第366号2020年7月号「日本最古の災害記録 方丈記」の話
コロナの流行、第一波は終わったと見て良いようです。県境、国境を越えての移動が緩和されました。出産、病気見舞、友人訪問、旅行などで、たまたま、他県に行っていた、他国に行っていた、他国から日本に来ていたなどの事情で不便を余儀なくされていた人たちの移動がある程度ですが緩和されました。
今は無くなりましたが、ドイツの首都ベルリンが東西に分離され、その間の交通を制限する壁ができたときにも同じような問題が起きました。ベルリンの壁というのは東西冷戦の時代、東から西への人口流出を防ぎ、東ドイツの体制を守るべく、1961年8月13日、一夜のうちに東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリン市の周囲を最初は有刺鉄線(のちにコンクリート)で囲った壁のことです。この壁は、1989年まで存在し、この壁を越えようとして多くの人が命を落としました。
このために、たまたまその日に東西ベルリンの境界を越えて移動していた人に、今回のコロナによる移動規制と同じような事態が生じました。自宅に帰られなくなり家族と離ればなれになった人、勤務先に出勤できなくなり失業した人、恋人と会えなくなった人、学校に通えなくなった人と様々な悲喜劇が起きました。
世の中、いつ何が起きるか全く分かりません。
それで、今月は、「日本最古の災害記録 方丈記」についての話です。
『方丈記』は鴨長明が書いた鎌倉時代の随筆で、『徒然草』『枕草子』とならび「古典日本三大随筆」に数えられています。
鴨長明は晩年になって、京の郊外・日野山に一丈四方(約9㎡)の小庵をむすび隠棲し、当時、起きた災害を記し「方丈記」と名づけた記録を残しました。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の書き出しで移り行くものの「はかなさ」を語った後、長明は、安元3(1177)年の都の火災、治承4(1180)年に都で発生した竜巻およびその直後の福原京遷都、養和年間(1181~1182年)の飢饉、さらに元暦2(1185)年に都を襲った大地震など、自らが経験した天変地異を記述し、これらの災害は歴史に記録されています。日本初の災害記録文学ともいわれる所以です。
方丈記にある「安元の大火」は安元3(1177)年4月28日午後8時頃、都の東南で、舞人の宿屋の火の不始末が原因で出火しました。火はまたたく間に燃え広がり、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などが一夜のうちに灰燼に帰し、公卿の邸宅だけでも16軒、一般家屋に至っては都の3分の1が焼失しました。
「治承の竜巻」は治承4(1180)年4月、中御門大路と東・京極大路の交差点付近で発生した大きな竜巻(辻風)です。風は家財道具や檜皮、葺板などを、冬の木の葉のように舞わせて市街地を吹き抜けました。
「養和の飢饉」は養和年間(1181-82)に2年間にわたって飢饉があり、多くの死者が出ました。旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷は加持祈祷を試みましたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲いました。仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁しました。その数は、養和2年の4月・5月、左京だけで、42,300人余に達しました。
「元暦の地震」元暦2(1185)年7月9日、大きな地震が都を襲いました。山は崩れ海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ち、余震は3か月にわたって続きました。
1177年から85年までのわずか8年間に、長明が記録しているだけで火事、竜巻、地震、飢饉、疫病と大災害が立て続けに起きました。この時代から1,000年以上後の現在も、全く変わらない災害大国日本があります。
小田眼科医院理事長 小田泰子
Produced by *J.O.Y.
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