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仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

小田眼科より、毎月発行しているニュースを載せています。

小田眼科ニュース医心伝信
第356号2019年09月号「戦没者を追悼し平和を祈念する日」の話


とびきり暑かった夏が漸く去る気配を見せ始めました。昭和20年、第二次世界大戦が終わった夏も暑かった記憶があります。
 8月15日迄は連日「ヒロシマ」「ナガサキ」「戦争孤児」「学童疎開船・対馬丸遭難事件」「兵士であった父からの手紙」など厭戦気分をなぞっていた新聞ですが16日の「戦没者追悼式典」の記事を最後に、戦争に関する記事を掲載しなくなりました。
 私は8月15日は「終戦の日」と思っていましたが、正式名称は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」なのだそうです。

 それで、今月は、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」の話です。

 戦争が終わった当時、当然ながら日本は混乱の極みにありました。これは半藤一利氏の著書『日本のいちばん長い日』に克明に記されてあります。
 一般には「終戦の日」として知られる8月15日が「終戦日」となったのは、1957(昭和32)年で「引き揚げ者給付金の支給に関する法律」ができた時でした。1963(昭和38)年からは、毎年8月15日に「全国戦没者追悼式」を日本武道館で行うことが閣議決定され、以来、毎年、式典を実施して来ましたが、1982(昭和57)年に名称を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と変えました。それ以後、政府主催で、天皇・皇后両陛下のご臨席を仰いで式典を実施するという形式は変えずに今に続いています。
 この日には「全国から遺族代表が国費で招待されて参列し、式典当日には国立の施設には半旗を掲げ、式中の一定時刻に全国民が一斉に黙祷をするよう推奨する」と定められました。このために、その時、開催されている全国高校野球選手権大会の会場ではプレーを中断し選手・観客が一斉に1分間の黙祷を捧げる姿をTVで見ることになります。
 1945(昭和20)年、日本では戦争終結の日を「終戦の日」とするか「敗戦の日」とするか議論がありました。
 「ポツダム宣言を受け入れて降伏したのだから敗戦である」という意見と「敗戦とすれば敗戦の責任者は誰か?が問われ、問題が大きくなるから終戦とする」という意見がありました。結局、だれも責任を取らなくて済む「終戦」とされました。
 ドイツでは第二次世界大戦が終わった日、1945年5月8日を「敗戦の日」として記念行事を行ってきました。しかし、戦争終結から40年後、大統領に就任したワイゼッカー氏が国会で有名な「荒れ野の40年」という演説をして、この日を「解放の日」と定義しました。「ヒットラーによるナチズムから解放された日」という事です。当時、ドイツは未だ、東西に分断されており、多くの問題を抱えていましたが、この日を解放の日、喜びの日とすることは多くの人々に受け入れられました。
 日本とドイツとでは状況は異なりますが、ワイゼッカー氏の考えを知って、ひたすら戦没者を追悼し、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下で大きな被害を被った国「日本」を、そろそろ卒業しても良いのではないかと、私は考えるのです。
 日本軍が中国、朝鮮、インドシナ、シンガポール、インドネシア、他、南洋諸島の多くの国々に進出し、その地で多くの日本兵が犠牲になりましたが、日本軍が進軍した所に住んでいた人々も突然、日常生活を失い、財産を奪われ、国を追われ、命を落とした人も多くいました。
 そもそも、戦没者というのはどういう人でしょう。少なくとも、ヒロシマ・ナガサキの犠牲者、本土空襲で死んだ人たちは入っていません。
 私は武道館で戦没者を追悼するだけでは、戦争で被害を蒙った様々な人々を十分に追悼していないと考えます。「8月15日」を日本が軍部支配から解放された「喜びの日」としても良いのではないでしょうか。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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小田眼科ニュース医心伝信
第355号2019年08月号「仙台空襲と戦災復興」の話


 仙台では、去る7月10日から「仙台空襲を忘れない」一連の行事として、仙台戦災復興記念館で、戦災を体験した人による「語り部」の会や、仙台空襲の特別展示会を開きました。

