仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

小田眼科より、毎月発行しているニュースを載せています。

平日朝8時からの早朝診療を2009年12月から始めましたが2017年1月末で終了しています。

眼科の診療時間、場所の地図をひとつの記事にまとめました。
FC2ブログより引っ越しました。           
2006年(平成18)11月1日より病院住所が変わりました。電話番号は変更ありません。
 
小田眼科医院                              
住所:仙台市青葉区八幡2-1-23
電話番号:022-234-7408

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第344号2018年09月号「女子差別 東京医科大学」の話


 猛暑の夏も漸く終わりを迎えようとしています。西日本では豪雨災害、仙台は雨不足、朝夕の散水が大変でした。家庭菜園は息も絶え絶えでした。日本は広いです。

 今月は、「女子差別 東京医科大学」 の話です。

 8月2日、毎日新聞が「東京医科大学では入学試験に際し、女子の合格数を抑制するために一律に減点し、男子には加点をしていた」と報じました。それをきっかけに多くのマスコミが大きく「ゆゆしき女性蔑視」と取り上げました。

 問題の発端は、文部科学省の私立大学支援事業を巡る汚職事件で、今年度の入試で同省幹部の息子を東京医科大学が不正合格させたという事でした。

 東京医科大によると同大医学部医学科の合格者数が2010年に女子が全体の4割弱に達したため「女子の入学者数を3割以内におさえなければならない」として、その後男子受験生優遇措置が取られてきたということです。大学は「入学試験での得点は女子が高いために、点数順に入学させると女子医大になってしまう」という危機感を持ったことと「女性は大学卒業後、妊娠や出産で離職する率が高い。医師不足の現状から仕方のない措置だった」と話しています。

 入試での男女差別は私立大学ばかりでなく国立大学でも行われているという噂は以前からありました。ある女性医師は「これは2011年頃からの話どころじゃないですよ。医師ならほぼ皆知ってると思います。特に私立医大で女子の減点があるという噂がありました。女性は結婚や出産に伴い退職するから致し方ないと私たち女子受験生は言い含められていました。入試の面接で、将来、結婚・出産するかと聞かれたこともあります」とも話しています。

 私も「女性医師の働きは男性の半分。だから教育してもムダだ」と面と向かって言われたことがあります。

 私が学んだのは国立大学でしたが、私共の学年は1学年92人中、女子学生は10人いました。それまでは1学年に1人か2人だった女子学生が急に増えたのに大学は危機感を抱いたのか、卒業生名簿を見ますと、その翌年からは4人以上の女子学生がいた年はありません。現在でも15%以下です。女性を合格させないように操作されていることは明らかです。

 卒業後、男性の多くは医長、科長、教授や病院長など長が付くようになります。そうなりますと会議に出席したり雑用が増え、診療をする時間は短くなります。女性は病院にいる時間は短いのですが、出勤している限り診療に集中できます。

 さらに、卒業後50年経った現在、私のクラスで同期の男性の半分以上は死亡したり、健康を害して仕事をしていませんが、女性10人はすべて健康に存命しており、それぞれ仕事を続けています。妊娠出産する女性医師は、受けた教育を社会に還元しないというイメージが強いですが、一般に女性は健康で長命ですので、働く期間を考慮した場合、医学部を卒業した女性は男性の半分しか医療に従事しないというのは誤りであると言わざるを得ません。

 また、女性医師は男性医師と結婚する場合が多いのですが、夫となった男性医師は出世をするに従い勤務地が次々と変わるために、妻である女性医師は常勤から非常勤とならざるを得ません。仕事のことしか眼中になく、家庭を顧みない夫のために、不本意ながら女性医師は仕事の量を減らし、子育てや家事に従事しますが、子育てを終えたあとには、何らかの職業に就き、80歳を過ぎるまで地域医療に貢献している人が殆どです。

 日本は女性差別の強い国です。高等教育を受ける女性は多いのですが、女性の議員数が少ないこと、女性の管理職が少ないことは、よく知られていることです。

 日々、セクハラ、パワハラ、マタハラなど、女性差別の報道が絶えません。人口減少が進み、働く人が減っている現在、これからの日本の発展のためには、女性が働きやすく、働く意欲を持てる政策を早急に進める必要があると考えます。

小田眼科医院理事長 小田泰子
Produced by *J.O.Y.


