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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

「イタリアではないと思うけど、出身はどこなの?」
私は英語で訊いてみた。
「クロアチアよ」
女房が答えた。
「えっ、クロアチアなの」

一瞬考え込んでしまった。
「クロアチアか。大変ですね。2人の幸運を祈りますよ。ミュンヘンでがんばってね」


 私にはそれしか答えられなかった。クロアチアを逃れて、ミュンヘンに来て働いている夫婦。店を借りて食堂を開いているくらいだから、ある程度の蓄えはあったのだろう。しかし、ユーゴの政治情勢やセルビア人とクロアチア人の紛争、国連軍の監視などの話したところで何の意味があろうか。共産主義者のチトーがいなくなればユーゴスラビアは分裂することは判っていたのだから、考えても意味がない。


 私たちは彼等に何が出来るのだろうか。この店で出来るだけ食べて飲んであげるだけだ。そして、彼
等の不運に理解を示し、彼等の未来に成功を祈るしかないではないか。


 バターソースのショートパスタはまあまあ美味しかった。
「元気を出して、頑張ってね」
我々にはこの言葉しかなかった。
「有り難う」
クロアチアの2人は答えた。
私達はドアを押して雨がぱらつく暗い夜の通りへ出た。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 突然、店の前の通りを日本人の若い集団が、しかも、修学旅行の生徒だろうか、店を覗きながらゾロゾロと列を作って通り過ぎて行った。先生が引率しているといっても、こんな夜遅く、しかも余り雰囲気がよくないこの界隈で何をしているのだろう。一瞬、驚いて、開いた口が塞がらなかった。若いうちから他国の習慣や文化に直接触れる機会をもつことはいいことなのだが。


 最近、有名高校の修学旅行に海外を訪れるケースが多い。シーズンを外しての団体旅行だから、円高で国内旅行旅行より安上がりだ。中国、東南アジア諸国、オーストラリアはおろか、アメリカ、ヨーロッパにまで足を延ばす。我々の高校時代には考えられない。


 ヨーロッパでも昔から近隣の国の子供達が先生に連れられて修学旅行にやってくる。パリでもルーヴルの広場で小学校高学年の子供達がばらばらで歩いている。日本の修学旅行のように統率のとれた集団ではない。子供達に訊くと「スペインから」とか「イタリアから」と答える。ヨーロッパ域内は陸続きだから、他国の文化は自国の文化同様にヨーロッパの遺産として共有する意識が強い。


 この店の亭主は痩せて無口で愚直そうな男である。それに反して、女房は体格がよく明るくて活気があり、楽観的な女性で、暗い感じの亭主を励ましている。30代の夫婦だろうか、夫婦の間で喋っている言葉はドイツ語でもイタリア語でもない。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 既に8時を過ぎていた。2階の部屋に荷物を置いて、直ぐホテルの一階にあるレストランに行ったが、日本人の団体客が占拠していて食事はできない。この雨の中、夜も遅いし、駅の方まで行く元気も無い。


 とりあえず、ホテルの周辺で探すことにした。このあたりはレストランが軒並み並んでいるが、ひげを生やしたアフリカ、アラブ、インドの男達が集まる店ばかりで、女性を連れて入れそうな店が無い。ノッコも入るのが嫌だと言う。


 仕方が無いので、小路の角にあるピザ屋に入ることにした。黄色の半円形の看板にピッツエリアと書いてある小さな店だが、客らしい人影が無い。店では店の主人と女房が夕食を取っている。


遠い夏に想いを-pizzeria

 背の高いテーブルを前に、スツールに座って、「さて何にしようか」と頭をひねる。ドイツのイタリア料理は不味いと判っているから、スパゲッティは駄目だ。昔の日本のイタリアレストランと同じで、前もって麺を茹でてあるからだ。立ち食い蕎麦屋のうどんと同じである。べちゃべちゃで歯ごたえが無いのだ。


 同じ茹でてあるのなら、団子の類がいい。ショートパスタの「耳たぶ」を2皿たのんだ。それに、ミネラルウォーターとビールが一本。「耳たぶ」は少し半煮えの感じだったが、思ったより美味しかった。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 前にも話したが、1992年にノッコが『アルザスワイン街道の旅』のツアーで来た折り、ミュンヘンで泊まったのがこのホテルらしい。帰国してから写真で判明したのだが、当時このホテルは「フンガーホテル」という名前で、住所もパウルヘイセ通り24番と写真に写っていた。しかし、現在、ホテル名は更に別の名前に変っている。

遠い夏に想いを-ホテル


 当時、ストライキなどの影響で交通が思うに任せず、遅れに遅れていたらしい。ミュンヘンに到着したのは夜の7時頃で、ホテルに着くと夕食をとりにバスで大きなビヤホールに連れて行かれた。酒には強い姉妹たちだから、めちゃくちゃ楽しかったらしい。次の日の朝早くバスでミュンヘンを発ったとのことで、何も見ていないという。これも団体旅行のデメリットであるから如何しようもない。


 今度はミュンヘンをしっかり見てやるからとノッコは言うが、結果はそうならなった。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
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 霧雨はまだやまない。パウルヘイセ通りは広い道だが、何か寂しい感じのする通りだ。小雨のせいで通りが暗い。24番地まで歩くのは骨がおれる。一向に辿り着かない。それに反して、ノッコは元気がいい。


 標識の番地を見ながら「もう少し、あの先だわ」
ノッコは先になって歩く。


 ホテル・ゾリンは広い通りを渡った角にあった。暗くて全体がつかめないが、結構大きなホテルだ。私はドアを押して中に入った。


遠い夏に想いを-ホテルロビー

「あっ」
ノッコが後ろから小さな声で叫んだ。
私は振り替えった。


遠い夏に想いを-バー

「このホテル、記憶にある!」
ノッコが言う。
「えーと、正面にエレベーターが2つ、右に階段のドア...そして、ここのバー。確かこんなだったわ」
続けてノッコが言った。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
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