 それで、今月は、「仙台空襲と戦災復興」の話です。

 1945(昭和20)年7月10日未明、米爆撃機B29、123機が仙台の上空に飛来し、午前0時3分から2時5分まで、約2時間にわたり焼夷弾10,961発による絨毯爆撃と高性能爆弾8個を投下しました。仙台市街は火の海となり、沢山の死者や怪我人が出ました。仙台は焼け野原になり、仙台駅から西公園が見えたと言われています。その後、着々と復興が進められました。
 まず、交通ですが仙台市電は市中心部の多くの路線で被害を受けましたが、車庫にあった車両には被害がありませんでしたので、空襲の翌日から一部で運転を始めました。市電の運行は人々の移動に大いに役立ちましたが、復興は遅々として進みません。被災者らは冬を間近に控えた11月3日に「戦災者大会」を開き、旧日本軍払い下げ物資の被災者への優先配布や、土地国家管理による住宅建設などを要求しました。
 宮城県は戦争中の7月から戦時住宅や幅の広い道路の建設計画を練っていましたが敗戦を迎え、頓挫していました。しかし12月に「戦災復興都市計画の基本方針」が閣議決定され、市町村長が復興事業の権限を持つのが望ましいとされたことを受けて、仙台市が事業主体となり県や国と協力しながら戦災復興事業を進めることになりました。
 1946(昭和21)年4月には「仙台市戦災復興委員会」が設けられ、5月には復興事業の実施機関「復興局」が仙台市に新設されました。6月には、仙台市出身の岡崎栄松(明治15-昭和35)氏が全国で初めての「モデル市長公選」による選挙で仙台市長に就任しました。岡崎氏は仙台市の復興を主導し、都市計画街路、公園緑地計画等をまとめました。この案は同11月に国の戦災復興院の許可を得て決定し、青葉通りや広瀬通りなどの大通りの建設や、西公園や勾当台公園などの公園整備を含めた具体的な復興事業が開始されました。
 復興計画は、当初は仙台市の中心部(川内地区、米ヶ袋地区)の423.5haの土地区画整理を行う予定でしたが、川内地区が米軍に接収され、仙台駅の東側は新寺小路都市改造事業に移るなどの変更があり、最終的には291.1haの土地区画整理事業が施行されました。
 仙台市は、区域内の地権者から25%の土地の提供を受け、道路、公園緑地を整備する事業から始め、15年後の1961(昭和36)年3月に工事がほぼ完了し、街の面目が一新しました。
 1981(昭和56)年3月には仙台市戦災復興記念館が完成しました。これは「語り継ぐ 戦後の歴史を 私たちの未来へ」を主たるテーマとして、仙台空襲と戦災からの復興事業の記録を保存し、仙台市の今日の発展の蔭にあった戦災と復興の全容を後世に伝えるとともに、あの悲劇を二度と繰り返さないための平和の殿堂としていく事を目的として造られ、今も活動しています。
 この記念館のホールに、ブロンズ像「奈津子 十一才の夏」(作者不詳)が設置されています。この像の側面には 昭和二十年七月十日、仙台空襲により多くの市民の尊い生命が奪われた。「奈津子(当時十一歳)」は、その犠牲者の一人である。ここに生命と平和の尊さを祈念しつつ、一少女像を建てる。平成七年八月十五日  仙台市「戦後五十年を記念し「奈津子の像」を贈る会」より寄贈」 とあります。
 修学旅行などで広島や長崎に行った人は多いのですが、身近にある戦災復興記念館を訪れた事のある市民は意外に少ないようです。仙台市の市民、特に小中高生などには学習の一部として見学して頂きたい施設の一つと考えます。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第354号2019年07月号「キーン・ドナルド 鬼怒鳴門」の話


  長年日本に住み、日本文学を研究され、日本と日本人をこよなく愛され、晩年に日本国籍を取得されて、日本人になられたドナルド・キーン(大正11-平成31 1922-2019)さんが今年の2月に96歳の生涯を閉じられました。日本を愛された外国人は多く記憶にありますが、日本国籍まで取得された人は多くはありません。

 それで 今月は、「キーン・ドナルド 鬼怒鳴門」 の話です。

 キーンさんはニューヨーク市に生まれコロンビア大学大学院・東洋研究科で博士課程を修了されました。
 大学院を卒業した2年後の1940(昭和15)年に、アメリカの古書店で分厚い割には安価というだけの理由で英訳の『源氏物語』を買いました。
 キーンさんはこれを読んで感動し、日本語を学び始めました。その2年後の1942(昭和17)年、コロンビア大学の友人から「日本研究をしている人は少ない」からと薦められ、日本研究への道に進みました。
 1941(昭和16)年の日米開戦に伴いキーンさんはアメリカ海軍の日本語学校に入学し、情報士官となり太平洋戦線では日本語の通訳官を務めました。
 1943(昭和18)年、捕虜の尋問や兵士が書いた手紙や日記などを解読する役割に就きました。キーンさんは戦場では勇敢に戦う日本兵と兵士の本心、キーンさんが理解している日本文化の差などに戸惑いましたが、捕虜の日記などを読むうちに、零戦などに乗り船や飛行機に自らの命をなげうつ自爆攻撃で米軍を悩ませ、米軍の兵士を「カミカゼ」と恐れさせる特攻兵の心の葛藤を知り、日本人を理解するようになりました。また、3月10日の東京空襲の翌朝、家を焼かれ、家族を失った人々が上野駅で整然と疎開列車を待つ姿の記録を読んで日本人の生き様に共感を持ったそうです。
 確かに、日本人は日常のラッシュアワーでも整然と行動し、人を押しのけて乗車しようとする人が少ないのは、他の国では見られない姿として知られています。東日本大震災の時にも商品の数が限られているスーパーの前で整然と列を作って順番を待つ人々の姿が報道され、大きな災害に出会っても、平常心を失うこと無く、冷静に行動する日本人のマナーが評価されました。
 キーンさんは1953(昭和28)年、京都大学大学院に留学し、25年がかりで古事記から三島由起夫にいたるまでの『日本文学の歴史』18巻を完成させました。晩年は独自の感性で正岡子規など人物評伝に力を注ぎました。代表作として『明治天皇』があります。
 キーンさんは東日本大震災が起こる前から日本への永住を考えていたそうですが、2011(平成23)年3月11日に起きた東日本大震災を契機に、日本国籍を取得され日本に永住する意思を表明し、その年の9月1日に、永住のために来日されました。
 キーンさんは「震災後、多くの外国人が日本を去りましたが、震災を機に私は日本に永住して日本人になる決心をしました」と語りました。このキーンさんの行動は、大きな災害に打ちひしがれていた日本人に深い感銘と勇気を与えました。
 日本国籍を取得したキーンさんは日本名を「キーン・ドナルド」とカタカナで登録しました。そして「鬼怒鳴門」と書かれた名刺を披露しました。
 以前に三島由起夫がキーンさんへ宛てた手紙に「怒鳴門鬼韻」様と書いた事が知られていますので「鬼怒鳴門」は、三島由紀夫からの贈り物とも考えられます。
 キーンさんは生前、NHKのインタビューで「日本人は外国から良いものを受け入れて自分のものとしていますが、日本の良いものを外国に発信することをあまりしない。もっと日本の良いものを外に発信することに力を入れなければならない」と語っています。
 日本を愛し、理解してくれた偉大な得がたい人であったと、改めて思います。


小田眼科医院理事長 小田泰子
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第353号2019年06月号「女子体育の先駆者 二階堂トクヨ」の話


 今年のNHKの大河ドラマ「いだてん」に女子体育を推進する二階堂トクヨ(明治13-昭和6)が登場していますが、二階堂トクヨは宮城県出身で、三本木町(現大崎市)に生まれました。

 そもそも、二階堂家は仙台藩の藩士でした。仙台藩は奥羽列藩同盟の一員として幕府に忠節を尽くしましたが、時の勢いには逆らえず、戊辰戦争に敗れ、明治維新により土地・家禄を失い零落しました。藩士の二階堂家は志田郡三本木の開墾に生きる道を選びました。
 
 今月は、「女子体育の先駆者 二階堂トクヨ」の話です。
 
 トクヨが生まれた明治13年は二階堂家が開墾に入って10年以上たち、生活も漸く安定して来た頃で、トクヨは父・保治、母・キンの長女として生まれました。トクヨは文学好きな少女に成長し、15歳で准教員免許を取得し、三本木小学校の准教員になりましたが、准教員に満足できなく、正教員の資格を得る為に師範学校への進学を希望しました。

 当時、宮城県内にはまだ師範学校が無かったために、福島県にある尋常師範学校への入学を希望しましたが、その学校に入学できるのは福島県人だけという条件がありました。伝手をたより福島県人の小笠原家と養子縁組をして「小笠原トクヨ」となり、福島県尋常師範学校で学びました。その学校を卒業後、トクヨはさらに東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)に進学し、念願の高等女学校教員免許取得を目指しました。努力の甲斐があって卒業時に「教育、倫理、体操、国語、地理、歴史、漢文」と7教科の免許が与えられました。

 東京女子師範学校卒業後、学校からの推薦で石川県立金沢第一高等女学校に赴任しました。希望と不安を抱えて赴任した学校の校長は初対面のトクヨに「国語の先生は余っているから、体操を教えてもらいたい」と要請しました。確かにトクヨは体操を教える資格も得てはいましたが、国語教師になることを夢見ていたので、全く思いもよらぬ校長の言葉に呆然としました。しかし、新卒で新任の教師としては受け入れるしかありませんでした。

 気持ちを切り替えたトクヨは、たまたま体育学校を卒業したアメリカ人が宣教師として金沢の教会にいるのを知り、その人の助言を受け、体操教育に熱中しました。トクヨは良くとおる声の持ち主で、朝早く、川に向かって「全体!止まれ!」と大声で練習をしていたところ、馬を引いて近くを通っていた馬子が、立ち止まったというエピソードもありました。トクヨは金沢一女高で運動会を開きました。運動会は大盛況で学校の木戸も塀も垣根も毀れ、お巡りさんに誘導してもらう騒ぎになったということです。

 運動がトクヨの身体に合っていたのか、体操を教えるようになってトクヨは不眠症や肩こりから解放されました。その年トクヨは文部省主催の体操講習会に出席し「文部省体操遊技講習証書」を得ました。

 3年後の明治40年には高知県師範学校教諭兼舎監に赴任、明治44年に母校の助教授として帰京しました。その2年後、トクヨは2年間の英国留学に出発しました。

 英国でキングスフィールド、サウスウエスタンポリテクニックなど数校の体育専門学校で学び、大正4年に帰国し、同時に、東京女子高等師範学校の教授に任ぜられました。

 スウェーデン体操というのは、19世紀初頭にスウェーデンのリングが、解剖学・生理学に基づき、身体各部・各機能の調和した発達を考えて考案した徒手体操を中心とする体操で、明治末期以降、長く日本の学校体操の根幹となりました。

 その後、トクヨは代々木に私塾「二階堂体操塾」を創立して女子体育の発展に邁進しましたが、この塾は関東大震災で倒壊したために松原に新築移転しました。

 この二階堂体操塾に日本女性初のオリンピック短距離走銅メダリスト・人見 絹枝(明治40-昭和6)が学びました。


小田眼科医院理事長 小田泰子
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第352号2019年05月号「新元号 令和」の話

皆様、長い連休をいかがお過ごしでしょうか。ニュースをお届けします。

 今日から、いよいよ新元号「令和」に変わります。

 「平成」は発表の翌日に改元されましたが、今回は発表されてから1月後の今日「5月1日」改元となりました。

 明治までは年初から改元する「年初改元」が多かったのですが、大正から「当日改元」になりました。そのため大正15年生まれは1926年1月1日から12月25日までに生まれた人で、翌日から西暦は同じですが、昭和元年生まれになりました。昭和元年生まれは12月26日から31日までの6日間だけになります。今回の戦争で、大正生まれの人は最も多く命を落としました。
 
 今月は、「新元号 令和」 の話です。

 新元号に込められた意味は「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる国でありますように」ということだそうです。

 日本の元号は西暦645年に「大化」と定められて以来、令和に至るまで、248の元号が使用されました。これまで元号が使われなかったり、二つの元号が並行して使われた時代もありました(源平合戦時、南北朝時代)。

 明治以降は一世一元号となりましたが、それ以前には何か出来事が起こる度に改元されました。

 元号は二文字であることが多いのですが、「天平感宝」「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」「神護景雲」の 5 つの四文字元号があります。四文字元号は、749年から770年までの間にだけ使われ、この期間以外は全て二文字です。

 重複する字も数えると、使われている漢字の総数は 506個 です。この数が、元号数の 248 の倍(496)より 10 多いのは四文字の元号が 5 つあるためです。

 元号に使われている漢字の種類は 73 文字と意外に少なく、最も多く使われている漢字は「永」の 29 回、次いで「元」と「天」が 27 回、「治」が 21 回、「応」「和」が 20 回、「延」「暦」が16回、「寛」「徳」「保」が15回、「承」が14回、「仁」が13回、「昭」「平」「令」は1回のみだそうです。

 「大化」から「平成」までは、中国の儒教の経典「四書五経」など漢籍を典拠に選ばれていましたが、今回の元号は「万葉集」を典拠としました。

 これは、安倍政権の支持者に国書由来の元号を期待する声があったためと言われています。安倍晋三首相は「万葉集」を典拠とした理由について「我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書だから」と説明されました。たしかに「万葉集」は、天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人などさまざまな身分の人々が詠んだ歌4,500首以上が収録されている日本最古の和歌集で、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており、日本文学における第一級の史料であります。

 政府は新元号の選定に際しては「よい意味」「漢字二文字」「書きやすい」「読みやすい」「これまでに元号またはおくり名として用いられていない」「俗用されていない」という六要件を充たすものを要望したとされています。また、新元号は英語表記の頭文字が「MTSH」でないことも条件とされたということです。

 元号はそもそも中国が発祥で「皇帝が時間を支配するという概念から生まれた」そうです。東アジアの漢字文化圏(中国、韓国、ベトナムなど)では元号が使われていましたが、いろいろな理由で今は廃止され、今でも元号を使っているのは日本の他は台湾と北朝鮮だけという事です。新元号については賛否両論があります。「令」は「命令の令」だとか、「神のお告げを意味する」とか、「令嬢の令である」とか。万葉集の序文から取ったとしても、その基となるのは中国古典であることに言及しても良かったのではないか、など。

 今はまだ、違和感がありますが、いずれ定着していくことでしょう。
小田眼科医院理事長 小田泰子
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小田眼科ニュース医心伝信
第351号2019年04月号「大岡裁き・こども争い」の話

皆様お変わりございませんか。寒い新年度の朝を迎えました。今日、新元号が発表されるということですが、多くの日用品の値上げも発表されました。

「新元号、値上げと共に知らされる」下手な川柳です。

 江戸時代の名奉行といわれた大岡越前守忠相(延宝5-宝暦元 1677-1752)が、江戸町奉行として裁いた美事な裁判は、「大岡政談」として写本や講談で広がりました。幕末から明治にかけての庶民文化興隆とともにさらに発展し、落語や歌舞伎などの素材となり、現代でもTVドラマ化されて人気番組となっています。

 今月は、「大岡裁き・こども争い」の話です。

 これは有名な話ですが、要約しますと「1人の子どもを巡って2人の母親が自分が本当の親であると言い張り、その決着を求めて大岡奉行のところに来ました。大岡は『その子の腕を一本ずつ持ち、それを引っ張り合いなさい。勝った方を母親と認めよう。』と云いました。二人の母親に引っ張られた子供は『痛い』と泣き叫びました。その声を聞いて、片方の母親が手を離しました。勝った母親が子供を連れて帰ろうとしたところ、大岡はこれを制止し『本当の親なら、子が痛いと叫んでいる行為をどうして続けられようか。その子は手を離した親のものだ』と引っ張り合いに負けた方を本当の母親であるとした」という話です。

 私は大岡が最初は「勝った方を母親と認める」と約束したのに、「子どもの手を離した方に軍配をあげた」ことに違和感を持ちますが、これぞ人の心の機微をよく理解した裁判と評価されました。

 この大岡裁きと同じような話は世界各地にあるそうですが、最も古いのは旧約聖書の列王記にあるイスラエルの第三代目の王・ソロモン(紀元前1011-紀元前931)が行った裁判の話と考えられます。

 ソロモンはダビデ王の子で、その子の治世が平和であるようにと願った父・ダビデがソロモン(平和な)と名付けたとされています。ソロモン王は治世の初期には良い政治を行い国を栄えさせました。ソロモンは神から知恵を授かった人でもありました。ソロモンの知恵の深さと広い知識は周辺諸国にも知られ、親交を求めて来る王や使者が絶えませんでした。エチオピアの女王も、ソロモンの知恵を試すため、やってきましたが、ソロモンはすべての質問に答えました。エチオピアの女王は「わたしは、ヘブル人の民は幸福だと思います。あなた(ソロモン)の僕(しもべ)や友人方も同様です。毎日あなたに拝謁し、あなたの知恵に絶えず耳を傾けることができます。」と述べたということです。(『ユダヤ古代誌』)

 しかし、ソロモンは次第に豪華な神殿や宮殿を作り、贅沢な生活をするようになり、その結果、民を苦しめ遂に王国を分裂させてしまいました。

 ソロモンの知恵の深さを示すものとして、1人の乳児を争う2人の女の一件をソロモンが裁いた話があります。

 ソロモン王は子どもを奪い合う女たちに「剣を使いなさい。自ら剣を持ち子供を二つに断ち切り、分け合いなさい。」と言ったのです。いかにも西洋的発想で、日本にはこのような考えはなじみませんが、このソロモン王の裁定に片方の女性は「どうか、子どもを殺さないで下さい、子どもをあの人に与えてください」と言いました。これを聞いたソロモンは本当の母親はこの女性であると判断を下したというのです。

 この晩話は「ソロモンの知恵」として広く世界に伝わりました。インドの「釈迦前世物語」にも同じような話があり、ここでは、子を取り合う女性の1人は人食い鬼とされているそうです。ソロモンが裁いた別の事件が、北宋の名判官・包 拯(ほう じょう、999 - 1062)の「縛られ地蔵」となり、翻案されて大岡裁きに取り入れられたともいわれています。

 また、永禄3(1560)年には、豊後でイエズス会の宣教師がクリスマスにソロモンの裁判劇を上演したという記録もあるそうです。

 世界は狭い。情けや愛情は時間や空間を超えて全人類、全生物共通のものという思いを新たにします。

小田眼科医院理事長 小田泰子
Produced by *J.O.Y.
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第350号2019年03月号「欲しがりません勝つまでは」の話

「昭和は遠くなりにけりを偲ぶ会員」黒川昭二さん(仙台市在住)が『昭和見聞録』を自費出版されました。「学び」「食」「乗り物」等七項目について昭和2年生まれの黒川さんの記憶に残る「昭和の暮らし」を筆の赴くままに描かれた絵が満載されている本です。

 教室風景、国語の教科書、木炭自動車、エンストした車にクランク棒を差し込んでエンジンを再起動させている運転手、今は全く見られなくなりましたが、懐かしい風景です。
 その中の「食」のページは甘いお菓子で埋まっています。

 今月は、「欲しがりません勝つまでは」の話です。
 
 ここに描かれているお菓子の多くを私は知らないで育ちました。戦前のまだ食が豊かであった時代の後、戦争の最中に育った私の子供時代は甘い食べものが本当に無かったのだと改めて実感しました。

 姉たちが「あんパンを食べたい」「食パンを食べたい」と言うのを聞いてはいましたが、それがどのようなものかを知らないので、特に欲しいとは思わなかったような気がします。

その頃は食べものの話をするのは「イヤシイ」とされ、出された食べものをしっかり噛んで食べるように躾けられました。そうすれば少ない食べものでもお腹がいっぱいになるというのです。学校でもご飯は30回噛んでから飲み込むようにと指導されました。30回も噛むうちに食べものは自然に喉の奥に落ちて行き、口の中には何も残っていなかったという記憶があります。

 私たちの子供時代は「贅沢は敵だ」とか、徳川家康の遺勲「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。…」から取った「不自由を常と思えば不足無し」等の標語に溢れていました。流行歌などはなく、軍歌が日常の歌でした。「勝ってくるぞと勇ましく」などと鼻歌を歌っていました。

 5年生の時の書き初めは「欲しがりません勝つまでは」でした。廊下中その文字で埋め尽くされました。

 この「欲しがりません勝つまでは」は、昭和17(1942)年の「大東亜戦争一周年記念」に大政翼賛会と新聞社が「国民決意の標語」を募集した際の応募作の一つでした。32万以上の応募作の中から入選10点、佳作20点が決まりました。

 この標語の作者は、当時国民学校5年、11歳だった三宅阿幾子さんでした。

 他の、入選作には「さあ二年目も勝ち抜くぞ」「ここも戦場だ」「今日も決戦、明日も決戦」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などがありましたが、三宅さんの標語は口調のよさと国民学校5年の少女が作ったということで評判になりました。

 実は、三宅さんには誰にも言えない秘密がありました。「欲しがりません勝つまでは」を考えたのは三宅さんの父だったのです。よくあることですが、父親が娘の名前で応募したのです。「入らないとは思うが、もし入ったら『何もかも欲しがりません勝つまでは』としたのを、父親が直した、といいなさい」と、父は阿幾子さんに言いました。

 表彰式の翌日、朝礼で校長先生は「みなさんも三宅さんのように、がまんしましょうね」と話しました。三宅さんは、身が縮む思いだったそうです。それから、友だちに「欲しがりませんの三宅さん」といわれるようになりました。

 学校に新聞社が取材にやって来ました。記者の質問に三宅さんは「あの標語、ひと晩考えたの。ふだん先生がおっしゃっている倹約のお話を標語にしただけなのに、当選なんて……」と答えました。

 標語は、ひとり歩きを始めました。山上武夫作詞、海沼実作曲の歌にもなりました。この歌はYouTubeで今も聞くことができます。

 私には今でも「欲しがりません」の精神が根付いていると感じることがあります。
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第349号2019年02月号「「自衛隊の誕生と憲法九条」の話(349号2019年02月号)」の話

 韓国とまた、問題が生じました。慰安婦問題はくすぶったままですが、今度は第二次世界大戦中の徴用工訴訟、さらに、自衛隊機への射撃監視用レーダー照射の問題です。韓国は長い付き合いの隣国です、賢明に解決されるよう希望しています。

 今月は、「自衛隊の誕生と憲法九条」の話です。
 
 お正月に放映されたNHKの政治討論番組で、これまで多くの問題が、日本の意思ではなく、いわゆる「ガイアツ」(その多くはアメリカ)で日本政府が動かされていたと知り、違和感、不快感を持ちました。

 警察予備隊の誕生と自衛隊への転化、電電公社の民営化、郵政民営化など、すべて日本国民のための改革であったかのように、思わされてきました。
 
 特に、自衛隊の誕生は憲法九条の問題と深く関わります。

 昭和25(1950)年8月に、警察予備隊ができました。これは「日本の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するため」という理由で作られたのですが、実際はこの2か月前に朝鮮戦争(韓国と北朝鮮との覇権争い)が勃発し、日本駐留米軍(在日米軍)が朝鮮半島に出動しました。在日米軍の不在をついて、日本国民が占領軍に反旗をひるがえすことを恐れたGHQは「日本の治安維持を目的とする」と日本を再軍備化する警察予備隊創設を許可したのでした。当初は軽装備の部隊でしたが、朝鮮戦争の長期化、中国人民軍の参戦等を受けて、日本が共産主義化するのを恐れたマッカーサーは、警察予備隊を重武装化する方針に変えました。日本を共産主義の防波堤にしたのです。
 
 警察予備隊が組織されたのとほぼ同時期に、旧海軍の残存部隊が海上警備隊となり、その2年後の昭和29(1954)年には、事実上の軍隊である陸海空の自衛隊ができあがりました。
 
 日本は憲法第九条で「戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認」を規定していますが、独立国家が持つ自衛権を否定する規定ではありません。当初、自衛隊の仕事は「国の平和と独立を守り、国の安全を保ち、我が国を防衛する」と定められました。すなわち、専守防衛の枠内で日米安全保障条約に従って在日米軍を補完する役割でしたが、冷戦が終わった後には、国連平和維持活動(PKO)のために自衛隊の海外派遣が行われるようになりました。
 
 さらに、中国の軍拡や太平洋進出、尖閣諸島問題等の影響で2013年度以降は自衛隊が保有する装備は徐々に重装備化されてきました。
 
 最近の自衛隊の装備はさらにエスカレートし、短い滑走路でも離着陸できるステルス戦闘機を導入し、これに対応できるように護衛艦を空母並みに改修し、敵のレーダー圏外から攻撃できる長距離ミサイルを装備するなどしています。これらはすべては、爆買いと言ってもよいほどの大金を払ってアメリカから買っています。
 
 かつて、吉田 茂氏は自衛隊員に「君たちがちやほやされる事態は、外国から攻撃されて国家存亡の危機にある時とか、災害で国民が困窮しているときだけだ。君たちが表舞台に出ないときが、国民や日本は幸せなのだ。ご苦労なことだと思うが、国家のために忍び堪えて貰いたい」と訓示したということですが、このような自衛隊創設当時の精神を今は忘れられているようにみえます。
 
 今の自民党国会議員もマスコミも安倍さんに迎合するばかりで、自衛隊重装備化や大臣の不祥事や国家公務員のずさんな仕事に、はっきりと「ノー」と言えないのは本当に残念なことです。
 
 大正9(1920)年、第一次世界大戦後、国際連盟をつくり、もう戦争はしないと「パリ不戦協定」を決めました。それが日本の憲法九条に繋がる理念なのですが、その後、日本は国際連盟を脱退し第二次世界大戦に突入しました。戦争が終わって74年、戦争の恐ろしさを知らない世代が人口の多くを占めるようになりました。
 
 戦争の体験者であり、被害者である私たち高齢者が、息子や孫が再び同じ思いをすることがないように、しっかり意見を述べなければならないと考えます。
小田眼科医院理事長 小田泰子
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小田眼科ニュース医心伝信
第348号2019年01月号「外国人の単純労働者受け入れ」の話

 年が改まりました。平成が終わる今年はどのようになるか、期待半分で見守って行きます。

 昨年末、今年の漢字が「災」と発表されました。この文字は2004年にも選ばれました。どちらも災害が多かった年だからという理由ですが、それだけ日本は災害が多い国という事になるのでしょうか。

 昨年末の国会で政府は、国内の人手不足を解消する為に外国人の「単純労働者」を受け入れるよう、政策を「大転換」させ、野党の反対を押し切って国会で法案を通過させました。

 今月は、「外国人の単純労働者受け入れ」の話です。

 日本はこれまで「単純労働」とされる分野での外国人就労を原則禁止にしてきましたが、新たな在留資格を創設して、単純労働者を正式な労働者として受け入れる事を決め、6月中に「経済財政運営の基本方針(骨太の方針)」に盛り込む予定ということです。

 新制度は、日本人の就労希望者が少なく、慢性的な人手不足に陥っている「建設」「農業」「宿泊」「介護」「造船」の5分野を対象に、新設する「特定技能評価試験」(仮称)に合格すれば就労資格を得られるようにするというものです。

 これまで受け入れてきた技能実習生の多くは、日本語を話せないために充分な意思疎通ができなかったり、労働条件が聞いていたのと違っていたり、失踪したり、自殺したりするなどのトラブルなどが多く報告されています。

 外国人の非熟練労働者を低賃金で雇用することにより、日本人の賃金水準の低下を招き、それによる働く意欲をなくす人の増加も懸念されます。

 また、受け入れ初期の段階で、不当な搾取の防止や、適正な労働環境の整備が必要です。次に文化の違いによる地域住民とのあつれきが起きる可能性もあります。これまで言葉が通じない国では、滞在が長期化するにつれて次第に同国人同士がコミュニティを作る傾向が見られますが、これは、もともとその近くに住む住民に無言の圧力になる場合があります。外国人労働者が住宅を確保することに困難を伴うことが多いばかりでなく、家賃が低い地域に集まる傾向があり、適切な対応を行なわなければスラム化する危険が高まります。さらにその人達が家族を呼び寄せたり、現地で結婚して定住するようになりますと、子供の教育問題が発生します。さらには年金などの社会保障や、法的保障をどの程度認めるかといった問題が起きる可能性もあります。

 これらの対策をしっかり行なわないまま外国人労働者の流入・定住化が進んだ場合、彼らを社会的な底辺に追い込み、結果として犯罪や過激な思想や宗教に走りやすくなるとも考えられ、他国にはそのような例があります。彼らを受け入れる為には日本人と同じような社会保障を行う必要があります。日本はかなりの経済的負担を覚悟しなければなりません。