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第343号2018年08月号「昭和20年8月 ソ連対日参戦」の話


 猛暑の中8月を迎えました。異常気象とは申せ、連日、体温を超える猛暑に体力的にも、気力の面でも生きる意欲が失われるように感じます。2年後に迎える東京夏のオリンピックのお天気や気温がこのようでは選手にも応援する観客にも、準備する裏方のスタッフにも、大きな負担となることを心配しています。

 それはともかく、8月は第二次世界大戦敗戦の月であります。日本中が虚脱の中でこの月を迎え、送りました。

 それで今月は、「昭和20年8月 ソ連対日参戦」の話です。

 ソ連対日参戦とは、満州国と樺太にあった国境で昭和20(1945)年8月9日未明に開始されたソ連軍による日本領への攻撃のことです。これは昭和16(1941)年に日本とソ連との間で締結された5年間有効である条約「日ソ中立条約」を一方的に破棄したソ連軍による日本への侵攻でした。日本はこれに宣戦布告をしないまま2週間後の8月15日、ポツダム宣言を受け入れる形で降伏し、第二次世界大戦が終わりました。

 日本は帝政ロシアの時代からロシアと軍事的な対決が起こることを予想し、その準備を進めてきました。ロシア革命後もソ連は世界を共産主義化することを至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへの勢力拡大に積極的でした。極東での日ソの軍拡競争は昭和8(1933)年から始まっていました。日本は関東軍を中核としてソ連と満州の国境守備に当たっていましたが、すでに、昭和11(1936)年ころには、極東ソ連軍の戦力は関東軍のそれを大きく上回っていました。 ソ満国境の守備に当たっていた関東軍はソ連軍との戦力差を認識してはいましたが、陸軍省の関心は東南アジアへ移り、軍備の重点も南方へ移行しました。

 さらに、昭和18(1943)年以降は、南方における日本軍の戦局の悪化により、ソ満国境を守っていた関東軍は南方戦線へ移動を命じられ弱体化しました。ソ満国境における日本軍の軍事力が急速に低下する一方で、昭和20(1945)年5月8日にドイツが降伏しました。これによりソ連軍に余力が生じ、ソ連の対日参戦が現実味を帯びました。

 アメリカは昭和20(1945)年2月に開かれた「ヤルタ会談」で、千島列島と樺太をソ連領として容認することを条件にソ連に対日戦争参戦を要請しました。ソ連は「日ソ中立条約」の延長をしないことを日本政府に通告し、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国との国境に、巨大な軍事力を集結させました。

 日本政府は、まだ有効期間内にあった「日ソ中立条約」を頼りに、ソ連を通して連合国に働きかけて、無条件降伏ではなく有条件降伏に持ち込もうと努力しましたが、成功しませんでした。

 他方、北海道・樺太・千島方面ではアッツ島での玉砕やキスカ島からの撤退等があり、米軍による千島への圧力増大を懸念して軍部は対米防備を進めました。
 このような状況の中で、ソ連軍は満州・樺太国境から怒濤の勢いで攻め入り、多くの住民は着の身着のままで逃げることになりました。

 その中に樺太の北緯49度近くの町・塔路に住んでいた小田一家の姿もありました。
 歌人・小田信一(義父)が読んだ短歌が残されています。

 すでに猶こと詳しく眼に顕つは 塔路の戦禍よ年月越えて
 もどかしく吾は聴き居り戦後なほ 相良夫人の辿りし道を
 粛然と疎開の列の続くまも 艦砲射撃夜空を焦がす
 避難せし妻子尋ねて行く山路 しばしば機銃掃射にあひたり
 定まりたし宿さへも無くさまよへる 難民の群山に拠らしき
 誰彼と悼む思日のわりなけれ とり分け惜しき人なきにあらず
 亡き人を思ひ煩ひ一夜 眠らざりしも吾れのみのこと

小田眼科医院理事長 小田泰子
Produced by *J.O.Y.


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第342号2018年07月号「東芝の創業者 からくり儀右衛門 田中久重」の話


 先月号に、幕末ロシアのプチャーチンが長崎に蒸気機関車の模型を持って来て人々に見せたその2年後に、佐賀藩の「からくり儀右衛門」の名で知られる田中久重が、蒸気機関車の模型を作ったことを書きました。

 それで今月は、「東芝の創業者 からくり儀右衛門 田中久重」の話です。

 田中 久重(寛政11-明治14 1799-1881)は、「東洋のエジソン」と呼ばれ、芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者となった人です。筑後国久留米の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれ、幼名が儀右衛門だったことから「からくり儀右衛門」の名で親しまれました。儀右衛門は幼い頃から才能を発揮し、当時流行していた「からくり人形」の仕掛けを次々と考案して大評判となりました。20代には九州各地や大阪・京都・江戸で「からくり人形」の興行を行い、その名が知られるようになりました。彼の作で現存するからくり人形に「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれています。

 天保5(1834)年に、大坂船場に居を構え、折りたたみ式の「懐中燭台」、天保8(1837)年には圧縮空気により灯油を補給する「無尽灯」などを考案しました。

 その後京都へ移転し、弘化4(1847)年には天文学を学ぶために土御門家(安倍晴明の子孫)に入門しました。嘉永2(1849)年には、優れた職人に与えられる「近江大掾」(おうみだいじょう)の称号を得ました。翌、嘉永3(1850)年には、天動説を具現化した須弥山儀(しゅみせんぎ)を完成させました。これは、仏教では、須彌山を中心にする天動説を説いていましたので、地動説により仏教の権威が失われることを恐れた天台宗が依頼して作らせたものです。現在日本で所蔵が確認されている「須彌山儀」は9基ありますが、和歌山正立寺所蔵と龍谷大学所蔵の2基が正常に作動しているということです。

 この頃に儀右衛門は蘭学者の廣瀨元恭が営む「時習堂」に入門し、様々な西洋の技術を学び、嘉永4(1851)年に、季節によって昼夜の時刻の長さの違う日本の不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動くなど、様々な仕掛けを持つ時計「万年自鳴鐘」を完成させました。 

 その後、儀右衛門は、鍋島直正が治める佐賀藩の精煉方に着任し、日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造しました。さらに、反射炉を設計・改築し大砲製造に大きく貢献しました。

 文久元(1861)年には佐賀藩の蒸気船「電流丸」の蒸気罐製造の担当となり、幕府蒸気船の千代田形蒸気罐の修繕をしました。さらに、文久3(1863)年には実用的に運用された国産初の蒸気船とされる「凌風丸」(御召浅行小蒸気船)建造の中心的メンバーとなりました。

 元治元(1864)年には佐賀から久留米に帰り、久留米藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、同藩の殖産興業に貢献しました。

 明治6(1873)年に儀右衛門は東京に移住し、75歳となった明治8(1875)年に銀座8丁目に電信機関係の製作所・田中製造所を設立し、明治14(1881)年に82歳で死去しました。この田中製造所は養子の田中大吉が引き継いで芝浦に移転し、株式会社芝浦製作所とし、後には東京電気株式会社と合併して、東京芝浦電気株式会社となり、これが現在の東芝の基礎となりました。

 儀右衛門は「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残しています。華麗な才能を生かした生涯のように見えますが、努力の人であったことがうかがわれます。

 儀右衛門が作製した「万年時計」は重要文化財に指定されました。また、からくり人形の「弓曳童子」、「寿」「松」「竹」「梅」の4文字が書ける「文字書き人形」は、ともに修復復元され愛知県の安城市歴史博物館に保存されているそうです。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第341号2018年06月号「日本の鉄道」の話

6月を迎えました。仙台では爽やかな青空が広がっています。皆様、お変わりなくおいでのことと思います。ニュースをお届けします。

 現在、日本では、ほぼ、全国に鉄道網が敷かれ、日々、多くの人が利用していますが、鉄道が初めて実用化されたのは、1825年、イギリスでのことでした。この時はスチーブンソンが設計した蒸気機関車が石炭輸送を主目的として約40 kmの鉄道を運行しました。
 それから約30年後の嘉永5(1853)年、開国前の日本に蒸気機関車とレールの模型が到来しました。日本人が初めて見たのは、ミニチュアの機関車と鉄道でした。

 それで今月は、「日本の鉄道」の話です。

 嘉永5(1853)年、ロシアのプチャーチンが4隻の軍艦を率いて長崎に入港し、幕府の開国を迫りました。プチャーチンは長崎港に停泊していた時に、川路聖謨、佐賀鍋島藩の本島藤夫、飯島奇輔ら交渉に当たっていた何人かの役人を艦上に招待して、艦船に積んできた模型の蒸気機関車を運転して見せたということです。

 その翌年の安政元(1854)年にはアメリカのペリーが2回目の日本訪問に際して大統領からの献上品として模型の蒸気機関車を黒船に積んできました。模型とはいえ、地面にレールを敷き、機関士が運転し、客車には6歳くらいの子供なら乗られるという大さのものでした。この見物に招かれた幕臣の河田八之助は、客車の屋根にまたがって乗りました。これが客車に「乗った」初の日本人とされています。また、江川太郎左衛門は機関車の運転をさせてもらいました。

 長崎での展示から2年後には、佐賀藩の「からくり儀右衛門」の名で知られる田中久重が、蒸気機関車の模型を作ったということです。

 元治2(1865)年には、グラバーが自邸の前にレールを敷設して長崎の人達を乗せて走りました。ここで走った機関車などはイギリス製で日本での展示後、中国で展示されました。

 明治維新の翌年、日本で新橋 - 横浜間の鉄道建設が始まりました。

当時の日本は、まだ鉄道建設をする技術を持っていませんでしたので、技術指導や資金をイギリスに頼りました。これは鉄道発祥の国であるイギリスの技術力を評価したことと、日本の鉄道建設に積極的な提言をした英国公使ハリー・パークスの力が大きかったといわれています。

 翌明治3(1870)年、イギリスから御雇外国人としてエドモンド・モレルが着任して本格的な工事が始まりました。明治4(1871)年に「日本の鉄道の父」と言われている井上 勝が鉱山頭兼鉄道頭に就任して鉄道建設に携わりました。明治5年9月12日(1872年10月14日)に、新橋 - 横浜間が正式開業しました。鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上しましたが、収入の大半は旅客による収入でした。当時はまだ鉄道を利用して運ぶ工業製品などがなかったためといわれています。

 同時に工事が進められていた京阪神地区でも鉄道敷設は順調に進み、明治7(1874)年5月11日に大阪 - 神戸間が開通しました。ただしこの時は仮開業として扱われ、開業式が行われたのは鉄道が京都に達した明治10(1877)年でした。これが日本での二番目の鉄道路線です。

三番目に開通した路線は北海道の官営幌内鉄道でした。明治13(1880)年、アメリカ人技師の指導により手宮- 札幌間が完成しました。ついで、翌年の明治14(1881)年6月には札幌−江別間、明治15(1882)年11月には江別−幌内間と北海道の鉄道敷設は急ピッチで進められました。

 アメリカから蒸気機関車「義経号」「弁慶号」、後には「静号」を輸入し、多くの石炭を積んだ炭車を牽引しました。北海道では石炭が主で乗客は従ではありましたが、客車も連結されました。この客車は日本最初のトイレ付きで「開拓使号」と名付けられました。現在「静号」は手宮の鉄道博物館に保存されています。
 当時の運賃は上等1円、中等60銭、下等40銭で、1日一往復の運転で、手宮−札幌(34キロ)間は片道2時間半かかったということです。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第340号2018年05月号「竹取物語」の話


 いよいよ風薫る5月を迎えました。5月1日は年始から121日目にあたります。

 国会では年初から、多くの疑惑や隠し事が次々に明らかにされていますが、言葉のやり取りに終始して、現実を認めず、国会審議を遅らせ、それに「セクハラ」問題まで加わり、政治家の程度の低さを世界中に示しているのは残念です。日本の政治家には「深い志」がないように見えます。

 5月は田植えをする月であることから「早苗月(さなへつき)」「皐月」とも言われます。また、タケノコの旬でもあります。

 それで今月は、「竹取物語」の話です。
 
 この物語は竹取の翁によって光り輝く竹の中から見出され、翁夫婦に育てられた少女「かぐや姫」を巡る奇譚ですが、『源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とあることから、日本最古の物語といわれています。9世紀後半から10世紀前半頃に成立したとされ、「かな」によって書かれた最初期の物語の一つです。作者は不詳とされていますが、この物語の内容が当時、実際に起きた事件と似ている部分があること、当時の識字率などから推定すると作者は上流階級に属し、貴族の情報が入手できる平安京近隣に住み、物語に反体制的な要素もあることことから、当時権力を握っていた藤原氏の係累ではなく、漢学・仏教・民間伝承に精通し、仮名文字を操ることができ、和歌の才能もあり、貴重であった紙の入手も可能な男性で、作品中に詠まれる和歌は六歌仙時代に近いことから、作者として、源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄、菅原道真などがあげられています。

 竹取物語を知らない人はいないとは思いますが、あらすじを申しますと、昔々、竹取りをして暮らしていたお爺さんとお婆さんがいました。

 ある日、お爺さんが竹林で光り輝く竹を見付け、中から可愛らしい女の子が出て来たので、自分たちの子供として育てることにしました。

 その後、竹の中に金を見つけ、年寄り夫婦は豊かになりました。子供は「なよ竹のかぐや姫」と名づけられ美しく成長しました。

 その噂を聞いて,一目その姿を見ようと、大勢の男性がお爺さんの家の周りをうろつきましたが、だんだん少なくなり、最後に石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂という五人の貴公子が残りました。

 お爺さんがかぐや姫に結婚するように勧めると、かぐや姫は「深い志を知らないままに結婚できません。私の言う物を持ってきた人にお仕えいたしましょう」と、驚くほど現代的なことを言いました。

 かぐや姫の注文は、石作皇子には「仏の御石の鉢」、車持皇子には「蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」、右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘(かわごろも、火をつけても燃えない布)」、大納言大伴御行には「龍の首の珠」、中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」でした。

 石作皇子は近くの古寺にあった鉢を持っていき嘘がばれました。車持皇子は蓬莱までは行かず、職人に玉の枝を作らせましたが、偽物と発覚しました。右大臣阿倍御主人は唐の商人から火鼠の皮衣を買って持って行きましたが、姫が火をつけると燃えてしまいました。大納言大伴御行は船で「龍の首の珠」を探しに出掛けましたが、嵐に遭い、重病にかかり、目的を達することはできませんでした。中納言石上麻呂は高いところに上って子安貝らしきものをつかみましたが、そこから落ちて、腰を打ち、しかも掴んだのは燕の糞でした。

 結局、姫は天上に帰るのですが、皆さん、この物語をどう思われますか。
 私は姫から難題を出された貴公子が皆、問題解決だけに拘り、姫の言う「深い志」に思いを致した人がいなかったのを残念に思います。もし、一人でも「姫のご要望には応えられませんでしたが、それでも私と結婚して下さい」とはっきり「深い志」を告げたなら結末を変えることができたのではないかと想像するのです。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第339号2018年04月号「女と舌は怖い」の話


 寒かった冬が終わり、スギ花粉が飛来し、桜前線が話題になる季節になりました。私達はのどかな春、重い外套を脱いで闊歩できる春の到来を待ち望んでいますが、日々この時期が早く過ぎてくれるように祈っている人もいます。スギ花粉アレルギーに悩まされている人は当然ですが、それ以上に安倍首相夫妻は悩んでいるのではないでしょうか。これまで順風満帆だった安倍晋三夫妻にとっては憂鬱な日々が続く春と思います。

 それで今月は、「女と舌は怖い」の話です。
 
 日本の女性の地位は低く、これまで公の場で責任が問われるような立場に就く例は多くありませんでした。マスコミに女性が取り沙汰される場合の多くは、主役の男性にまつわる女性スキャンダルだったように思います。

 今回の問題はそれとは全く違いますが、社会の仕組みに疎くて無関心な女性の「非常識な行動」が物議を醸し出したといえるかと思います。

 これまで社会で活躍する人物の蔭には思慮深い参謀がいて、その参謀が表の人物を支えることでうまく機能していくということがよくありました。

 ここに、そのような常識を知らないのか、無関心なのかは分かりませんが、安倍晋三夫人昭恵氏が登場しました。「夫人は公人か私人か」を問題にする論調もありますが、安倍晋三氏の母・洋子さんは、この問題が明らかになった時、元凶となった昭恵夫人の脇の甘さに危機感を抱いて、自宅で2人に説教をし「昭恵は総理夫人失格です!」と激怒したと伝えられています。

 安倍晋三氏の母・洋子さんは元首相・岸信介氏の娘で、岸信介の兄は元首相の佐藤栄作氏、その妻は佐藤寛子さんと、政治家一族に生まれ育ち政治世界の裏と表を見てきて、その危うさを知っている人です。洋子さんの危機意識は当然と思われます。

 洋子さんは「安倍晋三夫人のこんな言動で、わが一族が築いてきた歴史が揺さぶられるなど、あってはならない」と発言し、晋三氏は「母がカンカンに怒っているんだ。どれだけ言い訳しても耳を貸さなくて、参っている。この一件が出てきて以来、昭恵も自分も、自宅がある実家に帰りづらくなってしまった」と困り果てているということです。

 母の洋子さんをさらに怒らせたのは、安倍晋三氏が国会で「籠池(泰典・森友学園前理事長)氏は昭恵の人脈」とか、「もし私や妻の昭恵が森友学園の土地取引にかかわっていたら、総理も議員も辞める」と発言したことです。

「総理大臣ともあろうものが、軽率に進退を口にするものではありません」と、洋子さんは安倍晋三氏を強くたしなめたということです。

 森友問題に関する安倍氏の国会での発言は、当然、担当職員によって正確に記録されました。その後、これを読んだ財務省の役人が、この議事録がそのまま表に出たら、その後の安倍首相の発言から首相を窮地に追い込むと判断(忖度)し、議事録=公文書の改ざんを指示したと考えられます。それに関与したとされる人物が自殺するなど、大きな政治問題、国家の姿勢・品位に関わる問題に発展し、引いては日本の民主主義のあり方、成熟度を外国に云々されるまでに至りました。

 安倍首相に関しては、いまのところ非合法な点はないとされてはいますが、一国民の感覚としては納得できません。人が一度発言したり、行動したことは、言わなかったことにしたり、なかったことにすることはできません。

 「駟も舌に及ばず」(いったん口に出した言葉は、4頭立ての馬車で追いかけても、追いつくことはできない)。「覆水盆に返らず」という諺もあります。
 総理に対する国民の信頼度が低下している事は内閣支持率に表れています。
 まさに女は怖い、舌は怖いのです。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第338号2018年03月号「日本の人口問題」の話


 2018年平昌オリンピックが終わりました。選手は皆若々しくメダルを得た人も、それに手が届かなかった人も、一様に、これまでの応援と支援に感謝すると言いました。

 でも日本の未来はそう明るくはありません。第二次世界大戦が終わった昭和20年代に日本でベビーブームが起きました。第一次ベビーブームです。その後、第二次、第三次のベビーブームがあると誰もが考えましたが、期待外れに終わりました。第一次ベビーブームの頃の出生率は4.0を超え、夫婦2人に平均4人の子どもがいましたが、その後、出生率は下がり続けています。その結果人口は減り続けています。

 それで今月は、「日本の人口問題」 についての話です。
 
 日本の人口は、2010(平成22)年の1億2806万人をピークに減少し始め、この5年で約100万人減少しました。その人口減少は各年齢層均一に起きません。困ったことに、ます、労働人口(16歳から64歳)が減り始めます。65歳から74歳の老齢者も減りますが、75歳以上の人口は減らないのです。そうなりますと、何らかの助け必要とする高齢者が相対的に増えることになります。

 女性や動ける高齢者が働いてくれると良いのですが、多くは期待できません。次善の策として、外国からの労働者に働いて貰う方法があります。日本はこれまで、外国人労働者の受け入れに積極的ではありませんでした。今でも外国人が日本の就労ビザを得るのはかなりハードルが高いのです。それで、留学という手段で日本に来て学校へは行かずに働いている若者が多いのですが、彼らが働けるのはアルバイト的な仕事で、日本に永住して家庭を持って生きる事は困難です。

 外国人労働者の多くが住んでいるのは、高齢化が進んで年々空洞化している都市の郊外にある団地です。かつて日本人の夢であった「ニュータウン」は、今や「オールドタウン」と化し、そこに外国人が住むようになっています。そのような所では治安に不安を持つ人が少なくありません。

 また、今後30年に増加する高齢者919万人のうち、388万人が首都圏に在住するという予測もあります。そうなりますと首都圏は高齢者であふれます。

 この傾向が続きますと2040年の日本の人口は2010(平成22)年より16.2%減り、高齢化率は36.1%に達すると推計されます。人口減少による生産力のダウンは、ロボットやAIなどの技術革新などによって、カバーできるという意見もあります。しかし、生産性が上がっても、それを買う人がいなくなれば企業は成り立ちません。多くの企業が、人口増加が続いている海外に目を向けているのはこのためです。

 女性や元気な高齢者の活用が今より進んでも、日本経済を支える人々が大きく減ることは避けられません。日本で昨年生まれた子どもは100万人を切り、死んだ人は約130万人でした。

 働き方改革が今の国会で議論されていますが、安倍さんの不正確な答弁で議論は進んでいません。また、その内容もしっかり説明されていないようです。

 人口が減るといっても2050年の人口は1965(昭和40)年の人口と同じくらいの1億人弱ですが、問題はその中身=年齢構成です。その頃の高齢化率は6.3%でしたが、2050年は38.8%になると予想されています。即ち1965(昭和40)年には1人の高齢者を9.1人の現役世代が支えていましたが、2014(平成22)年には、すでに1人の高齢者を2.2人の若者が支える形になっています。2050年にはどうなっているでしょう。
 そこで問題となるのは社会保障制度や公的年金制度です。公的年金、健康保険などは人口増加と経済成長が将来も続くことを前提に考えられた制度です。
 この問題に対する取り組みは、ある程度始まっていますが、有効な解決策は残念ながら見つかっていません。人口が少ない状態でも社会の活力を維持できるような方法をみんなで考えて行かなければなりません。


小田眼科医院理事長 小田泰子
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第337号2018年02月号「認知症になっても」の話


 年々65歳以上の高齢者が増えています。
「国立社会保障・人口問題研究所」は5年に1度、国勢調査をもとに日本の世帯数などを推計しています。それによりますと、世帯主が65歳以上のいわゆる高齢世帯は2015年には1,918万世帯だったのが、2040年には2,242万世帯となり、全世帯の4割以上が高齢世帯となる。さらに、独身で子どもがいない高齢者が大幅に増加すると見られ「国立社会保障・人口問題研究所」の鈴木透人口構造研究部長は「家族の支援がない高齢者を社会がどう支えていくか、考えていく必要がある」と話しています。
 わが国の高齢化のスピードは世界一の凄まじい勢いで進んでいます。

 それで今月は、「認知症になっても」 についての話です。

 上記のように「2040年に我が国の高齢者数はピークを迎え、死亡者数は最多の 168万人となり、生まれる子どもの減少で人口は減るが、認知症が増える」と推定されています。認知症の人は2012年の時点で約462万人、65歳以上の約7人に1人と推計されていますが、終戦後のベビーブーム時代に生まれた団塊の世代が 75歳以上になる2025年には、認知症は約250万人増の700万人前後に達し、高齢者の5人に1人を占めることになりそうです。

 また、認知症は高齢者だけの病気ではありません。65歳未満で認知症を発症する「若年性認知症」もあります。若年性認知症の原因にはアルツハイマー病などによるものが多いのですが、40代、50代の働き盛りで起こると、老年性の認知症よりも進行が早く症状も重くなる傾向があります。

