので、後で鉢に植え替えました。


パセリ

 ついでに飼い猫のソラを連れてきました。他人の家に行くのは初めてらしい。前回見たときより一回り大きくなっていました。まだ生後9ヶ月しか経っていないのに、猫の成長は早い、もう大人のニャンコです。


ソラ1

 家では戸や窓を閉めてから、ボストンバッグを開けました。顔だけ出して周りをキョロキョロ。バッグから出て部屋の様子を見ていましたが、次の瞬間、いきよいよく突進。家中の部屋を次から次へと走り回っている。隠れる場所を探しているのだろうか。

ソラ3

 風呂場に行って空の浴槽に入り、底の濡れた水を舐めている。


ソラ2

 次は居間に戻って、テーブルの下に潜り込みました。出てこないので、水を小皿に入れてやるけど飲まない。「しらす」でご機嫌とりをしても食べない。いつもの猫パンチもないし、雑魚の袋を開ける音を聞いただけでとんでくるらしいが、耳をピクリとさせるが、そのままじっとしている。いたっておとなしい。



ソラ5

「猫用でないけど、日頃もらっているしらすより上等なのよ」

そう言っても食べようとしない。


ただ泣き声がだんだん甘えるような声になってくる。
「『借りてきた猫』ってソラみたいなニャンコのことを言うのね」


ソラ6

 この借りてきた猫のソラはテーブルの下に潜ったままで出てこない。知らない家で落ち着かないのだろう。


「ソラ、駄目だね、もう帰ろう」

そう言って彼らはソラを車に乗せ、連れて帰りました。車の中ではバッグから頭を出してキョロキョロみまわす姿が可愛らしかったです。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 前回のブログに水彩画を載せましたね。同時にイヴ・モンタンが歌う「枯葉」のYouTubeも載せました。

 「枯葉」を載せながら、若い頃の記憶を辿っていました。「枯葉」は『過ぎ去った美しい恋を、後悔の念に駆られながら思い出す。北風が枯葉を運んでいくように、愛した人が歌ってくれた歌が今でも聞こえてくる』という趣旨の詩です。

 東京の話になりますが、書店の「紀伊国屋」が新宿駅東口の新宿通りにあります。今でも本店ですが、新しい支店が南口の高島屋の隣にできました。それよりずっと以前、半世紀も昔のことですが、現在の本店がある場所に二階建で、床が軋むような薄緑の木造の店が「紀伊国屋」でした。当時は革新的な書店でした。

 当時の新宿は熱かったなあって思います。ジャズ喫茶など新宿に現れ、当時のベトナム反戦運動家や体制批判家などの若者達も集まる場所になっていました。店の中はタバコの煙で霞んでたっけ。

 音楽と喫茶といえば、名曲喫茶なるものがありました。結構大きな喫茶店で、レコードが買えない、家にプレーヤーがない若者で流行ってました。よくデートの場所として使ったものです。

 そん遠い昔の話です。それより以前に、実存主義が流行ってました。書店の棚にはサルトルやブーボワールやハイデッカーなどが提唱した実存主義の哲学書が所狭しと並んでいました。

 解る解らないは問わず、大学生たる者は実存主義の著書が一冊くらい自分の本棚にいないと恥ずかしい時代でした。今では実存主義という言葉も死語と化しましたが。

枯葉/ジュリエット・グレコ


 それ以前からフランスで流行っていたのが、ジュリエット・グレコ、実存主義時代の女王ともて囃された黒い衣装を纏った歌手です。彼女が「枯葉」を歌いました。そしてイヴ・モンタンが「枯葉」を世界に広め、シャンソンの定番になりました。

プレヴェール詩集

 この「枯葉」の歌詞を書いたのがジャック・プレヴェールでした。この詩は彼の代表作、詩集「Paroles」(言葉)には入っていませんが、プレヴェールは大好きでした。彼はシャンソンや映画に参画し多くの作品を残してます。

 彼の「バルバラ」は一斉を風靡し、私も仏語の文庫本を買ってきて、下手なアクセントで口ずさんだものです。今でもそうですが、翻訳文化が華やかで、少しくらい外国語を勉強しても喋れない聞けない者が普通でした。

 高校時代にフルブライト交換学生としてミネソタに一年間留学した英語の先生が、課外授業で仏語を教えるというので数名集まって習いました。大学の教養科では第二外国語で仏語を取り、仏語経済などを学びましたたが、発音はいたって下手です。仏文出の妻のノッコには結婚前によく笑われたものです。息子のチャオはフランス系の私立学校でしたから、小学低学年からフランス人の先生に仏語を習ってました。だから本物ですが、公立の小学校では無理ですね。今の公立小学校では英語を教えているようですけど。

 それでもプレヴェールは大好きでした。最初の文庫本は仏語と英語の対訳でしたから意味は解りました(上の写真)。

バルバラ/プレヴェールの語り


 Rappelle-toi Barbara
 Il pleuvait sans cesse sur Brest ce jour-la
 Et tu marchais souriante
 ・・・・・・・・
 (想い出して、バルバラ
  あの日ブレストの街は一日中雨だった
  そして君は微笑を浮かべながら歩いて来た
  ・・・・・・・)
で始まる「バルバラ」。雨のブレストで君に出会う。覚えているかい、バルバラ・・・。これは当時の時代を反映した反戦詩にもなっています。フランスのブルターニュのレンヌの先にブレストという街があります。軍港があったために第二次世界大戦でドイツ軍により砲弾が血の雨となって降り注いだ情景を重ねながら、バルバラという女性が雨の中で微笑みながら顔を輝かせ、ある男の懐にとび込んで行くのを見かけるという詩です。

 こんな昔のことを思い出すなんて不思議な感じがします。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページ
にもどうぞ


 紅葉が終わりに近づいた秋の休日、日比谷のビル街は人通りもなく静かです。女性が二人仲良く歩く街の景色を水彩で描きました。お堀端のイチョウの木が黄色に染まって綺麗です。

日比谷


枯葉 / イヴ・モンタン
皆さん、ちょっと古いですが、シャンソンの「枯葉」を聞いたことがありますか?


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページ