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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-フェラーラ  フェラーラのホテルは駅前にあった。両替が必要なので、まだ明るいので出掛けてみる。困るのは、観光地でないと両替屋が殆ど無いのと、銀行は夕方には閉まってしまうので万事休すである。ホテルを出て左折し、裏側の緑地帯をしばらく歩く。この街では、周囲を城壁に囲まれていて、その跡地が緑地帯として残っている。ただ、駅(写真上はフェラーラ駅)周辺には何も無く、両替所は勿論のこと、食事する場所も無い。仕方が無いので、翌日両替をすることにし、15分ほど散歩してホテルに戻った。


 食事はホテルのレストランでする事にする。駅前なのだが、こうゆう不便なところでは、ホテルのレストランも結構はやっている。


 団体客が既に場所を占領していた。ドイツ人だろうか。宿泊客以外の地元のイタリア人もいる。料理もそこそこ美味しく、価格もリーゾナブルだ。小さな少年がウエイターとして一生懸命働いている。日本でなら、小学3年か4年生といったところだろうか。なかなか可愛い。食事が終わる頃、こちらのテーブルにやってきた。


「テレフォン・カードがあったら、使い古しでもいいから欲しい」
「イタリアのテレフォン・カードなどないし、日本のでよかったら、持っているはずだからあげよう」
キャノンのプロモーション用のテレフォン・カードをあげた。彼の英語は「テレフォン・カード持ていたら欲しい」しか出来ない。日本へ帰って、まだテレフォンカードの使い古しがあったら、送って欲しいとホテルの名刺に自分の名前を書き添えて置いていった。帰国後プロモーション用のカードを送ってあげた。丁度クリスマス前であったので、お返しにチョコレートを添えてクリスマスカードが届いた。何とも可愛らしいことだ。

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 今時日本じゃこんな小さなレシートはスーパーでも使わない。これをチケットと呼ぶのは、市立博物館とはいえ無茶苦茶だ。『郷に入れば郷に従え』主義を貫いて我慢して来たつもりだが、こんなやり方をしているところはイタリアでも、我々が歩いて来た限りあり得ない。市営とは言え、横暴としか言いようが無い。気分を悪くして、せっかくのジョットも印象が悪い。ダンテに地獄に落されたスクロベーニの呪いが残っているかのようだ。


遠い夏に想いを-ジョット01  もともと、アレーナ礼拝堂とも呼ばれるこの礼拝堂はローマ時代の円形劇場の跡地に、悪どい高利貸のエンリコ・スクロヴェーニによって建てられたものだ。ジョットに壁画の注文がきて制作が始まったのが1305年、約700年前だ。ダンテが『神曲』を書いたのはラヴェンナだが、その時、スクロヴェーニの父親を悪徳高利貸として地獄に落したのだ。この小さい礼拝堂の内壁にはジョットにより67景におよぶキリストの生涯が描かれている。まさにジョットの礼拝堂なのだ。


遠い夏に想いを-Last Supper  壁画も中には「最後の晩餐」が描かれている。ジョットは使徒を横2列にして描いている。ユダだけは後輪がなく、スクロベーニだろうか、お金をこっそり手渡している。ローマカトリックは何時からマグダラのマリアとユダを悪者扱いにし始めたのだろうか。青をベースにしたジョットの壁画を見ていたら頭がボーっとして、目がチカチカしてきた。


 パドヴァの駅まで歩く。サン・アントニオとガリレオとタルティーニとジョットの街ともお別れ。駅にある小さな荷物預かり所でバゲージを取り、フェラーラに向けて汽車に乗る。フェラーラまで1時間だ。

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遠い夏に想いを-スクロベーニ  市内の繁華街を抜けて、スクロベーニ礼拝堂まで来た。礼拝堂に通り入ろうとして、守衛に呼び止められた。
「切符はあるか」
「無い」
「博物館行って買ってこい」
言われた通り博物館に行った。
「スクロベーニだけのはない、博物館全部だ」
「博物館は朝見たから、スクロベーニだけでいい」
「そんな切符はない」
仕方が無いから、大声で怒鳴った。
「全部くれ!」
スクロベーニに戻った。
「切符を出せ」
「切符なんか無い、金は博物館で払った」
「切符を見せろ」
見終わって出て行こうとしていた婦人が、このやり取りを見かねて近づいて来た、
「これ持っている?」
そう言って示したのは、小ちゃなレシートだ。

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遠い夏に想いを-サン・アントニオ02 さんと別れて、広場に立つと、眼前にサン・アントニオ教会が聳え立つ。ロマネスク様式、ゴシック様式、ビザンチン様式が入り組んだ建物で、13世紀に建築が始まっている。堂々とした聖堂である。左手にドナテッロのガッタメラータ騎馬像が立っている。ドナテッロはダヴィンチの先輩で写実を得意とした彫刻家だから、今にも動き出しそうな気配さえする騎馬像である。


 サン・アントニオ教会の中に入った。聖アントニオはポルトガル出身の聖人である。ここはさすがに聖地だけあって、教会の内部装飾や聖遺物の展示が他とは違う。ドナテルロが主祭壇を造ったというが、厳かで素晴らしい祭壇である。サン・アントニオの遺体が収まっているという棺には小さな紙片が沢山はってある。子供の写真を棺に押し付けて願いを込めて祈っている母親。さまざまな人たちが次から次へとお祈りにやってくる。心をこめて祈るというのはどんな宗教でも感動的である。祈りの熱気に押されて、サン・アントニオの回廊を抜けて外に出た。


遠い夏に想いを-prato della valle  帰りは、戻るだけなのに、何を勘違いしたのか(ノッコは最初から違うよと言っていた)さらに南下し、Prato della Valleという大きな庭園に出てしまった。イタリア式庭園の周囲には石像群が立ち並ぶ。物凄い大きな楕円形のシンメトリックな庭だ。こうゆう庭は私の感性が受け付けない。意外なところに出てしまった。なにせ、この街はガリレオ・ガリレイの街だ。振り子のように戻ればいいのさ、とか何とか痩我慢ともつかない冗談を言いながら、駅のほうへ引き返した。

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 またある日、アカデミア橋の向う側の裏道を歩いている時、チャオが「おしっこがしたい」と言い出し、運河にしろとも言えず、はたと困っていた時、向うからおばあさんが杖を突きながらゆっくり歩いてくる。


 今では信じられないが裏通りとはいえ人通りはなく、店屋も見当たらない時だったので、地元のおばあさんなら判るだろうと思い訊いた。
「この辺に公衆トイレはありませんか」
「公衆トイレはないだろうよ、だけど、その先に床屋があるでな、わしが行って話してやるよ」
そう言いながら、杖を突きつき30メートルほど行って、床屋のドアを開けて叫んでいる。


「ここは床屋だ、トイレなんぞ貸す訳にゃいかねーな」
床屋のおやじが怒鳴っている。
「外国の子供だ、何とかしてやれや」
おばあさんもやり返す。
「この先にカフェがあるからそこで借りろって伝えな」


 おばあさんが戻って来た。
「本当に有り難うございました。いや、この近くにカフェがあることが判っただけでも有り難いです」
そう礼を述べて別れた。カフェに入るとノッコはチャオをつれてトイレに飛び込んだ。あの時のカフェのエスプレッソが確か一杯40リラだったっけ。テーブルで飲むと高いので、カウンターでの立ち飲みだった記憶がある。

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