 平成25(2013)年の調査では高齢者の半数近くが身体に何らかの自覚症を持ち、その半分が日常生活(外出、仕事、家事、学業、運動等)に影響があると訴えています。
 また、健康寿命は延びますが、平均寿命に比べて延びが小さく、日常生活で何らかの助けを必要とする人が増えると予測されます。

 高齢者の多くは、もし、介護が必要になっても費用は「年金等の収入でまかなうことができる」(42.3%)。「必要なだけの貯蓄は用意している」(20.3%)と考えています。しかし、介護を必要としている高齢者は急速に増加しており、介護の担い手不足が心配されています。

 現在は要介護者の多くは家族(とりわけ女性)による「老老介護」で支えられていますが、それもいつまで続けられるかは分かりません。人口減少の影響で僻地にある小さな自治体は、高齢者介護の役割を担うことが困難になると予想しています。

 もし、介護が必要になったとしたら、介護される人は「安心できる居場所」と「理解してくれる味方」、そして「本人の役割と誇り」を持って生きたいと望んでいます。
 これまで認知症について、アタマを使っていればボケない。早期発見・早期治療すれば進行を防ぐことができる。認知症が進めば徘徊・暴力・排泄等のトラブが必発すると考えられていましたが、最近は認知症と共に生きる人が増え、自分が経験している認知症がどのような状態かを話す活動をしている人、また、その活動を支える人もいて、認知症への対応は変わって来ています。認知症の人が大声を出したり、暴力を振ったりするのは言葉でうまく自分の意思を伝えられないために起きるいらだちの結果と考えられ始められています。

 認知症には「治療」より、慣れ親しんだ暮らしと環境が大切で「世話をするケア」から「見守るケア」「本人の能力や考えを大切にするケア」へと変わりつつあります。
 これらのことは私にとっても他人事ではありません。どのような事が起きても今の生活環境を大きく変えずに生きていることができればと願っています。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第336号2018年01月号「ディープラーニング」の話


 新しい年が明けました。先月は「将棋棋士とコンピューターとの対決」について書きましたが、人工知能はさらに進歩し続け、留まるところがありません。

 それで今月は、「ディープラーニング」についての話です。

 ディープラーニングとは、コンピューターが物事を理解するための新しい学習方法です。人間の脳の神経網をモデルにした技術を使ったもので、これまで実現できなかった抽象的なデータをコンピュータが認識できるようになり、人間に近い考え方ができるようになりました。

 人間が人や動物を識別する場合、視覚・聴覚・触覚などいわゆる五感を使って、対象物の全体を見た後に、目、耳、口などの顔のパーツを認識したり、あるいはその逆に、パーツから全体を認識したりするような階層的な過程を経て物を認識しています。これまではコンピューターにネコを認識させるには、人間がネコの特徴を「コンピューター言語」を使って計算式にしてコンピューターに教え込む必要がありました。ところが、ディープラーニングの手法では計算式にする必要は無く、ただ、多くの映像をコンピューターに読み込ませるだけで、そこに写っている人や動物の顔を等を認識することができるようになったのです。例えば多くのネコの映像をコンピューターに見せることで、初めて見たネコでもイヌでは無くネコと正しく認識したり、いろいろな動物の顔が写っている映像からネコだけを抽出できるようになりました。

 2016年3月に「グーグル・ディープマインド」社が「アルファ碁」と名付けた囲碁ソフトを開発しました。アルファ碁は、高段者の膨大な棋譜を細かく分解して画像データとしてコンピューターに読み込ませ、それをディープラーニングの手法で分析し、どの局面で、どの手が最良かを入力された画像のパターンからコンピューターが選ぶようにした上で、人工頭脳同士で何千回もの対決を繰り返して着手の精度を高めました。囲碁は、終局までの手順が10の360乗通りにも及ぶと言われていることから、チェスや将棋よりも次の手を読む作業が複雑であり、コンピューターが人間に勝てない唯一のゲームと言われていました。

しかし、2016年3月15日に、アルファ碁は韓国最強のプロ棋士・李世乭氏と五番勝負で4勝1敗と勝ち、韓国棋院からプロの名誉九段の段位を授与されました。また、翌年の5月には、中国のプロ棋士・柯潔氏との三番勝負で3局全勝し、中国囲棋協会からもプロの名誉九段を授与されました。これを機にアルファ碁は人間との対局から引退しました。