 このように考えると、就労していない日本人を掘り起こすために、賃金を上げ、女性の働きやすい社会、働く意欲のある高齢者などに働きやすい職場を提供するよう努力した方が、将来的には日本の為になるのではないでしょうか。

 なぜ、政府は外国人労働者の受け入れを急ぐのか、オリンピックの為に短期間の使い捨て労働力を考えているとするならば、禍根を残すのを恐れます。

 慶応大学の中島隆信教授は「外国人の受け入れよりも未活用の労働力の掘り起こしや労働生産性の向上が先決と考える。日本人が就きたがらない待遇の悪い仕事や人の集まらない職場に、外国人を入れるとなると、永遠に生産性の改善もないし、企業の収益力向上もない」と言っています。

 国や政府にお任せではなくて、日本で働く人が幸せに過ごせるように、私たち一人一人が身近な問題として考えなければならないように思います。
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第347号2018年12月号「「日本文化 恥の文化とタテ社会の人間関係」の話
 11月20日、破綻寸前だった日産自動車の経営をV字回復させ「カリスマ経営者」として世界的に有名なカルロス・ゴーン会長が「有価証券報告書の虚偽記載」の疑いで東京地検特捜部に逮捕されました。ゴーン氏は仏ルノーの会長兼最高経営責任者、三菱自動車の会長もされておられ、自動車産業全体に及ぼす影響が懸念されています。仏ルノーは、ゴーン容疑者の対応を検討中ですが、日本では日産、三菱とも解任しました。文化の差を思わせます。

 今月は、「日本文化 恥の文化とタテ社会の人間関係」の話です。

 第二次世界大戦の末期、アメリカは、終戦後、日本をどのように統治するかを知るために、多くの学者に日本研究を行わせました。その中の代表的な一人が文化人類学者のルース・ベネディクトでした。ベネディクトは日本に来たことはありませんでしたが、日本に関する文献を熟読し、日系移民との交流を通じて、日本文化の解明を試みました。

 その結果 ベネディクトは「日本は他者の内的感情や思惑と自己の体面とを重視する行動様式によって特徴づけられる文化を持っている」として、これを「恥の文化」と規定しました。これに対立する文化として、ベネディクトは内面的な罪の意識を重視する「罪の文化」をあげ、後者が西欧文化の典型であるのに対し、前者を日本人特有の文化体系と考えました。すなわち「恥をかいたとか、恥をかかせたとか」とかいうように「恥」が日本人の行動を強く支配する。これが日本文化の特色であると報告書を提出し、それを『菊と刀』として出版しました。その内容に東北大学の長谷川松治先生が深く共感し、いち早く翻訳して多くの読者を得ました。

 東北大学卒業生で長谷川先生の教え子でもある哲学者・山折哲雄氏は「日本の場合、罪は祓や禊によって除去されるという意識が強く、罪意識は深くは浸透しなかったといえよう。ベネディクト氏は、その著《菊と刀》において日本の文化を欧米の『罪の文化』に対して『恥の文化』であると規定したが、日本文化に罪の意識が希薄であることを指摘したものとして注目される」と肯定的に捉えています。

 文化人類学者・中根千枝氏は「日本人社会は、個人の『資格』よりも、自分が置かれた『場』に基づいており、集団は個人の特質よりも場を共有することで構成される。このために集団の成員にタテの人間関係(上役・下役、親分・子分、先輩・後輩)が発達し、儀礼的序列関係が重んじられる『タテ社会の人間関係』が基本である」と指摘しています。

 最近、閣僚に選ばれた人が政治資金などの不正を行っているとの報道を多く見ます。一国の首相ともあろう人が森友学園、加計学院問題で追及を受けても、問題点をはぐらかし、平然としてその地位についている事は、他の議員達の規範に影響を与えるのは当然です。閣僚の不正が報道されても、安倍首相はその閣僚を罷免せずに「説明責任を果たしなさい」と言います。これは「上手に弁明しなさい。うまくごまかしなさい」というのと同じです。この首相の態度は国家公務員にも影響を及ぼし公金の使い方、天下り、談合、公文書偽造・破棄などで平然と虚偽の証言をします。公務員としての公僕意識の低下は、首相など上の意見に加担し、国民感情を無視するような国会答弁にも現れていると感じます。

 「恥の文化」を規範として育ち「天知る、地知る、我知る、人知る」と自己規制をする日本文化の中で生きてきた者には、今の政治家に大きな違和感を持つと同時に、若者の道徳観に与える影響も懸念します。

 「おごる平家、久しからず」。『平家物語』の冒頭を思い出します。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ…」。
小田眼科医院理事長 小田泰子
Produced by *J.O.Y.