 これで、限界と考えられたのですが、最近、高段者の棋譜ではなく碁の基本的なルールを教えただけで、コンピューター同士が対局して囲碁の腕をあげる囲碁ソフト「アルファー碁ゼロ」が開発されました。ゼロは、学び初めて3時間後では初心者のような石の置き方をしていましたが、19時間後には効率の良い碁を打ち始め、70時間後には超人の域に到達したということです。「ゼロ」の着手にはこれまで、人が打たなかった着手があり、プロ棋士が「ゼロ」から学ぶようにもなっています。このソフトの誕生は囲碁界に衝撃を与えました。

 「ゼロ」の特徴は人が持っている専門知識を教えなくても自ら学習した事にあります。この手法を使うと、X線や胃カメラの画像を見せるだけで、病変を見付けるなど、医療に応用できる可能性を示していると評価する人がいる一方で「ビジネスでは効率が良いだけで無く、状況により相手をたてることが必要になる場合がある。そのような細かな人間感情をもった処理ができるか」と疑問を呈する人もいます。いずれにしてもこの手法を人間がどのように利用していくかが問題です。SFの世界のように人間がコンピュターに支配されるようなことにはならないよう願っています。


小田眼科医院理事長 小田泰子
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第335号2017年12月号「将棋棋士とコンピューターとの対決」の話


 いよいよ12月、今年も師走を迎えました。今年を振り返りますといろいろなことがありましたが、記憶に残るのは「人工知能 AI」の発達です。人工知能というのはコンピューターに「知的」な活動をさせることを目的とする研究と技術のことです。人工知能は進化し続けるコンピューターの最高機能を使うことで発達してきました。特にチェス、将棋、碁などのゲームでは、どんどん人間を負かしています。

 それで今月は、「将棋棋士とコンピューターとの対決」 についての話です。

 1968年週刊朝日の企画で人間対コンピューターの詰め将棋対決が行われました。人間の多くはアマ有段者でした。二問ずつ出題され、回答までのタイムが競われました。結果は人間側から見て49勝53敗で、審判の原田泰夫八段と加藤一二三八段はコンピュータH君の棋力を「アマチュア三段」と認定しました。

 1997年にIBMのコンピューター「ディープ・ブルー」がチェスの世界チャンピオンを破りました。

 それでも将棋はチェスよりもさらに複雑なゲームですので、コンピューターがプロ棋士のレベルに達するのは当分先のことと考えられていました。将棋一局の平均手数(プロ将棋の平均手数)が115手ですので、それから考えると10の220乗という膨大な指し手あることになるそうです。

 1996年に「コンピューターがプロ棋士を負かす日が来ると思いますか?」というアンケートに、10年以内が(内藤國男、土佐浩司ら)、永遠に来ない(米長邦雄、加藤一二三ら)、来るがかなり遠い先(森内俊之、中原誠ら)、来ないことを祈っている(阿部隆、佐藤秀司ら)などプロ棋士が回答されました。羽生善治氏は20年後の 2015年と答えたということです。

 昨年、史上最年少の14歳2か月でプロとなった藤井聡太四段は「コンピューターの存在は脅威ですか」と聞かれ「強くなるためのツールだと感じています。私も活用しています」と答え、「最強のソフトと言われるポナンザと対決したら勝てると思いますか」という質問には「人間と比べるとコンピューターの能力の進化は限りがないです。そういう意味では人間とコンピューターが勝負する時代では無くなったのかと思います」と答えています。

 最初、日本将棋連盟はプロ棋士をコンピュータと公式に対局するのを許可しませんでした。しかし、時代が変わり、2010年に日本将棋連盟会長・米長邦雄氏が引退棋士の代表としてコンピューターと対局し、これを期に定期的にプロ棋士とコンピューターが対決する「電王戦」が開催されることになりました。

 2012年の第一回電王戦では、113手で米長永世棋聖が負けました。2013年の第二回電王戦はプロ棋士5名とコンピューターソフト5個の団体戦で行われ、プロ棋士側の1勝3敗1引き分けとなりました。第三回電王戦は、プロ棋士側の1勝4敗、その翌年2016年にはプロ棋士代表とコンピューターとの二番勝負で行われ、プロ棋士側の全敗で終わりました。2017年の対決を最後に電王戦は終了することになりました。その理由は「人間とコンピューターが同じルールで真剣勝負をする歴史的役割は終わった」と説明されました。その後、叡王・佐藤天彦氏とポナンザの練習対決をし、佐藤叡王が0勝2敗で負けました。

 コンピューター開発者の伊藤英紀氏は「人は走る速さでは車にかなわないけれど、マラソンや短距離走は人気があります。コンピューターが人間に勝ったからといって対局の魅力は変わりません」と言っています。また、2002年に内藤國雄氏は著書『コンピュータと勝負する』(神戸新聞出版センター)で「将来、もし、コンピューターが人間を負かすようになっても、機械は機械であって人間が主人である。本当に畏敬すべきなのはそういうものを作る人間の頭脳である」と書いています。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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